シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2018年01月16日
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カテゴリ: 神秘体験空間
シュタイナーの人智学的医術では、糖尿病の病因は自我の弱さにある、と考えているが、その事と関係するような記事が日刊ゲンダイに載っていた。

 それは運動持久力が高い人は糖尿病に罹りにくい、というものである。

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「全身持久力」を高めて維持することで糖尿病を予防
https://hc.nikkan-gendai.com/articles/221020

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 自我の強さ、ゆえの運動持久力の高さと考えれば、自我と糖尿病の関係が想定できる。自我が強いと、肉体を巧く制御できるので、運動持久力が高いと考えられる。

 逆に、自我が弱いと、運動持久力も低く、理屈っぽく頑固で、怒りっぽく、糖尿病に罹り易い、という事になる。

 さて、話は変わるが、瞑想について知りたい、というようなコメントを戴いたので、瞑想について少し紹介したい。瞑想の教科書としては、シュタイナーはあまりはっきりと書いてないので、ドーリルの本を紹介する。



 少し簡単に紹介すると、第1章は、呼吸法とクンダリーニについてである。ドーリル曰く、クンダリーニは、尾骶骨下に眠っている潜在意識の力だという。

 クンダリーニを目覚めさせるには、呼吸法をマスターし、自由自在に呼吸できるようにならないといけないという。

 以下の話は、この本の難解さから、ある程度の推測も交じっているので、話半分で聞いてほしい。

 通常、人は左右の鼻の孔から大体1時間毎に交代で空気を吸い込み、人体に必要な酸素などを取り込んだ後に吐き出しているが、左右の鼻の孔を自由自在にコントロールできれば、両方の鼻の孔を使って呼吸する事で、クンダリーニを目覚めさせられるらしい。

 ドーリルによると、空気のなかには現代科学で知られている元素以外のエーテルも含まれていて、驚くべきなのは、シュタイナーも講義などで軽く触れているが、脊柱の左右にイダとピンガラ、中央にスシュムナと呼ばれる3つの4次元の管が、脳の脳橋から、尾骶骨下部の小さな穴まで通っていて、左右の鼻の孔からバランスよく呼吸し、エーテルを取り入れると、左右の管からくるエーテルが釣り合って、中央の管にエーテルが流れ、尾骶骨下部に眠るクンダリーニを目覚めさせられるらしい

 クンダリーニは三回転半した尻尾を咥えた蛇で象徴化されているが、この象徴化されたイメージはメリクリウスの杖などで有名である。シュタイナーによれば、このイメージは、人類の進化の道であり、生命の樹を表すという。

 ドリールによると、左右の鼻の孔や、口や喉頭を自由自在に操り、呼吸する事で、スシュムナの管を通じて、エーテルを満遍なく人体に流せば、不調和や不均衡に陥っている病気を治療できるという。

 中央のスシュムナの左の管をイダ、右の管をピンガラと呼び、クンダリーニが隠れている穴をカンダと呼ぶらしい。またそのような呼び名はヨガの伝道師のヨギや流派により色々あるらしい。

 ヨガは瞑想の初歩のようで、要約すると、エーテル体と肉体のバランスをとったり、エーテルを集めて、クンダリーニを用いて、未来の人生をつくるのが目的のようである。

 要するに、ヨガは、人体に(エーテル)エネルギーを集める方法のようである。

 重要なのは、矢鱈にエネルギーを集めても、その使い方が問題で、使い方を決めるのが、瞑想であるようだ。瞑想で、エネルギーの方向性を決めるようで、瞑想を誤ると、創造エネルギーを破壊に使ってしまい地獄をイメージして地獄に堕ちていく羽目になりかねない。



 瞑想は、メディテーションと呼ばれるが、メディタラは、ラテン語で、「熟考」を意味し、メデリの「治癒」と同源で、その3語は、アーリア語のマドフ「学ぶ」を語源にもち、マは、「人」の事であるという。

 また、テンプラム(寺、寺院)は、観察の場という意味らしい。瞑想は、神を感じる、観察する事を意味するようだ。

 瞑想については色々と書かれているが、読んでいるうちに訳が分からなくなってくるのだが、結局のところ、御釈迦さんが説いたように、あらゆる欲望を滅する事、つまりこの世の執着心をなくして、一時的な快楽を求めるのではなく、永遠の揺らぎのない安定の平和を求める事が要諦であるらしい。

 譬えとして、ある金持ちの息子が、キリストの弟子にして欲しいと願い出た有名な話があるが、キリストは、私についてくるのなら、財産を全て売り払ってきなさいとアドバイスしたが、ドリールによると、それは金持ちだから、悟れないのではなく、その息子が、金に執着し、この世で最も価値があるのは金だと思っている価値観があるうちは、金に囚われ、金に依存し、束縛されているせいにあるという。

 自由な意志を束縛しているうちは、神に仕える事は出来ないので、瞑想をしても、徒労に終わる。この世での、名声欲や所有欲などの一時的なものを欲するうちは、そのものに囚われ、自由な意志を明け渡してしまっている。要するに奴隷になっている。



 御釈迦さんが説いた永遠の法に仕えるべきである。永遠の法とは神の事である。何者にも束縛されない自由な存在である。

 また、瞑想は沈黙を意味するらしい。神は何でも知っておられるので、わざわざ語る必要はないらしい。語ればそれだけで、神から離れる事を意味する。

 かつてのギリシア哲学では「汝自身を知れ」と言われたが、瞑想では、自分を知って、自分を捨て、よくいわれる無我の境地に達する事を目指すらしい。

 自己というものを人生のなかで探して、その自己を否定する事が解脱のようである。

 神に仕えるには身を清めて、謙虚にならないといけない。

 というわけで、神に仕えるために、人智学的医術の続きを紹介する。

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ルドルフ・シュタイナー
「人智学と医学」第13講
1920年 4月2日   ドルナハ


 最初に、三つの事例を順に取り上げ、唯物論に偏っている医学上の考えを、少しでも人智学の霊的な方向へと導いていきたい。この事例から、腫瘍と、場合によってはその治療を可能にする霊的観察を述べる。

 更に、従来、精神病と呼ばれてきた病気の合理的な理解や、人体外からの治療法、つまり軟膏などを塗ったりする際に有用な知識を霊的観察から述べる。

 通常の物理的検査では、少なくとも人智学の見解から方向性が与えられなければ、癌に至る、あらゆる腫瘍にアプローチするなどはほとんど望めない。

 今日(1920年)、精神医学分野が、かくも悲惨な状態なのは、自然の物質については架け橋が至る処にみつけられるが、精神医学から人間の覚醒意識へと、また従来の病理学から、治療学へと橋が架けられていない為である。

 その為、現代人が、人智学の考察に、はじめに入っていかざるを得ないのは、ひょっとすると、この両分野ではないかと思う。

 両分野に不可欠なのは、人智学が語る内容を考慮することである。今日(1920年)の人智学の著書に注意を払うだけでも、既に多くの知見が語られている、のがわかる。つまり、エーテル体が物質=肉体に完全に介入する事に注意を払わなければならない。

 エーテル体の活動を知るには、絶対的に霊視が必要というわけではない。というのも、エーテル体の活動とは反対に位置する、眼にみえる多くの活動から、エーテル体が、少なくとも正常に働いていない、のがわかるからである。

 だから、エーテル体の活動を評価できる為には、物質体に、異常な活動や破壊に導く、炎症性の疾患と、腫瘍性の疾患に、注目するとよい。

 腫瘍についても、正当な理由に基づき、外科医のメスを用いない治療を、絶え間なく要求する努力は実際に正しい。ただ今日(1920年)の社会状況こそ同時に変えていく必要があり、予防医学が浸透する社会状況でなければ、まだ実行できない。

 重要なのは、外科医のメスでできる事と、できない事を見分け、補完する事である。今日、他に治療法がない、という理由から、外科医のメスを支持している人々の多くが、新しい治療法が見つかりさえすれば、反対側へと転向するのは疑いない。

 さて、炎症性の疾患を、器官別に、様々に異なる症状まで述べない。炎症疾患はお馴染みのものだが、霊的観点から捉えた炎症活動はほとんど知られていない。

 霊的観点から、炎症の特徴は、次のように良く説明できる。

 「大小問わず、炎症から潰瘍に至る症状は、人智学の探究から、エーテル体全体の働きに注目すべきである。」

 霊的観点から、ある方向に不活発となったエーテル体の働きを、活発化させて正常に戻し、全体が健全に働くように期待できる。エーテル体の健全な活動は、肉体のあらゆる方向に拡がっていくべきなのに、炎症の場合、特定の方向に導かれ、偏っている。

 以上は、また次のような結論に至る。

 「例えば、肉体の何らかの臓器で不活発になっているエーテル体が、全体としてはまだ活発なら、この方向に、再び宇宙的な活動を展開していくように、促すような対極の活動を見つける必要がある。」

 しかし、腫瘍の場合は、事情が異なる。腫瘍では、物質体の活動が、エーテル体の活動に反抗し、その部位において、もはやエーテル体が活動しない。

 とはいえ、エーテル体は多大な再生力をもち、人智学から、次のように観察できる。

 「エーテル体の活動に対抗する障害を取り除ければ、腫瘍も治療できる。」

 従って、次のような結論に至る。

 「腫瘍で大切なのは、エーテル体に対抗する物質体の活動を、外から自然の活動を導入する事で、取り除き、エーテル体が働けなかった部位で、再び働けるようにする事である。」

 以上は癌治療で大きな意味を持つ。癌を、霊的に観察すれば、多様な形態をもつにも関わらず、エーテル体の働きに対して、物質体が反抗を示す事にある。

 例えば、体内の癌には角質化が現れてくる。あまり目立たないが、皮膚表面にできる癌にも見られるが、これは物質の活動が、当の場所にあるべきエーテル体に干渉する事で生じてくる。

 従って、この両者を、正しく研究すれば、次の様にほとんど両手で掴めるような見解に至る、

 「炎症[Entzuendungen]や潰瘍[Geschwuerbildungen]は、腫瘍や癌[Geschwulstbildungen]と完全な対極を成す。」

 この両者は対極にあり、この事を両手で掴める、と表現したが、次のような経験を思い出して欲しいからである。

 「皮膚表面近くに癌ができる場合、疑似潰瘍[Pseudogeschwueren]と、よく混同される。」

 だから、このような両極性を、より厳密に探究できるまで、研究を拡張しなければならない。

 さて、以上で、よく理解の障害となるのは、古くからの、つまり中世初期からの病名ではない。現代にも通じる、中世後期からの唯物論的な病名にある。

 腫瘍を「新生物[Neubildung]」とみなすのは間違いである。新生物といえるのは、腫瘍が、昔にはなかった病気という意味で通用するが、皮膚に覆われた肉体から生じる意味では、新生物ではない。

 物質体の活動が、エーテル体に強く抵抗する事で、物質体が外界の、つまり、人間に敵対する自然に従属するようになり、腫瘍の形成は、外からの、あらゆる可能な影響の接近を許すようになる。

 大切なのは、腫瘍の対極となる活動を研究する事である。外の自然の、まずは、ウィスクム[Viscumbildung]=ヤドリギの研究を参照する。まず、ヤドリギ類が、他の植物に寄生するのに目を向ける必要がある。

 しかし、寄生は研究の本質ではない。植物学の研究では、確かに、ヤドリギの寄生の性質が重要である。けれども、自然に対する人体の研究で、根本的に重要なのは、ヤドリギが他の植物の上に生える事で、一年とは異なったリズムで生長を全うする事にある。

 つまり、ヤドリギは、例えば、寄生している樹が、春に葉を生やし始める前に、既に花を咲かせてしまう為、冬期植物となり、また、寄生している樹の葉によって、強い太陽放射や夏の光からまもられ、外界に充分に曝されずに、「貴族的に振舞う」植物なのである。

 以前にも述べたように、現代人は、太陽を、常に光の代表として観察しているが、物理学的にはそれでもよいが、人智学の探求には相応しくない。

 間違った自然観察から紛れ込んでくる言葉を、完全には回避できないとはいえ、ヤドリギが他の植物に寄生する事で生長し、繁茂する活動は重要である。そのような活動から、ヤドリギは他の植物とは異なる、特別の生長力を獲得する。

 ヤドリギが獲得する生長力は、例えば次のように示せる、

 「ヤドリギの生長力は、直線(線形)的ではなく、非直線(非線形)的になる。」

 次のように理解してはじめて、その生長力が明白になる。

 「図で描くと(下図参照)、物質体の活動によって、エーテル体を拒む部位があると、エーテル体は堰き止められ、停滞し、まるで新生物のようにみえる腫瘍が現れる。そして、この部位にできた腫瘍に対抗するのがヤドリギの生長力である。」

ヤドリギは、エーテル体が浸透しない場所に、エーテル体を再び誘導する。




 以上は、実験により確かめられる。直線(線形)的な成長とは異なる、ヤドリギの非直線(非線形)の傾向を、胎盤の排出に用いて、観察し、研究すればわかるだろう。

 ヤドリギは、胎盤を人体のなかに引き留める。すなわち、ヤドリギの性質から、直線的な働きの排出とは反対の、胎盤を引き留めるように働く。つまり通常の進行を止めるのが、ヤドリギの働きなのである。

 胎盤を引き留める働きは、エーテル体の活動だが、より精妙な、アストラル体や自我の活動からは、このような働きは滅多に起こらない。しかし、直線的な生長に対抗するのと同じ働きが、ヤドリギの働きからイメージとして現れる。

 例えば、エーテル体が、物質体を適切に掴もうとしない傾向に対して、ヤドリギの働きに気づいて、人体にその活動を実現させると、今度は、エーテル体が、あまりに強く物質体を掴み、痙攣の発作が起こる事がある。

 また、別の場合には、始終、自分が転倒するような独特の感覚が、ヤドリギの働きにより生じる事もある。また例えば、ヤドリギは、遺精の促進[pollutionsbefoerdernd]にも関係する。

 以上のように、ヤドリギは、人体の活動に対抗する働きを持つのを、例えば、癲癇(てんかん)との関係からも見つけられる。とはいえ、この働きはヤドリギの寄生の性質というより、ウィーンでは有名な俗っぽい表現でいうなら、特別製のソーセージを自然に焼いてもらっている=特別扱いされているのと関係している。

 ヤドリギは、春過ぎに花を咲かせ、実を結ぶ、通常の季節に繁茂せず、別の特別な時期、つまり冬期に実を結ぶ点で特別扱いされている。自然から特別扱いされている、ヤドリギは通常の季節に対抗する活動を獲得する。

 少し酷い表現だが、ヤドリギを眺めて、自然の活動を観察すると、次のような結論に至る、

 「自然の活動は、ヤドリギには常軌を逸している。自然はヤドリギには季節ハズレである。」

 しかしながら、他方において、人体の物質体が常軌を逸するとき、例えば、癌には、逆に、このヤドリギこそ用いるべき治療薬なのである。だから、癌になったとき、大切なのは、上述のような理解力を育てる事である。

 さて、ヤドリギこそ、その異常な働きを取り出して、外科医のメス代わりに用いるべき治療薬なのは明らかである。ただ重要なのは、ヤドリギの実を薬にするには、腫瘍にまで達するように、人体でエーテル化=免疫化できなければならない。

  (この部分の訳が難しいが、ヤドリギを投与する事で、問題の物質体にエーテル体が浸透するようにする事である。)

 常軌を逸している、とは、例えば、ヤドリギの種の存続において、その種子の受粉を、鳥の飛翔による移動を頼みにしている点にある。つまり、鳥が、ヤドリギの種子を樹から樹へと続けて運ばなければ、滅亡してしまう。

 奇妙にも、ヤドリギの種子は、鳥の体内を通る為、まず鳥に食べられ、排泄されてから、別の樹の上で、あらためて芽を出す。以上は、ヤドリギの生態を、注意深く観察すれば見通せる。

 また、ヤドリギの膠(にかわ)質[Leimsubstanz]を、塗布剤などにし、腫瘍の部位に(免疫細胞に外敵と認識されないように)、外から徐々に働くように浸透させていく[Potenzierung]のが大切である。

 腫瘍が生じた様々な臓器に応じて、ヤドリギの生える場所、つまり、どんな樹に生えるか、などに従って、異常な働きを、特定していくのが重要である。

 また、ヤドリギの膠質を、金属と配合し、もしくは植物に含まれる金属で間に合わせる事もできるが、腫瘍の部位に達するように、人体の(金属と蛋白質の)相互作用に基づいて、薬をつくる必要がある。

 例えば、林檎の樹に生えるヤドリギと銀塩を配合し、塗布剤にして、外から徐々に擦り込んでいけば、下腹部の癌に抵抗する働きを生じさせるだろう。

 (銀は生殖器と親密な関係をもつ。)

 『ヤドリギ:最近のハーブ図鑑の記述によれば、ヤドリギ(学名 ウィスクム・アルブム[Viscum album])には、蛋白質合成、免疫機構、循環器系、心臓に作用する成分も含まれるとされる。内服、外用ともに用いられるが、特に茎と葉はそのまま食すると有毒なので注意が必要。ツンとする、苦甘い、加温性のハーブで、血圧降下、免疫機構を刺激し、心拍低下、鎮痙、鎮静、利尿、抗癌作用があるとされる。

 北欧神話では、オーディンの息子、光の神バルドルは、ロキの計略により、ヤドリギの矢で殺されるが、のちに再生する。ヤドリギはまた、ドルイド教で重視され、新年の祝いに関連がある。これは特別な月相のとき、金の鎌で樫の樹だけから採られたという。』

 さて、以上について慎重にならざるを得ないのは、人智学の研究に基づいた根拠を有し、絶対に正しい、という確信をもつ一方で、実際に治療を始めるには、ヤドリギを加工し、薬とするための知識がほとんど皆無だからである。

 人智学の知見は、他の医師たちの下でも、根拠を有する臨床試験を、共同で実施していく場合にのみ有効となるだろう。

 人智学の知見と、実際の臨床への応用へのギャップが、医学への橋渡しを困難にしている。というのも、臨床上の経過観察と、人智学の探究の両者が、今日(1920年)の社会の慣行によって、いまだ余儀なく寸断されているからである。

 しかし、ヤドリギから、この両者が互いに結びつけば、本質的に成功する見通しがたつだろう。この方面に向けて経験を集めるのが大切である。というのも、臨床報告等により、検証を与える以外には、いままでとは異なった印象を与えられないからである。

 というのも、現代人は、精神=霊的な必然性というより、肉体的な必然性から、治療を必要とするからである。

 ヤドリギの異常な働きが、たった今説明した事例に、本当に基づいているのも、そのうち立証されるだろう。ただそのときには治療法が先に進んでいなくてはならない。というのも、次のように言えるからである。

 「前にも述べたが、樹の幹の本質は、土の瘤であり、内に植物を含み、通常の植物が生える小さな丘と同じである。」

 さて、土の瘤である幹に、ヤドリギが生えると、ヤドリギは樹の上でくつろぎ、地面とは反対に根を下ろす。だから、ヤドリギのように、狂った貴族主義を身につけながら、同時にボヘミアンのような寄生の特性は備えていない植物で実験してみれば、同じような経験が得られる、のが予想できる。

 実際、予想通りになるだろう。冬の植物の、正常な活動に反する抵抗力、つまり、病気に向かう傾向を調べると、冬に開花するのが相応しい「冬期植物」はヤドリギと同様の働きをもつ、のが予想できる。

 ただ、実験を、例えばヘレボルス・ニゲール、通常自然で見られるクリストブルーメ=クリスマスローズにまで広げていく必要がある。そうすれば、ヤドリギと同じ働きが得られる。

 『クリスマスローズ:真冬に白色または紫色の花が咲く、キンポウゲ科の植物。』

 ただ、前にも触れたが、男性と女性では働きが反対になるのも考慮しないといけない。すなわち、ヘレボルス・ニゲールは、女性では、はっきりとわかるような働きはほとんど得られないが、男性では、腫瘍に対して、ヤドリギが示したのと同じ抵抗力が得られる。

 以上について、次のような特徴を考慮すべきである。

 「ある植物が、冬に繁茂するのか、夏に繁茂するのか、また、その植物の働きはヤドリギと同じ状態で得られるのか、或いはヤドリギよりは地面に向かう傾向があるのか、といった事である。」

 ヤドリギは地上を好まず、黒ヘレボルス、クリスマスローズは地上に近づくのを好む。従って、前に触れたように、黒ヘレボルス、クリスマスローズは、どちらかというと男性に親和性があり、地上に親和性がある。

 他方、女性は、地球外=天に親和性を持っている。

 以上のように、男女の性差を考慮しなくてはならない。自然の活動について、洞察力を獲得する必要がある。

 だからこそ、これまでのように、外=天の諸力が、どのようなものか、特徴を述べ、示し、理解を容易にするために、ボヘミアン、貴族、狂気などのような道徳的観念を用いた。このような観念は、それほど不適切ではない為によく役に立つ。

 さて、このような観念を獲得すると、薬の内外からの働きの特徴的な差異も明らかになるだろう。しかし、この差異を考察する前に、正しく導く観念を、もう少し思い浮かべる必要がある。

 例えば、現在(1920年)出現している新種の病気の治療には、次のような事を研究すべきである。

 「例えば、植物炭を、長期間メタンに曝し、充分に浸透させてから、体外から擦り込む。植物炭にメタンを浸透させた軟膏薬を獲得できる。この軟膏薬は、その作用を促進する物質を配合する必要がある。」

 まず、軟膏薬をつくる技術を見つけないといけない。確実な技術で、例えば、滑石土(タルク、苦土)などを用いて軟膏薬をつくり、外から人体に働きかけないといけない。

 全体の活動を見通すのが大切である。最初に、人智学により健全な思考の学習を通して、眼差しを鋭くしなければ、病気を見通す事はできない。俗に「精神病」といわれる病気も次のように考えればよい。

そもそも人智学者は、「精神病」という表現を聞いただけで苛立ちを覚える。というのも、精神=霊は、常に健康で、病まないのに、愚かにも、精神病という表現を用いているからである。

精神の病を語るのは意味がない。精神自らの表現が、物質体=肉体に妨害された状態にあり、決して精神=霊魂が病んでいるのではない。精神病とは、肉体に生じている障害の徴候にすぎない。

 しかし、個々の具体的な徴候への眼差しを鋭くすべきである。例えば、宗教的な狂信やそれに類する精神病、(精神医学分野での病名は究めて混乱している為、正確ではないが、やはり、社会に浸透している以上、このような病名を用いざるを得ない)の徴候がみられる場合を考えてみる。

 精神病と呼ばれる病気は、肉体の障害の徴候にすぎない。このような障害の徴候が現れている場合、大切なのは、物質活動全体の病像が得られる事である。

 そして、この病像を呈している人の肺の活動の異常、呼吸のみならず、新陳代謝の異常を正確に見通す必要がある。

 というのも、精神病を、脳の病[Gehirnkrankheit]とする考えも、本質的には正しくないからである。精神病という表現は完全な間違いだが、脳の病は半分間違っていて、というのも、脳の変性は、副産物に過ぎないからである。

 (下半身の不調が脳に現れて、脳が変性するという。)

 この病気の根本は、人体上部にはなく、人体下部のなかで生じているはずである。病因は、肝臓、腎臓、心臓、肺という四つの臓器のなかにある。

 外の生活への関心を失い、思い悩んで妄想に囚われる、といった狂気への傾向を持つような人は、肺に何らかの異常が想定できる。

 同様に、我儘で、頑固で、独善と呼べる固定的な思考、いわゆる固定観念に凝り固まる人は、肝臓に異常がないか、を調べるとよい。

 というのも、このような人は、肝臓が、化学的に正しく機能していないからである。例えば、俗に言われている、脳の軟化ですら、副次的な症状にすぎない。精神病の観察は困難だが、病気の本体は臓器にある。

 本体が臓器にある為に、結局、次のような結論に至る。

 「俗に、精神病に心理療法を講じてもほとんど改善しないばかりかむしろ、臓器の病気の方の改善に期待がもてる。」

 だから精神病を、薬で治療する習慣を身につけていかなくてはならない。以上が精神病の本質である。そして、この精神病と呼ばれる病の治療が、現代医学の唯物的な方向性を、人智学の霊的な方向性へと転じる道を探す、第二の分野に他ならない。

 霊的な観察者は、本質的に、心療分野では熟練した心理学者でもある。というのも、心の中には、しばしば暗示として働く、遥かに多様な霊的要因が存在しているので、正しい観察を一歩一歩獲得していかざるを得ないからである。

 1つの事例で次の様に解説できる。人間の能力は、肉体上に組織されて初めて、霊魂の道具となり、能力が発揮されるが、ただ一回の人生で生じるのではなく、何回もの輪廻転生を得てはじめて獲得される。

 頭があまり良くない[schwachsinnig]と見られがちな人が、奇妙にも、優れた行動ができるのは、頭が良くない方が暗示にかかり易く、周囲の隠れた霊の影響を受け易くなる=霊媒体質の為である。

 この事例から、文化史的-病理学的に究めて興味深い観察ができる。このような観察の成果として、名前を挙げる必要はないだろう。信用は多少揺らぐだろうが、名前を挙げるのは、やはり不名誉で、不都合となるためである。

 特にジャーナリズムで、このような奇妙な事が起こる。頭がそれほど良くない人が、良い記者になれる。頭がよくないので、自分の主張ではなく、時代の主張を提示できるからである。時代の主張が、そのような記者を通じて、社会に反映され、従って、例えば、賢くない記者の記事は、知性鋭い[starksinng]記者よりも遥かに時代を反映したものとなる。

 自分の意見を作り出そうとしている知性鋭い記者よりも、あまり頭がよくない記者の記事を通じて、その時代の考えを良く知る事ができるので、本来の頭の悪さが隠れて現れてくる。これは極端な例だが、似たような話は人生では頻繁にお目にかかる。

 そのような記者は、最初は、記事を通じて、天才的な才能が現れるために、本来の頭の悪さに気づかないが、そのような事は日常生活では取るに足らない。というのも、頭の悪い記者によって新聞が書かれていても、良い記事をもたらすなら、害がないからである。

 しかし、もっとラディカルなケース、つまり隠蔽が限度を超えて、病気に移行する場合こそ、人智学の知見から、魂を観察する為に、偏見のない眼差しを自分のものにする必要がある。

 このような場合、魂の活動により、本質が隠蔽されているので、診断できない。なので、もっと魂の深い処にある徴候に従って診断しないといけない。だから次のような結論に至る。

 「魂を観察する際、錯誤に陥る可能性は極めて高い。というのも、例えば、その人の考えが、良い内容なのかどうかは大きな問題ではなく、考えを表明するのに、必要以上に、何度も繰り返す傾向があるかどうか、といった方が重要となるからである。」

 考えの表明の仕方が重要となる。繰り返し何度も表明するのか、飛躍して、つなぎの話がないのか、という表明の仕方が、内容よりも遥かに重要となる。

 だから、良い考えなのに、その表現が良くない事もあり得る。つまり、病気ではないが、健康ではないのである。

 (漢方でいう未病)

 良い考えを表明する人が同時に、精神病への素質をもち、その病の手に落ちる可能性があるかどうかは、その表現に飛躍的な傾向があるのか、それとも、何度も繰り返す傾向があるのか、に注意を向ける必要がある。

 何度も繰り返すのは、根本的に、肺の不規則な活動にある。考えが飛躍するのは、肝臓が正しく活動していないからである。これ以外は、この両者の中間に位置づけられる。

 次のような事も日常生活のなかで調査できる。通常、薬ではない食品、もしくは嗜好品の、例えばコーヒーは、魂に、とても明確で決定的な作用を与える。

 本当は、次のような作用は問題にすべきではない。というのも、このような作用に依存すると、霊魂を怠惰にするからである。それでも、次のような作用があるのは確かである。

 コーヒーを飲むと論理の欠如を補える。つまり、コーヒーを飲めば、論理を多く引き出せる状態にできる。

 だから、思考を論理的に続かせようとして、ストレスでペン軸を強く齧らなくてもすむように、記者たちが、コーヒーを沢山飲むのは、現代の論理を求める手段が習癖化した為だろう。

 また他方で、紅茶を飲めば、ペダンチックな論理的思考を妨げる事ができる。

 コーヒーを飲み、ペダンチックに思考を結びつけていくと、極端な場合、才気に溢れた表現ができず、自説の論理を披露するだけになり、聞き手が退屈してしまう。

対照的に、内向的にならず、できるだけ才気煥発で、社交協定を行う、古い政治体制から与えられてきた職業、つまり外交の場では、紅茶を飲むのが勧められてきた。

コーヒーが記者が好む飲物なのと同様に、紅茶は外交官が好む飲物である。紅茶は、飛躍的な思考が湧き出て、才気煥発なように思考を促進する。

 このような事を知るのは重要である。というのも、このような事を正しく評価するのを学び、霊魂に必要な道徳性を備えていれば、様々な食餌療法とは別に、道徳生活においても同じ事が奨励されるのがわかるからである。

しかし、自然との関係を学ぶには、文化との関係が重要なのと同様に、次のような事が究めて重要である。

 「例えば、ロシアでは、砂糖の摂取が究めて少なく、そして西欧、特にイギリスでは砂糖の摂取が非常に多い(1920年)。」

以上から、魂の進化によって、霊=自我が麻痺していない場所では、日常生活から摂取している食物などの影響を受ける、のがわかる。

例えば、外界への帰依によって、自己を表現するロシア人の場合、個人の感覚に乏しく、せいぜい理論的に後付けされるだけで、それが砂糖の摂取の少なさと関係しているが、対して、個人の感覚が強いイギリス人の場合、それは砂糖への強い嗜好と関係する。

しかし、砂糖の摂取量よりは、自我の欲求を見ていく必要がある。摂取量は、自我の欲求や憧れから生じるので、自我に目を向けるのが大切である。

 さて、精神病や心の病の真の病因を、人体下部のなかに探究すべきなのを考慮すれば、人体上下の相互作用が示される。この事を、病理学-治療が問題になるとき、見過ごしてはならない。人体上下の相互作用は、病理学でも、治療でも、常に考慮すべきものである。

でないと、外から病気に働く影響がどうなのか、正確な見解が得られないからである。病気に対して、足や頭を通じて、熱を与えるのか、水を与えるのかでは、大きな違いがある。

しかし、人体の上下間で働く相互作用の大きな違いにまず注意を向けなければ、治療のラツィオ=理念は獲得できない。従って、これから、この分野についてできる限り、外からの人体への影響について述べていく。

1-13

 人体を理解するには、下図のような関係が究めて意味深く、重要であるのが、霊的認識では直ちに明らかになる。

 外界のシリカを生成する活動が、人間の頭部の活動と関わるのと同じように、今度は、外界の植物の灰化=燃焼活動を、人間の胸部に適用すれば、胸部のリズム=規則的活動もまた2つに分けられ、下図が得られる。




上図は、次のように理解できる。

「上部の呼吸リズムに注目すれば、胸部をつくる活動の本質は、植物を燃やして灰を得る活動と対極の活動により引き起こされる。」

だから、胸部には、植物の灰化と相反する活動がある。つまり植物の灰化活動に対して闘いの継続が胸で起こるが、植物の灰化活動を抑制するには、反対の活動が胸に入り込まないといけない。

 呼吸リズムのなかには闘いがあり、つまり植物の灰化に対する闘いがあるが、この闘いは、その反対の対極が、入り込まなければ起こらない。

 外界にシリカや石灰が存在する地球に人間は生きている。シリカや石灰の活動が、人間を満たさなければ、人間は地上で生きられない。人間でいられるのは、外界とは対極にある活動を担う事、つまり、外界のシリカの活動に抵抗し、反対の活動を担う事で、石灰に対して、抵抗できる事による。

 外界の活動に反対する活動を、頭や人体を通じて、様々な割合で、人間は自らのなかに担っている。呼吸リズムを図示したように、人体には、植物の灰化活動に対抗する闘いがある。人体には、この植物の灰化活動の反対の極がある。

 このような事を大まかに表現するなら、打てば打ち返される(打撃が反撃を引き起こす)、というカルマの法則を不思議に思わないだろう。

人体でシリカの活動を適度に強化すれば、その反対の活動も強化され、燃焼活動の産物を人体に取り入れると、その反対の活動が引き起こされ、この作用と反作用を、いかに支配下に置くか、という重大な問いが生ずる。

 以上を、客観的に表現すれば、自我にまで至る活動がどのようなものか、そして、外界の活動がどのようなものか、を認識する事が大切である。

 これらの活動は内と外では異なっている。しかし、内と外で、これらは互いに対極を成している。

 ★        ★        ★

 俗世に生きようと俗世に染まる莫れ。永遠に生きよう。





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Last updated  2018年01月16日 21時23分55秒
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