シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2017年07月31日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
シュタイナー教育についてはほとんど紹介していないのだが、シュタイナー絡みで、カルトの連呼で毎回同じような罵詈雑言の頓珍漢なコメントが書きこまれるので、教育について考えてみるのも一興かもしれない。

 シュタイナー教育を一言でいうと、考えさせる教育といえる。西洋の教育も、リベラルアーツが基本となっているように、自由に考えさせる教育といってよいだろう。

 我思う故に我在り、というように、考え方、つまり哲学する姿勢さえ身に着ければ、自分で好きなように、考えを発展させていくことができる。その基本を、霊魂からみて、学ばせるのである。

 自己教育の端緒を切り開くのがシュタイナー教育である。

 だから、シュタイナー教育をする教師は霊能者でなければ偽物であるので、シュタイナー教育というのは、シュタイナーが考えたプログラムはあるが、それを真似てやるのでは物真似でしかないから、多数を教えるのは、経済的にも、実際にはほとんど不可能である。

 人智学については、霊能力を獲得するための学問なので、これは可能である。だからシュタイナーは、まず人智学を学んで霊能力を獲得してから、シュタイナー教育の教師となり、人智学が盛んに学ばれ、教師が増えることで、次世代の人類を育てる理想を描いていたようである。

 対照的に、この国の教育は考えさせずに、模範解答を覚えさせる教育といえる。詰め込み暗記教育がその典型といえるのだが、これは教育というよりも、調教という感じがしなくもない。この調教という感じが、この国の教育に関わる連中が述べている件である。

 シュタイナーも言及しているのだが、この暗記教育の源流は、古代中国の科挙制度にあり、またその源流は古代アトランティス時代の悟性が未発達な没落した民族の末裔からくるらしい。

 シュタイナーがこの国の一部に嫌われるのも、古代中国の文化からは、次世代を担う文化は出てこないとはっきりといっているところで、この発言がアジア蔑視と差別主義者に受け取られ、妬まれている由縁でもある。



 「ゆとり教育」なるものが、この国で盛んに言われ出したのも、詰め込み暗記教育の反動だろうが、詰め込み暗記の量を減らしただけで、相変わらず、考えさせる教育は行われていない。

 実は詰め込み暗記教育というのは歴史が浅く、恐らく明治時代の歴史教育から始まったものと考えられる。欧米に追い付け追い越せの欧化政策で、夏目漱石などは嘆いていたのだが、理解を飛ばして、とにかく真似るのが先決だと、制度を欧州から輸入してきて、看板だけ挿げ替えたのが、明治政府の大日本帝国だったのである。

 だから西欧からは日本は野蛮として嫌われた。しかし、陰で偽ユダヤが利用したので、国際舞台に立てたのである。その構図は今も同じである。偽ユダヤにしてみれば、利用され捨てられるのが日本の役割らしい。

 というのは、偽ユダヤが陰から操って、考えさせない教育、つまり調教をしているからである。連中はまず、その地位に似合わないポストを与える。ポストを与えられたものはバカだから、言いなりである。

 それはアホバカ政権を見れば明らかである。この国の富がいつの間にやら偽ユダヤのものになっていることで明らかである。国産の有力企業が没落し、気が付くと、偽ユダヤの息のかかった企業ばかりになっている、という按配である。それは先の大戦でも明らかである。

 偽ユダヤは騙すゴミを使って調教する。アホバカな総理を使い、国益を強奪する。日本の援助で反日活動が行われ、日本の財産が奪われ、北のミサイルが日本海に落ちる。

 つまり、もりかけを見ればわかるが、アホバカ総理を通じて、国民の財産が奪われ、北のミサイルなどや、中国の軍事などの反日活動や、返してもらえない北方領土を餌にロシアに吸い上げられきたのである。

 また、偽ユダヤの企業利益のために、株価維持のために、国民の年金が搾取されてきたのである。

 全ては、この国の考えない教育、騙すゴミの政権癒着の提灯フェーク記事による洗脳である。

 しかし、そろそろ、この国の住人も自分で考え、自分で答えを出す自己教育を始め出した。

 というわけで、話題は変わるが、以前紹介した人智学的医術の続きを紹介する。



 ルドルフ・シュタイナー
 「精神科学と医学」 第三講
 1920年 3月23日 ドルナハ

 (以下できるだけわかりやすく改訳しました。) 

 提出して貰った質問については、この連続講義を進めていくなかで答えていきたい。勿論、なかには重複もあるだろうが、質問が少なくともある程度集まっている必要がある。



 既に、前回、最初の考察に必要な、骨-筋肉のつくりと、そのなかのエーテル体の働きを述べた。そして、少なくとも、病気の進行についての詳細な観察と治療法獲得に進むために、1つの実例を挙げ、最適な(霊的な)観察に結びつけるために、心臓を巡る循環から始めた。

 さて、今回は、完全な再生(治療)の可能性とその本質について、霊的観察から得られる見解について、基本的な説明を、前置きとして少々述べる。専門的な質問については、引き続き考察のなかで立ち入っていくが、まず、この基礎的な説明を優先する。

 そもそも今日の医学研究を考察すると、少なくとも大筋からわかるのは、病理学と並んで治療学が現れてはいるが、両者の関係を明確に見通せていない、ところにある。

 とりわけ治療については、今日往々にして、経験的手法の独壇場となっている。合理性、もしくは理念に基づいて治療することで、実際の原理をうちたてるような治療法はほとんど見られない。

 周知のように、19世紀の医学からの、このような思考法の欠陥は、医学のニヒリズム派を生んだ。このニヒリズム派は、病気が診断できるだけで満足し、治療理念(ラツィオ)=治癒原理については、全般的に懐疑的態度をとった。

 さて、医療について正当な要求をするなら、やはり、そもそも診断した時点で治療法が明示できなければならない。病理学と治療学との間に外見(肉体)的な関係を見つけるだけではいけない。病気の本質から、治療法が獲得できるように診断できなければならない。

 以上は当然ながら、次のような疑問と関係してくる。

 「治療法や治癒原理は、そもそも自然の活動全体のなかに、どのように存在するのか?」

 パラケルススの大変興味深い箴言、『医者は自然を通じて試行していかなければならない』(1)は非常によく引用されるが、このような箴言の本当の意味を、近年のパラケルススに関する文献が、充分に心得ているとはいえない。

 このような箴言の意味を理解できなくても、自然から、隠された治療法を学びとる道を探究しなければならない。確かに、治療法を講じなくてはならない、病気の活動が、自然のなかにあれば、このような探究もできる。

 しかし、病気の活動とは、損傷が既にある活動で、特異な活動なので、自然が講じる治療法について、自然のなかの正常な活動と、区別するために観察できなくてはならない。

 すると、次のような疑問が起こる。

 「自然が講じる治療法について、何らかの見解を得る手懸かりとして、正常な活動を、自然のなかに、どうやって観察すればよいのか?」

 すぐに気づくが、以上の疑問は些か複雑な問題と関係する。病気の活動が、自然の治療法により、既に正常な活動としてあるなら、当然だが、正常な活動から、治療法を観察できる。

 すると、自然を通じて試行され、自然を通じて治療されるような、病気の活動が、自然のなかに存在しているのか? という疑問が生じてくる。

 この疑問については勿論、この連続講義が進むにつれ、いずれ完全な答えが得られるだろうが、今回は、少しだけ近づいてみる。

 けれども、即座に言えるのは、以上のような道(アプローチ)は、今日通用しているような自然科学に基づいた医学が主流を占めることで、覆われ隠されてしまっている、ということである。現在のような前提で、上述したような道を歩むのは非常に困難である。

 というのも、大変奇妙にも、他ならぬ19世紀での唯物論的傾向が、骨や筋肉や心臓に続いて理解すべき重要な組織、すなわち神経を、根本から、その機能において完全に誤解する事態を招いてしまったからである。

 いわゆる、霊魂の全性質を神経に負わせ、肉体に生じている霊魂の働きを、神経のなかに見つけられる並行現象だけで解明するのが、次第に一般的になってきた。

 私(シュタイナー)は、このような自然観察に対して、「魂の謎について」(2;1917:GA21)という著書のなかで異議を唱えた。この著書で、第一に示した事は、神経と関係するのは、表象(イメージ)による思考のみであり、感情は、(神経を通じて)間接ではなく、胸部の律動現象と直接関係する、ということである。

 思考は神経に直接関係するが、感情は神経ではなく、律動現象、つまり主に心臓(の鼓動)と関係する。

 今日の自然科学者は通常、感情は律動現象とは直接関係なく、神経が律動現象を中継し、つまり、感情も、神経によって営まれる、と考える。

 更に、意志も同様に、(神経による)間接ではなく、新陳代謝と直接関係する、のを示そうとした。つまり意志についても、神経は知覚以外は何もできない。神経を通じて意志が実行されるのではなく、意志を通じて、肉体に起こる現象を、神経が知覚するのである。

 以上全ては、生物学上の各々それに応じた事例により完璧に証明できるが、霊魂の働きを、神経だけに当てはめた見解では証明できない。

 例えば、いわゆる運動神経と感覚神経を切断して、両者を繋ぎ合わせ、そこから、また均一の神経が生じる、という事実があるが、感覚神経と運動神経がある、という現代の見解が、この事実を、理性により、どのように関係づけるのか、甚だ理解に苦しむ。

 感覚神経や運動神経というのは、実際は存在せず、運動神経と呼んでいる神経は、人間の「意志」が、四肢の新陳代謝に行なった現象を、知覚する感覚神経に他ならない。

 つまり、運動神経とは実際は、体内を知覚する感覚神経なのである。それに対して、感覚神経と呼んでいる神経は、外界を知覚する。

 以上のような、事実を明確に見据えることによりはじめて正当に評価できる知見は、医学にとっても重要な意味を持つ。というのも、前回、結核の事例を得る為に出発点とした病気の諸症状についても、感覚神経と運動神経の区別で済ませるのは実際困難だからである。

 従って、賢明な自然観察者は、どの神経も、肉体周辺から内部の中枢へ、或いはその逆へと伝わるだけでなく、周辺から中心へ、もしくは中心から周辺へも伝わる、のを既に受け容れている。

 同様に、どの運動神経にも正逆の2つの回路がある。すなわち、神経から、例えば「ヒステリー」等を説明しようとすると、互いに反対に流れる2つの回路を容認しなくてはならない。

 つまり、事実を正しくみれば、神経についての従来の仮説と完全に矛盾し、以上の2つの回路のような神経の特性を容認しなくてはならない。例えば「ヒステリー」に生じている異変のように、肉体上の神経の働きについて(2つの回路のように)知るべき事実が、唯物(通例の)的思考により塞がれてしまった。

 前回、例えば、結核で生じ、神経により知覚できるヒステリーを、新陳代謝の異変によって特徴づけた。このような背後の事実に注意すべきなのに、神経の伝播のなかにだけ、「ヒステリー」を探究し、人体上下の相互作用の異変の代わりに、神経の異常伝播に置き換えてしまった。

 以上から、別の観点が与えられた。とはいえ、「ヒステリー」の遠因にはやはり霊魂にも原因があるのは否定できない。心痛、失望感、実現可能、もしくは不可能な欲望も含めて何らかの興奮が、「ヒステリー」の表に現れる症状のなかに入り込んでいる。

 神経以外の肉体への働きから、霊魂を切り離し、神経だけに霊魂の働き全てを負わせている状況にある。霊魂の全働きを神経にだけ負わせる見解は、第1に、事実に裏付けされず、第2に、霊魂の働きを肉体からアプローチする手懸かりを何ら与えない。

 霊魂の働きを、もっぱら神経にのみ帰着させ、霊魂を含めた人体全体を考えない。せいぜい運動神経などを考え出して、その神経の機能や伝播などの異常を想定することで、人体全体にアプローチするのが関の山だが、まったく仮説の域を出ない。

 以上の仮説は、暗示と催眠などに罹った患者について、いかに思慮深い人と雖も、結局、誤謬の道に導いてしまう。少し前のことだが、「ヒステリー」の婦人が、思慮深い医師たちを誤謬に導き、欺いた出来事があった。

 暗示や催眠などに罹った患者が医師の前で披露する表面的な態度に気をとられて、体内深くで生じている異変を捉えられなかった。

 この出来事と同じで(次のケースは「ヒステリー」の婦人ではなく、「ヒステリー」の男性だが)、思慮深いシュライヒ(3)のような医師が誤謬に陥らざるを得なかった顛末を述べるのも、参考になるだろう。

 シュライヒのもとに、インクのペンで指を刺してしまった「ヒステリー」男性がやってきて、「血液が毒されてしまうから、明日の夜には死んでしまうので、腕を切断してくれ」、と言った。

 シュライヒは外科医でもあったが、無論、その患者の腕を切断などできなかった。シュライヒは、この男性を落ち着かせ、傷口を消毒するなど必要な応急処置を施しただけで、明日の夜には血液が毒されてしまう、などという言い分に従って、この男性の腕を切断などできなかった。

 すると、この「ヒステリー」患者は、また別の権威のところに行ったが、当然、彼の腕は切断してもらえなかった。しかし、シュライヒは、いささか不吉なものを感じたので、朝になって、その患者の事を問い合わせたら、本当にその夜に死んでいた。そこで、シュライヒは、自己暗示による死、と診断を下した。

 自己暗示による死、という診断は、はなはだ容易である。本当の死因が洞察できたら、そのような診断はあり得ない。

 そのような診断は、原因と結果を根本的に混同している。勿論、血液が毒されるなどはなく(解剖により確認された)、医師たちには明らかになっていない死因があったはずで、正しく洞察できれば、紛れもなく、体内深くにあった死因をみつけだせた。

 この体内深くに隠れた死因が、死に至る数日前から、この人物をぎこちなく不安定にさせ、インクのペンで自分の指を突き刺す、というようなトラブルを誘発した。このトラブルは、ぎこちなくなった結果生じたもの、と解せる。

 そして、病気の影響で、この患者の振る舞いが不安定になる一方で、代わりに、透視力が幾分高められ、夜になってやってくる自らの死を予見(霊視)した。

 この患者の死は、インクのペンで指を突き刺した行為とは全く関係なく、既に体内にあった死因による。誤診は、体内にあった死因を見逃し、もっぱら外(表面)的な関係から死を捉えた事にある。

 だから、『自己暗示による死』と診断するのは論外である。この男性の思い込みや行為などは、死因とは何の関係もなく、死因はもっと深く隠れたところにあった。

 ともあれ患者は死を予見し、全ての出来事を、この死の予見に組み入れて解釈した。この事例から、自然の複雑な事象についても適切な判断を得るなら、いかに慎重でなければならないか、がわかる。以上のように、外見からは判断できない。

 とはいえ、次のような疑問が思い浮かぶ。

 「肉体へのわずかな影響を知覚できるのか?」

 さて、正常な状態では、霊魂の働きから、肉体には3種類の影響がある。第1に感覚を通じての影響で、これは神経のなかで更に継続される。第2に、律動、すなわち呼吸と循環への影響、そして第3に新陳代謝への影響の、以上の3つである。

 以上の3つの正常な影響を与えるには、肉体に生じた異変を克服するために、何らかの方法で、外界から薬として取ってこなければならないが、それは霊魂が肉体に与える影響と類似するはずである。そして、外界が与える影響が最も顕著に現れるのは、神経である。

 従って、次のような疑問が生じる。

 「肉体と、外の自然の活動、もしくは治療に用いる薬などとの、この両者の間に、どのような合理的な関係が考えられるのか?」

 薬を取ってくる外の自然と、肉体との相互関係がどのようなものか、について、1つの見解を獲得する必要がある。というのも、水で消毒する場合でさえ、外の自然の活動を用いるからである。

 治療に用いるには、外の自然から、肉体に適合させる必要があり、外の自然の活動と、肉体との関係がどのようなのか、について、合理的な見解を手に入れなければならない。 

 ともかく、以上の課題から、現在通用している医学という学問体系に代わって、純粋に知的体系として纏りのあるテーマに辿り着く。

 医学生は通常まず準備段階として、自然科学の講義を聴く。それから、これを基礎知識にして、一般病理学、専門病理学、そして一般治療学等を学ぶが、いざ臨床医学の講義が始まると、治療などが、外の自然の進行と、いかなる関係にあるか、については、もはやほとんど学ばない。

 以上から、今日の医学教育を受けてきた医師達は、外界についての認識に欠陥がある、と感じるだけでなく、病気に実際に介入し、外界のものを用いる際に、不確かさの感情が沸き起こり、心のなかに強く刻み込まれる。

 肉体のなかで生じている薬の影響を、認識している事はほとんど稀である。だから、この事から、医学という学問の改革の必要性を指摘できる。

 さて、今回はまず、外の自然の、ある活動を手懸かりに、この活動が、多くの点において人体の活動と、いかに異なっているか、を明確にすることから始めたい。

 まず、下等生物や植物で観察できる活動から始めて、更に、外にあるもの一般、つまり植物、動物、とりわけ鉱物から取り出される、薬により引き起こされる、肉体の活動への道を見つけたい。

 けれども、以上のような純粋に、鉱物の特徴付けにアプローチすることは、基本的に、自然科学的な表象(イメージ)から出発し、更に、例えば砒素や鉛といった薬でない物質を肉体のなかに取り入れる際に生じる影響を認識していくときにはじめて可能になる。

 まず指摘すべきことは、外の自然での成長などの変化が、人体とは全く異なっている、という事である。

 人体の成長の原理、生命の原理を何らかの方法で考えないわけにはいかず、また同時に外の自然の成長の原理も考えなければならない。しかし、根本的に意味を持つのは、その両者に生じてくる差異である。

 例えば、非常に身近な、通称ニセアカシアと呼ばれる、ロビニア・プセウドアカシアを観察してみる。このニセアカシアの葉を葉柄のところで切り取ると、興味深いことに、葉柄が多少変化し、瘤状になった葉柄が、葉の機能を受け継ぐようになる。

 とりあえず仮説として、再生力のようなものが強く働いている。この再生力は、植物全体のなかに潜み、植物が、特定の機能、もしくは正常な器官が使えないときに発現してくる力といえる。

 以上のような直線的に成長する植物で、はっきりと現れてくる再生力の名残りというか、そのような力が存在している、ということは、人間でも、一方の腕、もしくは手の機能が妨げられたときに、他方の腕、もしくは手が、前よりも力強く成長し、物質的にも大きくなる、などといった事例で証明できる。

 このような事例を互いに結びつける必要がある。というのも、これが治療法を獲得する為の認識に至る道だからである。

 さて、外の自然には事例が広範囲にわたっている。例えば次のような事例が観察できる。山の斜面には、植物が生えている。このような植物は、葉をつくる代わりに特別な葉柄を発達させている。

 葉が生えずに、葉柄が湾曲して、全体を支える器官になる。葉は萎縮し(下図)、葉柄が湾曲して全体を支える器官となる。山の斜面に生える植物は、変形した葉柄を備え、葉が萎縮した植物である。植物が、環境に制限された生育条件に広範囲に適応できるのは、植物に働いている再生力の存在を示している。さて、この再生力は、特に下等生物では究めて興味深い形で現れてくる。

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 例えば、原腸胚段階まで進んだ胚を取りあげてみる。この原腸胚(原腸胚、嚢胚「卵発生における胞胚期の次の段階」)を真ん中で切り離すと、切り離された各々の断片は再び丸くなり、それぞれ前腸、中腸、後腸の3つをつくる能力を養成する。

 つまり、原腸胚を切断すると、2つの断片はそれぞれ切断されていない、前の全体と同じ成長を(代替的に)するのがわかる。この試みは、下等生物のミミズにまで広げられる。下等生物の体の一部を切り取ると、その一部が新たに再生される。

 自らの再生力から、切り取られた組織と同じ組織が元通りに得られる。このような再生力を、事例に即して指摘する必要がある。

 なんらかの生命力を想定し、仮説として指摘するのではなく、事例に即して、再生力=生命力を指摘する必要がある。というのも、実際に生じている事実を正確に見て、正しく追求するなら、次のようなことがわかる。例えば、幼少段階のカエルの組織のどこかを切り取ると、切り取られた組織に、新しい組織が生じてくる。

 唯物論的な考え方では、次のように言うだろう。

 「傷口の弾力によって、新たに再生してくる。」

 しかし、そのようなことはあり得ない。というのも、もし、ある組織を切断して、その傷口の弾力により新しい組織が生じるのなら、この傷口に生じてくる組織は、すぐ近くの直接隣り合う組織でないとおかしいからである。

 実際、そのようなことはなく、オタマジャクシの体の一部を切り取ると、尾や頭でも、他の生物では触覚糸でも実際に切り取られた組織そのものが出現してくる。

 (トカゲの尻尾が御馴染みの例)。

 つまり、傷口に接する組織ではなく、前と同じ組織が生じてくる。だから、傷口の弾力により生じるのではなく、それは不可能である。この再生には、弾力ではなく、隠れた再生力=生命力がなんらかの形で参加している、と考えないと辻褄が合わない。

 以上のように下等生物に生じている再生を実際に追求できる。今日まで文献に記載された、あらゆる経験に、このような再生を拡張し、どのように追求していくか、という道を提示したわけだが、この道を通ってしか、このような再生についての見解には辿り着けないことが確認できる。

 人間では、このような再生はあり得ない、という反論があるだろう。実際、指や腕が切断されても、補充できるなら、とても素晴らしい。でも、それは不可能である。そこで、次のような疑問が生じる。

 この下等生物の傷口の再生に顕著に現れている再生力=生命力は、人体では、一体どうなっているのか?

 この再生力は人間では失われてしまったのか、そもそも人間には全く存在しないのか?

 事例に即して自然を観察し、人間の精神と物質について、自然との関係に即した見解に到達するには、このような道を通って行くしかない。つまり、このような再生力は、人間では物質体=肉体の諸器官からは、すっかり取り出され、霊魂のなかにだけ存在している。

 つまり、人間は、このような再生力を、肉体の諸器官から取り出し、霊魂のなかに、特別な形で所有している。人間は、この再生力を、霊-魂の機能のなかにもっている。

 人間が考えたり、感じたりするとき、このような下等生物や植物に働いている再生力を用いている。物質から引き出した再生力を用いて、思考し、感じ、意志しないなら、人間は考えることなど、もはやできないだろう。

 よって、下等生物を正しく観察できたなら、次のような結論に至る。

 「下等生物の内部に潜む再生力と同じ力を、人間ももっている。しかし、人間は、この再生力を、肉体の諸器官から取り出し、霊魂にもっている。そして、外界の下等生物では再生力として働いている、この同じ力を用いて、人間は思考し、感じ、意志している。」

 今日の心理学の用語ではなく、本物の心理学をつくるなら、思考、感情、意志の活動を、根本的に次のように追求しなくてはならない。

 下等生物では、組織の再生に現れる再生力を、高等生物では、思考、感情、意志の、霊-魂の活動のなかに明確に示していかねばならない。

 肉体ではもはや不可能な再生を、霊魂(精神)の働きのなかで、いかに行っているか、一寸考えてみる。忘れてしまった体験を、霊魂を働かせることで思い出として再現できる。下等生物の再生力が、直接隣り合った(肉体の)組織ではなく、隠れた組織(エーテル体)から現れる、のとよく似ている。

 霊魂(精神)での体験と、外界の自然の諸力や原理との間には、完全な並行現象が成立している。つまり、霊界と物質界には完全な並行現象が成立している。この並行現象に注意を払う必要がある。

 (並行宇宙論を先取りした話にみえる。)

 そして、外界の根本的な再生力=治癒原理は、人間が、肉体から霊魂のなかに取り出した結果、人体では、もはや肉体再生の基礎にはなっていない、ということを示さなければならない。

 とはいっても、再生力を、肉体の諸器官から同じ割合で取り出したわけではなく、それぞれ異なっている。いま展開したような予備知識を身に着けている場合にのみ、人体に相応しい方法でアプローチできる。

 というのも、神経系を観察すれば、次のような特徴に気づくからである。つまり、神経細胞、或いは神経組織は原始に生まれたもので、比較的初期の進化段階にとどまり、それほど進化した細胞や組織ではない、ということである。

 従って、このような神経細胞は、原始の特徴をもち、別の細胞との比較から、全く異なる描像を示す。というのも、例えば、神経細胞は、増殖力を持たないからである。神経細胞は、血液の細胞と同じく、形成されると分割不能で、増殖できない。

 つまり、人間以外の(動植物)細胞がもつ再生能=増殖能が、比較的、初期の段階に神経細胞から奪われている。この増殖能が取り去られている。神経細胞は初期の進化段階にとどまり、麻痺させられている。

 神経細胞が麻痺させられる事で取り出された再生能=増殖能が、霊魂のなかで再生=増殖する。その結果、霊魂の進化の過程で、霊魂がかつてのエーテル体のなかにつくった働きに実際にアクセスするには、初期の進化段階にとどまった、少なくとも麻痺させた神経細胞をもつことで可能になる。

 このようにして神経の本質にアプローチできる。この神経細胞は、一見すると、かなり原始の形態にみえ、更に発達しても、原始の形態のままなのに、人間の最高とされる精神の活動に奉仕する、という見た目とは相反した特性を備えている理由が、以上の事から理解できる。

 これは一寸した挿話で、考察の本筋ではないが、人間の頭部を外見的に観察すれば、様々な神経細胞が固い装甲で覆われているが、この外観は、高度に進化した動物よりもむしろ下等生物を思い起こさせる。

 人間の頭は、いわば有史以前の生物を想起させる。有史以前の生物を一寸変形させたようにもみえる。下等生物などを語る場合、通常、次のように表現する。

 「下等生物は外骨格をもち、高等生物と人間は内骨格をもつ。」

 人間の最高度に発達している頭部は外骨格をもっているが、少なくとも上述した事のライトモチーフになる。

 さて、一寸考えてみると、以上のように肉体から奪ってしまった再生力を、病気の際に、肉体に補給するように働きかけたなら、つまり、外の自然のなかにある、この再生力を、人間は、霊-魂の働きに用いるため、肉体から奪ってしまっているので、植物等を使うことにより、薬として再び肉体に補給するなら、肉体に欠けている再生力を補給できる。

 人間になることで、肉体から取り去った再生力を、外の自然から再び肉体に付与することで、肉体の支援を行える。

 差し当たり、以上から、治療法=治癒原理と呼べる姿が仄かに見えてくるのがわかるだろう。つまり、治療法とは、人間が通常もたない外の自然の再生力を、肉体の援助として用いる事であり、肉体の再生力を通常よりも強めるために、自然の再生力を用いるのである。

 少し具体的な話をする為に、といっても、ただ事例を挙げるだけだが、肺を取りあげる。霊-魂の為に肺から再生力を取り除いた事実がわかる。

 肺から取り除いた再生力が、今度は、植物のなかにみつけられるが、肺に障害がある場合、この再生力を付与すると、肺の働きを援助できる。そうすると、次のような疑問が生じてくる。

 「人体の諸器官の基礎を成すが、霊-魂の活動の為に取り除いてしまった再生力は、外の自然ではどうなっているのか?」

 この探究から、単なる試行錯誤的な治療法から、理念、もしくは理性(ラツィオ)による治療法獲得に至る道が見つけられる。

 しかしながら、ここには、神経について陥っている誤謬と並んで、外の自然に関わる、些かならぬ誤謬が存在する。今回は、この事の暗示だけにとどめ、次回から更に詳しく説明する。

 唯物論的の時代では、次第に、いわゆる最も単純なものから最も複雑なものへと、外見(唯物論)的な進化論を考えるようになった。最初は、下等生物の観察について範囲を広げた後、最も複雑な生物まで形態の変化を研究し、更に生物で無い、例えば鉱物にも注目した。

 そして、進化論から、鉱物に注目して、鉱物は植物よりも、単純である、と結論した。結局、鉱物から生命の発生とか、単純な無機の集合体から複雑な有機の集合体へと物質が集合する為に、必要な条件といった事について、あらゆる奇妙な問題を生み出した。このような、いわゆる「自然発生」(1)は多くの議論を呼んだ。

 偏見無く正しく観察すれば、以上のような見解は間違いなのが明らかになる。そして次のような結論に至る。

 「そもそも、植物から動物を経て人間に至る進化論が考えられるのと同様に、生物から生命力を取り去るような、すなわち生物、もしくは植物から鉱物に至るまた逆向きの進化(退化)論も考えられる。」

 先に述べたように、今回は暗示するだけで、後の考察で更に明らかになってくる。

 進化を、鉱物からはじまり、植物を経て、更に動物を通って人間に至る、という風に考えるのではなく、その中間の植物を出発点にして、植物から始まり動物を経て、人間に至る進化を考え、今度は逆に鉱物へと下っていく別の進化(退化)を考えれば、鉱物を出発点にせず、進化と退化の中心を、植物にすると、上昇する進化と下降する進化(退化)を通じて、人間と、鉱物が現れてくることがわかる。

 以上の進化論から次のような事が洞察できる。つまり、植物から鉱物へ、特に、これから見ていくように、究めて意味深い鉱物、すなわち金属へと下降していく退化では、その鏡像の上昇する進化に対して、再生力=生命力とは逆の関係にある力が現れる、ということである。

 つまり、鉱物には、いかなる力が働いているのか、という疑問が浮上する。この力を探求するには、下等生物で探究してきた再生力を、鉱物で探究しなければならない。

 鉱物では、この力は結晶化のなかに現れてくる。この結晶化が明確に示すのは、下降する退化に現れ、上昇する進化の再生力と関係するが、逆の力である。従って、鉱物のなかの力を肉体に供給するとどうなるのか、という新たな疑問が生じてくるが、これとよく似た疑問には、次のように答えられる。

 「霊-魂が、肉体から取り去った再生力を、植物、動物から取り出して、肉体に供給すると、助けることができる。」

 しかし今度は、下降する退化、すなわち鉱物のなかの力を肉体に供給すると、どうなるのか?

 今回は、この疑問を提出し、考察を進めながら詳細に答える。

 しかし、それでもやはり今回の考察の頂点で出された次の疑問、

 「自然から隠れた治療法を学びとれるか?」

 に、正しい意味で答えられるまでには達していない。以上の疑問で重要なのは、正しい洞察力をもって(少なくとも概略的には洞察力が得られるように考察してきたが)、自然にアプローチする事である。そうして、はじめて、治療の本質が顕現する。

 さて、人体には、2つの活動が存在し(動物にも存在しているが、差し当たり重要ではない)、今までに得た理念を備えて観察すると、この2つは、ある意味で対立する活動として現れてくる。この両者は完全に対立しているわけではないが(誤解しないように強調しておきたい)、かなりな程度まで対極的である。

 この対立する2つの活動とは、人体の造血活動と乳汁分泌活動である。両者は既に外見上異なっている。造血活動は、いわば肉体の隠れた局部へと強力に集約されている。乳汁分泌は、造血活動とは逆のむしろ表面に向かう傾向をもつ。

 また、造血活動と乳汁分泌との本質的な差異はやはり、造血活動は、再生力=増殖力を、比較的に多量にもつ点にある。造血活動は実際、俗っぽい表現をするなら、肉体の予算全体の為に、利潤(再生力)を請け負わねばならない。

 つまり造血活動は、ある意味、下等生物で認められる再生力をもっている。近代科学が、造血活動を正しく観察したなら、治療法を獲得できる重要な事実が見つかるが、合理的意味では今日まで見つかっていない。

 近代科学は、血液の主要成分は赤血球で、赤血球は増殖能を持たない、つまり増殖力が無い、という事実を治療の拠り所にできる。増殖力が無いという点では神経細胞と共通している。けれども、このような共通の特性を強調する際に重要なのは、その理由が、両者とも同じなのか、ということだが、同じではない。

 というのも、神経細胞から取り去った程には、血液の細胞からは取り去っていないからである。

 実際、表象(イメージ)生活の基礎を成す神経は、かなりの程度、再生力を欠いている。生後しばらくの間は、神経は外界の印象に依存しながら、それを模写してつくられる。つまり、外からの影響に対する適応力に比べて、再生力は後退している。

 血液の場合、事情は異なる。血液は再生力を比較的多量に保持している。この再生力は、日常の生活からわかるように、ある意味、乳汁にもある。

 というのも、乳汁に再生力=生命力がなければ、健康に良い食品として、母乳の代わりに乳児に与える事などできないからである。乳児は母乳を必要としている。乳汁のなかには血液と似た再生力がある。だから、再生力という点で、血液と乳汁の間には、類似がある。

 けれども少なからぬ違いもある。乳汁の再生力は、血液の再生のために必要なものを、ほんの僅かしか持たない。その相違は鉄である。

 鉄は基本的に体内で唯一の金属であり、体内では、整然とした結晶化を示す。従って乳汁は鉄を微量にもってはいるが、それを必要とせず、血液は鉄を必要としている、という点に違いがある。

 乳汁の再生力は、鉄を必要としない。そこで、なぜ血液は鉄を必要とするのか? という疑問が生じる。

 この疑問は結局、医学という学問全体の根本問題なのである。血液は特に鉄を必要とする。今回触れた疑問についての判断材料は、ここにある。まず確認しておきたいのは、血液は、その本性により病み続け、絶えず鉄で治癒されなければならない、ということである。

 乳汁には当てはまらない。乳汁が血液と同じ意味で病んでいるなら、乳児の健康や成長の為の母乳の代わりや、外から肉体に与えても、再生力とならないからである。

 血液を観察すると、絶えず病んでいるのが観察される。血液は本性によりひたすら病み(不安定)、鉄の付与によって絶えず治療(安定化)され続けなければならない。すなわち、このように、血液に生じている活動から、治療法=治癒原理が獲得できる。

 医師が自然を通じて試行するなら、自然のなかの異常な活動を観察するのではなく、正常な活動を観察しなければならない。血液の活動は確かに正常だが、同時に、自然が絶えず治療し続けなければならない活動で、自然が付与した金属、つまり鉄により絶えず治癒されないとダメな活動なのである。

 そのような訳で、血液に生じている原理を図(下図)で示すなら、次のような結論に至る。鉄無しの血液はひたすら病むので、下に向かう曲線、ないし直線で、最終的には完全な分解に至る(下図、赤線)。一方、鉄が働きかけている血液の活動は、絶えず治癒されるので、上に向かう曲線、ないし直線で表される(黄線)。

med1-5.jpg

 実際、以上の図からわかるのは、正常な活動と同時に、治療法=治癒原理のモデルとすべき活動である。以上の図から自然を通じて試行できる(治療法が獲得できる)のがわかる。自然が、外にある金属の力を人間に付与することで、治癒原理が成立する、のが理解できるからである。

 そして同時に、あくまで肉体のなかにとどまる、血液は癒される必要があり、肉体から外に出る乳汁が癒される必要がなく、再生力をもち、他の人体を健全に導けることも理解できる。

 これは両極性の1つの事例である。あくまで1つの事例であって、全てではないが、この両極性に注目する必要がある。以上を手懸かりに、非常に多くが研究でき、次回以降更に継続していく。

 以上を前もって話したのは、質問を見て、返答への概念、基礎知識があれば、様々な手法で質問に答えられるからである。

1-3
 シリカ(珪土)という物質を語る。しかし、一定の境界を持った物体を思い浮かべるだけでは、本質は捉えられない。本質を捉えるには、宇宙のなかで、たった一度の出来事やその活動として存在する、包括的な活動を、霊視できなくてはならない。

 いわばバランス(均衡)状態に至り、結晶化し、静止状態に至った活動、つまり、シリカとして、静止状態になった活動を、霊視できなくてはならない。

 本質は、人体内の活動と、外の宇宙で起こっている活動であり、健康も病気も、この外の宇宙の活動と相互作用しているが、この相互作用に注目することである。

 □編註
 ☆1 パラケルスス「オープス パラミールム」参照。
 ☆2 「魂の謎」(1917)GA21
 ☆3 カール・ルートヴィヒ・シュライヒ Carl Ludwig Schleich 1859ー1922 局所麻酔の考案者。 「思考の切替装置について」(エッセイ、ベルリン、1916)260頁以下。その他の著作:「魂について」(エッセイ、1910);

 「意識と不死」(講演、1920);「幸福な過去」(回想録、1921)

 □訳註

 *1Generatio aequivoca:もとのラテン語の意味は「多義的な生殖、発生」で、一般には、神の創造行為によらない地球上の生命の発生に関する仮説。

 ★       ★       ★

 人間は考える存在として存在する、考えに考えるのが、神を呼び寄せる呪文で、神こそ叡智だからである。考えないのは悪魔を呼ぶ呪文である。

 考えを止めるとき人間は死ぬ。

 しかし、アホ一狂信者は調教の成果なのか、似たような罵詈雑言しかできないらしい。





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Last updated  2017年08月02日 21時14分19秒
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