シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2017年05月31日
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カテゴリ: 神秘体験空間
何度も言うが、私は特定の宗教団体に属してはいないし、特定の宗教団体は全て解散すべきだと思っている。

 カトリックでも、仏教でも、なんでもかんでも宗教団体は即座に解散すべきで、十戒の「主たる神以外を信じるな」に十分に違反しているので、宗教団体は皆観光ツアーならぬ観闇ツアー後堕落集団として地獄に落ちて行くだろう。

 というのも、地球紀というのは、自我を確立することが人類の進化目的であるからで、主たる神とは、自我の事で、どんな個人も、個人以外の存在を信じるべきではないからである。

 早い話、自分教というのを確立する以外に宗教はあり得ないので、各個人が独自の信仰をもたねばならず、宗教団体などはあり得ないはずである。

 こんな事を書くと頭がおかしいのでは? と思われるかもしれないが、十分頭がおかしいと思われても構わない。頭がおかしいことに気づかないアホバカ政権よりは遥かにマシだからである。

 さて、インチキアホバカ政権はその悪事ぶりが顔に現れてきたようで、まるで悪魔の形相となってきていることを、お馴染みのサイトから紹介する。類は友を呼ぶというか、悪魔が悪魔を引き寄せてどんどん地獄へと陥れていきます。本人たちには自覚がないようです。

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公邸には怨霊が棲み憑いてる
http://my.shadowcity.jp/2017/05/post-11190.html



 学校法人「加計学園」(岡山市)の獣医学部新設計画をめぐり、安倍晋三首相への忖度(そんたく)が働いたかどうかが焦点となっている。行政が首相側の意向を過度に推し量り、計画に特別な便宜が図られたというのが野党の主張だ。「森友学園」(大阪市)に国有地が格安で売却された問題と同じ構図とも言える。

 文部科学省の前川喜平前事務次官は25日の記者会見で、内閣府が早期開学を「総理のご意向」として文科省に求めたとする文書について、「確実に存在していた」と証言した。

 加計は「アベシンゾーには年間1億円使っている」と普段から口にしていたらしい。毎日ゴルフやったって、そんな額にはなりませんねw 

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 このアホバカたちは悪事は隠せばなくなるとでも思っているようですが、例えば、口封じしても、死者は霊界から悪霊を通じて犯人に働きかけます。

 守護霊もそれが犯人の改心につながれば働きかけを支援します。犯人が地獄に堕ちてしまっては元も子もないからです。悪事がばれて改心しない限り、悪事の重さに応じて地獄に堕ちていきます。悪事が地獄への重しとなるのです。 

 このような話をアホバカは笑うでしょう。そして悪事を続けるでしょう。

 しかし、アホバカに笑われれば真実なのである。

 老子にも、アホバカに笑われる事こそ真実である、という出典があったようにも思うからである。

 巷では最近、幸福のバカ学というのが流行り病のように伝播し、感染しているバカがいるが、そのような感染症にも、自分教を確立し、免疫を強化すれば罹ることはない。

 このような洗脳に外から何を言っても無駄で、外から言うのに従うのもまた洗脳なので、とにかく自分でおかしいと気づくのが重要なのである。色々な感染症のように似非宗教があるのも、結局は自分で気づくことにつながればいいので、必要悪ともいえる。



 しかし、世の中で悪いといわれることは大抵が自分にも悪いので、悪いのに手を出すのは非常に危険ではある。だから、悪いからやってみろという勧誘はほとんどなく、本当は悪いのだが、良いからやってみろと洗脳するわけである。騙されたと思ってやってみなさいと、騙されるのである。

 さて、人智学を学んでわかったことの、いちばんの大きな収穫は、人間は死なない事である。堕天使悪魔が人類を支配するために、唯物論を流行らせ、人間は肉体の存在と洗脳されているが、霊魂の存在なのである。

 だからして、死とは肉体を失うだけの話なのだが、霊魂は肉体の存在となることで、1つの個人という意識に目覚めるので、肉体を失うと同時に個人の意識も薄れていく事になる。

 死後まもなく、走馬灯のように、個人としての自分が他者に対してしてきた事を振り返り、人生の反省をするという。仏教では49日と説かれているのは、「死苦」の語呂合わせのように感じる。

 というのも、とびきりの善人でもない限りは、どんな人も他者に対して迷惑をかけてきたわけで、他者になりかわり、他者の視点で自分の行為を見つめ直すから、苦しみのように感じるわけである。



 つまり、どんな人でも、人生に後悔が生じてくるので、苦しいわけで、それがいつまでも執着心として残ると、死んでも死にきれないわけである。特に自殺なんかは、自分の作品が出来上がらないうちにせっかくつくりはじめたばかりなのに、未完成でやめてしまうのと同じで、とりかえしのつかないことをしたと思うわけである。

 だから人間の霊魂は様々な個人を体験し、人類のうちの個人として人類全体に貢献する能力を開発しながら、霊性を高めていくわけである。

 上には上がいて、下にも下がいるのは、オカルトでいわれているホワイトロッジが人類の進化計画を策定している事でわかる。シュタイナーによると、地球の前の月紀に、地球の進化計画が策定され、それがコンパクトにされて、地球の素粒子になっている、との事である。

 だから素粒子を解き明かす事は地球の進化計画を解き明かす事でもあるが、地球紀の現在でも、将来予定されている木星紀の進化計画が日々策定され、改変されているので、それを解き明かすのはほとんど不可能で困難なのである。

 そもそもそれを解き明かすような能力があれば、既に人類を超えてしまっているので、人類には生まれてこないわけである。

 さて、そのような話を以下に紹介する。

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 ルドルフ・シュタイナー
 「キリスト存在について」 その1

 佐々木義之 訳 改変
 デュッセルドルフ 1909年4月18日夜

*GA110『高次の霊と物質界での働き』第10講



 今回のテーマには、前回の講義の最後に出された質問とは別に、つけ加える事が沢山あるが、宇宙に関する考察を10回の講義で行うのは不可能である。だから、主な問題を取り扱う前に、この考察の結論に関する幾つかの事柄を述べる。

 最初に述べるのは、現代的な意識には実際に理解困難で、ほとんど理解不能なため、気づいておくに越したことはない、というような事柄である。

 つまり、太陽系などの惑星系は、一度現れたのに、どうして再び消え去るのか、という質問に関する事柄である。

 霊視から、惑星系の進化過程がどのように生じるのか、が明らかになる。あらゆる存在は、より高次の段階へと進化するが、惑星系が進化するには、以前の活動の場から離れて行く必要がある。

 つまり、他の場所では獲得できなかった能力を、ある一定の期間にわたって発展させるために来ていた、それまでの活動の場から離れる必要がある。

 宇宙の進化過程の、古代レムリア期と呼ばれる時代が近づいたとき、人類はその進化過程で、土星、太陽、月の進化段階を通じて達成できた能力を要約して、反復する段階にまで来ていた。

 その後、人類は地球進化紀の環境の中に現れたが、それは更なる進化のために用意されていた、1つの過程なのである。人類は、レムリア期、アトランティス期を通過し、現代へと進化して来たが、地上の受肉から受肉へと移行しながら、未来に向かって更に進化して行くだろう。

 そして、しばらくした後、ついには人間は再び地球を離れなければならなくなるだろう。そのとき、地球には人間に与えるべき能力が何もなくなっているが、それは更なる進化の可能性を提供できなくなっている、ということである。

 人間が去った後の地球は荒涼とした廃墟となっているのは想像できるだろう。それは住民に見捨てられた街と比べられるかも知れない。そのような街がほんのわずかな時間経過しただけで、どのようになるかを、つまり、いかにそれが次第に土の塊になるかを知っている。

 自然の力に曝された古代の都市を見ると、その風化のイメージが得られる。実際、今日でも、同じ状況だが、地球の未来には当てはまらない。

 次のような観察が、将来の地球がどうなるのか?という疑問についての答えを導くだろう。レオナルドダビンチやラファエロのような人物、もしくは他分野の、他の偉大な天才たちの地球の進化に対する意義とは何なのか?

 ラファエロやミケランジェロが素晴らしい芸術作品を作り上げた事、そして、今日に至るまで何千、何万という人々に鑑賞されているが、そのことが地球の進化にとって、どのような意味があるのか? 

 ミラノにあるレオナルドの「最後の晩餐」を見て、悲しみを覚える人もいる、そして、この素晴らしい作品は、あとどのくらいもつのだろう、と考えたかも知れない。

 ゲーテは、最初のイタリア旅行で、まだこの作品が十分に輝きを放っている状態で眺めたが、現代(1909年)では、もはや、そのような状態では見れない。

 ゲーテの時代から今日に至るまで、外界の物質環境の中に置かれた、この芸術作品の宿命とは、現代人には、もはや当時と同じ状態でみれないという、悲しみの感情を呼び起こす。

 ゲーテの時代から現代までの時間と、今から同じくらいの時間が経った後では、この作品はもはや存在していないかもしれない。人間が地上の物質に刻印し、創造した全てについても同じことが言える。

 地球や、人間の思考の産物についても同じことが言える。人間が、より高次の世界へと上昇し、霊化される、未来について想像してみる。

 現在の言葉の意味での思考(科学的思考ではない、というのも、三、四百年もすればそれは無意味となるからである)、つまり、脳により作り出され、地上で意味をなす人間の思考は、より高次の世界では何の意味ももたない。

 人間の思考は、地上だけで意味を持つ。けれども、人間は地球を去らなければならない。では、そのとき、何百年、或いは何千年にもわたって、地上で作り上げてきたものはどうなるのか?

 霊視からまず考察すべきなのは、個人の進化である。レオナルドダビンチは、彼が達成した芸術作品により、更なる霊の高みへと上昇した。芸術作品が、彼の精神を向上させた。

 人類は次のように自分に問うべきである。

 偉大なる創造者たちが地球の物質の中に刻み込んだ偉大な思想や意欲は、地球の未来にとってどのような意義があるのか?

 未来は地球を灰燼に帰し、土から、男女が作りだした全ては、地球という惑星がなくなったとき、消えてしまうのか? 

 いま、ケルンの大聖堂を賛嘆しているが、それほど遠くない将来、1つの石が別の石の上に残っているようなことはないだろう。

 このような風化により、人類がケルンの大聖堂を石の中に体現した事は地球全体にとって無意味となるのだろうか?

 いまは、人間が地球から持ち去るものではなく、いなくなった後の地球について考えている。惑星とは、実際、その進化過程で次第に小さくなっていく。惑星は縮んでいく。

 それは惑星の物質性の宿命なのだが、それで話が終わるわけではない。その宿命は、肉眼とその道具によって観察できる表面に過ぎない。物質として観察できるものを超えて行く進化がある。

 改めて今、物質を超えていく進化について考察するが、この考察は、現代人には理解困難な、ほとんど理解不能だと先に述べた事柄なのである。地球は絶えず縮小している。物質は周囲から中心に向かって押し潰されている。

 (重力でわかる。ニュートンが万有引力の法則として示した。)

 さて、当然のことだが、覚醒意識に基づけば、力の保存測があるのがわかる。同じように覚醒意識に基づいて、神秘家に知られている別の事実、つまり、物質は中心へと次第に圧縮され、そして、何と、中心点で消滅している、という事実に気づく。

 ある物質が次第に中心へと圧縮され、そこで消滅するのを想像してみる。別の側面に押し出されるのではなく、中心点で、それは実際に無と消え去るのである! 

 言い換えれば、地球の物質面が中心点へと圧縮されているために、最終的には中心へと消えていく。けれども、それで話は終わらない。中心で消えていく分だけ、中心とは正反対の円周(エーテル)で現れてくる。中心とは逆の面に再び現れる。

 物質は空間の一点、つまり中心点で消え去り、また別の場、つまり中心点とは真逆の円周(エーテル)に再び現れる。中心で消滅するものは全て円周(エーテル)で再び生成する。空間の全作用が、物質に集中するように、惑星上の存在たちは、全ての働きを、物質に刻印した。

 当然、物質は現在の状態ではなく、惑星の進化過程に沿った状態で、再び存在するようになるだろう。だから、ケルンの大聖堂の物質の破片が、中心点で消滅しても、(次の木星紀の)別の面から再び現れて来るのを見るだろう。惑星上で成し遂げられた事柄は何1つ、絶対に失われることはない。失われた物質性は、反対側の霊性から戻ってくる。

 土星紀から続く惑星進化紀の中心点となる地球へと、地球進化の最初期から人類が成し遂げてきた事柄全ては、中心点の地球から、太陽系の外側の、天体を超えた外周(エーテル)へと移された。

 太古の叡智では、この移行を、「石化した天国」と呼んだ。地球紀以前の進化に属した存在たちの行いは、天体を超えた外周(エーテル)に堆積している。それらは新しい人類の創造のための基盤を構成する。

 (映画「2001年宇宙の旅」のモノリスを彷彿とさせる。アカシャ年代記のことかも。)

 既に述べたように、以上のような事柄を、現代人の知性で理解するのは困難だが、それは物質面だけの考察に慣れきっているからである。物質が三次元空間中の一点で消滅し、別の次元を通過した後、どこか別の空間から、再び戻ってくるのを認めるのに、現代人は慣れていない。

 三次元空間の文脈で考えるのに留まる限り、この事実は把握できない。

 というのも、この現象は三次元空間を超越しているからである。だから、別の空間から再び三次元空間に入ってくるまで見れない。その間、それは別次元に存在している。この事実を理解しておくべきである。

 というのも、宇宙の創造は、この上なく複雑で互いに関係し合っているからである。ある場所にあるものが、三次元空間中の全く別の場所にある別のものと複雑な形で結びついている。

  ★         ★         ★

 長いので、次回に続く。

 悪魔の唯物論に染まっている人には天国も地獄も空想に思うでしょうが、ではなぜ人の心に安楽と恐怖があるのでしょうか?

 安楽は天国の経験から、恐怖は地獄の経験から生まれたと考えてみたらどうでしょう?

 この世で安楽を味わうとき、それはかつての天国の経験なのです。

 この世で恐怖を味わうとき、それはかつての地獄の経験なのです。

 この世では、その経験の氷山の一角しか現れませんが、それだけで十分だと思うわけです。だから地獄に堕ちることを安易に考えてはいけません。





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Last updated  2017年05月31日 21時16分57秒
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