シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2018年01月15日
XML
カテゴリ: 神秘体験空間
今年は戊戌の年ということで、全てが増加する年なので、せめて悪を除去していかないと、来年は、己亥なので、善と悪が一つに結ばれ、勢いが増すために、革命や暴発が起こる年だからである。

 実際、60年前の1959年にはキューバ革命が起こっている。その60年前の1899年は前年からのフィリピン革命が頂点に達している。

 つまり、来年までに、今年は悪を成敗する必要がある。地上の悪を、天の恵みにより慈悲を施さなければいけない年なのである。だから、医術の年ともいえる。治療の年である。

 さて、人智学的医術が説くのは、人間の死は、肉体を失うだけで、霊魂は永遠に生き続ける、ということである。

 では、人間はなぜこの世に生まれてくるかというなら、多様多種のカオスの状態を統一する術を身に着けるためである。

 肉体は1つしかなく、物質界を生きるには他と共存共栄していかないといけない。

 この1つしかない人生を通じて、多種多様な現象を自分という1つに統一し、体現していくことが愛の働きだからである。

 物質界は陽と陰の二元性から1つの一元性として現れてくる。物質界を学ぶことは、二元性を学ぶことで、二元性から多種多様が生まれてくる。

 例えば、恋愛は多種多様だが、男女の陰陽からはじまる。昨今は同性愛が盛んだが、その心情には陰陽が絡んでいる。肉体は性は1つだが、霊魂は両性であり、肉体への表現が陰陽の男女をつくっているにすぎないからである。



 ネットワークということで、唯物論から少しはマシになり、情報論として考える事で、地上の束縛から解放されてきたが、脳で全てを説明しようとする頑迷で堕落的な知性はいまだ健在で残っている。

 唯物論では、冷凍保存し、脳だけを残すというクレイジーな事もやられているようだが、人体がネットワークであるのを理解していない。脳だけに人格があるわけではない。また海馬に記憶があるのではない。人智学から考えれば、海馬は、アストラル空間から記憶を取り出しているだけにすぎない。

 人智学では、人体の上下は陰陽論で捉え、脳は腸と対極にある。俗に認知症といわれる病気の病因は腸にあると考えている。最近、水を飲むことで、代謝を活性化し、アルツハイマー病を改善させた事例も、出てきたようである。

 人智学では、脳の病気の病因は下半身の、特に腸などにあることがわかっている。腸で行うべき消化活動、昨今では免疫提示活動とわかっているが、それが腸でできずに、脳にまで負担が及ぶと、脳で行われるので、その分の思考活動が行えずに、認知症が出てくるのである。 

 シュタイナーも頻繁に述べているが、現代の唯物論では、人智学は理解困難なので、哲学として捉えると少しは理解できるかもしれない。

 シュタイナーはオカルト生理学も講義しているが、オカルトという命名も理解困難にさせる要因の1つだろう。シュタイナーがオカルトという言葉を使う場合、それは眼には見えない隠れた存在を意味する。

 人智学では、人体を、眼に見える肉体、つまり物質体のほかに、眼に見えないエーテル体、アストラル体、自我からなるとしている。

 これをわかりやすくするなら、コンピュータに喩えて、ハード本体が物質体で、OSと電源=電気がエーテル体、ソフトウェアがアストラル体、使用者=人間という感じになるかもしれない。コンピュータで喩えると唯物論でも少しはわかりやすくなるかもしれない。

 コンピュータのハードでないソフト面、いわゆる情報通信機能は、コンピュータ言語からつくられるが、人間も似たように、宇宙言語からつくられるのが、人智学ではわかっている。

 唯物論では、人間や人体を物質で解釈するが、人間や人体を宇宙言語からどう解釈するかが人智学の課題である。

 物質体は、眼にみえる物質からできているから、わざわざ説明しなくても唯物論でも自明だろう。問題は、眼に見えない人体、宗教でいわれる霊魂=精神である。



 エーテルは物質ではなく、単純にいうなら、機能を現わし、イメージするなら、不可視な波動といえるだろう。

 更にアストラル体は、光の通り道、物理学でいう時空からつくられる。この時空は、時間で仕切られた単なる空間ではなく、様々な出来事や事象が記録された媒体となっているらしい。

 現代物理学でいうなら、超弦理論のM(膜)理論のDブレインのようなものだろうが、唯物論では超弦理論が限界だろう。

 そして、自我とは、正に神の存在といえる「我(私)は我なるあり」の統一体を意味する。人間一人一人が我(私)という意志をもてるのは、神からこの自我を授かっているからで、この自我で統一の領域を拡げるのが、宇宙での人間の役割というわけである。

 自我には、全てをバランスしまとめる能力がある。その自我は、宇宙全体の統一力からきている。さしずめ、太陽系は太陽が統一しているが、人間の自我は、太陽からきている。



 さて、誰もが幸せを求めて生きている事に異論はないだろう。問題は、幸せというのが、十人十色で、万人共通のものでないところにある。幸せを求める自由という問題を抱えている。

 しかし、人類が永遠に幸せであるためには、人類全体の幸せと、各個人の幸せは一致しなければならない。各個人の幸せが、人類全体の幸せでないと本物の幸せではないのである。

 つまり、人類全体の幸せと各個人の幸せが一致するところが天国なのである。

 人智学的にいうなら、自我が満ち足りた安定状態にある事が幸せである。だから、各個人の自我が、人類全体の集合自我のなかに、満ち足りた安定状態を探さないといけない。

 人類全体の幸せのなかに、自分の幸せを探さないといけない。しかも、宇宙は益々多様化していく。

 そのために輪廻転生があり、人生での自己認識がある。

 神秘学では、人類の未来の集合自我のことを、霊我=マナスと呼び、不死鳥=フェニックスに譬えている。

 キリストは、イエスという杯のもとに霊我を携えて、地上に現れ、人類の幸せの見本を示した。

 他の不足分を補いあい、共に助け合うことで、誰一人の落第者や犠牲者を出す事なく、人類全体が幸せになるという見本である。

 互いに助け合うと人類全体の幸せになる、というのが、カルマの法則である。

 クリスマスとは、このカルマの法則が地上に示されたときなのである。だから、キリストが最後の晩餐に弟子たちに謙譲の精神を示したように、上は下を助け、異質なものを遠ざけるのではなく、近づいて世話をし、互いに助け合うことを、人類に約束させた日なのである。

 この約束を守るのなら、神に背いて悪魔に靡いた原罪を赦そう、というのがクリスマスなのである。

 そういう精神に欠けているのが、いまのこの国の上層部である。特に政府は、このような態度と真逆にある。

 この国の昨今の仕事観や教育観をみていると、中世の悪しき伝統を感じざるを得ない。強圧的で非常にわざとらしい。上下断裂の様相を呈している。仕事や教育が押し付けになっているのが、一番の問題である。

 中世では、仕事や教育は修行の一環で、霊能力獲得のための手段だったのだが、唯物論が蔓延って、地上生活での物質的幸せを追求するあまりに、精神を忘れ、形骸化し、動物と同じく、単なる調教と化してきた。暗黒の時代といわれるのも当然である。

 人類が高貴な精神を忘れ、獣化してきた。

 人類全体の幸せのなかに個人の幸せをみつけるのは、なかなか困難だが、例として、日本サッカーの浦和レッズサポーターのコレオが挙げられる。個人サポーターの応援が、競技場全体の美的応援に見事につながっている。

 スポーツの報道によれば、サポーターが自主的に応援を行っているという。強制でなく、自主的なのが重要である。

 しかし、自主的でなく、与えられたものであれば、ダメである。与えられた安定は、自分でつくりだした安定ではないので、容易に揺らぐ。いろんな困難に出会って、自分で安定をみつけないと、ダメなんである。

 この国の教育や仕事をみていると、与えることばかりで、しかも強制であるのは、非常に問題で、まるで中世の悪しき伝統の修行のようにみえる。仏教で譬えるなら、苦行や荒行である。

 御釈迦さんは、自ら苦行や荒行をしても、悟り=霊能力は獲得できないばかりか、無意味と悟って、やめてしまって、スジャータに乳を飲ませて貰い、菩提樹の下で、霊能力を獲得したのは有名な話である。 

 無意味な苦行や荒行を奨励しているのが、この国の現状である。

 例えば、それはサービス残業であったり、夏休みの宿題などである。欧米では、休息も重要と考えられていて、休息をとるのも仕事のうちである。

 休みのない生活は、睡眠のない生活と同じで、人間らしい生き方とはいえない。

 教育先進国で優秀なフィンランドには宿題はなく、勉強も自主的に行うそうである。シュタイナーも述べているが、自主的な教育、つまり自己教育でないと教育は意味をもたない。

 この国の教育に欠けているのが自主性であることは一目瞭然であろう。

 子どもを躾けるには、まず親や大人がその見本を示さないとダメである。大人が嘘をつくなら、子どもも嘘をつくのは当然である。7歳までの子どもは大人を真似るからである。

 これは大人が教育に自主性をもたないからである。子どもが勉強するには、大人が勉強しないといけない。一緒に勉強するしかない。

 というわけで、人智学的医術の続きを一緒に学びましょう。

 ★       ★       ★

ルドルフ・シュタイナー
「人智学と医学」第12講
1920年 4月1日   ドルナハ


 治療の基本となる感覚は、外界と人体との関係、それは奇妙な形で現れる場合もあるが、霊的な観察から生じてくる。霊的な観察を通じて、治療に有効な薬の本質を見究める重要な洞察力=神通力が生まれてくる。

 (「神通力」としたが、人智学では「イントゥイション」と呼んでいる。)

 自然のなかには、人体に有益な役割を果たす様々な活動が予め準備されている事実の、身近な例に触れる為に、比較的善い精霊によって、ロンセーニョ水[Ronsegno-Wasser]やレヴィコ水[Levico-Wasser](1)などが、どのように調合されているのか、を調べてみるとよい。

 1;Ronsegno-Wasser, Levico-Wasser
 レヴィコ水(Levico-Wasser)は、北イタリアのトレント郊外のヴェトリオーロにある、鉄、銅、砒素を含んだ鉱泉水のこと。この水については、邦訳のシュタイナー「治療教育講義」(高橋巌訳/角川書店/P122)にも出ている。Ronsegno-Wasser(ロンセーニョ水)も、恐らく、そうした鉱泉水だと思われる。

 この鉱泉水については、次回以降に詳しく特徴を述べるが、銅と鉄の活動が驚くべき形で補完し合い、更に、この補完[Abkompensieren](動的平衡)をなるべく拡げるために、砒素の存在を考えてみると、次のような結論に至る、

 「外界には、人体が極端な状態に至ったときの為に、予め、それを補完(緩和)するような物質が準備されている。」

 このような補完が不都合な場合も必ず出てくるが、後になれば、普遍的な有益さが示されるだろう。

 このような極端な状態を観察する際に注意すべきなのは、今日になってはじめて症状が現れた病気に出くわす可能性が出てくる事である。

 地球の一部で、特殊な状況が進行すると、特殊な疾病が引き起こされるのが、霊的な観察から認識できる。更に、現代(1920年)に興味深い現象、つまり、今日発生している通常の流感のようなものでさえ、特殊性を持つのがわかる。

 この特殊性とは、眠っていた病気を呼び覚ましてしまう事にある。人体に感染したが、通常は抵抗力により隠されたままになっている病気、状況によっては死ぬまで眠ったままでいたはずの病気が、流感に罹ることで表出してしまう。

 以上を、まとめて問いの束(たば)にして、次回以降の講義の基礎にする。しかし、できるだけ実り多い知見にするために、別の奇妙な一致を示唆する。それは勿論、人智学者にだけ深い意味をもって現われてくる。

 お馴染みのように周囲の大気中には、物理的にも、化学的にも正確に定義できないような緩い結びつきで、酸素と窒素が互いに結合している。地球の人間は、酸素や窒素の循環活動に基本的に織り込まれている為、大気中の酸素が、窒素に対して、基本的にどう関係しているのか、が重要と推測できる。

 さて、重要にも、空気の組成の変化が、酸素と窒素の正常な関係を変化させるが、人智学から、この変化と、人間の睡眠の障害が結びつくのが示される。

 更に、この結びつきから、その背後に隠されている関係が調べられる。人智学では、人間は、物質体、エーテル体、アストラル体、自我の、4つの構成要素から成り立つ、のが明らかになっている。更に、自我とアストラル体が、眠りにつく時に、人体から抜け出るのを、力学で理解できれば、目覚めるのと同時に、入り込んでくるのも明らかになる。

 従って、次のような結論に至る、

 「睡眠状態では、自我と結びついたアストラル体は、エーテル体と結びついた物質体から抜け出るので、覚醒状態では、睡眠状態よりも、アストラル体と自我、エーテル体と物質体の結びつきがそれぞれ緩い。」

 覚醒状態では、結びつきが緩いので、両者の関係が、より不安定なのである。上位の2つの、自我とアストラル体と、下位の2つの、エーテル体と物質体との、この不安定な関係は、外界の空気中の酸素と窒素の不安定な関係を、忠実に反映している。

 両者の相応は実に不思議で驚くべきものである。外界の空気の組成は、同時に、アストラル体とエーテル体の緩い結びつき、或いは、物質体と自我の緩い結びつきに、比例関係を与える。

 {空気の組成:窒素;78.08、酸素;20.95、アルゴン;0.93、二酸化炭素;0.034、ネオン;0.0018、ヘリウム;0.0052}

 以上の関係から、更に、空気の組成と、人体がどう関係しているのか、が考察できる。そして、人体を正しい関係にするのに、空気をどう組成して、どう供給するか、などが考察できる。もう少し霊的な生理学ができれば、この相応関係が知覚できる。

更に、今日よく知られた人体に関わる物質に通じていくと、物質は、人体のなかで別の物質と結びつくのがわかる。

大抵の物質は、結合しては解かれたりしている。ただ、酸素と窒素だけは、人体のなかでは自由に現われている。つまり、空気の主要素の酸素や窒素は、人体でも特別な役割を果たしている。酸素と窒素は、人体の相互作用により、物質の中心を占めている。

酸素と窒素は人体の諸機能に関わり、しかも自由に働く。酸素と窒素の活動が、人体のなかで結びつく他物質により邪魔されることはない。

従って、外界にある物質の本質から、人体の活動を追求できるだけでなく、その物質が人体で「どのように働くのか」を追求すべきなのがわかる。つまり、独立した働きなのか、他と結びついているのか、といった事である。

というのも、奇妙にも、人体の中で物質は互いに独特の類縁性や親和性を獲得するからである。つまり、人体に摂取した物質と、既にあった別の物質との類縁性や親和性が生じるからである。

更に、この考えを追求していくと、神通力(霊意識)へと導かれる。人智学は、この神通力を示唆しなければならない。既知の如く、植物、動物、人体の基礎になっているのは、蛋白質である。

現代化学では、蛋白質の主要素は、自然のなかの四つの重要な物質の、炭素、酸素、窒素、水素と、更に、これら四つの物質の活動を、隅から隅までホメオパシー(希釈化中和)する、硫黄が加わる。

 さて、蛋白質の機能が、どのように現われてくるのか、考察しないといけない。現代化学では、その前提から、恐らく、「物質は、その内力から構成されている」、という方向性にある。

そして、その必然的な帰結として、同一でないものが、同一視されてしまう。少なくとも差異が実在すれども、同一性が見いだせない、植物の蛋白質と動物の蛋白質をかなり類似したものとして、化学的に同等と想定するのは、結局、原子論を、蛋白質の構造にまで当てはめた帰結にすぎない。

この原子論的考察は見当違いの代物で、正確に観察すれば、次の通りである。

「植物の蛋白質は、動物の蛋白質、特に人体の蛋白質を中和させ、両者は互いに対極な関係にあり、一方は、他方の働きを抑え、消し去る。」

奇妙にも、動物の蛋白質の働きは、植物の蛋白質の働きにより妨害され、部分的、もしくは完全に相殺される、という事実を認めざるを得ないだろう。すると、次のような疑問が浮上する、

「それでは、動物、特に人体で生じる物質と、植物で生じる物質の違いとは何なのか?」

これまで、気象や地上の活動に対して、四つの器官=臓器、つまり膀胱、腎臓(火)、肝臓(水)、肺(土)、加えて心臓が重要な役割を果たしている事について話してきた。これら四つの臓器は、外界の気象と人体の関係において重要な役割を果たしている。

さて、では、人体の内密な意味で、この四つの臓器は何なのか?

 実は、この四つの臓器は、人体の蛋白質の創造者である。この四つの臓器こそ研究すべき対象である。蛋白質は何なのか、と問うなら、蛋白質内の分子力を研究するのではなく、これら四つの臓器の生産物として把握すべきである。

蛋白質は、この四つの臓器の相互作用の成果である。この事から、人体の内外の差異について多少の知見が得られる。今日の化学の、外の物質構造内への探究を、内の臓器の探究へと移行しなければならない。

従って、人間の蛋白質は、地上では有り得ない構造をもつ。人間の蛋白質は、これら四つの臓器の影響下になければ、構造を維持できず、どうしても変化せざるを得ない。

 また植物の蛋白質は、人間(動物)の蛋白質とは異なる。植物の蛋白質は、この四つの臓器の影響下にはないが、また別の影響下にある。つまり、酸素、窒素、水素、炭素の影響、そして、外界の自然や気象の影響、更に上記の四元素を媒介する硫黄による中和(ホメオパシー)の影響下にある。

植物の蛋白質については、大気のなかに散在している、この四つの物質元素が、人体の心臓、肺、肝臓他の代わりをしている。人体では、この四つの臓器に含まれる活動が、外の自然では、これら四つの物質元素のなかに存在している。

だから、次のように考える必要がある、

「酸素、水素という名称を挙げるとき、今日の化学でいう、元素内の活動だけでなく、植物の蛋白質に関わる合成や分解も考えないといけない。」

しかも、これらの元素が、地上の様々な存在の為に共に活動する事で、互いに関係し合っている。個別な事例に立ち入り、外界で、酸素(火)が行う(植物蛋白質の)合成を、人体の臓器と一致させるなら、腎臓(火)-尿(空気)になる。また、炭素(土)による合成は、肺(土)となる。ただし、肺の呼吸機能ではなく、合成活動と一致する。

また窒素(水)を肝臓(水)と、水素を心臓と一致させなければならない(下図参照)。外界の水素は、心臓の活動を行い、また窒素は外界の肝臓といえる。





 以上を、現代人にも認知できるような教育を強いるのではなく、自主的に苦心して獲得するのが望ましい。というのも、心臓が、水素と親和性を持つのに気づいたなら、人体上部での水素の活動の重要性も認知できるからである。

というのも、人体上部に向け、水素の活動が進んでいくのに伴い、人体下部の動物性が抑制され、人間の本質となるイメージなどの思考活動に向かうように変化するからである。しかし、水素の活動が頭頂に達する同時に、地球外の鉛の活動と同じ影響に達する。

以前、鉛、錫、鉄を、人体上部に関係する活動とみなした。金属と人体の関係を認める傾向は今日まだ大きいとはいえない。人体から外に出ていき、鉛のなかの特別な働き、つまり心臓を通じて、思考器官の制御の担い手となる水素を準備する、のが認知できる傾向は、今日まだ大きいとはいえない。

しかし、以上のような事実を、扇動ではなく、無意識に、認識可能にし、人間を進化させるような、自主的な教育へと駆り立てていくだろう。というのも、外の自然のなかで鉛が何らかの役割を果たしていることは、鉛の化学変化に従って観察するだけでも、もはや、否定できないからである。

というのも、科学が確認したラジウムの崩壊産物[Umwandelungsprodukute]下に、ヘリウムの分裂と並んで、鉛が発見されたからである。今日(1920年)まだ鉛の原子量には正確に一致していないが、ラジウムの崩壊で、鉛が発見されたように、錫も、また外の自然から、同時に人体にも介入する唯一の金属の鉄も発見された。

今日、レントゲン(放射線)科学は、鉛の発見のように、地球上で与えられる安定的な金属だけでなく、金属への地球外からの作用に到達する、という放射線の性質についての素晴らしい指針を提供するが、強制的な教育があってはならない。

この指針こそ、今日重要といえるものである。というのは、今日の新種の病気が発生するときに、その考慮の必要性に気づくからである。

 当面、興味深いことに、外界の炭素、水素、酸素、窒素は、硫黄が媒介する相互作用により、人体で固有化された四つの臓器に受け取られる。さて、上述の観点で人体を観察すれば、深い本質を覗き込めるのが確実に感じ取れるだろう。

人体のなかでは、不随意な、つまり当初は、霊的な機能に直接支配されないように見えるものが、外の自然と関係づけられても、もはや、不思議には思わないだろう。また、次も真実である。

「人体は腎臓を持つようにつくられるが、腎臓は、人体の一部ではなく、全体になろうとする傾向を持つ。また膀胱-腎、肝、肺、心臓の四つの組織それぞれが常に、全体になろうと努めている。」

つまり、次のような結論に至る、

「腎臓はその機能とともに人体全体になろうとする、心臓も、肝臓も、肺も、全体になろうとする。」

 さて、いま考察した事柄を確かめるには、外の活動が、人体のなかに観察できるか、という視点をもつとよい。この視点から、自然科学と人智学との境界を、明確に指摘するのが不可避となる。

瞑想を進歩させて、人体を霊的に感受できたなら、つまり瞑想を訓練し、潜在意識と調和し、人体を感受するほど、実際に自我の具体的な認識を益々一層獲得できるようになる。この「具体的な自我の認識」は、積極的な課題、例えば人生による、自我の治療が問題になる場合には軽視できない。

瞑想が進歩すれば、以前は全く意識できなかった感覚が獲得できるようになる。ただ、その感覚については独特な傾向をもつので、今のところ、公開講演や一般講演などの、公共の場で話すのは非常に困難である。

いま注目した、このような霊的な基本知識が、現在の人類の道徳下で、比較的大きな集団に伝わったなら、安易に、「どうして、瞑想を活用しないのか?」というような質問が出るだろう。

「瞑想で、あるものが足りないと分かれば、それを与えればいい、簡単じゃないか」、というわけである。

確かに、瞑想よりも、足りないものを服用するほうが遥かに容易い。しかし、瞑想を省くと、ある意味、自我を道徳的に滅ぼすことになる。それでもやはり、現在の道徳では、この安易な考えに抵抗せずに、瞑想よりむしろ、外から薬を服用するだろう。

確かに薬は、当初は、瞑想に似た効果を与えるだろう。実際、瞑想の代わりに薬で人体を治療できる。瞑想を一定期間継続して、自我の不足分を洞察できる傾向を持つようになれば、通常、モノをつかむ手の感覚や、歩行する足の感覚を意識するのと全く同様に、鉄の放射を意識できるようになる。

鉄の感覚が出現するのは、事実である。この感覚は、通常の、腕や脚、回転などして頭があると、はっきりわかるのと同様に明確である。自我を鉄のファントム[eisernes Phantom](2)と感じる意識が生じてくる。

(2)ファントム;神秘学的に言えば、物質としての肉体に先立って、本来、不可視な、純粋な形態があり、この眼に見えない肉体形式が、ファントムと呼ばれる。この形式-ファントムに物質素材が入り込んで、通常見ている肉体が成立する。パウロが「コリント書」で言っている「霊の体」も、このファントムのことである。このファントムを理解することで「キリストの復活」を理解する鍵が得られる。 

以上について、次のように捉える人もいるだろう、

「そうですか、つまり外から何かを服用すれば、固有の鉄に対する自我の鉄の感度や敏感さを高められるわけですね、服用で瞑想と同じ感覚が得られるのですね。」

確かに、服用後の初期段階では、瞑想と同じ感覚が得られるが、潜在意識の獲得、いわゆる「霊視」[Hellsehen]獲得の手軽な方法で、このような実験を始めるなら、非常に危険で、実際に様々に行なわれている。このような実験が、人類への供犠として行なわれるなら、話は別である。

しかし、単なる好奇心から行うなら、人間の魂の道徳的構造を根底から破壊する。このような間違った方向で、自分を用い、色々と実験し、今日でも、その著作のなかに見られる数多くの発見をした人物が、ファン・ヘルモント(Van Helmondt)だった。

パラケルスス(Paracelsus)はこれとは異なり、むしろ、次のような感情を抱かせる。

「彼の霊認識は、隔世遺伝の形で現れ、地上を超えた世界(あの世)から、この世に携えてきた。」

他方、ヘルモントは、薬を服用し、自分の身体を使って実験し、独特の霊的見解を得ていた。彼の著書から、その事がわかり、様々な箇所に暗示されているのは明白である。

もっとも手近に獲得できる感覚は、人体上部から放射され、四肢に分岐していくのを証とする、奇妙な鉄の放射に対する自我の敏感さである。

自我が、鉄の放射を感じている事で、鉄の機能や活動から、自我の制御が直観[Anschauung]できる。

(血液が赤い理由)

 しかし、この鉄の放射を、図で示すなら、鉄は、肉体を超えて活動する能力がないのに言及しなければならない。この鉄の放射は、人体に制限され、肉体内にとどまる感じを受ける。この鉄の放射を堰き止める抵抗力を感じる(図参照)。





次のような結論に至る。

「この抵抗力は、鉄が陽に人体表面に向かって放射するのに対し、球面波を描くように、陰に反射し、返すように感じる(上図)。」

以上は、放射とその抑制の両方、つまり鉄の放射が壁に突き当たり、通り抜けられず、肉体の表面を越えられないのを知覚するのに相当する。この抵抗力が、他ならぬ蛋白質の活動である。

従って、人体のなかに、鉄の活動が導入されると、この鉄の活動に対して、四つの臓器から発する蛋白質の活動が抵抗するのが感じられるだろう。

鉄と蛋白質の元となる4つの臓器は、互いに抑制し合う。人体では、絶えず、このような闘いが繰り広げられている。以上が、瞑想という、人体の霊視によって、真っ先に知覚される事である。

医学史を研究すると、ヒポクラテスの医学、そしてガレヌスの医学でさえも、上述のような瞑想的観察の残滓によって成立したのがはっきりとわかる。

ガレヌスは、もはや、あまり霊視できなかったが、当時まだ、古代の霊視の伝統が残っていたので、彼は、それらの残存を書き留めた。彼の著作を霊視すれば、ヒポクラテスとともに没落し始めた古代の霊能力を基にした医学のうちの多くが、ガレヌス(Galen)では、まだ叡智の光を発しているのがわかるだろう。従って、自然治癒力についての重要な見解も、ガレヌスの著作のなかに数多くみつけられる。

 さて、以上のような知見を、霊視で追求していくと、人体の二極性、つまり放射とその抵抗を総じて研究する事になる。この二極性は重要である。

というのも、この二極性において、蛋白質合成の傾向をもつ活動は、鉄の抑制と関係し、金属の摂取は、鉄の放射と関係するからである。無論、なかには特別な例外もあり、この例外を手懸かりとして、宇宙のあらゆる角度から、人体に働きかけてくる独特な相互作用の全貌を奥深くまで見通せる。

この全貌を見通すには、既に暗示した事をもう少し追求し、更に個別化し、形を整えて考察できるようにする必要がある。例えば、次のような事例に言及すると良い、

植物の炭素については、前回、植物炭を取り上げ、霊的な観察を行ったが、動物の蛋白質の大半がもつ窒素をもたないのに注目すべきである。この窒素の欠落が、燃焼に際し、動物の炭素とは異なった関係を生じさせる原因となっている。

更にまた、この差異により、動物の炭素が、例えば、胆汁や粘液、更には脂肪といった生産の際に関与する傾向を引き起こしている。この動物炭と植物炭の相違が、人体での、金属と、非金属(蛋白質)との二極性に注目するように導く。

(金属は天体の活動から生じるが、蛋白質は地上の人体の活動から生じる。)

 さて、この対極的な相互作用に注目すると、重要な事実に到達する。人智学の説明のなかで、人生のなかの周期をしばしば強調してきた。幼児期から歯牙交替期までの期間(約7歳)、それから性的成熟に至るまでの期間(約14歳)、更に、20代初めまで続く第三の期間などである。

これらの周期は、次の様に、人体の内密な出来事と結びつく。

歯牙交替をもって終わる最初期の特徴は、自我を制限し、堅固な骨格の分離や付与へと、人体の活動を集中させる事なのである。この期間は堅固な骨格を外に向け、歯を送り出す事で終点に達する。

さて、実際はまだ大半が液状の人体のなかで、骨格の形成のように堅固さへの進行が、特に周辺へと向かう活動と関わるのは明白である。そして、注目すべきなのは、この期間と密接に関わる、日常、あまり注意を払わない、二つの物質である。

その二つの物質とは、フッ素とマグネシウムである。それらは非常に薄まった状態で、人体に出現し、この幼児期の、歯の生え変わりまで特別な役割を果たす。

この固体(骨格)化を進めるのは、フッ素とマグネシウムの絶えざる相互作用であり、その際、マグネシウムは、放射を行い、繊維質などを束ね、そのなかへと、石灰質を導き、組織化し、フッ素は、マグネシウムの放射を抑制し、角を削り、彫刻家のように働く。

だから、次のような結論に至る。

「歯の周囲のセメント質やホウロウ質は、フッ素が彫刻家として働き、その内部に、マグネシウムが放射し、造形家として働く事で出来上がる。」

従って、幼児の初めには、マグネシウムとフッ素の供給間に、釣り合い(均衡)をもたらすのが重要である。この釣り合いがなければ、早期に歯が損なわれてしまうのが経験から判明するだろう。

是非とも必要なのは、乳歯が生えてすぐ、ホウロウ質の発達が遅れていないか、もしくは、歯全体の成長が矮小化していないか、観察することである。

更に、適した食餌療法によって、両者の均衡(動的平衡)へと結びつくように、フッ素、もしくはマグネシウムの供給により、病気の予防にも気を配るべきである。この両者の均衡によって、人体形成の全体を直接見通せるようになる。

この最初の数年間の人体は、外界の一部に他ならないので、その物質の構成に従えば、外的環境の性質が究めて強いが、その中心には、このマグネシウムとフッ素の相互作用がある。

この時期の人体は、フッ素を外界から取り出す事で、外の金属の放射に抵抗する。

(この時期にフッ素を摂りすぎると、自然の力に抵抗しすぎ、あまりに賢くなりすぎて、逆に歯を損失するという。歯はフッ素を吸収するので、摂りすぎないために、歯を損じるという。)

 人生の第三期を取り上げてみると、同様に、鉄と蛋白質との均衡(動的平衡)を取るのが問題となってくる。この均衡が取れずに、鉄と蛋白質の相互作用が異常になると、萎黄病[Bleisucht]の症状が出る。

だから、発達(成長)段階に沿って大凡示される異常だけをみるのではなく、上述のように、幼児期に、歯の均衡を失えば、ダメになる歯が準備されてしまい、後の年齢になって現れる、というように、また委黄病の科学的な特徴だけでなく、根本から理解するには、人体の根底にある隠された秘密へと入り込まなくてはならない。

 以上から、人体構築に関与する金属が大まかにわかる。重要な金属として示した、鉛、錫、銅、水銀、銀、金は、人体構築には関与しない。ただし、鉄は例外である。これらの金属は、鉄を例外として、人体構築には直接関与しないが、だからといって、人体に関与しないわけではない。

概ね、人体の末端に向けられる活動を追求すると、珪素[Silicium]に至るのは既に述べた。しかし、人体に生じる出来事は、皮膚の内側の活動だけではなく、宇宙全体の活動にも影響を受けている。

人体に御馴染みの物質が意味を持つように、外では、以上に列挙した金属が人体に有効で、意味をもつ。ただし、鉄には内外の媒介の役割が与えられている。

鉄は、人間について、皮膚の内と外とを媒介する役割を引き受ける。この事から、次のような結論に至る、

「肺もまた、人体全体になろうと努めているが、肺の活動は、自然や宇宙の生命活動にも密接に関わっている。」

解剖して、眼の前にある(静的な)肉体を見るだけでは、人間の一部を観察しているにすぎない。そのような観察は、生命活動全体ではなく、ほんの一部で、外の活動に対抗する内の活動しかみていない。逆に、外の活動は、外から人体に働く、鉛、錫、銅などの活動から成立する。

だから、自然科学の意味づけで観察するときでも、人間を、皮膚で境界づけしてはならない。従って、内から外へと働く活動だけが問題ではなく、外界から、人体(エーテル体)に方向性を与える活動も問題となる。このような問題を考えると、次のような事が深い意味を持ってくるだろう。

 御存知のように、人体の物質は、端的にいって、塩基(アルカリ)性、酸性、中性で活動している。

つまり、物質は、塩基、もしくは酸と結びついて出現するか、或いはまた、化学で言われるような、中性の塩(えん)として出現するかの、いずれかで活動している。

しかし、塩基から酸へと移った後、中性の塩に至るような、対立する塩基や酸の二極性だけでは、状態は言い尽くしえない。この酸、塩基、中性の塩という三重性が、人体の本質、つまりエーテルの方向全体と、どのように関係するのか、を考えるべきである。

塩基は、口内や消化などの活動を、前から後ろへと継続させ、支援する傾向をもつ。だから、塩基は前から後ろの方向と関わり、酸は、その逆の後ろから前の方向と関わる。

人体の前後の対比に注目すると、塩基と酸の対比に辿り着く。塩(中性)は、地球に向かい、両者の垂直の位置関係にある。上から下への活動には、塩(中性)が関わっている。

従って、塩基、酸、塩(中性)が、人体にどのように関わっているのかをよく考えるために、以上の三つの方向を考えるべきである。すると、人体の観察を通して、外の金属の科学と、生理学との間に橋を架けるような事例を再び手に入れるだろう。

このようにして塩基や酸と、中性の塩との地球との親和などの知見が与えられる。この事を例えば、図で示せる。

地球を中心にすると、塩(中性)は地球に向かう傾向を、塩基と酸は、地球の周りを、円を描いて回転する傾向を持つ。だから、人体に与えられる方向性をよく知り、この方向性に逆に介入できる。

この方向性から、塗布や軟膏などの薬で、外から介入する治療が思い浮かぶ。従って、外から、ある方向に働く薬の研究が必要となる。状況によっては、ピリピリする芥子の軟膏や、金属の軟膏を、適切に調合すれば、内服に劣らず、大きな意味を持つ。

ただ、軟膏薬を、どのように塗るべきか、などを見ていく必要があり、というのも、ある膏薬を、どこに塗るかで、効果が変わってくるからである。

適切な箇所に塗ることで、損傷に対する抵抗力を引き出すことである。ヒリヒリ痛む箇所に、大雑把に塗るのは正しい、とは言えない。 

1-12

 人智学から、人間の頭を研究し理解するなら、地球の生成に関わる、次の両方の活動(プロセス)、つまり石灰の生成活動と、シリカ、もしくは珪酸の生成活動に注目する必要がある。この両活動は重要である。

さて、地球の周辺の、外になく、人体内に向かう活動、つまり、リズミカルな呼吸を行う胸部の活動は、自我とアストラル体の記録制御と、主に物質とエーテル体との相互作用から成っているが、この構造は、自然のなかには存在しない。

少なくとも、通常の自然には、人間の胸部のような活動はない。この胸部の、自我とアストラル体(これらは自らの記録を複製した為に、自由だが)の相互作用と物質とエーテル体の相互作用を通じて生じる、独特の混合活動を、外界にみつけたいのなら、人間自らで、人工的につくりださなければならない。

植物を燃やし、灰を得る活動、つまり燃焼活動が静止して灰に至る、火(燃焼)の活動と灰の生産活動は、頭部の物質を生じる活動が、シリカの生成活動と似通っているのと同様に、胸部の呼吸活動に似ている。

この灰の生産活動によって、呼吸のリズム活動に介入するなら、直接介入できないので、呼吸活動とは対極の活動に介入しなくてはいけない。

この事を、図示すると(下図参照)、灰の活動と似た呼吸のリズム活動の対極の、循環リズム活動、つまり代謝という迂回路を通して、効力を発揮させなくてはならない(下図参照)。

呼吸リズム活動と対極の活動を生み出すように、循環リズム活動のなかに、この植物の灰の活動を組み込まなくてはならない。





 ★       ★       ★

 学ぶことは成長である。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2018年01月15日 13時16分03秒
コメント(0) | コメントを書く
[神秘体験空間] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: