シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2024年02月20日
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カテゴリ: 神秘体験空間
放送大学にハマり、ブログ更新が週2回になるのをお許しくだされ。放送大学の講義をみていて思うのは、外国語、特に英語からの翻訳語が多いのか、そのまま横文字にしたものや、日本語の覚え難しさにある。特にホルモン名や薬名、専門技術用語などの読み方など、記憶力に乏しい脳をもつ拙者には、なかなか頭に入れるのが困難なんである。考えてみれば、漢字は中国の漢のもので、カタカナ横文字は西洋のもので、純粋に日本の古来のものといえる日本語は、ひらがなぐらいしかないのに気づかされる。

コンピューターの語源のコンプトスがギリシア語の計算の意味からきていて、アルゴリズムが、算法という意味で、古代アラビアの数学者フワーリズミーからきているのを知って驚かされる。アルは冠詞で、アル-フワーリズミーの発音から、アルゴリズムとなるそうである。数学史を学ぶと非常に面白く、このような未知の面白さがあるから、放送大学にハマってしまうのだが。

フワーリズミー - Wikipedia


昔に勉強した経験のある学問ならば、懐かしさもあって、それほど苦痛ではないが、初めて知る専門用語などは、日常生活ではほとんど使わないものなので、似た言葉から連想して覚えるしかないが、結局、似た言葉で覚えてしまうので、似た言葉で記憶力が定着して、逆に障害になり、思い出せずに難儀となる。

シュタイナーによれば、潜在意識においては全てが体験として記録されているが、そのうちのどれだけが覚醒意識で脳裏に印象として焼き付けられるかの、いわば写真の現像と同じで、その処理能力が、記憶力の優劣になる、というような話をしていたように思うのだが、この記憶も吾輩のものなので、定かではないのであしからず。

いずれにしろ、潜在意識中では、日常の全人生が経験として、記録されているので、それを人智学ではエーテル体と呼んでいるのだが、それは死後に肉体から離れるときに、走馬灯のように人生を遡って追体験するわけで、記憶上、つまり覚醒意識で失われていても、経験としては失われていないので、覚醒意識では、何も覚えていなくても、人生経験をする意味は充分にある、といえる。

現代では記憶力が良い人が頭が良いとされるが、それはつまり、写真の現像処理が素早く、常に覚醒意識でもって、写真として取り出せることで、その能力は、覚醒意識の優劣に帰される、といえるだろう。人智学的にいえば、肉体の感覚と、エーテル体との連携がスムーズで一致しているといえる。この覚醒意識の能力には、数学や音楽の才能も関わっているようで、知り合いに聞いた話だが、東大生のなかには、見ただけで瞬時に記憶してしまう優れ者がいて、大学入試や非公開試験の問題作成に重宝されるらしいが、将棋の藤井聡太八冠もそのような存在なのかもしれない。脳科学では、右脳の空間把握力を使っているという説もあるが、前回紹介したように、人体の右側は、エーテル体が優位の側面なんで、物質的な言語分類感覚よりも、非物質的なイメージの感覚を、イメージの霊感を活用したほうが良いわけなんである。

古代アトランティス人は、現代人のような物質体の肉体をもたずに、エーテル体が最下位で、いわば肉体だったので、そのまま記憶力が生かされ、現代人とは比較にならないぐらいの記憶力に優れていたが、覚醒意識ではなく、潜在意識だったので、太陽光の昼は眠っていて、夜に月光から活動したのを以前紹介した。そのときの物質体は、現代の寝袋だったわけである。だから、古代エジプト人は、霊魂を肉体に戻すために、寝袋としての、ミイラをつくったのである。

だから、記憶力を優れたものにするには、エーテル体と物質体を密接にし、連動をよくすることなのだが、どんな物質的な元素でもいずれ崩壊し、放射線を発するのでわかるように、物質体は崩壊に向かう自然の法則に従っているわけで、崩壊を再構築する生命力のエーテル体が、地上の生活とともに、物欲の高まりに、処理しきれなくなり、その再生力を失い、物質界から離れていくわけで、つまり、物質界に固執すればするほど、物質的に安定を求めるほど、不安定になり、崩壊していくわけで、例えるならば、美味しいものを食べた分だけ、その美味しい食べ物を失うわけで、欲望を求めるほど、現実は安定どころか、一方通行になり、崩壊に向かっていくわけなんである。人間は物質を破壊させながら生きている。

世のなかの、物質界には、押してみてだめなら、引いてみな、という諺があるが、生命力と物質の関係をよく表している。これは陰陽の関係の経験則ともいえ、男女間も、相手に求めるだけではいずれ別れてしまうので、ある程度求めたら、今度は逆に(考える時間などを)与える事の重要性を説いている。求めすぎるとかえって崩壊に向かう。男女間の関係崩壊も、陰陽の違いを考慮せずに、自然の物質的関係を求めすぎるからといえるだろう。男女は陰と陽だからこそ引き合うわけで、同じ陽と同じ陰なら、プラスとプラス、マイナスとマイナスで、物質的には、かえって反発するのが自然の法則なんである。

「押してダメなら引いてみろ」で男心を掴むには? 成功パターンを解説! | Oggi.jp




そして、離婚の原因が、価値観の不一致となるわけである。自分にない価値観に惹かれてくっついたのに、価値観を一致させようとすれば、分かれるのは必然の自然の法則といえるだろう。宇宙全体は多様性の方向に進んでいるわけで、だからこそ、自分に無い価値観に惹かれ、くっつくわけなんで、それを永久に固定しようとし、物質的にも、異なる価値観を一致させようとすれば、互いが標榜する価値観の土台となっている、自己を相手に奪われる恐れが生じ、論争、闘争、戦争になるしかない。

特に精神的には女性が優位なので、この価値観の一致を相手に強いる傾向にある。男性は、物質界において安定を求める傾向にあり、物質的に自己を満足しようとするので、精神的に安定を求める女性とは、真逆で水と油の違いともいえる。

つまり、重要なのは、互いの価値観を認め合うことで、価値観の一致ではなく、それは宇宙が多様に進んでいるので、困難なんである。相手の異なる価値観をどこまで認めあえるかの許容範囲、つまり、相手への理解力といえるだろう。更に、結婚は、異なる価値観の上に、子育てという、また新たに、この世にはない未知の子どもの誕生から、男女相互の現実的な価値観の違いを浮きだたせ、未来についての新しい価値観を共有する必然性をもった存在が加わる出来事が生じるわけで、だから、結婚は、逆説的にいえば、異なる価値観をどれだけ認め合えるか、愛の試練が日々努力によって試される愛の道場といえるだろう。

記憶力から、結婚の話となってしまったが、結婚は判断力の欠如、離婚は忍耐力の欠如、再婚は記憶力の欠如と誰が言ったかわからねど、有名な文言で、価値観が異なる相手と惹かれ合い結びつくのは、確かに判断力の欠如といえ、相手に自分の価値観を押し付けるのは、忍耐力の欠如といえ、価値観の不一致で別れたのにまた結びつくのは、記憶力の欠如といえるかもしれない。

異なる価値観を認めない独善的な人は結婚には不向きかもしれないが、そのような人が結婚してしまうのは、記憶力と判断力の欠如にあり、それは、人智学的にいえば、エーテル体と物質体との関係もアンバランスで、それを統合し、バランスさせるアストラル体、つまり情緒が不安定といえるわけで、心の病気といえば、病気なのだろう。しかし、結婚して子どもが産まれなければ、民族が絶えてしまうのは、自然の摂理なので、より多様な他民族国家に向かうように、移民を認めるような寛容性をもてればいいが、いまだに巷には老害が盛り沢山の令和で、老害の女性への蔑視の子を産む道具発言などが度々かまされる、のをみれば、結婚欲という物欲の奴隷がゾンビのように繁殖するだけなのかもしれない。

いずれにしろ、老害が蔓延る社会で、異なる価値観を認めあえない家庭に育った子どもは孤立を深めるしかない。だから、偽物の愛である欲望には、注意しないといけない。愛は求めるものではなく、与えるものであると、キリストも語っている。なにより、巷の政治家をみれば、国民への愛が皆無で、金銭欲や名誉欲、物欲に旺盛で、それらは死んだら皆無になるのに、国家を滅ぼす、馬鹿で愚かな輩が増殖中なのが明らかなんである。

さて、恋多き大人といえば、先日、映画「男はつらいよ」の寅さんに憧れた外国人をTVで紹介していた。その外国人が挙げていた、寅さんの名言といえば、妹の子どもに、失恋で意気消沈した際に、「おじさん、人間はなんのために生きてるのかな」と聞かれ、「なんだ難しいこと聞くなぁ、なんていうかなぁ、あぁ、生まれてきてよかったなぁ、と思うときが何遍かあるじゃない。そのために、人間は生きてるんじゃないのか」と応えるセリフが人生の機微を表わしていて象徴的である。

男はつらいよ - Wikipedia


男はつらいよが、本当は、恋はつらいよ、ならぬ、人生はつらいよ、人間はつらいよ、を意味していて、つらいなかにも、ほっとする安堵の瞬間や、ひとときの幸福感、躍動する恍惚感というか、何度も死にたい思いをしながら、あぁ、生きていて良かったなぁ、と言える瞬間を求めて、人間は生きていると、寅さんは語っているようでもある。自分の想いは届かないのに、現実にはあり得ないのに、寅さんは、辛い茨の道とわかっているのに、恋する主人公なんである。非現実な恋愛病である。

考えてみれば、人間誰しも恋愛病に罹っている。叶わぬ夢をもとめて、名誉欲や承認欲、物欲などは、恋愛病の亜種とも考えられる。飲酒や喫煙が体に悪いとわかっていても、やめられない人も沢山いる。一度身についた習慣は、失恋という現実を知らされるまでは、なかなかかえられない。病気やガンに罹ってから、飲酒や煙草の害をリアルに知る。寅さんの場合は、たとえ成就したとしても、渡り鳥のような渡世の生活では、世間的な常識に叶うリアルの価値観を埋めるのは非常に困難である。渡り鳥をやめるわけにはいかない。

寅さんという人物は映画の世界だから存在するわけで、現実の世界では、マドンナは現れず、現れても、価値観があまりに違いすぎて、惹かれ合う領域にも到達しないだろう。非現実な演劇の世界である。しかし、そのような全く異なる水と油の価値観でも、一瞬のひとときなら、認め合えるリアルがある。どんなに地獄の世界に暮らしていても、ある瞬間のひとときには、天国が垣間見れる。

地獄のなかに咲く花がある。それが叡智なんである。あらゆる多様性を認め合える叡智がある。



この経験を得るために、自分は生まれてきたのか?と叡智から知らされ、わかったとき、人間は現世を超え、昇天する。まさに天国にいる心地になる。いまの他人は、実は昔の自分だったんだと。

エリ、エリ、ラエマ、サバクタニ

キリストは、人間の死を知るために、生まれてきた。あぁ、生まれてきて良かったなぁ。人間になってみてわかったよ。人間を宇宙からみていたらわからなかったよ。人間から宇宙をみて全てがつながったと。

潜在意識に眠っていた記憶が蘇り、キリストのように復活し、昇天する。

この経験をするために、自分は生まれてきたのか、とわかり昇天する。そのひとときの天国を求めて、地獄の世の中に、人生はつらいよで、寅さんは生きる、のである。



渥美清 男はつらいよ 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)


フーテンの寅さんのなかに、キリストを読み解くために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。

             ★        ★       ★

 いまの地球を、現在の物質的な存在だけでなく、過去の時代に生じた事象が再び、現在のなかへと流れ込み、繰り返されるもの、と想像してみる。人智学徒は実際、このような歴史の繰り返しが起こるのを熟知している。現代人が生きているのは、ポストアトランティス時代の第5期のアーリア文化期だが、第3期の、古エジプト-カルディア時代に起きた出来事が、現代にまで流れ込み、また違った形で、再現される。

 第3期の時代に生じた事象が再現し、繰り返される。これは古「太陽」紀に生じた、愛を与えることと、愛を受け取ることの再現でもある。このように想像すれば、叡智霊を、古「太陽」紀における、愛の授与者、そして、大天使を、愛の受容者と見なせ、宇宙進化の歴史を読み解ける。この解釈から特筆すべきイメージが生じるが、それを正確に思い描くには、与えられる愛が、中心から放射してくるような、内的に閉じた円の天体を想像できる。

 その球は、中心点から周辺へと愛を放射し、そして、円の側面に達すると逆に、反射され、中心点へと戻っていく天体である。大天使たちは、自分たちが受け取った愛を、その天体の球面の内側から再び反射し、中心に返している。その円の面の外側には、何もない。

 中心から外に向かって動くのを想像すればよく、それは、叡智霊からやってくる。それはあらゆる方向へと放射され、それを反射し、返す大天使たちによって受け取られる。では、空間中へと反射し、返される愛とは何なのか?

 大天使により、再び、叡智霊へと返される、この愛への返礼品とは何なのか?

 再び、中心の源泉へと向けられ、叡智霊へと返され、放射される愛への応えとは何なのか?

 それは「光」である。大天使たちは光の創造者でもある。光とは外(界)的な幻想の中に現れるものではない。光が生じる処では、叡智霊による愛が、人間に向けて大天使により変換されている。光がある場に、いるのは、大天使たちである。

 だから、溢れる光線の内部には大天使たちが隠れている、と言える。人間の元に来る、溢れる光線の背後には大天使たちが隠れている。光を流出する大天使たちの能力は、叡智霊たちが、大天使に向けて放射する、「与える愛」という徳から生じる。

 このように読み解けば、古「太陽」のイメージに到達できる。その中心では、叡智霊たちが、古「土星」から受け継がれてきた遺産(トローネによるケルビムへの犠牲行為)を思い浮かべ、その叡智を秘めているのが想像できる。この犠牲行為を思いやることで、叡智霊たちは、自身の本性(与えるという徳の、愛の形を取った流れる叡智)を放射するように、解き放たれ、促される。

 この徳は、時間のなかに保存されているために、送り出された後、再び反射されるが、そのため、イメージすれば、中心の源泉へと反射し、返される徳の、愛の光によって、内部が照らし出された天体である。というのも、古「太陽」は、現在の太陽のように、外からではなく、内に向かって輝く天体だからである。そして、この内への光の照射により、何か新しいことが生じるが、それを次のように読み解ける。

 叡智霊が「太陽」の中心で、犠牲を捧げるトローネを思いやり、犠牲の愛に満ちる自分という存在を、その遥かな周囲へと放射する。そして、叡智霊が放射した愛は、その天体の表面から、大天使たちに、光の形に変えられて戻ってきて、再び、叡智霊により受け取られる。その愛と光の繰り返しにより、あらゆる存在が益々愛の光で照らし出されるようになるが、光として反射され、返される愛から、受け取れる、その光の、愛の、内実とは何なのか?

 大宇宙への贈り物として捧げられた愛とは、自我自身の存在、愛で一つとなる、その根底にある無償の愛へと犠牲になる存在である。いま、その無償の愛が、光により反射され戻ってくる。無償の愛の存在が、外から、その本性をなす叡智霊へと戻ってくる。叡智霊たちは、大宇宙全体にばら撒かれた自我の内的存在である無償の、犠牲の愛の行為が、光として、つまり、自我の存在の反映として、反射され、戻ってくるのを見る。

 いま、太陽という天体で、内と外とが2つの極として、人間の前に解き明かされ、立ち現れる。前と後とで、自らを無償の愛により還元し、変容し、内と外とになり、そして、愛のキャッチボールをする、空間が生まれる!

 叡智霊により与えられた、犠牲の愛への思いやり、というまた別の愛の徳への返礼の光から、古「太陽」上では、空間が生じた。それ以前には、空間とは、なんら存在し得ない、無のシンボルのようなものだった。しかし、古「太陽」上には、実際に、光により空間が生じたとはいえ、それは現代の数学でいえば、2次元的な円のような形に過ぎず、上下も、左右もなく、ただ内と外があるだけだった。実際、これら2つの極は、古「土星」紀の終わりには既に現れていたが、古「太陽」上での空間の創造のために、その土星での出来事が、太陽紀に、叡智霊たちにより繰り返された。

 そして、もし、これらの出来事全てを、現代風に、想像し直すなら(土星紀に、犠牲を捧げるトローネが時間霊を生じさせたように)、現在の、光からなる太陽のような、球の天体を思い描いてはならない。というのも、当時の光はまだ外に向かって放射するようなものではなく、内に向かって放たれる反射のみ可能な、2次元の円として存在していたからである。





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Last updated  2024年02月20日 16時18分25秒
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