シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2016年07月01日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 このところ、忙しくてブログを書く余裕もないので、しばらく書いていなかったし、これからも書くかわからなくなっている。

 とりあえずは気ままに続けていくことにしたい。

 巷はというと益々地獄化が進み、金持ちたちは相変わらず自分の利益しか頭になく、ブラック企業が至る所に跋扈し、愚かな改憲を目論む人類のガンと化した悪魔たちに、平和憲法を守るために、天皇が抵抗しているという地獄絵図を醸し出している。

 正直、この国は終わりだな、と思う。いまの若者や子どもたちは本当にかわいそうだと思う。自分がもしいまの若者や子どもだったら、耐えられないな、とも思う。

 しかし、いまの若者や子どものほうが、いまの大人たちよりも霊魂の上では遥かに賢いのに疑いがないのは、益々地獄化する現況をあらかじめ知っていて転生してきているからである。

 霊界では、コイズミから政治がおかしくなり、この国の平和を壊すことが前々から預言されていたので、やはり霊界の正しさが明らかになった、というべきかもしれない。

 いまのジコウは、自分たちが非難するポピュリズムの何物でもない。

 アホのミクズは単なるカネのばら撒きの大衆迎合主義の何物でもなく、ポピュリズムは、エリート主義の対立語らしいが、マス添えなどをみても、ジコウがとてもエリートとは思えない税金浪費ばら撒き無能集団であり、国家財政を破たんさせる寄生虫もしくはウイルスであることは明らかである。



 少なくとも、霊界を知っていたら、天国や地獄も知っているわけで、現世でのどのような行為が、自分を死後、天国、もしくは地獄に導くか、熟知しているので、現代人のとくに無能な権力者のような、権力を使って、弱者虐めをするような即地獄行きの我儘な振る舞いに陥ることはない。

 無能なアホバカほど権力をもちたがる。

 この国全体が弱者虐めに陥っているので、もはや救いようがないのだが、せめて、このような人類のガンをどのように治療するかを、シュタイナーの医学の講義から参考にでもして、解決していくしかないだろう。

 というわけで、紹介する。

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 「精神科学と医学」第13講
 1920年 4月2日 ドルナハ


 (わかりやすく改変)

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 最初に、特に3つの事実を順に取り上げて、唯物的な方向に偏っている現代の医学的思考をもっと霊的な、いわゆる人智学的な方向へと導くように、これから述べていきたい。特に腫瘍の形成や、場合によっては、腫瘍の治癒さえも可能にする霊的な観察へと導きたい。

 更に、いわゆる精神病についての真の合理的な理解や、前回述べた軟膏などを塗ったり、擦り込んだりするような人体外からの治療法を用いる際に身につけておくべき知識などにも導きたい。

 通常の物理的な検査では、少なくとも人智学的な見解から霊的な知見が与えられなければ、癌を頂点とする腫瘍形成全般にアプローチすることは望めない。



 そのため、人智学的な考察を学ぶ必要性を最も感じるのは、病理学と治療学の両分野ではないかと思うほどである。特に、その両分野では、人智学から明らかになる事実の考慮が不可欠である。

 人智学の著書の内容に注意を払うだけでも、上述した方向に向かって多くの事実が語られていることがわかる。すなわち、人体に、エーテル体が完全に介入しているという事実に注意を払うことが不可欠である。

 人体のなかへのエーテル体の活動を語るには、霊視が絶対に必要というわけではない。というのも、エーテル体の活動と、反対に位置づけられる物質的な様々な活動や経過から、エーテル体が働いていないか、あるいは少なくとも正常に働いていない、という事実が肉眼でも見て取れるからである。

 従って、医学分野において正しい見解に達するには、炎症や炎症を基盤として展開する症状と、腫瘍形成や腫瘍形成にはじまり人体を破壊する症状の違いに注視することが重要である。

 腫瘍が生じた場合でも、正当な理想に基づく努力から、できる限り外科医のメスを必要としない治療法を絶え間なく探求していくことが実際に正しい。ただ今日(1920年)の社会状況においては、同時に社会を変えていく必要があり、社会といっても、外(物質)的な意味ではなく、医学、特に予防医学が浸透していく状況へと変えていく必要があるが、現状では困難である。



 さて、炎症の本質的な経過を、器官別に、様々に異なる個別の変性まで述べる必要はないように思う。これから述べることは実際、よく知られたものだが、あらゆる炎症のいわば統一的な経過としては、あまり知られていない。

 この炎症の背後の統一的な経過の特徴については、次のように良く説明できる。

 炎症の大小に関わらず、炎症の根底にあって潰瘍にまで至った症状の場合、人智学的な探究から注視すべきことは、エーテル体全体の働きである。

潰瘍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BD%B0%E7%98%8D

 そのため、推測すべき事項は、ある特定の方向に向かって不活発になったエーテル体の働きを、正常な方向へと引き戻し、エーテル体全体が正常に働くようにすることである。エーテル体の正常な活動は、本質的に、人体のあらゆる方向に拡がってゆくが、炎症が起こる場合、エーテル体の活動が特定の方向に歪んで導かれている。

 結局、次のような結論にいたる。

 例えば、特定の器官に向かい不活発になっているエーテル体に対し、このエーテル体が全体としてまだ正常ならば、その特定の器官に再び向かうように活発化を促すような作用を見つける必要がある。このことについては後述する。

 対照的に、腫瘍形成の場合は、炎症とは事情が異なる。

 腫瘍形成の場合、重要なのは、物質体の経過が、エーテル体の活動に対して、直接敵対し、反抗するため、物質体のその部位では、エーテル体が活動しなくなる点にある。

 とはいえ、エーテル体は、多大な再生力をもち、通常、次のようなことが、人智学から観察できる。つまり、本来活動すべきエーテル体に対する物質体による妨害や障害を排除できれば、腫瘍形成という問題にも対処できる。

 従って、次のような結論にいたる。

 「腫瘍形成の場合、エーテル体の活動に対抗している特定の部位での物質体の妨害を、いわゆる自然治癒力の働きにより取り除くようにして、エーテル体がその部位で再び活動できるようにすることが重要となる。」

 以上が、癌治療の場合、まさに大きな意味を持つ。霊視すれば、癌は多様な形態を示すにも関わらず、全般的に、エーテル体の働きに対する、ある物質的機能の抵抗を示していることがわかる。

 例えば、人体内での癌腫形成の場合、角質化が現れることがあるが、角質化の傾向は、比較的表面に近い部位にできる癌腫にも、それほど顕著ではないが見られる。

角質
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E8%B3%AA

癌腫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%8C%E8%85%AB

 つまり、癌腫に特徴的な角質化の傾向、つまりその物質的形成そのものが、当の部位に本来働くべきエーテル体に干渉し、妨害している証拠であることがわかる。

 従って、物質体とエーテル体の両方の作用を正しく探求すれば、結局、次のような両手で掴めるような見解、つまり、炎症[Entzuendungen]-潰瘍形成[Geschwuerbildungen]が、腫瘍-癌腫形成[Geschwulstbildungen]と完全な対極をなす、という見解にいたる。

 炎症と、腫瘍形成の両者は、人体内ではまさに対極に配置されている。

 上記の事実を「両手で掴める」と表現したが、例えば、人体の表面近くにできた癌腫を、擬似の偽潰瘍[Pseudogeschwueren]と混同する経験がよくある。そのような経験から、上述の両極性を厳密に探究するように研究を拡張していくべきである。

 さて、両極性の探求の際に、よく妨げになるのは、古くからの、いわば中世からの命名ではなく、現代人が思い描く中世に由来する命名である。つまり腫瘍形成を「新生物」[Neubildung]とみなすのは正しくない。

 通俗的な意味で、「新生物」と命名するには、いままでに腫瘍が全く存在しなかった場合であり、例えば皮膚に覆われた人体を基盤にして生じる意味においても、現に、新生物ではない。

 腫瘍形成は、新生物ではなく、物質体がある過程で、エーテル体に強く抵抗することで、物質体が、いわば外界、つまり人間に敵対する自然に従属するようになり、そして腫瘍形成により、あらゆる可能な外からの影響に対して接近を許すことにある。

 (老齢化するにつれ、がんになりやすくなるのは、外の自然への抵抗力を失うからである。人間という独自性、自立性を失い、外界に依存し、従属するようになると、執着心が生まれ、それがガン化する。

 仏陀が、二千年前に喝破している。だから、仏教の修行は自然への抵抗力、融合力を身に着ける、治療法である。)

 腫瘍の治療においては、腫瘍形成と対極にある逆の働きを自然のなかに探求することが重要となる。例えば、ヤドリギ(寄生)の形成[Viscumbildung]などを研究することで、対極の逆の働きの参考とすべきである。

 まず、他の植物上でのヤドリギ(寄生)類の生長に注視する必要がある。しかし、寄生は本質ではない。

 植物学では、確かに、ヤドリギの本質は寄生にあるが、人体内での生長を研究する場合に重要となる性質とは、ヤドリギが他の植物に寄生することで、異なったリズムで生長せざるを得ない、ということにある。

 例えば、ヤドリギが寄生する樹が、春に、葉を生やし始める前に、既にヤドリギは花を咲かせるので、ヤドリギは冬季植物の一種であり、また、寄生する樹の葉によっては、太陽光の強い放射や夏の強い日差しから護られ、直射日光に曝されないでいる。

 このヤドリギの性質から、ヤドリギは、まるで「貴族的な」植物とも呼べる。以前述べたような経緯、つまり、太陽から光がやってくるという知識に従えば、太陽光だけを光の影響の代表として捉えてしまうが、このような見方は確かに物理学的な思考には有効かもしれないが、光を本質とする生命力の観察には相応しくない。

 それにしても、誤った自然への認識から、言葉のなかに混じる誤った知識を、完全には回避できないとはいえ、ヤドリギが、他の植物に寄生することで、生長し、繁茂する生態は、特に重要である。他の植物に寄生することで、ヤドリギは特別な(波長光の)生長(生命)力を獲得する。

 ヤドリギが獲得する特別な生長力は、例えば、次のように示せる。

 ヤドリギが寄生により獲得した特別な生長力は、一般的な、年間を通じていわば直線的に生長する生命力ではなく、非線形の、曲線的(指数的)に生長する生命力なのである。

 (腫瘍も、指数的に成長することでわかる。経済上のバブル形成も指数的に成長する。)

 このことは、次のように理解してはじめて明白になる。

 「図(下図参照)のように、物質体のなかに、なんらかの要因で特別な生長力を獲得したため、エーテル体の働きを拒む部位ができると、エーテル体が結果として、そこで堰き止められ、停滞し、外見上、「新生物」のように見える腫瘍が出現する。

 この部位に現われた、まるで袋のような塊(腫瘍)に対抗する働きをもつのが、外界でのヤドリギの生命力である。」

 ヤドリギは、エーテル体の働きが及ばない物質体へ、エーテル体の働きを再び引き寄せる。

med1-20.gif

 このヤドリギによるエーテル体の修復を、適切な方法を用いて実験で確かめることができる。直線的な生長力とは対極にあるヤドリギの生長の傾向を、例えば、胎盤の排出に対して、ヤドリギを投与し、その働きを観察すればよく研究できる。

 ヤドリギは胎盤を人体内に引きとどめる。すなわち、ヤドリギの性質から、線形の生命力とは対極の非線形の働きを与え、胎盤を人体に引きとどめるように働く。つまり、通常の線形の生長力に対抗するのが、まさしく、ヤドリギが与える生命力による特別な経過なのである。

胎盤停滞
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%8E%E7%9B%A4%E5%81%9C%E6%BB%9E

 胎盤を引きとどめる、のは肉体上の経過で、これと本質的に同じ、通常の線形的な進行が中断することは、更に精妙なエーテル体の経過ではほとんどないが、肉体上では、ヤドリギが線形的な進行に強く対抗する働きをもつのがわかる。

 例えば、エーテル体が物質体を正しい強度で掴もうとしない傾向に対して、ヤドリギのこの生命力に気づいて、人体内でこの生命力を再現すると、エーテル体の介入が促進され、かえって過度に強く物質体を掴み、痙攣などが起こることもある。

 またその際に、エーテルが物質体を掴み過ぎて、自分が始終ひっくり返るのではないか、というような感覚が生じることもある。このような事例から、例えばヤドリギが、基本的に遺精の促進[pollutionsbefoerdernd]に関係することがわかる。

遺精
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%81%BA%E7%B2%BE/

 以上のように、ヤドリギが、(エーテル体に生命力を与え、)物質体に対して、抵抗力を持つことを、例えば癲癇[Epilepsie]などにも関係して、様々な症状から発見できる。

 とはいえ、このようなヤドリギの特質は、寄生というより、ウイーンの人々には馴染みある俗っぽい表現でいえば、「自然に、特別製のソーセージを焼いてもらっている(特別扱いされている)」に関係する。

 ヤドリギは、通常の一年草の季節、つまり、春過ぎから花を咲かせ、夏から秋にかけて果実を実らすのではなく、冬季という特別な時期に繁茂する点で特別扱いされている。冬季に繁茂することで、ヤドリギは、通常の季節の進行に抵抗する生長力を貯える。

 (経済成長などにも似たような法則がみつかる。俗にバブルといわれる急成長する組織は、ヤドリギのようで、短期的投資に依存し、どこか特別な性質をもつ。バブルが崩壊すると、多大な経済的損失を与え、組織全体を瀕死の状態に追い込む点で、癌にも似ている。)

 自然の季節活動に、ヤドリギの生長を照らしあわせ、比較して観察すれば、次のような酷い表現が思い浮かぶ。

ヤドリギ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%AE

 「自然の活動と比較すると、ヤドリギの生長は、気が狂っているようにみえ、季節はずれだ!」

 しかしながら、人体が、物質的に、いわばヤドリギのように気が狂うとき、そして例えば、癌などとして現れたときに、逆に、このヤドリギの生長力が有用となる。このような自然と人体との関係についての理解力を育てていくことが重要となる。

 さて、腫瘍形成の際、ヤドリギを、人体内でエーテル化し用いて、外科医のメス代わりに治療薬とすべきである。ただし、ヤドリギの実を薬にするには、人体内の他の働きと関連づけて、正しく扱えるようになることが重要となる。

 ヤドリギが、「気が狂っている」証拠として、他に例えば、次のようなことも考えられる。

 ヤドリギという種の存続、つまり受粉が、特に、鳥の移動を頼みにし、鳥の飛行と結びついている点にある。つまり、鳥が、ヤドリギの実を、樹から樹へと永遠と運ばなければ、ヤドリギは死滅してしまう。

 奇妙なことに、ヤドリギの受粉は、鳥の体内を通過する方法を選択するため、ヤドリギの実は、まず鳥の体内に摂取され、排泄されてから、別の樹の上に新しい芽を出す。ヤドリギの生態を観察すれば、これまで述べてきた事実がわかる。

 更に大切なことは、とりわけヤドリギの膠(にかわ)質[Leimsubstanz]に含まれる生長力を、人体の他の働きと正しく関係づけ、塗布剤などとして、物質体の増殖能に対する、ヤドリギの潜在的な抵抗力[Potenzierung]を、体内で徐々に高めていくことが重要である。

花と葉っぱ:ヤドリギ
http://borancha.exblog.jp/15410683/

 更に重要なことは、この問題は後に述べていくが、ヤドリギの生える場所、つまり生える樹によって、どの特定の組織の増殖能に対する抵抗力を高められるか、などを特定していく必要がある。

 また更に重要なことは、ヤドリギの膠質に含まれる生長力を、別の植物に含まれる金属などと融合し、共作用を誘起する薬をつくることもできることである。例えば、リンゴの樹に生えるヤドリギに、銀塩(銀の化合物)を擦り込むことで、共作用を誘起し、下腹部の癌腫に対して抵抗力を生じさせることができる。

 ☆   ☆

ヤドリギ
 最近のハーブ図鑑の記述によると、ヤドリギ(学名 Viscum album)には、蛋白質合成、免疫機構、循環器系、心臓に作用する成分も含むという。内服、外用ともに用いられるが、特に茎と葉はそのまま食すると有毒なので注意が必要。ツンとする、苦甘い、加温性のハーブで、血圧降下、免疫機構を刺激し、心拍低下、鎮痙、鎮静、利尿、抗癌作用があるという。

 北欧神話では、オーディンの息子、光の神バルドルは、ロキの計略により、ヤドリギの矢で殺されるが、後に再生する。ヤドリギはまたドルイド教で重視され、新年の祝いと関係がある。このヤドリギは特別な月相のとき、金の鎌で樫の樹だけから採られた。

 ☆   ☆

 さて、ヤドリギを、癌の治療薬として用いるのに慎重にならざるを得ないのは、人智学の研究からは癌の治療薬として明白な根拠が挙げられるが、実際に治療を始める場合、ヤドリギの実の有効性が、臨床上の技術に完全に依存するため、ヤドリギから抵抗力を誘起するための臨床上の知識がほとんどないからである。

 勿論、人智学から得られる知見は、現代の医師たちの下でも、大いに根拠をもつので、実際に、臨床経験を積み重ね、絶えず共同で治療法を探求していけば、ヤドリギの抵抗力を体内で有効に働かすことが可能になるだろう。

 しかし、唯物論が、人智学と、今日の医学との関係を困難にしている。というのも、この両者、つまり、臨床への適応性と、人智学的な探究は、今日の唯物論的な社会慣行によって、まだ全くバラバラであるのを余儀なくされているからである。

 けれどもまさに、逆に、この両者が互いに結びつけば、癌治療などが本質的にうまくいく見通しがたつだろう。

 つまり大切なことは、この臨床上の適応に向かって、経験を実際に集めることである。というのも、臨床上の物質的有効性の報告などによって検証を与える以外に、世間に何らかの形で、従来とは異なった知見をもたらすことはほとんどできないからである。

 だから、臨床上の経験を必要とするのは、精神的な意味というよりはむしろ物質的な意味をもつ。

 臨床上の経験を集めると、ヤドリギの効果が、上述してきた事実に基づくのが立証されるだろう。ただその効果が明らかになっていくにつれ、治療法はもっと進歩していく必要がある。

 ヤドリギの効果を基に様々な植物薬を探求していくべきである。

 実際、樹の幹とは、本質的には、土の瘤であり、なかに含まれている植物が、そこから生えてきて、全体として植物の樹となっているわけで、いわば幹とは小さな丘なのである。

 さて、この幹にヤドリギが生えてくると、このヤドリギは樹の上でいわばくつろいでいるわけで、地面とは反対の方向に根をおろしていることになる。

 このようなヤドリギの、どこか気違いじみた貴族主義を身につけたようであって、同時にボヘミアン的な寄生生活の特性は備えていないような植物で、臨床上の実験をしてみると、ヤドリギと同じような効果が得られるのが予想できる。

 例えば、冬の植物に対して、人体の健常な発展から逸脱し、病的な進行で調べると、冬に開花するのが相応しいと認められる植物は、ヤドリギと同様の腫瘍形成への抵抗力を持つことが予測できる。

 この臨床上での実験を、例えば、ヘレボルス・ニゲール[Helleborus niger]のクリストブルーメ[Christblume](クリスマスローズ)といった植物にまで広げていく必要がある。

ヘレボルス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%82%B9

クリスマスローズ
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA/

 実際に、ヤドリギと同様の働きを、クリスマスローズから獲得できるだろう。ただ、少なくとも、この講義の冒頭の導入部で述べた特徴のように、陰陽、つまり、女性と男性とで働きが全く逆に出ることも考慮に入れる必要がある。

 女性の場合、クリスマスローズでは、腫瘍形成に対して抵抗力はほとんど得られないが、男性の場合、顕著な抵抗力が得られる。

 ただし、これは腫瘍形成に対して、ヤドリギが示す抵抗力と同様の投与法で、人体内でエーテル化されるように脱物質化する必要がある。

 また上述の探求に際し、次のような関係を考慮に入れる必要がある。

 「冬に繁茂する植物なのか、夏に繁茂する植物なのか、また、その植物の働きは、ヤドリギのような生長力から得られるのか、もしくはヤドリギの生長力よりは、地面に向かう傾向をもつのか」

 ヤドリギは地を好まず、黒ヘレボルス[Schwarze Nieswurz]やクリスマスローズは地に接近するのを好むので、以前述べたように、どちらかといえば、男性の陽の働きに親和性をもつ。男性の作用は、地上に親和性をもつ。

 他方、女性の陰の働きは、地球外に親和性を持っている。このような事実を広く考慮する必要がある。

 特に重要なのは、自然の経過についての霊視力を獲得することである。そのため、これまで外界の様々な力がどのようなものなのか、特徴を述べ、示そうとして、ボヘミアン、貴族、狂気などといった社会通念などを用いて解説してきた。

 このような通念は、実際、それほど不適切な表現ではないために、本質をある程度わかりやすくしてくれる。

 さて、このような通念から、薬がもつ内外の働きの特徴的な差異も明らかになってくるだろう。しかし、外と内の違いを考察する前に、より正しい観念を洞察しないといけない。

 現在(1920年)出現する新種の病気に対する治療法獲得のために研究すべき事項は、以前暗示したが、例えば、植物の炭を比較的長期間メタンのなかに置き、曝しておくことで、植物の炭にメタンを十分に浸透させてから、軟膏として擦り込むなどが挙げられる。

 植物炭にメタンを浸透させることで、軟膏として人体外から、新種の病気への働きかけが獲得できる。特に、人体外からの働きを促進できる物質を用いて擦り込むとよい。このような技法を見つけることが大切である。

 例えば、滑石土[Talk-Erde](タルク、苦土)などを用いる技法をみつけて、軟膏として擦り込むと、人体外からの働きかけが促進できる。

メタン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%B3

滑石
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%91%E7%9F%B3

マグネシウム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%83%A0

 大切なのは、薬の内外での働きの相違などを見通すことである。健全な考察(合理的な思考)を通じて、洞察力を鋭くしなければ、内と外の相違などを見通せない。

 思い切った表現をするなら、人智学者[Geisteswissenschaftter]は、単なる「精神病」という言葉を聞いただけで苛立ちを覚える。

 というのも、精神(霊、[Geist])とは、常に健康で、本質的に病むことなどないから、精神病(精神の病)[Geisteskrankheit]という言葉を用いるのは根本的に間違っているからである。精神の病などを語るのは、本来、無意味である。

 (自我「霊」、アストラル体「魂」、エーテル体「幽」、肉体のバランスが悪いと、病気になるわけで、霊「自我」自体が病むことはない。)

 精神自らの発現力が、物質体に妨げられることはあっても、決して霊や魂が病むことはない。病気は全て、精神の発現力と、それに対する物質体の妨害などにより生じる単なる症状にすぎない。

 けれども個々の具体的な症状に対する洞察力も鋭くする必要がある。例えば、「宗教的な狂気(妄想性人格障害)」やそれに類する症状に対して、精神医学分野での病名のつけ方は、非常に混乱を呼ぶもので、正確とはいえないが、現代人にわかるように話すには、やはり、このような病名を用いざるを得ない。

 「宗教的な狂気(妄想性人格障害)」の最初の萌芽、もしくは、更にそれが進行した症状が顕在化していくのに気づくことが重要となる。

 いわゆる精神病は、単なる症状にすぎないが、精神病にみえる症状が顕在化する場合に大切なのは、このような顕在化の背後に1つの病像が獲得できることにある。

 そして、更に、このような病像を得たなら、例えば、この病像を示す人間の肺の経過に、何らかの異常を見通すこと、呼吸ではなく、肺における新陳代謝の異常を正確に見通すことが必要となる。

 というのも、精神の病と同様に、脳の病[Gehirnkrankheit]という表現も、本質的には正しくはないからである。「精神病」という表現を完全な間違いとするなら、「脳病」という表現は、半分間違っている。脳の変性も、二次(副次)的な症状だからである。

 俗にいう精神病といわれる病気の根本的な病因は、人体上部のなかには決して存在せず、常に下部のなかで起こる。根本的な病因は、本質的には常に、肝臓、腎臓、心臓、肺という4つの器官組織のなかにある。

 外の生活への関心を失い、内的に思い悩み、妄想に囚われる、というような狂気(妄想)への傾向を持つ人の場合、何よりも重要なことは、その背後に隠れている肺の状態に対して気づくことにある。

 (妄想⇒胸の疾患、例えば、思想家の多くは、胸の疾患で死んでいる。例えば、王陽明の結核の死など。)

 同様に、我儘や頑固さ、独善と呼べるような、いわば固定的な考え方、固定観念に凝り固まった人の場合、肝臓の状態を調べることが重要になる。

 なぜなら、固定観念は、体内の化学機構が正しく働かない結果として現れるからである。例えば、俗に脳の軟化と呼ばれている症状(痴呆、統合失調症)ですら、二次(副次)的である。いわゆる精神病の場合、観察が容易でないことが多々あるにしても、主因は人体下部の器官組織にある。

 (例えば、アルツハイマーの老人斑はアミロイドベータと呼ばれる蛋白質の変成で生じるが、二次的で、本質は、内的な化学機構にあり、例えば、肝臓などの新陳代謝の問題と考えられる。)

 主因が器官組織にあるため、精神的な処置を通じて治療できることはほとんどなく、むしろ、器官の疾病に対する処置を講じることを認めなければならない。また逆にいわゆる「精神病」よりも、表面に現れた器官組織のあからさまな障害の方が、(ストレスの軽減などの)精神的な処置を通じて成果を挙げることができる。

 精神病を、薬剤で治療する習慣を身につけていく必要があり、精神病の主因は、人体下部にあることが本質である。そして、いわゆる精神病と呼ばれる病気は、現代の外(唯物)的な医学が、人智学の見解に沿った治療法を探求するのに必要な新しい分野に他ならない。

 この分野のなかで、正しい観察を行うには、基本的に、霊的洞察力を鍛える必要がある。というのも、いわゆる精神病として現れる症状は、しばしば暗示として働くだけでも途方もなく多様なので、実際に正しい霊的な観察を徐々に獲得していく必要がある。

 1つの実例を挙げて解説する。人間の能力について、この能力とは、霊魂の実際の道具となる肉体上の能力を意味するが、その能力は、1つの人生のなかで単純につくられるわけではないからである。

 奇妙にも、頭が弱く、愚鈍[schwachsinnig]にみえるような特性を備えながら、逆に才気に溢れ、天才的な創作を行うこともあり得る。このような一見すると、真逆の能力が存在するのは、愚鈍さによって、暗示に罹り易く、周囲の隠れた影響を、自らのなかに容易に反映できる、という理由による。

 (オカルトでいう、憑依、霊媒体質のことで、霊媒体質は、愚鈍さにあるから、第三者的な助言者が必要なので、審神者「サニワ」が必要となる。)

 この理由については例えば、文化史的-病理学的に興味深い観察ができる。勿論、このような観察の成果として、個人名を挙げる必要はなく、個人名を伏せると、信憑性がある程度乏しくなるかもしれないが、やはり、個人名は伏せる。

 特に、ジャーナリズムにおいて、奇妙な現象が起こっている。本質的に、愚鈍な頭脳の持ち主が、良いジャーナリストになれるのは、愚鈍さにより、自分の意見がないため、その時代の意見を提示できるからである。

 つまり、その時代の意見が、愚鈍な人を通じて反映されるので、例えば、愚鈍なジャーナリストの記事は、知性鋭い[starksinng] 自分の見解を表明するジャーナリストの記事よりも遙かに興味深いものとなる。

 自分の意見を絶えず作り出そうとする知性鋭いジャーナリストよりも、愚鈍なジャーナリストの方が、社会全体の意見に通じる。

 このようにジャーナリストの例は極端なケースだが、人生のなかでは何度となく生じる現象である。本質への理解に対する強度の遮蔽とも呼べる愚鈍とは反対の能力が現れてくる。最初は、天才的とさえ言える能力が現れてくるために、その根底にある愚鈍さに気づかない。

 (カリスマ性などは、この現象を良く現わしている。俗に、一発屋というのも同じで、愚鈍さが根底にあるものと思われる。当人は、その愚鈍さ故に、なぜ人気になっているのかわからないはずである。)

 当然のことながら、通常の日常生活においては、この現象はとるにたらない些細なもので、記者の愚鈍さにより新聞が書かれていても、結果として、時代を反映した良い意見をもたらすので、害がない。

 このようにジャーナリストのケースは問題にならないが、いわゆる深刻なケース、つまり異質性が臨界点を超え、病気に移行する場合こそ、人間の魂の観察には先入観のない洞察力を獲得する必要がある。

 その場合、魂の活動により本質を遮蔽している表面に現れた症状に従って診断してはならない。愚鈍さと天才さの共存からもわかるように、表面ではなく、深いところにある本質に従って診断しなければならない。

 従って、魂を観察する場合、錯誤に陥る可能性が究めて高い。なぜなら、例えば、魂の持ち主が、的確な意見を表明するかどうか、というよりも、意見を、的確に表明するかどうか、もしくは何度も繰り返し表明する傾向にあるか、ということのほうが重要だからである。

 つまり、意見の表明の仕方が重要となる。意見を繰り返し何度も(規則的に)述べるのか、もしくは、意見を、好き勝手に(不規則に)述べるのか、などが、賢い意見なのか、愚かな意見なのか、などの内容よりも、遙かに重要である。

 つまり、健康でありながら、愚鈍でありえる。病理的には愚鈍ではないが、生理的に愚鈍である、ということがある。

 意見表明の仕方のなかに、いわゆる精神病への本質があり、深刻な状況に陥らないためには、その人が、意見を好き勝手に不規則に述べるのか、それとも、繰り返し何度も規則的に述べる傾向にあるのか、ということに注意を払う必要がある。

 意見を何度も繰り返す人は、根本的に、肺の形成に不規則な素因をもっている。意見を好き勝手に放縦に述べる人は、肝臓の機能に異常な素因をもっている。これ以外は、この両者の中間に位置づけられる。

 以上のことは、日常の生活のなかに探求できる。例えば、いまだ少なくとも薬として用いられていない食品、もしくは嗜好品に対して、以前の公開講義のなかでも、ある程度触れたことがあるが、例えば、コーヒーは、魂の本質から現れる症状を、明確にし、決定的な影響を与えることがわかる。

 本当は、このような影響を取り上げるべきではない。というのも、このような影響に依存すると、魂を怠惰にさせるからである。しかし、実際、このような影響があるのは確かである。

 コーヒーを飲むことで、論理の欠如を補うことができる。つまり、コーヒーを飲むことで、実際に、人体から論理力を多く引き出すような状態にできる。従って、論理的に思考するために、ペンなどを酷く齧(かじ)る必要はなく、コーヒーを沢山飲めばよい。

 コーヒーを沢山飲むジャーナリストたちの習慣は、現代の論理的思考中心の見解に見合った手段ともいえる。

 他方、逆に、紅茶を飲むことは、コーヒーのペダンティックに(学識を振りまき)、大学教授風に論理的思考を積み重ねていくことを妨げる。ペダンティックに論理的思考を積み重ねていくと、極端な場合、才気に溢れた表現ができず、周囲に、自身の論理を一々披露する羽目に陥り、退屈にさせてしまう。

 例えば、条約や協定の締結などの旧来の体制から受け継がれてきた役割の職業に対して、内向的にならずに、できるだけ才気煥発なように、紅茶のような外交的な嗜好品を飲むことが勧められてきた。

 コーヒーが良いジャーナリスト飲料であるように,紅茶は、外交官に効果のある飲料である。ふと現れてくる思考によって、才気渙発であるように見せかけることができ、そのような鋭い思考をする習慣が、紅茶によって本質的に促進される。

 以上のような事実を知ることが重要である。というのも、このような事実を正しく評価することを学び、魂が必要な道徳性を備えていれば、当然、日常生活の模範として、食餌療法とは別の形で奨励できるようになるからである。

 自然との関係を学ぶためには、ジャーナリストの例からわかるような、文化との関係が重要なのと同様に、上述した嗜好品による魂への影響などが究めて重要である。

 例えば、ロシアでは、通常、砂糖の摂取が非常に少ないこと(1920年)や、対照的に、西欧、特にイギリスでは砂糖の摂取が非常に多い、といった事実に目を向けてみればよい。

 この事実から、外界の発展によって、魂が閉ざされていない場所では、端的に、魂の本質が、日常生活のなかに明確に現れていることがわかる。

 つまり、外界に帰依することにより、自我を表出するロシア人の場合、自我は感情に乏しく、せいぜい感情を理論的に補完するだけで、このことが砂糖の摂取量の少なさと関係するが、対照的に、イギリス人の場合、自我が強い感情を持つので、この自我の活動が、砂糖への強い嗜好と関係する。

 特に、砂糖の摂取という事実よりは、魂の内面にある意識を洞察する必要がある。なぜなら、砂糖の摂取という事実も、魂の内面にある意識から、憧れとして生じてくるからである。

 さて、いわゆる精神病、もしくは心の病という症状の真の病因を、本質的に、人体下部の器官組織のなかに探究すべきことを考慮するなら、人体の相互作用が示され、病理-治療を問題にするときに、見過ごしてはならないものが明らかになる。

 人体の上下間の相互作用は、病理的にも、治療的にも、常に考慮に入れるべきで、さもないと、病気に対して、外的な影響を、どうやって作用させるのか、正しい見解を獲得できない。

 病気に対して、足や頭を通じて、熱で影響を与えるのか、水で影響を与えるのかでは、大きな違いが生じる。このような事柄に対して、人体上下間で機能する相互作用の大きな違いに注意しなければ、治療原理(ラツィオ)は獲得できない。

 これからも、この新しい分野、すなわち、人体に対する外的な影響について、できる限り述べていく。

 ★         ★         ★

 人類が地球から自立し、地球の支配に従属する権力をなくすことが人類の課題である。

 現世への執着心からガンが生じるのだから、ガンにより死ぬのは、執着からの解放で、救いなのである。

 人間は太陽(神)の子であり、地球(悪魔)の子ではない。





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Last updated  2016年07月20日 20時51分23秒
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