シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2024年03月07日
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カテゴリ: 神秘体験空間
エベレストのような山に登らなくても、誰しも、山登りほど、辛いものはない、と思ったことがあるだろう。そんな辛い登山をなぜするのだろうか? 人はなぜ山を登るのか? 頂上の景色が美しいからか、しかし、今は飛行機やヘリコプター、ドローンもあるが、それでは達成感がないといわれるかもしれない。空撮の映像からは感じられない体験がある。また山や崖から飛び降りるパラグライダーや、鳥のような翼で飛ぶ命知らずの人もいる。

登山家ジョージ・マロリーの有名な登山への応え「人はなぜ山を登るのか、そこに山があるからだ」からすれば、登山を人生に置き換えて、「ヒトはなぜ生きるのか、そこに人生があるからだ」という答えになるが、やはり、苦労を乗り越えた達成感、悦び、苦痛から解放された解放感、過去の自分とは決別し、成長した自分、なんらかの自分の壁や殻を破った感覚を、新しい感性を獲得したいため、といえるのかもしれない。

ジョージ・マロリー - Wikipedia


ヒトは、日常の物質界のなかで生きながら、心底では、物質界を超えたい、と願っている。この冒険心が、ヒトをして、山登りをさせるのかもしれない。いうまでもなく、日常の生活は、物質界を破壊することで、覚醒意識を獲得し、ヒトは生きている。そのために、地球の環境は破壊され、地上は都市化され、人間は大自然の営みから解放され、自由に活動し、現代人は自我を確立し、自立して、経済生活を送っている。

そして、現代人は、地球の大自然を超えて、月や火星に行こう、としている。月や火星にも、地球と同じ環境を求めて活動し得ると確信し、思い込んでいる。月や火星にも物質界があると信じ込んでいる。月や火星に無人探査を送り込んで、探査船から映像を送ってくるが、果たしてそれは本物の月や火星なのか、コンピューターにより映像化し物質化しているだけではないのか? 

宇宙船は飛行機やドローンのようなもので、本当に、山登りをしているのか?という疑問が生まれる。

地球とは別の天体を電磁波の光や電波で解析して、物質化しているが、その科学的考察、その物質的な過程は果たして正しいといえるのだろうか? 物質界が全て、と、どうして信じられるのだろうか?

我々地球人、自らを知的生命体と呼ぶ人間は、地球以外には、太陽系には存在しないと、物質科学では、覚醒意識から断定するが、それは現代人が唯物論に洗脳されているからにすぎない、単なる妄想だと、古代叡智や、シュタイナーは解き明かしている。

我々、地球人は、地球という叡智の山を登っている、にすぎないのである。地球を中心にした、物質界、人智学でいえば、鉱物界を全てだと認識しているにすぎないのである。むしろ、叡智を鉱物に譬えるのなら、地球という山を登っているのではなく、谷を真っ逆さまに堕ちている、といえるかもしれない。

前回紹介した人類の進化数からすれば、人類、つまり地球人は、他の天体に住む、宇宙人の意識、つまり叡智と比較すれば、谷を転げ堕ちている段階にある、といえるかもしれない。巷のこの国の裏金政治家をみれば明らかである。

【シュタイナー】地球紀の進化過程について~現在はポスト・アトランテ ィス時代~ | Noos Eggs (cosmolifeology.com)





これから物質界の破壊の世界を乗り越えて、創造力を再び取り戻す、第6文化期の登山がはじまるわけなんである。第5文化期の特徴といえば、物質文明による自己確立の時代といえるかもしれない。このまま破壊が進めば、核兵器での戦争のように人類滅亡も充分に考えられるのは、ロシアのプーチンやイスラエルのネタニヤフをみればわかる。

シュタイナーは、第6文化期辺りから、霊能力の再獲得が始めるのを預言し、前世の記憶をもつ子どもがうまれてくると語っている。つまり叡智の、霊意識の、山登りがはじまるわけなんである。ちなみに、第6文化期はスラブ文化期と呼ばれ、第7文化期はアメリカ文化期と呼ばれてもいる。

それらは物質的意味ではなく、あくまで霊的な意味なので、スラブと呼ばれる意味は、東洋と西洋の狭間という霊的な意味で、アメリカと呼ばれる意味は、物質的な滅亡や死の意味で、アメリカ先住民が持っていた死からの再生の、霊的な不死鳥フェニックスの意味である。つまり、人類はアメリカ文化期に至って、輪廻転生を知るということである。

シンボルマーク・カチーナについて | doubleroxer (route66.tokyo)

星 ネイティブアメリカンには独自の星座があります(1) | INTO THE DEEP EARTH アメリカ 深く大地の中へ (ameblo.jp)

サンダーバード ( 伝説の生物 ) - Wikipedia


サンダーバードといえば、子どものときの、♪トットるるぅという音楽ではじまる、イギリスの人形劇を思い出し、また、アメ車の名前にもあるが、このサンダーバードという国際救助隊の活躍を描く人形劇が印象に強く残っている。その番組の当初の設定は、2065年に国際救助隊ができて、活躍する未来を描いているわけだが、第7文化期のアメリカ文化期に、サンダーバードという霊視力再獲得の救助隊が生まれれば面白いかもしれない。いまからあと41年なんで、自分は恐らく次の転生に向かっているだろうな。

サンダーバード ( テレビ番組 ) - Wikipedia



再び、上に紹介したサイトの、意識進化(発展)の教科書みたいな図を参照すると、この図から、他の天体にも、地球人を超える知的生命体がいるのがわかるはずである。ただし、現在の地球人のような唯物論に染まった覚醒意識で確認できる存在でないのがわかるはずである。我々地球人からは、物質的には捉えられない、いわば空や無のエネルギー体であるのが、つまりカオスの海の中に漂流する存在なのがわかる。

だから、地球人以外の知的生命体と交信するには、少なくとも、第六感を獲得しないとダメなんである。



前回、進化数と一緒に他にも、カオスの海の、空や無を、カオス領域と考えれば、輪廻転生の生命循環論が解き明かせるのを紹介した。つまり、空や無が、物質がないという意味で無といえるが、何もない無ではなく、物質では捉えられない、いわば混沌のカオスと考えられる、のを紹介したわけなんである。そこで改めて考えてみる。

現代物理学では、物質で捉えられない、いわば、この混沌のカオスの領域を、例えば、真空のエネルギーとして、調和振動子のゼロ点振動で、数学的に記述し、相対論的量子力学を発展させたゲージ場で、時空の場を、ゲージ理論の対称性を用いて、量子化した場の理論で表現し、電子の生成消滅については、ディラックの海と表現し、考えている。

ゲージ理論 - Wikipedia

ディラックの海 - Wikipedia

零点振動 - Wikipedia

ダークエネルギー - Wikipedia


このゲージ場という考えを、学生のときには、数学が難しくてほとんど理解できなかったのだが、つい最近の、放送大学で勉強しなおして、量子力学ができる経緯の、量子力学史を知って、なんとなくわかるようになった。ゲージ場を簡単にいえば、鏡のような、エネルギーを映し、物質に変換する、ドラえもんの4次元ポケットのようなものである。

数学では、この鏡のような物質変換装置を、対称性の変換で数式化し、群論で表現するのだが、鏡は2次元だが、それを立体化し、時空の4次元化した、ドラえもんの4次元ポケットという感じかもしれない。

群論 - Wikipedia

四次元ポケット - Wikipedia


つまり、簡単にいえば、我々の物質界は、無のゼロ点で、他の世界と対称性を通じてつながっているわけなんである。だから、カオスの海のなかを、対称性を土台にし、それをいわば羅針盤にして、地球を宇宙船のようにして、まるで物質界を島のようにして、その島にとりついて、人間は昼に入っては、夜に出ていき、漂っているわけなんである。だから、人体にとりつく細菌と同じかもしれない。ちなみに、人体の細胞の数よりも、細菌の数が多いと、現代医学ではわかっている。



だから、人生の中から浮上するには、対称性をみつけるため、つまりモラルを守らないと、カオスのなかに埋没してしまい、自己を失って、獣のように地獄の輪廻を生きるようになってしまうわけで、それを霊魂のゲヘナと呼んでいるのだろう。

古代人は、この対称性を、人生の羅針盤を、道徳のモラルとして伝えてきたわけで、それが第六感の再獲得であり、シュタイナーは、バガヴァッドギーターから、アルジャナの時代のクリシュナ神の働きから、サンキヤ―哲学の3つのグナの、サットヴァ、ラジャス、タマスから、古代人の霊能力を解き明かしている。

ゲヘナ - Wikipedia

バガヴァッド・ギーター - Wikipedia

サーンキヤ学派 - Wikipedia

世界を作り出す 3 つのグナ:サットバ・ラジャス・タマスを知ろう | ヨガジェネレーション yogageneration (yoga-gene.com)


3つのグナとは、霊能力である創造力を、対称性で表現する言葉のようである。勿論、物質的な言葉ではなく、また現代の覚醒意識からは捉えられない、いわばカオスのような存在なので、表現は不可能である。第六感の感覚みたいなものである。勿論、鉱物の物質界の物質的思考を無くさないと、捉えられない感覚である。つまり、物欲に囚われている現代人には捉えられない感覚である。

端的にいえば五感を超える感覚で、超感覚と一般的にはいわれてもいるが、だからカオスのようなもので、最近ではカオス工学で、アトラクターのような記述で表現してもいるが、所詮それは生命現象を物質化して捉えているだけで、シュタイナーによれば、サットヴァに近いがサットヴァではない。現代の五感や感覚では、捉えられない存在なんで、この3つのグナの、サットヴァ、ラジャス、タマスの感覚は、霊能力を獲得しないと、ほとんど理解困難なんである。

しかる吾輩も霊能力を獲得していないので、この3つのグナについては、シュタイナーの言葉を理解していくだけしかできない。またシュタイナーの言葉がドイツ語で、その翻訳から現代的発想から連想しているので、その連想を、睡眠中に模索するしかないわけで、この3つのグナについては、いまでも研究中という他はない。



古代ギリシア人が、幾何学を感性に用いたのは、この幾何学の対称性による、物質の構造を理論的に探求する、いわば現代の科学的思考の発端となる、サットヴァに近い感覚といえるかもしれない。シュタイナーは、ポストアトランティス時代以降の人類には、植物界を生命的に捉える感覚が失われてしまっているので、植物を物質のように鉱物化して捉える感性は、ラジャスと呼んでいる。例えば、植物摂取を栄養の物質で捉える感覚は、生命的感性が抜けているので、ラジャスと呼ぶみたいである。

3つのグナを現代用語に置き換えるのはカオスで、不可能だが、それは五感の破壊力ではなく、睡眠中の創造力を捉える霊能力を表現する感性だからである。古代インド人が、サットヴァのような人と呼んだ、いまでは、菩薩の語源のボーディサットヴァとは、霊能力者であり、当時の人類の進化段階で最善の叡智、つまり、真善美の意識を体現した生命存在を意味したようである。

そして、大まかに言えば、サットヴァが、闇のカオスから対称性を見つける、いわばカオスの縁のような状態を意味し、ラジャスは、ただ物質界の移り変わる現象のままを、そのまま眺めるだけで、いわば自然現象がそのまま崩壊や破壊に向かうのに沿って眺めるだけの態度や状態で、タマスはカオスのなかの闇に横たわる状態を意味するようである。この3つのグナの感性についてはまだまだ研究の余地がある。

3つのグナは、いわば、登山の三種の神器みたいなもので、サットヴァが、登山靴で、ラジャスが、ザック(リュック)で、タマスが、雨具といえるかもしれない。三種の神器とは、鏡、剣、勾玉だが、人智学でいえば、霊我=マナス、ブッデイ、アートマといわれている。

3つのグナから、再び霊能力獲得の登山に向かう為に、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。

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 土星存在による犠牲に、与えるという徳が、太陽存在により加わったとき、古「土星」紀から「太陽」紀へと上昇した。地球が、土星から、第2の進化紀の、太陽へと体現した中にみつかる存在は、進化の真相へと、我々を、一歩近づける。そこで、再度、物質界という幻想を取り去り、霊的な真実の領域に属する概念を導入する必要がある。それは、人類進化の現状を取り上げる前には、必須の概念だからである。

 この必須の概念に、次のようにアプローチする。人間が、外界(物質界)での生活の中で、行い、何かを達成するとき、一般にその成果は、当人の意思からもたらされる。人間が何をするにしても、例えば、手の動作や、偉大な行為であれ、その活動の背後には意思がある。ヒトに何かをさせたり、何かを達成するように導くのは、そのヒトの意思にある。

 だから、強く働く行為、例えば、治癒や恵みをもたらすような行為は、強い意思から来て、さほど働かない行為は、弱い意思から来る、と思うかもしれない。一般に、行為の程度は、意思の強さにかかっている、と考えがちである。

 そして、意思を強化しさえすれば、どんな行為も達成できる、と考えられるが、その考えは、物質界では、ある程度通用するが、ある限界を越えると、意思を強化しても、達成できなくなる。驚くだろうが、人間の、特に、精神界に関わる行為については、意思の強化に依存しない。

 勿論、物質界では、行いの程度は確かに意思の強化に依存する。つまり、より多くを成そうとするなら、より多くの努力が必要となる。しかし、精神界では、むしろ、その逆となる。精神界で、偉大な行いを為して、偉大な成果をもたらすには、意思の強化というよりも、むしろ、意思を空にし、身を引き、諦める、のが肝要なのである。

 人間のなかの心の機微、繊細で、純粋な精神の、奥ゆかしさについても、この諦念に則って、促進できる。切なる望みをもったり、没頭するのではなく、意思を抑制し、望みを抑制し、満足を諦めれば、精神的な成果を達成できる。

 内的な、精神の精進を通じて、偉大な成果を成し遂げるには、まず、自分の意思や望みを抑制するのを学ばなければならない。物質界では、よく食べ、栄養を満遍なく、人体に行きわたらせ、エネルギッシュになれば、より多く、強くなるのに対して、精神界で、偉大な成果、意義を達成するには、逆に、断食を行い、意思や望みを抑制し、諦めない、といけないのである。

 偉大な、精神的な努力に向けた準備には、必ず、欲望や意思の、つまりエゴを捨て去るのが含まれている。エゴの我、意思がより少ないほど、人生が投げかけるのに身を委ね、それに抵抗するような、様々な意思から欲望を導くのではなく、むしろカルマが、我々の前に、投げかけるままに、物事を受け取るほど、精神的成果を獲得できるようになる。つまり、カルマと、それがもたらす現実を受け入れるほど、言い換えれば、人生において、受け入れなければ、達成したいと思った、あらゆる欲望を諦め、冷静に振る舞い、静かに見守るほど、益々精神的に強くなる。この事が正しいのは、例えば、思考活動に現れる。

 例えば、美食を好み、好きな食べ物、飲み物を好きなだけ飲食している、教師や教育者が、生徒に向けて語る言葉には、説得力がなく、生徒に対して精神的成果を与えられない。そのような教育者の言葉は、生徒の耳を、左から右へと通過し出ていく、のが明らかになる。

 そのような教師は、言うことを聞かないのを、生徒の責任に感じるかもしれないが、そうとは限らない。より高次の、奥深い、人生の意味を理解し、慎みをもって生き、生命を維持するのに不可欠なだけ食べ、特に、運命が与える事柄を、意識的に受け入れるような、教育者は、自分の言葉が大きな力をもつのに、徐々に気づくようになるだろう。そのような教師を一目見るだけでも、精神的な成果をもたらす。

 実際、そのような教師は、生徒を見る必要さえない。そのような教師は、生徒の近くに居るだけでよく、生徒を勇気づけるような考えを持てばよい。その考えが言葉で表現される必要もない。言葉にしなくても、生徒には伝わる。運命を受け入れずに、自らが強く望む、欲求に沿って行動するのを、諦め、断念する程度に、欲望を放棄するのに、全てがかかっている。

 諦めの道は、精神的活動における正しい方法で、高次の霊界の中で精神的成果へと導く。この点について、多くの幻想に遭遇する。表面的な、物質的な諦めは、諦めに似ているように見えても、幻想であり、正しい精神的な成果を導くことはない。日常の生活において、自らに苦しみを課す、禁欲主義を知っているだろう。

 多くの場合、そのような自ら課す苦悩は、自己陶酔、もしくは自己満足のため、より大きな欲望、また別の違った欲望を成就するために、恣意的に選択している可能性がある。そのような場合の、自己否定は何の成果もなく、それは、精神に根ざした諦めでなく、見せかけの自己否定に過ぎない。





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Last updated  2024年03月07日 17時50分47秒
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