シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2016年06月24日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 巷はイギリスのEU離脱で株価が金儲けがどうのこうので話題だが、そもそも助け合いのための国家が、多国籍企業やそれを操る巨大投資家の資産形成のための利益追求の場と化し、略奪や競争や人間の奴隷化、機械化を生み、増加させ、地獄化させていることに問題がある。

 一部の巨大な資産所有者のために、多くの他のもたざる者が犠牲になっている構造の問題である。

 つまり、多国籍企業とは、現代の植民地主義を体現したもので、国家の枠を超えて利益を貪る愚かさに、いま人類は直面している。

 株価に一喜一憂するのは、自分さえよければよいという人間を地獄におとすエゴの働きでもある。

 国家や社会の福祉に利益を還元しない多国籍企業こそ滅ぶべきである。

 さて、巷の地獄化の話はとりあえず今回はやめ、前々回の脳と腸の話の紹介を続ける。

 シュタイナーが約100年前にその話をしているのを紹介するために、シュタイナーの研究にお薦めのサイトから、脳と腸の話を前置きとして紹介する。

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https://r5.quicca.com/~steiner/novalisnova/siso/memoir/memoir23.htm



 その脳と腸の関係についての研究は、最近になって、福土審『内臓感覚/脳と腸の不思議な関係』という本が出たので目を通してみる。

 脳からの信号は脳研究の主要領域である。これに対して、末梢からの信号はどちらかというと副次的領域であった。人間の末梢での感覚などはわけのわからないものだ、被験者が随意に申告できるものなど科学的ではない、そう思われてきたふしがある。

 ところが最近は、感覚こそ、脳機能の土台ではないか、と風向きが変化してきた。その中でも内臓感覚は依然として大きな謎に包まれている。脳腸相関の研究を契機として、その謎が次第に解き明かされようとしているのだ。

 福土審『内臓感覚/脳と腸の不思議な関係』NHKブックス 2007.9.30.発行 P.223-224

 動物の進化は腸からはじまり、腸のまわりを神経細胞が取り巻いて制御機構ができ、脊髄ができ、その先端がふくらんで脳ができた、という。

 脳が最初にできて、内臓ができたわけではない。あたりまえといえばあたりまえなのだけれど。実際、脳のかたちと腸のかたちはよく似ている。人間は上にも腸をもっていて下にも脳をもっている、ともいえるわけである。

 そういう感じで人体をとらえていくと、それまでとはちがったイメージで見えてくる。しかし、あらためて久しぶりに『精神科学(人智学)と医学』の第4講義を拾い読みしてみただけで、いろんな発見があった。『精神科学と医学』の奥はかぎりなく深い。

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 では続けてシュタイナーの脳と腸の話を紹介する。

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 1920年 3月24日  ドルナハ






 前回の講義後の議論は、なるほど極めて興味深かったが、今、目にした質問との関連で、既にもう述べたことだが、再度、次のことを強調したい。

 「個別の症状から関係する治療薬を見つけるには、この講義のなかでの考察のように、前もって、ある種基礎的な問題を処理してからでないと難しい。」

 ということである。

 講義で述べる基礎的な問題の処理により、外界から適切な治療薬をみつけるのに、外界との人体の関係性の認識から、その適応範囲を推量できるようになる。とりわけ、人体の様々な器官と個別に関わる治療薬の作用を理解するには、基礎的問題の処理なしには不可能である。



 今回は、前置きとして述べる知見を、とりあえずは吸収して欲しい。その知見から、ある種の光(叡智)がみえることもあるからで、というのも、これまで述べてきた知見は、現代人には当然のことながら、最初はショックを与えるものなので、これから述べる知見もショッキングな内容であることを先に強調しておきたい。

 前回の講義の後に検討された関連性から、物事の陰と陽のような別側面にも配慮してほしい。 治療の特性に関して、これまで非常に啓発される事例を数多く紹介できたことは、非常に満足のいくところだった。

 さて、これまで行われてきた試行錯誤的な経験的な治療を、おそらく次第に無価値なものにしていく、至極単純な治療法をはじめに紹介する。

 試行錯誤的で経験的な治療法が用いられないようにするために、勿論、場合により、そのような経験的な治療法を用いることも充分に考えられるが、とにかく次の治療法を紹介したい。

 この治療法については、勿論、人智学の素養をもつ人智学徒にしか紹介できない。この治療法とは、リッターの治療法を、普遍化した方法である。普遍化に際して、治療の成功を、1人の医師個人(の技能)に帰することを尊重するわけにはいかない。

 確かに、個人として、次のようなことを意識している医師もいるかもしれない。つまり、大きな医師集団に対して、自分は1人の医師として、いわば闘っているが、リッターの治療法を大学で広めたら、非常に多くの、全てとはいわないが、病気が癒されるので、途端にその治療法に染まってしまい、もはや、その治療法の反対の立場には誰も立たず、それまでの自分の経験的な治療の成果が、著しく減少するように考える医師もいるかもしれない。

 現実の生活においては、以上のような意識をもつ医師も存在する。つまり、現実は通常、想定しえる状況とは異なることが多い。医師個人としては、目の前の1人の患者の治療が最大の関心事であるのは当然だが、現代の唯物論的な医学は、それどころかむしろ、1人の患者の困難な治療に挑戦することに、一種の法的根拠というか、治療法を求めてきた。

 (世間一般に不治の病とか難病とか呼ばれている病気の治療に挑戦することに価値があると考えること。)

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リッターの治療法

 「M・リッターの光線力学的治療の実践的応用のための手引き」(ミュンヘン、1913) 及び「神経-力学的治療法―蛍光素材及び発光(ルミネセンス)素材の細胞領域及び神経死に対する作用に関する研究と経験との関連で」(ライプツィヒ、1905)

 (原文を探すことはできていないが、恐らく、題名から推測すると、発光体を体内に取り込むことで、体内から光をあてて、生体の再生能を促す療法と考えられる。現代の放射線治療の前身のようなものだろう。

 放射線ほど、波長の短い電磁波ではないと思われ、また体内から、発光させる点が、放射線治療と異なる。放射性物質を取り込む方法は、現代でもインビボ検査や、舌癌等などに放射性イリジウムを針のように埋め込む治療がある。

 放射線治療では、漠然と、腫瘍化した細胞を殺傷することに重点が置かれているが、この光線力学的療法は、光の波長の制御により、人体の再生能を高めるものなのだろう。

 リッターが、特に「神経死」を題名に取り上げているように、神経細胞に、ある波長の光をあてると再生するのかもしれない。もしくは、アポトーシスと呼ばれる遺伝子制御由来の細胞死が光の波長と関係があるのかもしれない。

 ネット検索すれば、いまでは、このリッターの治療法に類する多くの試みが行なわれているようである。

光線力学的療法
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E7%B7%9A%E5%8A%9B%E5%AD%A6%E7%99%82%E6%B3%95
 http://www.m-clinic.jp/pdt.htm
 http://healthlife.xrea.jp/lungcancer/category3/entry9.html
 http://team.tokyo-med.ac.jp/nou/gakkai/kenkyu01.html

 上記から抜粋。

光線力学的治療(PDT)
 PDTは、腫瘍組織や新生血管への集積性がある光感受性物質を患者に投与した後、組織にレーザ光を照射することにより光感受性物質に光化学反応を引き起こし、細胞を変性・壊死させる治療法である。この細胞の変性・壊死は、特定の波長のレーザ光と光感受性物質との光化学反応によって産生される一重項酸素(ROS:reactive oxygen species)の強い酸化作用によるものである。

 PDTは、光感受性物質が存在し、レーザ光が照射された部位のみに光化学反応を起こさせ、細胞を変性・壊死させる局所的療法である。この作用の主役であるROSの寿命は0.04~4μ秒と短く、更にPDTで使用するレーザは一般的なレーザ治療に用いられる高出力のものとは全く異なり、出力が弱く、手をかざしてもほとんど熱さを感じない程度であり、反応が起こる範囲を光感受性物質が集積した病変部位へとだけにコントロールできることが特徴である。これらのことから、PDTは正常組織への侵襲性が少ない病変部位選択的な治療法として、様々な疾患領域において発展していくことが予想される。

放射線療法
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%B7%9A%E7%99%82%E6%B3%95

 上の場合、問題とする標的のガン細胞などに、光感受の蛋白質等を代謝により吸収させ、外から、比較的波長の長い電磁波を照射して、ガン化を抑制する方法のようである。)

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 実際、上述の法的根拠は、「そもそも病気は、病気単独では存在せず、病人として存在する」という観点にある。確かに、病気に罹った人を、外見そのままに周囲から切り離された存在としてみるなら、このような法的根拠も正当化される。

 しかし実際に病気が生じると、病気に罹った人だけが、特定の病気として、周囲から切り離されるわけではなく、以前、E.博士(?)が言及したように、病気に罹る割合は、かなり広範囲にわたり、ある人を治しても、また別の人に病気をうつしただけかもしれず、決して特定の病気を個人に限定できない。

 個々の疾病例を、その病気全体の経過のなかに置かないと、個別的な症状に、はなはだ驚愕させられることにもなりかねない。だから、人類全体の治療ということで、全体から捉えるなら、やはり個別的な治療を、別の角度からも理解しなくてはならない。

 以上のことから、一面的に、臨床的な方向づけをするだけでなく、完全な病理学を基にして治療法を引き出してくることが是非とも必要となる。この講義で述べる考察は、通常の経験-統計的な思考に対して、一種の原理[Ratio]をもたらすことを念頭においている。

 さて、今回は誰もがよく知る事実から始める。この事実は自然科学や、医学的思考との関連では全く正当に評価されていないが、人間と、外の自然との関係に対する判断の基礎を提供する。

 それは、「人間が、3つに大別される人体の機能、すなわち、神経-感覚機能、循環‐律動機能、新陳代謝機能からなり、新陳代謝機能においては、外の自然、例えば植物界のなかで生じる事象に対して、ネガ(陰)の関係をもつ」、という事実である。

 更に、次のような事実を描出する。

 さしあたり、外界のなかの植物界を観察すると、炭素が「植物」として集積し、炭素を基盤とする傾向が認められる。人間は、植物に囲まれることで、炭素に基づいた生命体に囲まれる。

 (シュタイナーは、農業の著書で、「賢者の石」の正体が、炭素であることを明かしている。)

 植物の基礎を成す炭素が、人体にも現れていることを思い出して欲しい。人間は、発生の初期の、いわゆる発生期状態[Status nascendi]という段階で、炭素を基にした植物の発生を止揚し、終結させ、代わりに、植物の生成とは反対(逆)の状態を取り入れた。

 この初期過程の一端は、人体下部のなかに見つかる。人間は、炭素を沈殿(燃焼分離)させるために、体内で、植物が自らの力で発生しはじめた後、この植物化の抑制(止揚)を、人体上部から誘導しなければならない。

 人間は、炭素を燃焼させ、酸素と結合させることで、植物のなかの炭素を止揚し、つまり炭素を炭酸に加工することで、人体内の植物化に対抗する経過を、人体上部から誘導しなければならない。

 外の自然とは正反対の経過をもつ人体内の経過に注意してほしい。というのも、自然とは真逆の人体内の生成過程に注意すれば、人体の本性を、次第に根本的に理解できるようになるからである。

 「重量を測る」という表現は、物理学に準じた研究に付随する象徴的な表現だが、例えば、体重を計っても、構造は理解できないが、次のような事実を考慮すれば、多少の事実が即座に理解できる。

 脳の重量は良く知られているように平均1300グラムだが、その重量で、脳の下の面が圧迫されることはない。もし、脳がもつ重量で、脳の下にある組織が圧迫されたなら、その領域に広がる繊細な血管が全て押しつぶされてしまう。

 脳が自らの土台となる下の組織を圧迫する重量はせいぜい20グラムにすぎない。これは、脳水のなかに脳が浮かぶために、良く知られたアルキメデスの水圧の原理に従う浮力を得た結果、脳の重量の大部分が重力として作用せず、浮力により止揚されているからである。

 脳水の浮力により、脳の重量が克服され、人体自らがもつ重量ではなく、その重量を破棄するなかの、いわゆる物質の重量とは反対の力のなかに、人間が生きていることは、人体の他の経過でも同様である。

 実際、人間は、自然現象[Physis]が作り出す経過そのままに生きるのではなく、自然現象の経過を止揚したなかに生きる。

 (自然を陽とするなら、人間は陰となる。)

 実際、外の自然のなかの、例えば、植物という生命の最終過程に至る経過を、そっくりそのまま体現するなかに、人間は生きるのでなく、その植物化を止揚(克服)するなかに生きる。

 以上は、病気に罹っている人体と植物薬との間に橋を架ける際に、当然、本質的な問題となってくる事実である。

 さて、以上のようなことは、いわばちょっとした短編小説風に叙述できる。人間を取り囲む、素晴らしい植物[Flora(フローラ)]の世界に眼差しを向ければ、当然のことながら、とても大きな歓びを感じる。

 けれども、羊を解剖し、解剖直後の、羊のなかの植物(腸内細菌)[Flora(フローラ)]を目にするときはそうではない。

 羊の体内の植物相は、発生(生成)過程という点では、外界の植物相の発生(生成)過程に類似するが、羊を死後に解剖し、この羊の体内の植物相(腸)から漂ってくる腐敗臭を感じれば、この腸内の植物相[Darmflora]に対して歓びを感じるどころではない。

 このような差異に特に注目すべきである。なぜならば、外の自然では、植物を成長の軌道にのせる経過が、人体のなかでは、逆に克服されねばならず、腸内に、植物が発生してはならないのは明白だからである。

 外の植物と人体内の植物の違いのなかに、いまだ探求されていない広範な研究領域が拡がるので、比較的若い医学生の学位請求論文のために、この領域から多くを役立てることを勧めたい。

 とりわけ、様々な動物から、哺乳動物を経て、人間に至るまでの腸内の形成についての比較研究から、多くの知見が得られるだろう。この研究領域には、重要な知見が未研究なまま数多く残っているので、将来、非常に実り豊かな研究分野となるだろう。

 とりわけ、羊を解剖すると、腸内の植物により、酷い腐敗臭が発散されるのに、鳥類の場合、腐肉を食する鳥の場合でも、腐敗臭はなく、解剖しても、比較的心地よいとさえ言える匂いが発せられるのはなぜなのか、一度、その隠れた事情を探究して欲しい。

 以上のような事柄の非常に多くが今日(1920年)まで、学問的にほとんど研究されていない。腸の構造の研究については特になされていない。少し考えれば、鳥類と、哺乳類、そして人類の本質的な差異が、腸の差異から示されることがわかる。

 鳥類については、例えばパリの医師メチュニコフのような唯物論的な医師たちが、これまで述べてきた事実について、いわば最大の勘違いをしてきたわけだが、鳥類は、膀胱と大腸が、極めて未発達で、走禽類となってようやく、大腸、および膀胱の形態としての、ある種の膨隆[Ausbuchtungen]が見つけられる。

 以上の差異から、重要な事実が示される。つまり、生体内に一定期間排泄物を貯蔵し、随意に排出することは、鳥にはなく、食物の摂取と排泄との間に継続的な平衡状態が成立する。

メチュニコフ
 原注2 Elias Metschnikoff 1845-1905 オデッサ大学で動物学教授、後にパリのパスツール研究所副所長。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%81%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%95

 腸内、そして人体に現れる植物、更には、これから見ていくような微生物のなかに、病因を捉えるなら、それは表面的な見方にすぎない。実際、恐るべきことだが、今日(1920年)の病理学の文献を調べてみると各章ごと新たに、この病気には、この細菌が、あの病気には、あの細菌が発見された云々の記述に遭遇する。

 以上のような記述は全て、人体内の、いわゆる腸内植物学、腸内動物学にとっては非常に興味深い事実ではあるが、病気にとっては、せいぜい1つの指標以上の意味を持たない。

 つまり、何らかの病気に相応しい状態が、人体の根底にあると、それに相応しい微小動物、もしくは微小植物が発達する機会を提供するが、そもそも微生物の生存環境に適さない場合には感染しない、というような指標でしかない。

 (感染した細菌やウイルスに病因があるのではなく、感染の機会を与えた人体内の状態に病因がある。免疫防御が弱いなど。)

 この微小動物、もしくは植物の生育が、実際の病気に関与する割合は非常に低く、せいぜい間接的に関わるだけである。今日の医学のなかで展開されている論理は、非常に滑稽である。

 少し考えてみればよい。良く飼育され、見事な雌牛が沢山いる土地を発見したとき、「この土地に沢山の雌牛がやってきて、感染したから、この土地には見事な雌牛が沢山いる」などと考えるだろうか。

 (病因を、細菌やウイルス感染に求めるのは、細菌やウイルスが沢山やってきて、感染したから、病気になった、と考える。)

 恐らく、以上のような考えはもたないだろう。このような考えよりも、この土地に、雌牛を飼育する勤勉な人たちがいる理由や、雌牛の飼育に適した土壌が、その土地にある理由を探すだろう。要するに、良く飼育された雌牛が、その土地にいる原因となり得る理由を探し、その根拠とするだろう。

 まさか、この土地に見事な雌牛が沢山いるのは、この土地に、良く飼育された雌牛がやってきて、その土地に感染したからである、などとは考えないだろう。

 しかし、今日の医学が、病因を、微生物等に求め、展開している論理は、以上のような馬鹿げた考えと少しも変わらない。人体に、微生物が実在するという事実からわかるのは、その場所に肥沃な土壌がある、という以上のものでしかなく、この土壌の観察こそが当然の如く配慮すべき問題なのである。

 ただ、例えば、この地方には良く飼育された雌牛がいるので、何頭か譲ってやれば、もっと勤勉になろうと奮起する人もいる、というような間接的な影響が生じる可能性もある。このようなケースは無論、付随して起こる。

 感染の準備の行き届いた土壌が、細菌により刺激され、土壌全体が病気の経過に陥ってしまうことも当然起こり得るが、実際のところ、この細菌という生物の観察は、病気の本質的な観察とはほとんど関係がない。

 健全な論理の育成に配慮するなら、公認された科学から発せられる思考などにより、健全な思考の荒廃を招くような事態などはそもそも起こり得ないはずである。

 すなわち、病因として、考慮すべきことは、これまで述べてきた特徴、つまり、人体の上部と下部のある種の関係が誘因となって、上部と下部との正しい相互関係が成立しない可能性である。

 人体の上部と下部の不規則な相互関係の結果、上部の、下部に対する反作用が弱いため、植物化の傾向を阻止する反植物の経過が下部で生じず、植物化を阻止できずに、逆に植物化を促進する可能性が生じる。

 人体下部で植物化の傾向が高まると、腸内の植物(細菌)に、夥しく蔓延る機会を与え、すなわち、下腹部が正しい経過で働いていない事実を示す。

 下部の正しい活動水準に従って生じるべき上部の活動が下部で生じない場合、その活動が下部で堰き止められ、上部へと押し戻されるような特殊な事態が生じる。つまり、下腹部で正しい特定の経過が生じない場合、下腹部で生じるべき経過が、上部へと押し戻されてしまう。

 (ここで述べている「上部」、「下部」とは、心臓を基準として、上半身を上部、下半身を下部と呼んでいる。)

 以上のような表現は、いかにも素人臭いようにみえるだろうが、今日通用している病理学に見られる表現よりは少なくとも科学的である。

 人体下部において、規定通りに生じるべき経過が、上部へと押し戻されるわけだが、例えば肺や肋膜などでの異常な排出のように、上部の器官での排出に関わる病因は、下腹部の排泄経過との異常な関係性を調べるなどして探求すべきである。

 下腹部から上半身にむかって押し戻される人体の経過を、正確に見ていくことは究めて重要である。上半身で生じる病因の多くは、下腹部から押し戻された経過に他ならない。上部と下部との間に正しい関係が成立しないと、上下に本来属する本質的な経過が拒絶され、互いに押し戻される。

 さて、以上の事実に加えて、もう1つ注意して欲しいことがある。おそらく、日常の経験から、次のような事実を理解しているだろうが、この事実についても十分に評価されていないので、将来の健全な科学では、この事実についての正しい評価が必須となるだろう。

 それは、「人体のある器官について考える瞬間、更に良い表現をするなら、ある器官に付随する思考を抱く瞬間、この器官に、ある種の活動が生じる」という事実である。

 この事実についても、将来の学位請求論文になりえる、豊かな研究領域が隠されているが、人間のなかに沸き起こる考えと、唾液の分泌、腸内の粘液分泌、母乳の分泌、尿の分泌、精 液の分泌などとの関係を一度研究するとよい。これら人体の分泌現象と並行して現れる思考が、どのように生じ、どのようなものなのか、を研究して欲しい。

 そこで、いま述べている事実の本質とは、一体なにか? という疑問が生じる。

 霊魂に、ある考えが生じると、その考えに並行して人体に分泌現象が生じる。この事実とは、一体、何なのか?

 人間に生じる思考の素は、丸ごと器官のなかにある。つまり、人間が、ある考えを抱くと、その考えに並行して、何らかの腺分泌が生じるのは、思考の基礎となる活動を、腺を分泌させることで取り出している。

 (下等生物の再生力を、人間は、思考として取り出す。分泌活動は、その証といえる。)

 腺から再生活動を分離させ、思考として実行し、その後の活動を腺自身の運命に委ねると、腺は自身の本来の活動に没頭して分泌をおこなう。この分泌を妨げることは、つまり妨げなければ、腺から除かれ、思考の土台となった再生力が、腺と結びついたままになる。

 以上のように、器官がもつ再生力を思考として取り込んだ事実を、器官に現れてくる分泌現象から、明白に理解できる。

 「私が、そのように考えなければ、私の腺は分泌しなかっただろう」と言える。

 すなわち、「私は腺から再生力を奪い、この再生力を、私の霊魂に移行させたからこそ、腺は分泌した」となる。

 今までの考察からわかる知見の証明を人体のなかに見つけられる。つまり、霊魂の活動の結果生じる体験は、目の前にある自然の成長のために分泌された再生力に他ならない、という証明を、人体内の分泌活動に見つけられる。

 (人間の体験は、再生力を器官から取り出すことで生じるという。再生力を奪われた器官は、分泌活動を行い、分泌した汗、涙等を、自然環境に与える。

 人間は、眼から再生力という感動を取り出し、眼は代わりに涙を流す。オカルトでは腸が第2の脳といわれるのは、腸から再生力を取り出し、思考しているからといえる。)

 人体内の腸内植物に並行して、外の自然の植物の生長力のなかに、人間が、腸内植物から取り出している再生力が潜んでいる。

 戸外で、山や草原の植物を眺めるとき、本当は次のように考えるべきである。

 この植物のなかには、人間の体験や感情のなかで生き、思考として発展する再生力(エーテル)が潜んでいる。

 従って、人体の腸内植物は、外の植物とは異なる。外の植物からは再生力が取り出されていないからで、外の植物のなかにある思考(再生力)は、植物の茎、葉、花のなかに潜んだままである。

 以上のことから、花や葉のなかを支配する(再生)力と、人間が腸内植物を抑制する際に、自身のなかに取り出す(再生)力との親密性についての理解が得られる。人間は、腸内植物に再生力を委ねず、腸内植物から再生力を奪いとる。

 腸内植物から、再生力(エーテル)を奪い取らなければ、人間は思考できなかった。外の植物が持つ(再生)力を、人間は、自らの腸内植物から奪い取る。

 動物においても事情は変わらない。これまで述べてきた事実を霊視できなくては、人体と植物薬との関係に到達できないのと同様に、動物界のなかで様々な動物の形態を与えている力(アストラル)を、人間が、腸内動物から取り出している事実について認識できなければ、血清などを治療に用いるための正しい理解には到達できない。

 以上のことからわかるが、人間と環境との関係を真に見据えないことには、治療の原理を理解し、体系化することは不可能である。更にもう1つ、非常に重要なことを指摘したい。

 少し前(1920年)、滑稽にも、唾を吐くことが至る所で禁止され、甚だ酷い状態になったが、その酷い体験をした人もいるかもしれないが、この唾吐きの禁止により、結核を撲滅しようとしたことがあった。

 さて、この唾吐きの禁止が滑稽なのは、誰もが知るべきことだが、細菌や結核菌などは、至極ありきたりの太陽光の拡散により短時間で殺されてしまうので、適度な時間が経った後に、痰を調べれば、痰のなかの結核菌はすでに死滅しているはずである。

 太陽光線は即座に、細菌を殺傷するので、唾吐きの禁止は行き過ぎで非常に滑稽に思える。唾吐きの禁止は、せいぜい、一般的な衛生面では意味もあるだろうが、広義の予防学にとっては全く意味のないことである。

 けれども、事実を正しく評価するなら、太陽光線の殺菌力の話は非常に大きな意味を持つ。なぜなら、この話から、結核のような、動物ないし植物に属する、いわゆる細菌は太陽光線の下では自らの生命を維持できないことを示すからである。

 細菌は太陽光線下では、自らを維持できない。太陽光線は、病原菌の生存には都合が悪い。

 では、細菌が自らを維持できるのはどのような状況だろうか?

 それは、人体内にいるときである。ではなぜ、人体内でなら自らを維持できるのか?

 細菌を、本質的に有害のように見なすのではなく、細菌が体内で活動する状況を探究すべきであり、その際、注意が払われていないものがある。人間は絶えず光に囲まれている。この光は、自然科学での学習では、外界の生物の発育にとって非常に大きな意味を持っている。

 とりわけ、光は植物全体の発育にとって非常に大きな意味を持っている。人間は、この光に囲まれているが、人体と外界との境目において、この光、つまり人智学徒が名づける「純粋なエーテル」に、非常に重要なことが生じている。

 つまり、光が変化(変容)させられている。

 人体内では、光が変化させられる必要がある。人体内で、植物化が阻止され、すなわち、植物化がいわば中断され、炭酸の発生により植物化に抵抗がなされるのと同じように、光のなかの殺傷力も中断される。

 従って、人体内の光を探究すれば、外の光とは別の、つまり変容した光がある。

 人体の境界を内に向かって超える瞬間、外の光の変容が見つかる。すなわち、人間は、通常、外にみえる自然現象を変化させるだけでなく、不可視の光も、体内で変化させている。

 人間は光を別のものに変える。太陽光線の下では直ぐに死んでしまう結核菌が、人体内ではよく生存することは、次のような事実を、正しく評価すれば、端的に証明できる。

 その事実とは、人体内に生じる変容光により生じる環境のなかに、結核菌の生存因子(要素)があり、すなわち、結核菌が人体内で増殖するときは、変容光(霊光)になんらかの異常がある、ということである。

 更に、体内の変容光から出発し、結核の原因を探れば、結核菌は常在するが、通常は、結核菌を体内に沢山取り込むことはないので、変容光についてなんらかの異常が生じている、という事実が理解できる。

 実際、結核菌は常在する。ただ通常は十分な数でないというだけで、人間が結核に屈服すると夥しく増殖する。体内で変容した太陽光に異常がない限り、通常、体内に結核菌が見つかるわけではない。

 さて、またも、上述のような人体内の変容光を研究することにより、多数の学位論文等などが書けるが、実際の経験的な事実を、その研究に集約することで、次のような知見を、比較的容易に引き出せるが、いまは、ただその観点を与えるだけにする。

 「結核菌の増殖に適した状態とは、太陽光線を体内に十分に取り入れることができないか、もしくは生活習慣のために十分な太陽光線を得ていないため、体内に入ってきた太陽光線と、体内で加工し、変容させた太陽光線との間の均衡が崩れ、体内に備蓄していた変容光から、貯えを引き出さざるを得ない状況にある。」

 是非とも考慮すべきことは、人間は、変容光(霊光)を、絶えず自らのうちに貯え持っている、という事実である。

 太陽の変容光は、人体にとって必須である。

 (キリストが、人間は神の子である、といったのは、太陽の子である、という意味でもある。勿論、父は、太陽である。)

 人間と外界の太陽光線との間の相互の経過が正しく実現されないような影響下では、必要な脂肪を、肉体から取り出し、消耗し、痩せていくのと同じように、肉体から、変容光(霊光)が奪われる。

 必要以上に、肉体から変容光が奪われる場合、人体上部が病むか、もしくは、上部にとって必要な経過を人体下部から引き出し、つまり下部から変容光を取り出し、下部が病むようなジレンマの前に人間は立たされる。

 (外界の太陽光との均衡が巧く図れてない傾向をもつ現代人は、感染症に罹り易くなっている。太陽光線の振幅が強くなっている、という噂もあり、太陽光との均衡が益々図れなくなっている。

 恐竜が滅んだ理由も、太陽光線との均衡がとれずに、心筋梗塞等を起こし、滅んだ、という説もある。昨今の地震なども、太陽光線の強さに由来する、という説もある。)

 以上の知見からわかるが、人体のために、外から摂取し変化させた目にみえる物質を(食料として)必要とするだけでなく、正しく観察すれば指摘できるが、人体のなかには、変容した形ではあっても、不可視な霊の実質、いわゆるエーテルの実質(霊光)も存在する。

 以上の知見から看取して欲しいことは、太陽光線の内外の均衡の原理を通じて、太陽光線の治癒作用を引き出すための正しい見解を打ち立てることである。

 例えば、周囲の太陽光線との相互関係において失われている秩序を回復させるために、外界の太陽光線に直接身体を曝すことや、もしくは、内外の均衡が崩れ、蓄積した変容光を取り出す際に生じた人体内の不規則性を調整するように、内から、光線に曝すことで、治療を行うことができる。

 (内から光線に曝す治療が、以前、紹介したリッターの治療、いまでいう光線力学的療法である。)

 また、薬剤などの作用により、人体内の変容光の消耗を抑制することも考えられる。

 以上のような知見から、人体内を霊視できる。

 以上のような事実から、宇宙全般を観察できる人にとっては、次のような奇妙な感情が生じる。通常ではみられない表現というか、共感も反感も無い客観的な立場から、一見して、反駁可能な、奇妙な感情が生じる。この奇妙な感情とは、顕微鏡での観察、すなわち、微小世界の観察全般に対して、一種の激しい怒りを覚えるような感情である。

 なぜなら、顕微鏡での観察は、生命の進化と退化とを、本質的に把握する可能性を導くどころか、逸脱させるものだからである。

 というのも、健康、もしくは病気において本質的に関わってくる経過全般は、顕微鏡的な微小世界(ミクロ)というよりもむしろ、巨視世界(マクロ)において、遙かによく研究できるからである。つまり、マクロコスモス(大宇宙)のなかにこそ、生命現象を追求しなければならない。

 (重力も、マクロ的視点からでないと理解できない。恐らく、生命も、マクロ的視点からでないと理解できないのだろう。道徳が、人間社会全体からでないと理解できないのと同じなのだろう。)

 また、鳥類は、膀胱と大腸の発達が不十分なため、摂取と排泄との間に、持続的な平衡状態を絶えず保たねばならない、という事実に注目すべきである。鳥は飛びながら排泄できる。鳥は食物を体内に貯蔵し蓄積することはない。

 鳥は、食物を蓄積している暇はない。もし、鳥が食物を体内に蓄積したら、即座に病気になり、体を駄目にするだろう。鳥とは違う人間は、現代的な見解に沿って表現するなら、物質的には、鳥よりも進化したわけだが、より正確な表現を用いるなら、鳥よりも、地上に降下した、といえる。

 実際、鳥は腸内植物に対して、激しい闘いを展開する必要もない。高等動物や人間に必要な腸内植物が、鳥の体内には無いからである。しかし、人間の高次な活動というか、例えば以前述べたエーテル(光)を変化させる活動、すなわち、光の変容を導く活動に関しては、人間も鳥と同じ立場にある。

 人間は、物質を蓄えられる膀胱や大腸をもつが、この物質的な器官に機能を与えているエーテルについては、鳥と同じで蓄積することはできない。実際、エーテルのような霊の実質は、宇宙のなかでは、地上(物質)的な意味(蓄積する形)では存在しない。エーテル光を受け取ったら、直接加工し、即座に排出しなければいけない。

 もし、このエーテル光の平衡状態に支障をきたすと、この支障に対処する器官をもたないため、人間は健康を損なう。

 従って、小さな脳を備えた鳥から明確にわかることは、鳥の霊魂はマクロコスモス(大宇宙)そのままの生き写し、ということである。

 (人間が健康を損なわないためには鳥に学ぶ必要がある。)

 人間は、鳥よりも下降し、地上で粗雑な(物質的)組織に模られた(写し取られた)存在だが、霊の意味から研究するなら、地上よりも上位のマクロコスモス的な鳥の世界で起こる現象を探求しなければならない。

 ただ、次のことを述べておきたい。このことは余談として述べるが、鳥類と比較して、人間が物質体において持つ性質(蓄積)を、エーテルでも持つなら、人間の生活は酷く悲しむべき状態になっていただろう。

 なぜなら、物質体のようには、エーテルを外界から遮断できないからである。エーテルを外界から遮断し、変容光を蓄積できた場合、人間が、もし変容光を感じとる臭覚をもったなら、人間の共同生活はかなり悲惨な状況に陥っていただろう。

 つまり、羊を、死後解剖し、内部の匂いを嗅いだときの経験と同じ状況が生じる。

 エーテルに関しては、人間は鳥類と同じ機能をもつので、例えば、腐肉を食する鳥でさえ、解剖時に、腸からの不快な臭いの発散がないので、不快にならないが、勿論、相対的な比較の意味での臭いだが、この鳥の腸と同じ臭いに喩えられるので、人間同士が実際に向き合っても、不快な臭いを感じなくてすむ。

 鳥の腸の臭いは、特に、進化上、ようやく反芻動物の素質を持ち始めた、例えば馬(馬は厳密には反芻動物ではないが、反芻動物への素養をもつ)を、解剖する際に発散される腸の臭いと比較して、ほとんど臭わない。

 つまり、外の植物と動物に起こる経過と、人体のなかの腸内の動物と植物で起こり、克服すべき経過との対応を調べていくことが重要である。

 薬剤と人体の器官との関係を明確にするなら、これまで展開してきた一般的な特質から、次回以降の講義で述べる個別的な特質の理解へと進んでいく必要がある。

 つまり、人体内の、植物化に対抗する営みを、循環、もしくは律動過程のなかに発見することで、腸内の動物や植物を克服する過程についての理解へと進む必要があり、またその後、この律動機能による植物化克服の過程から出発し、神経-感覚機能の本質的な理解にも進む必要がある。

 この神経-感覚機能は、人間の生活全体にとって、通常考えられているよりも遙かに重要である。科学が抽象化したため、次のような事実を適切な方法で考慮する可能性が全く失われてしまった。

 「この神経-感覚機能を通じて、例えば、光や、光に結びついた熱(エネルギー)が入り込んでくるわけで、この神経-感覚機能は、人間の内面(精神)生活と非常に密接に関係する」という事実である。

 というのも、光と一緒に入り込んでくる不可視な霊の実質(以下、「霊質」とする)は、人体の様々な器官において変容を要し、また、この不可視な霊質は、可視な物質器官と同じような器官を形作るために、このような霊質を考慮する可能性が全く失われてしまったからである。

 霊質からなる神経-感覚機能が人体の組織化にとって特別な意味を持つことが、唯物化し抽象化した科学では全く考慮に入れられていない。

 更にまた、身体下部のなかに下降していく場合、腸内植物の生長力領域から、腸内動物の成長力領域へと下降していくことになり、逆に、身体上部へと上昇していく場合には、腸内植物に対する克服(抑制)領域から、鉱物化、いわゆる硬化に対する継続的な克服(抑制)領域へと上昇することになる。

 外見的にも、人間の頭部の骨化が、他の組織より顕著であることから見ても、人間は上へ向かって進化するほど、器官組織が鉱物化する傾向が強まる、という事実が洞察できる。

 この鉱物化は、人体全体にとっては非常に大きな意味をもつ。これは注意すべきことだが、人間を、頭部、胸部、腹部-四肢の3つに大別するなら、これら3つの組織が、外見のように空間のなかで並列的に境界をもつように考えてはならない。

 神経-感覚機能を、質で捉えて区別するなら、当然の如く、頭部に相当する。質でいえば、頭部に神経-感覚機能の主要部があり、頭部から全体へと拡がっている。循環(律動)機能や新陳代謝機能も同様で、それぞれの主要部は、胸部、腹部にあり、常に全体へと拡がっている。

 このため当然のことながら、頭部に本質的に存在すべき機能が、全体の組織にも存在するので、この全体に拡がっている鉱物化の傾向を克服(抑制)しなければならない。

 現代人が、古代の遺伝として受け継がれた霊能力から導出された著作を読んでも、何も理解できないのは、上述の知見が理解できていないからである。結局、パラケルススの記した「塩過程(鉱物化)」の項を読んでも(パラケルスス「オープス・パラミールム」参照)、その意味を読みとることは、現代人には無理である。

 (以下は、非常にオカルト色が強い内容となっている。現代的解釈の典型である。)

パラケルススと医学
 http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/alcemy/parakerusuigaku.htm

 ところで、この「塩過程」というのは、ちょうど今特徴を述べている領域(神経‐感覚機能)にあたり、「硫黄過程」が、その前に述べた領域(新陳代謝機能)にあたる。

 (塩過程とは、現代風にいうなら、人体内の硬化、あるいは加齢化のことである。硫黄過程とは、現代風にいうなら、肥大化、あるいは脂肪化、肥満-増殖化に近い。つまり、パラケルススは、人体の生命維持の経過を、自然の経過に準えて記述した。

 現代人は、単純に、「塩」を物質の塩「NaCl」と、硫黄を、物質の硫黄「S」と捉えて曲解し、古代の医術は出鱈目といっているわけだが、出鱈目なのは、現代人の解釈にある。オカルト研究家の科学的知識のなさが、更に、出鱈目を飛躍させてしまっているので、問題なのだが…。)

 さて重要なことは、人体は、自らのなかに鉱物化の傾向をもつことである。ちょうど、動物-植物過程の基礎を成す再生力が、独立して起こり得るのと同様に、この鉱物化の傾向も、独立して起こる可能性がある。

 (動脈硬化や、血栓などによるエコノミー症候群などである。)

 では、この鉱物化の傾向に対して、どのように対抗して働きかけるべきなのか?

 この鉱物化に対抗する働きかけは、この鉱物化の傾向を粉砕し、いわば、そのなかに楔を絶えず打ち込む以外にはない。鉱物化を阻止する治療法を探求するには、血清(動物)療法から、植物療法を経て、鉱物療法へと移行する必要がある。

 鉱物療法なしでは、人体の鉱物化の阻止はできない。というのは、人体の鉱物化の傾向や、普遍的な硬化の傾向に対して抵抗するための支援となる治癒原理を獲得するには、外の自然のなかの鉱物の生成過程と、人体内の鉱物化の過程との間にある関係性の理解が必要だからである。

 鉱物療法を用いる際、鉱物を、外の自然にある状態のまま、人体内に取り入れる方法では駄目である。人体内で、ホメオパシー(同症療法)の原理が実現するように、なんらかの形で、外の鉱物界の活動的な経過に対置されるような反対(対極)の力を、鉱物界から探し出す必要があり、そのような反対(対極)の力を実現できる鉱物薬を見つける必要がある。

 (ここで用いられている「ホメオパシー」という言葉は、「同症療法」というより、陰陽の「中和作用」という意味に近い。)

 次の事実はよく指摘されてきたことで、実際正しいが、治癒作用をもつ泉のなかの僅かなミネラル成分に注目すれば、この泉のなかでは、ホメオパシーの原理に従う注目すべき経過が起こっている、のがわかる。

 この治癒作用のある泉のなかの、ミネラル成分を生成する過程には、通常みられる外界の様々な力(結晶化など)から、(ミネラルとして)解放する、つまり結合力とは逆の力、つまり、ホメオパシーの原理に従う、結晶化に対抗する力が現れている。

 (外界のミネラル生成過程を、生体内で、ホメオパシーの原理に基づいて実現すれば、生体内の硬化を抑制できるようである。ただし、自然界と人間の生体は、ポジとネガの関係なので、陰陽を踏まえないと逆に作用してしまう恐れもあり、充分に注意すべきだろう。)

 けれど、ホメオパシーの原理については、別の章で述べたい。

 いま述べたいことは、次のようなことである。

 特に比較的若い人に勧めるが、種別による腸全体の形態変化、言うなれば、魚類から両生類、爬虫類を経て鳥類に至る変化、とりわけ両生類と爬虫類の腸の形態の相違からくる関係性は究めて興味深く、また哺乳類、そして人間にまで至る腸の形態変化について、比較研究するなら、次のような事実に気づくだろう。

 「次第に特殊な形態変化が起こり、例えば、盲腸ができてくる。」

 人間では、後に盲腸が現れ、下等な哺乳動物や鳥類の組織から、何らかの器官が欠落し、盲腸の原基が現われる。いわば完全な秩序へと向かう進化の上昇を通じて、魚類には全く存在しない大腸(魚には、大腸はない)から、盲腸が複数生じ、人間には盲腸が1つあるが、他の動物には盲腸を複数持つ種類もいる、というように、器官の発生についての進化全体のなかに、独特の相互関係を見つけることができる。

 このような比較研究から、本質的な相互関係を厳密に指摘すべきである。単純に外見(物質)的に考えると、実際、次のような疑問が生じる。

 「一体何のために、人間は、盲腸のような、外に向かって閉じた(消化)器官をもつのか」という疑問である。

 上記のような疑問をよく質問されるが、このような質問は、通常、次のような事実を考慮しない。

 実際、人間は二元性(陰陽)[Dualitaet]により自己を開示している、という事実である。

 つまり、人体下部で形成される器官は、常に上部で形成される器官と平行器官[das Parallel organ]の関係にあり、下部において平行器官の関係にある器官が発達できなければ、上部の器官も発達できない、という事実を注視しない。

 (陰陽の概念が基本である。)

動物の進化系列において、前脳が発達した形態を取るほど、例えば、人間の場合、後に発達させるが、前脳の発達に比例して、腸が食物を蓄積する方向へと形成される。腸の形成と脳の形成の間には密接な関係があり、動物の進化系列において、大腸、盲腸が出現しなかったら、その結果として、物質の原則から、人間は思考できなかっただろう 。

なぜなら、人間が、脳という思考器官を持てるのは、全くもって、腸が物質的負担を担う、お陰だからである。腸は脳の忠実な裏面(ネガ;陰)である。つまり、思考のために、脳から物質的活動が免除され、大腸や膀胱を形成することで、代わりに腸に、物質的活動の負担を担わせなければならない 。

 (この事実から、腸の発達が弱い人は、思考能力に欠けるものと考えられる。現代人は腸の発達がよくないのかもしれない。)

 以上のように、物質界に現れている、人間の最高次の霊魂の活動は、完全な脳の形成と結びつくと同時に、腸の形成とも結びついている。この関係は極めて重要であり、自然の創造全体に途方もなく多大な光を投げかける。

腸の不思議な話
 http://www.nyu-sankin.net/intestinal/010400.html

 さて、幾分逆説的に聞こえるにしても、人間には、なぜ盲腸があるのか、という疑問に対しての回答、すなわち、「相応しい形で、人間が思考できるためにある。」と答えることができる。なぜなら、盲腸を形成することで、その平行器官として対置される脳を持てるからである。

 一方にあるものは全て、他方にもあり、共に対応している。

 (ひふみ神示というのがあるが、そこには、「天にあるもの地にも必ずあるのだぞ、天地合せ鏡と聞かしてあろうがな、天に太陽様ある様に地にも太陽様(おひさま)あるのだぞ」というのがあるが、まさしく、人間の脳と腸の関係にも、通じている。

 ニュートンが訳したエメラルドタブレットの内容にも、「上にあるものは下にもある。下にあるものは、上にもある。」とあった。 )

 以上のような事実を、新しい認識方法で再び獲得しなければならない。勿論、遺伝的な霊能力に立脚していた古代の医師たちの治療法を、今日そのまま模倣することはできない。単なる模倣では、当時とは環境が異なり、得るところがほとんどないからである。

 それでも、以上のような事実を再び獲得しなくてはならない。このような事実の獲得に際して、最初の障壁になっているのが、このような関係を本質的に探究しない純粋に唯物論的な医学教育である。今日の自然科学と医学にとって、脳は1つの内臓器官で、下腹部にある腸もまた別の1つの内臓器官という意味でしかない。

 唯物論的教育では、陽電子と電子は全く同じで、両方とも電子に変わりない、と考えるのと同じ誤謬を犯している事実に、気づいていない。陽電子と(陰)電子の間には、互いに均衡を求める緊張が生じるのと全く同じように、人体のなかでも上部と下部の間に絶えず緊張(均衡)が生じるからこそ、この誤謬に気づくことが重要となる。

 (宇宙では、負のエネルギーと正のエネルギーの均衡が働いている。オカルトでいえば、物質の概念で捉えられないから、負のエネルギーとは、精神世界のことで、霊界になる。数学的にいえば、4次元以上の世界。)

 医学分野において優先的に探究すべきことは、この緊張(均衡)の本質的な制御にある。今回は、この緊張(均衡)を暗示するだけだが、以後の考察で更に詳しく述べていく松果腺と、粘液腺の2つの器官に集中する作用のなかに、この緊張(均衡)が現れる。

松果腺
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9E%9C%E4%BD%93

粘液腺
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%98%E6%B6%B2%E8%85%BA

 松果腺において、上部全体の作用が現れ、下部に影響する粘液腺の作用や、脳下垂体[Hypophysis cerebri]の作用に対して緊張(均衡)関係を成す。この2つの器官のなかに、真の緊張(均衡)関係が成立する。この緊張(均衡)関係に関して、人体の全状態から(包括的に)見解を打ち立てるなら、治療についての非常に良い基本原理が得られる。

 この関係については次回から、もう少し述べていく。質問にも立ち入っていくつもりだが、既に述べたように、質問への回答のための基礎を作り上げなければならない。


 ★         ★         ★

 上にあるものは下にもある。





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Last updated  2016年06月25日 12時56分44秒
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