シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2017年03月10日
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カテゴリ: 神秘体験空間
久しぶりに書きたいと思います。

 シュタイナーの人智学を学んでいると、わかることは、人類が次第にバカになってきたということです。

 いまの人類は賢くなっている、と思い込んでいますが、人を欺いたり、騙したり、出し抜いたり、要するに詐術が巧みになったことで、賢くなった、と思い込んでいるわけです。

 しかし考えてみればわかることですが、何のために人を騙したりするのでしょうか?

 自分だけ得をしたいからでしょうが、自分だけ得をする、ということが、人類全体にどういう影響を与えるか、がわかっていないのです。

 人間は一人では生きられません。人間が生きるためには、空気や水、食物をつくる環境や、人間が出す糞やゴミを処理する社会が必要で、人類全体が、精神的に向上するために、人類のなかの一人一人が自分の役割に応じた目的をみつけ、様々な人間としての体験を積まない、といけないわけです。

 人類全体の精神が向上することで、その成員の精神も向上するのです。だから一人でも悪いことをすれば、人類全体の精神が堕落腐敗するのです。つまり人を欺く、ということはそれだけで罪なのです。

 だから、一人だけ得をする、ということは、人類から一人抜けることになるわけです。



 そして、キリストは、人類すべての損を背負って罰を受けたので、カルマの法則により、キリストは人類すべての得を得るのです。

 前置きが長くなりましたが、何が言いたいのかといえば、現代人は、地獄に行くことをなんとも思わなくなっているほどバカになっている、と言いたいのです。

 人を騙すことは、もはや騙した人だけでなく、キリストをも騙すことになり、神をも騙すことになるわけです。神は勿論、人間に騙されることはないので、騙した人が神ならぬ、悪魔に騙されることになります。神を騙せば、こいつは見どころがあるなと、悪魔がやってきて、地獄に連れていくわけです。

 悪いことをすれば刑務所に行くように、地獄に行くのです。

 だから、一人だけ得をしようという危険な考えなど捨てるべきです。

 特に、いまの政治家たちに警告しておきたい、と思います。あなた方は地獄に堕ちる資格が十分有り余るほどにある。

 人や国を騙して、生きることがどれほどの悪なのか、バカな頭を少しでも使って、考えてみてほしいです。

 さて、悪とはなんでしょうか?

 悪とは偽善です。良いことだ、といって押し付けるのは偽善で悪です。

 この国のバカな地獄行きの連中が教育勅語がいいものだと吹聴していますが、それがたとえ良いものだとしても、まだ分別のない子供に押し付けるのは、偽善で悪です。

 第一、教育勅語が良いものなら、なぜ、それを吹聴する者が誰の目にも明らかな賄賂やインチキをするのでしょうか?



 オリンピック選手が教育勅語のお蔭で金メダルが取れたとは聞いたことがなく、インチキや賄賂に関わってそうな悪人ばかりが教育勅語を絶賛する。そんなにいいのなら、行動で示してくださいな。

 自分だけが得をしたいために、教育勅語を吹聴するインチキさが見え見えです。そんな教育勅語などはいかに良くても、悪人の道具でしかないので、ない方がまだマシでしょう。

 口先で示すより、教育者として、行動で示すべきではないでしょうか?

 口先では良いことは悪魔だって言えますが、悪人は行動をみれば一目瞭然です。



 地獄の恐ろしさを知らない人には実際に地獄に行ってもらうしかないようなので、せめて生きているうちに地獄にいかないように、地獄にいくタイプを簡単に述べておきます。

 第一に金持ちたちです。これはキリストの、金持ちが天国に行くには、縄を針の穴に通すよりも難しいとの発言から明らかです。また地獄の沙汰はカネ次第という諺もあります。

 この諺はよく曲解されてますが、ある金持ちが、莫大な遺産を残して死んだのを、このままでは地獄に堕ちるから、遺産を全て貧しい人に寄付しなさいと、あの世をみれる坊さんが助言し、遺族がその通りにしたので、地獄に堕ちることを免れた、という話が由来です。

 天国に行くか地獄に行くかは、生前の行い、つまり、生きているときに、人類全体の精神の向上にどれだけ寄与したかによるわけです。

 第二に権力者たちです。これは権力というものの性質を考えれば明らかです。権力とは、本当は無いものをあるかのように演出することです。人類は皆平等なので、権力を持つこと自体が嘘で詐術なのです。その嘘の権力で人を支配したり、人を貶めるのは地獄への通行手形を手にいれることを意味します。

 第三に宗教家です。なぜ宗教家かといえば、神を心から信じているのなら、宗教は必要ないからです。神は宗教を必要としないのに、なぜ人間は必要とするのでしょうか。人が宗教を語ることで、神になりかわろうとするからでしょう。

 人類全体が既に、神の創造物であり宗教なので、そのなかで宗教をつくるのは私物化であって、偶像化であり、神への冒涜といわざるを得ないでしょう。神の教えを語るのではなく、自らで実践することです。

 だから、宗教家は地獄にいくことになるでしょう。

 さて、そういうわけで、審判の日は近いと思います。インチキな人がTVを賑わせていますが、反面教師として、シュタイナーの人智学的医術の紹介を続けます。

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 さて、以前、取りあげた題材に基づき、この題材を扱える範囲内で、まずは全体に正しく光を投げかけ、この題材を実り多いものにする幾つかの事実を紹介したい。だから、その取っ掛かりだけになるにしても、更に時間ができればよいが、前回に続いて、今回は、歯の発達(進化)と退化について、少し述べたいが、これは健康と病気の双方に多少とも、光を投げかけるのに適した事例である。

 以前議論されたような事例を、唯物論的な意味で解釈されると具合が悪い。というのも、この事例で重要なことは、外見上生じること、つまり、歯が損なわれるのは、ある体内の活動のためで、その本質は、外見から隠されているからである。

 歯の形成を理解するには、一見、それとはかけ離れたように見える別の活動も視野に入れる必要がある。それは、歯の形成と結びつけて考察し、理解してはじめて正しい評価を下せるような、よく知られている別の活動である。

 その、よく知られている別の活動とは、健康な歯を持つ女性が、最初の分娩を経た後で、歯がダメになる現象と関わる。この現象から、歯痛や歯の損失と、人体との関係が解明できる。更に、歯で起こることと、痔疾への傾向との興味深い関係についても考慮する必要がある。

 上述の関係から、次のような疑問が思い浮かぶ。

 人体での鉱物化とはどういうものか?

 というのも、歯の形成は、まさしく鉱物化だからだが、この疑問に答えるには、人体に、どう関わり、その対極にある活動と、どのような関係があり、そのなかで、どう現われてくるのか、を洞察する必要がある。

 歯の形成を洞察するにあたって、実際、次のような否定できない事実に影響を受ける。

 「歯の形成活動は、歯肉の外の、歯が被さった部分にまで達し、この活動の終結部では、人体が実際、鉱物として、外界に委ねられ、そこでは歯の被膜、つまりエナメル(ほうろう)質がほぼ完全な形で閉じられ、もはや栄養摂取が行われず、器官とは呼べない形となっている。」

 さて、既に述べたが、この歯の形成活動よりも、全生涯にわたって生じる解体活動の方が重要である。

 しかも、歯の最外部は発達(進化)するのに、この末端での器官形成はほとんど行なわれず、解体、つまり破壊活動と関係するのは非常に重要で、この事実からくる次の疑問は更に重要である。

 「人体の解体の傾向をどうしたら遅らせられるのか?」

 というのも、この解体が、外からの攻撃だけで生じる、と考えるなら、完全な錯誤だからである。この事実を十分に考慮すべきである。

 更に重要なのは、以前、歯の形成に関連して、フッ素の働きについて述べたが、この働きが本質的に、幼児の歯と関係するのは当然で、幼児の歯の形成は、まず準備されたエーテル体の内から外へと進むからである。というのも、幼児の歯の形成は、第二の歯(永久歯)が生えてくる前に、体内の奥深くのエーテル体で準備されるからである。

 このフッ素の活動は、歯の被膜のなかで、フッ素が被膜の物質と結びついて均衡し、安定状態に至ることで、その頂点に達する。

 しかし、歯が退化し、破壊活動に向かうことで、この安定した均衡が揺さぶられる。この破壊活動の背後には、歯に端を発するフッ素の活動に関わるエーテル体の活動があり、このエーテル体の活動は肉体全体を満たしながら、全生涯にわたり維持され、継続される。

 さて、以上の事実から、破壊活動に対する予防措置が考えられ、次のような例が挙げられる。

 「ヴァルドルフ学校での教育カリュキュラムでは、子供の健全な発達(成長)に寄与する他の予防措置に加えて、子供たちの歯が早期に損なわれるのを阻止する予防措置も取り入れている。」

 というのも、この人体の末端部といえる歯(フッ素)の形成については、幼児期の正しい教育に左右されることが多いからである。残念ながら、ヴァルドルフ学校を通じて、歯の形成に介入し、本格的な予防措置を行うのには、年齢が少々遅すぎる、のが目下の現状(1920年)で、この予防措置をもう少し早く始める必要がある。

 とは言え、歯は一度に生えてくるものではなく、徐々に生えてくるもので、体内の活動はその後も長く継続されるので、子供たちを6歳か7歳になってから預かっても、まだ若干の予防措置は可能だが、全く充分とは言えない。若干の予防措置は、ある形で実行できるが、それには乳歯が生える際の歯の全体の活動が、どのような性質なのかを、注意深く調べてみる必要がある。

 さて、以上のような歯の形成は体内で既に準備されているので、歯冠は既に完成され、押し出されるだけなので、予防措置は困難なのではないか、という反論は尤もである。確かに、この反論は正論だが、歯の形成活動の本質を理解するには、歯だけを観察していてはダメである。

 重要なのは、子供が大体6歳になっても、手足を動かすのが不器用な場合、その子の歯の形成活動が適切でない傾向にある、という事実である。手足の動作のなかに、歯の形成においても前面に現れるエーテル体の活動が示される。

 従って、子供たちが両脚を器用に動かして巧く走れるように、できるだけ早く指導すること、例えば、タゲリ走りなど、巧みな駆け足を指導し、身に付ければ、歯の形成を促進できる。

 ヴァルドルフ学校の手芸の授業では、男子も女子と同じように棒針編みや、鉤針編みを共に行っている。年長の男子でも、夢中になって棒針編みをやっている。何も奇をてらったものでなく、指を器用に、柔軟にし、魂を、指先にまで送り込むためなのである。

 魂を指のなかに送り込むと、特に歯の形成を促進することにもなる。子供が怠惰なとき、そのままじっと座らせておくのか、駆け回るように導くのか、また、手先を不器用にさせておくのか、器用に導くのか、で、全く異なってくる。

 この事が重要なのは、子供の時に怠ったことが、後になって、程度の差はあるにせよ、早期に歯を損なう現象となって現れるからである。個人差はあるが、確かに現れる。だから、次のような結論に至る。

 「このような訓練を子供のとき、つまり早期に始めるほど、歯の破壊を遅らせるような影響を与える。」

 歯の形成への直接の介入は困難なので、上述のような現象を考慮する必要がある。

 さて、次のような疑問が浮かび上がる。

 「フッ素は、どこから人体に摂取されるのか、外のエナメル質なのか、歯髄なのか、それとも血管などなのか?」

 フッ素は体内の形成活動でリサイクルされるので、どのような経路を辿って摂取されるのか、というような疑問を抱く必要はなく、日常の栄養摂取と同じく、フッ素結合を含む食物から摂取される。

 人体の外側周辺のフッ素が蓄積される処へと、血液によって運ばれるので、日常の栄養摂取を追跡すればよい。大切なのは、フッ素は、一般的に考えられているよりも、広く分布している、という事実にある。フッ素の多くは、様々な植物のなかに存在している。

 植物のなかに、フッ素が存在する、とは、たとえフッ素が化学的に検出できなくても、植物がフッ素(エーテル)の活動をもつ、という事実を意味している。フッ素は水のなかにさえ常在しているので、フッ素不足に困ることはない。

 重要なことは、物質体は、(フッ素を摂取して必要なところにフッ素が割り当てられる、という、)フッ素の複雑な活動と、均衡をとるようにつくられている、という事実にある。だから、現代用語で語るなら、次のように言えるだろう。

 「フッ素は血液を通じて物質体形成が必要な場所に輸送される。」

 更に、「割れた歯のエナメル質には猶も養分が供給されるのか」、という疑問が浮かび上がるが、養分は供給されない。

 この事は以前述べた事実からわかる。しかし、また別の事実に注目すべきである。つまり、人智学で探求すると、歯がつくられる場所やその周囲では、エーテル体が自由に活発に働くので、物質(肉)体との結びつきが緩くなっている、ことがわかる。

 この歯の周辺に見られるエーテル体の活動を、特別に霊視すると、顎の周りを、自由に動いているようにみえる。このような自由な運動は、下腹部には全く存在しない。下腹部では、このような運動は狭義の意味で、物質体の器官(腸)活動と結合し、以前述べた産後の歯の損傷は、この事実と関係する。

 つまり、エーテル体の活動が、妊娠によって、物質体から切り離され、緩くなると、自由に運動するようになって、反対側にある対極の活動、つまり歯の形成に重大な変化を引き起こす、のである。

 同様に、痔疾も、物質体とエーテル体が分離し、独自の道を歩むのに関係している。しかし、この人体の末端で起きるエーテル体の独立は、反対側にある対極の部位で、逆に、このエーテル体を物質体に結びつけようとするので、独立の反作用として、物質体の破壊活動を生じさせてしまう。

 エーテル体の活動が高められ、正常に出ると妊娠だが、異常に出ると病気となるが、妊娠のように正常に出ても、反対側の対極では、歯を退化させ、破壊に導く。この事実は特に重要である。

 さて、次のような疑問が投げかけられる。

 以上は物質体へのフッ素の働きの話だが、物質体に対してフッ素が十分に働かない場合、その不活発なフッ素の働きを人体内に探し出せるのか?

 人体は非常に複雑なので、フッ素の働きを教育する代わりに治療で示すべきなのか。

 つまり「(手足を巧みに動かす等の)教育で間に合わなければ、治療を始めるべきなのか?」

 というのも、手足の動きは、肉眼でみえるフッ素の働きであり、フッ素は黒子役だからである。手足の指が柔軟によく動くようになると、フッ素の働きが肉眼でみえるようになる。

 フッ素の働きとは、以上のようなもので、原子(細胞)論で解釈し、空想(想像)されるような働きではなく、人体の内から外へと表面に出現し、継続していく波動(流体)の運動なのである。

 人体の表面で生じている活動が、体内に継続していくのがフッ素の活動である。というのも、子供の教育がよくなかった、と気づくのは、歯への影響だけでなく、子供が自分からは何も始められない、器用になれない、などにも現れるからである。更に重要なのは、これまで述べてきたように、その予防として人体に介入することである。

 この予防として、トチノキ(1)の樹皮から採った液を水溶性のエキスにして、つまりエスクリンエキスとして試してみるとよい。エスクリンを人体内で薄く希釈されるように内服すると、歯を保護し、長くもたせるように調整できる。ただしその時期が手遅れでないなら、の話である。

(1)Rosskastanie トチノキ属。セイヨウトチノキ、マロニエ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%81%E3%83%8E%E3%82%AD

 この事実からまた興味深い関係が見つけ出せる。トチノキの樹皮液のなかには、実際、歯をつくる要素が含まれる。マクロコスモス(自然を含む宇宙)のなかに見つけ出せるものは、人体のなかでも生命活動を担い、なんらかの形で人体をつくっている。

 そして、このような事実から、以下の事実が明らかになる。

 エスクリンには、物質の化学力を中和させる力が存在する。実際、奇妙だが、円錐(?)のスペクトルをエスクリンの溶液に通すとスペクトル(?)から化学力が中和され、消失する。

 このような化学力の消失は、水溶性のエキスでないとダメで、人体に投与する際には、非常に薄く希釈されるようにしないといけない。

 以上の事実からわかるのは、このような化学力を中和して、鉱物化を誘導するのは、結局、人体の歯の形成活動と同じ、ということである。

 ただし、歯の形成では、化学力が中和され、物質(歯)として生じる活動も、人体内では、まだ化学力に浸透されている。

 同様の働きは、ただし別の抽出法が必要だが、クロロフィル(葉緑素)にも見られる。以上のトチノキ他の樹皮に見つけられる鉱物化の力は、葉緑素のなかの力とは逆の働きをする。だから、葉緑素を、エーテルとして抽出する必要があるので、内服ではなく、下腹部に作用するように、薄めずに軟膏などにして体外から擦り込む必要がある。

 従って、葉緑素のエーテルを下腹部に作用するように外から軟膏などで擦り込むと、エスクリンを内服するのと同様に、歯の保護などに働きかけられる。

 以上は是非試すべき事柄で、統計的な成果などが示されれば重要な印象を与えるだろう。歯髄が死んでしまわないように、フッ素の活動を健全にしなければならないが、そうすると、歯科治療の問題だけでは済まなくなる。

 さて、歯の治療が手遅れでなければ、歯の治療から、歯の形成が、体内の活動と密接に関係している事実が判明するだろう。というのも、エスクリンやクロロフィル(葉緑素)について述べた事実から、鉱物化とその逆の霊(精神)化へと向かうエーテルの活動に導かれるからである。

 人間は、精神を高度に進化させる代わりに、歯(鉱物)を損失することで贖わざるをえない。この事実は、生物の系統発生(進化)からも正しく、動物の歯に対して、人間の歯は退化している。しかも人間は、この退化を、エーテル体を通じて本質的に、頭部の活動と分かち合っている。

 (エーテル体の活動が自由になれば、物質体の破壊が進む。つまり、精神が高度になるほど、物質体が劣化してくる。)

 以上、歯を診断するために重要となる観点を紹介した。更に、また基礎を与える別の事実をつけ加えれば、更に幾つか別の事実が判明してくるだろう。そこで、一見、この事実とは無関係にみえる話をつけ加える。それは食の養生についての問題で、丁度、いま扱ったような事実と関係する。

 食の養生とは、医学的な意味を持つだけでなく、社会的な意味も持つので重要である。マズダナン(Mazdaznan)食餌療法(2)などの特殊な食生活に正当な意味があるか、については多くの議論が生じる。

(2)マズダナンは、1900年ごろA. Hanisch によって創始された、ゾロアスターの教えに基づく生活様式運動。マズダナン食餌療法はそれに基づく食餌療法と思われる。   

 このような食生活で問題となるのは、推奨されている事項が、当人を非社会的存在にしてしまうことにある。実際に、社会的な意味と医学的な意味とが衝突する。何か特別なものを摂取するように指示すればするほどそれだけ一層、世間の影響全般に対して、非社会的な存在になってしまう。

 最後の晩餐の意味というのは、キリストが弟子たち皆に何も特別なものを与えたわけではなく、皆に同じものを与えた事実にある。皆が共に同じものを飲食する可能性を人類にもたらしたのは、大きな社会的意味をもつ。やはり、健全な社会性を妨げる結果になることは慎重に扱わなければならない。

 (逆説すると、金持ちたちだけが特別なものを飲食するのは社会性に欠ける行為といえる。) 

 というのも、人間を放置しておくと、当人の意識だけでなく、体内の働きにも言えるが、できる限りの食欲を生じさせて、バランスを崩し、かえって食欲不振に陥ってしまうからである。食欲と食欲不振を通常の意味で眺めても、それほど重要なことはわからない。

 というのも、耐えられなかったことに耐えたなら、つまり広義の意味で、食べれなかったものを食べて、食欲不振を克服したなら、食べれなかったものを食べないでいるよりは、肉体は遥かに多くの力を獲得するからである。

 損傷した人体の器官、もしくはエーテル体を見れば、新しいとさえ言える、その回復は、耐えられなかったことを耐えたことにある。だから、人体の器官形成力は、他ならぬ食欲不振の克服にある。

 逆に食欲の虜になると、肉体の器官の役に立つどころか、器官を肥大させ、退化させてしまう。つまり、肉体を害したので、食べないでいた食物に、魂が囚われ、食べてしまうと、エーテル体を害することになる。しかし、嫌いなものに、少しづつ慣らしていくなら、エーテル体は強化される。

 現代の自然科学は、以上の治療に必要な事実をほとんど覆い隠してしまった。というのも、自然科学が提唱してきた、生存を巡る闘いや、自然淘汰といった外見的な原理は、実際は、表面的なものにすぎないからである。

 ルクス(1)は、これを更に人体での器官の闘いに転用したが、それは表面的なものにすぎない。このような事は、物質のみでなく、霊(精神)の上で生じている事を観察してはじめて意味をもつ。

(1)Wilhelm Roux 1850~1924 ドイツの解剖学者、生理学者。1895~1921ハレ大学教授。主要著書:「生体組織における各部の闘い」(ライプツィヒ 1881) 「生体組織進化のメカニズムについて」(ウィーン 1890) 「進化のメカニズム」(ウィーン 1905)

 だから、次のような結論に至る。

 「人体器官の進化は、反感(食欲不振)の克服でなされる。」

 (進化という意味の)器官形成力は、反感(食欲不振)を克服した結果もたらされる。人体に既にある器官の成長は、食物への共感によってもたらされるが、食欲は限度を超えてはならない。食物への共感と反感は、舌の上、或いは眼の感覚だけでなく、体全体に鳴り響いている。

 どの器官も共感と反感をもっている。器官は、共感から成長するが、成長しすぎると、逆に反感を持つようになる。つまり、器官は反感を持った段階で、完成される。

 つまり、外界からの作用に対して、人体内が抵抗し、自我を通じて反感が生じることで、器官の完成が進む、という事実を考慮するなら、外界の作用から、生命体の系統発生学(進化)を探求できる。器官が体内での、いわゆる生存競争に良く耐えれば、反感を克服した代わりに、莫大な器官形成力が手に入る。

 この事実を考察すると、投薬する際の、薬の希釈量を見積もる基準が得られる。共感と反感の間で絶え間なく、器官形成活動が揺れ動いている、のが洞察できる。器官形成は本質的に共感と反感を共にし、その間の釣り合いに関わっている。

 以上が、共感と反感の対極的な関係だが、薬を用いる際、あまり希釈せずに、物質として用いる場合と、体内で希釈されるように用いる場合の関係も同様である。

 人体であまり希釈されないように(低い周波数の波動で)用いる場合と非常に希釈されるように(高い周波数の波動で)用いる場合では、逆の対極的な関係にあり、両者の釣り合いが全体の形成力と関係する。

 以上から、以前、別の観点から述べた事実が正しいのもわかる。つまり、幼児期の人体に、ある形で働く力は、老年期では逆に働くので、年齢に応じて、人体の働きが変化するという事実である。

 この事実が基になって、以前述べたように、デメンティア・プラエコクス(精神分裂病)などの慢性疾患の症状、つまり魂(アストラル体-エーテル体)が、肉体から絶縁される状況が生じ、この魂の絶縁が、後の年齢になって、肉体に結びつくべきでないときに、結びついてしまう。

 現代科学自体が、少しばかり霊化され、もはや精神病と呼ばれる病気を、精神(心理)的な方法で治療しようとせずに、次のような疑問

 「精神、もしくは心の病がみられるとき、肉体の、どこが不調なのか?」

 が投げかけられてはじめて、精神病と呼ばれる病気を適切に処理できるようになる。逆に、奇妙に聞こえるかもしれないが、肉体の病気の方が、精神病と呼ばれている病気よりも遥かに、心魂(魂を心と捉える観点)に目を向けることで、治療への多くの手懸かりが得られる。

 精神病と呼ばれる病気の場合、心魂(霊魂)についての所見は、せいぜい診断の助けになるくらいである。肉体のどこに欠陥があるのか、を観察から探り出すために、心魂についての所見を研究しなければならない。古代人たちは、この点について、既に術語の上でも配慮していた。

 古代人たちが、実際に、「ヒポコンデリー(心気症、憂鬱症=鬱病)」という術語を用いて、心魂(霊魂)の所見を、唯物論で純粋に言うところの「下腹部の骨(物質)化」とか、「下腹部の軟骨(粘液)化」の意味に結びつけたのは正当な理由がある。

 古代人が、心魂の状態から生じる下腹部の疾患を、それ以外の何かに探求することは(心気症が悪化した場合ですら)なかった。ともあれ、物質を、霊から発生した状態になるまで洞察できなくてはならない。

 今日(1920年)、唯物論を、思考法に採用し、継続したカトリックによる精神(霊魂)を苦しめる行為によって、実際、途方もない損害を被っている。この霊を侮辱し、苦しめる行為は、自然霊も侮蔑し、自然から、精神(霊)を抜き取った。

 今日の唯物論による世界観は、この霊魂を無視する行為から派生したもので、精神病と呼ばれる病気については、肉体の下腹部で生じている変化などには注意を払う必要はない、と考えるのを好む。

 (心気症などは、下腹部のエーテル体の運動の問題らしい。)

 しかし実際、そのような世界観は全くの間違いである。物質の内部では、霊(精神)が働いていて、どのように霊が働いているのか、という事実こそ知るべきである。人体内で働く霊を、外界のなかで働く霊と結びつけると、内と外の霊が照応し、相互作用していることがわかる。

 だから、自然を侮蔑するのをやめなければならない。自然全体を再び霊の働きとして眼前に思い描くようにしなければならない。というのも、現代は唯物論の最盛期なのに、精神を異常な状態にしようと、催眠術や暗示などで働きかけるような欲求が現れているのは、何とも奇妙で、医学的な思考の改革にとっては究めて重大に思えるからである。

 一見して物質から離れているような精神や霊などの事柄が、他ならぬ唯物論の時代に登場し、そして水銀、アンチモン、金、銀などの背後の霊の性質について探求する可能性が逆に失われてしまった。現代の本質とは、物質の背後にある霊の性質(霊性)について探求する可能性が失われてしまった、ということにある。

 霊の正体が見えなくなってしまったため、霊そのものを取り扱い、精神分析で行われてきたように、精神=霊そのもので説明しようとする。だから、物質を生じさせている霊性についての健全な見解が再び広まる必要がある。

 以上のような外界の物質のなかの霊性についての信仰が生活のなかで保たれてきたことは、十九世紀を通じてのホメオパシー(同症療法)のような伝統医療のなかで浮かびあがってきた、少なからぬ功績の1つであることは間違いない。それどころか、この事実は究めて重要な1つとも言える。

 というのも、唯物論的な、アロパシー(逆症療法)の医学は、残念ながら一層益々、人体外の物質やその作用のみに関わるべきである、という物質信仰に向かっているからである。

 しかし、ホメオパシー(同症療法)の医学から、肉体上の病気の診断には、魂の状態にも注意を向け、逆に異常な状態が精神に強く現われているときには、肉体上にもその影響の場所を探す、という方向に通じていくべきである。

 肉体に病気が現れる場合は常に、この人はどのような気質なのか、という疑問が出てこなければならない。

 例えば、病人が、ヒポコンデリー的な性質(憂鬱質)であるなら、物質体の新陳代謝が強いので、人体下部の新陳代謝(消化)を通じての治療を考えるべきである。つまり、薬を投与するなら、あまり希釈されないように、物質性をもつ状態で下腹部に作用するように処方すべきである。

憂鬱質は、物質(肉)体が優位な状態の気質;過剰な新陳代謝が特徴

 また、病人が、日頃から賢いか、多血質の気質であるなら、アストラル体が優位なので、体内でなるべく希釈され、人体上部にまで達するように、薬を投与しないといけないことがわかる。このような病人には、肉体上の病気に対して、アストラル体、つまり心魂の状態を明らかにする必要がある。

多血質は、アストラル体が優位な状態の気質;過剰な神経系が特徴

 このようなアストラル体、つまり神経系が優位な状態が、子供でも、既にある形で現れるが、その子の気質が、粘液質への傾向を全く示さず、つまり後の年齢になってはじめて現われるべき、その粘液質の萌芽が、たとえ控えめであっても、その子のなかに全くみられなければ、デメンティア・プラエコクス(精神分裂症)は、簡単には発症しない。

粘液質は、エーテル体が優位な状態の気質;過剰な腺分泌が特徴

 しかし、精神が能動的(ポジティヴ)か、受動的(ネガティヴ)か、という区別は特に重要である。この事はよく考慮すべきである。心理療法で、暗示などを用いて働きかけたなら、その人を働きかけた人の影響下に置くことになり、その人の能動性を阻んでしまうからである。

 そして、この能動性の阻害、つまり内面にあるイニシアティブ(自由意志)を阻むこと自体、既に、外界での生活において重要な意味を与えてしてしまう。つまり、この事を、子供のなかに適度に観察したなら、その子の後の人生の、再び、歯の問題に関係してくる。

 いま、自分のためには、ある食品を避ける必要があり、別の食品をもっと摂取する必要がある、という例えを考えてみる。だから、自分には、ある食餌療法が必要である、と考えられ、実際、それは自分に非常に良いかもしれない。

 とは言え、自分で試し、自主的に様々な食品を試してみてから、食餌療法へと辿りつくのか、医師に指示されて、食餌療法を取り入れるのか、では、大きな違いがある。この違いを曲解しないように注意して欲しい。

 自分で良い食餌療法を見つけ出して自分のものとし、もしくは医師の指導の下で、自分でイニシアティブを発揮し、身につけたにしても、医師に一々指図してもらって身につけた場合であろうが、唯物論的な考え方の前では、いずれも同じように役に立つ、ように思うだろう。

 しかし、以上の最終的結果は、以下のような違いで現れる。

 つまり、医師に指示され、それに従った食餌療法は、最初のうちこそ役に立つだろうが、残念ながら有害な面もあり、食餌療法を行わなかった場合よりも、高齢になってから痴呆化(統合失調化)しやすい。

 つまり老人性痴呆(認識障害、統合失調症)になりやすく、逆に、食餌療法に積極的に協力することは、老齢に至るまで(勿論、他の要因も加味されるが)、精神の活発を継続するのを容易にする。

 暗示などの心理療法を用いると、このような自主性(能動性)が損なわれ、受動性を身に着けてしまうと、自分の判断を放棄し、他者の指図に依存しきってしまうだけでなく、自分の意志を、他者の判断に委ねることさえ行ってしまう。

 だから、催眠と暗示等を用いる心理療法は、できる限り使わないのがよいが、次のような場合は例外といえる。

 「このような心理療法を試行するときに生じる意志の阻害が、別の根拠から有害ではなく、一定期間、暗示などを用いたほうが、病人のためになりうる場合。」

 しかしながら、一般的にいうなら、人体をつくる4つの体のうち、物質体、エーテル体、アストラル体の3つの体による直接の働きではなく、意識、もしくは無意識から、能動的にイニシアティブ(主体性)をもつ、自我のなかにある意志力による治癒的な働きこそ、人智学が指摘すべき重要なことである。

 このような事が非常に重要なのは、唯物論の時代にあっては、自我がもつ意志(自主性)に反する事が多く、しかも、時代を反映する支配的な意見に汚染されやすく、催眠術に似た今日の洗脳や暗示が教育にも取り入れられているという、ゾッとするような事態を体験することもある(サブリミナル効果のようなこと)。

 このような洗脳の類が教育のなかに取り入れられるのは恐ろしい事である。催眠に誘導されずに、覚醒をもたらす活動が、このような洗脳に対して、どのように働くのか、というような疑問に答えられてはじめて、その恐ろしさが明確になってくるのかもしれない。

 催眠に誘導されると、本人の意志に従わないイメージが潜在意識のなかで展開され、外界に対する活動が停止する一方で、潜在意識は活発になる(白昼夢をみる)。

 オイリュトミー(シュタイナーがつくったダンス)をする場合は、この催眠とは逆の覚醒が起こる。オイリュトミーでは、催眠とは逆の覚醒がもたらされ、日常の覚醒意識を超える、強い覚醒がもたらされる。

 寝ているときにみる夢のような肥大したイメージが取り去られ、代わりに自我のなかの意志が健全に養成されて、四肢に送り込まれる。自我のなかの意志が、物質体のなか、四肢のなかにまで送り込まれる。

 例えば、オイリュトミーの母音のダンスが、人体の上部と下部に与える働きは、どのように違うのか?

 逆にオイリュトミーの子音のダンスが、人体の上部と下部に、どのように異なった働きをするのか?

 などについて研究すれば、オイリュトミーのなかに重要な治療法(2)を探求できる。

(2)ルドルフ・シュタイナー「オイリュトミー療法(講習)」(GA315)参照。このオイリュトミー療法の講習は、この「人智学と医学」の1年後の、医師を受講者とした講習「治療のための人智学的観点」(GA313 1921年4月12日~18日)の期間中に行なわれた。

med-5.gif

1-17  「治療のための人智学的観点」

 シリカの生命活動は、四肢での血液やリンパ液などの液体での、自我による統一(混合)活動と同じ人体の活動だが、自我の力よりは強くなく、自我の統一活動とは、反対に働く(上図参照、黄金線)。このシリカの生命活動は、人体を細分化し、秩序づけ、末端まで放射状に拡がる。

 だから、人体は、(血液のなかの)自我により四肢から区別なく統合され、シリカにより頭部から細分化され、互いに異なった働きをもつ器官とされる。

 すなわち、人体を形成する力は、個性的な器官をつくる為に、頭部において予め細分化されている。この力は、頭部に独特なシリカの活動により、心臓、肝臓などの個性的な器官が秩序正しく働くように刺激されている。





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Last updated  2017年03月10日 22時43分43秒
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