シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2024年07月16日
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カテゴリ: 神秘体験空間
我が物顔の独裁者は困った存在である。巷で就職していたときは、数多くのプチ独裁者に出くわしたが、現場の状況などお構いなしに机上の空論を振りかざし、自分の思い通りにいかないとヒステリーを起こすような子どものような大人を見てきて閉口したものである。こういう人物がいると、振り回されて、現場が疲労疲弊するだけで、有用な人物が辞めていってしまう。当人は辞めた奴が悪いといい、全くの反省がないからいい気なモノである。

独裁者の愚かさの特徴は自分が正しいと思っている独善にあり、同じ人間なのに、他の人間を自分よりも下にみているところがある。高次の宇宙人からすれば、地球人の知性など似たり寄ったりなのに、地球人は自分たちのことを知的生命体と呼んでいる自惚れさをもっている。知性がどこからくるのか、知性そのものの存在すらもわかっていないのに、地球人は、知性の代表と勝手に判断しているわけなんである。だから、ソクラテスから言わせれば、人間は、知的生命体ではなく、無知的生命体というべきかもしれない。

だから、独裁者とは、無知的生命体の代表で、高次の知性の、神を知らない愚か者ということになるだろう。神を知らないから、天国には行けずに地獄に堕ちるわけなんである。

以前、教育者ペスタロッチの輪廻転生を紹介したが、それはぺスタロッチの2つ前の前世が奴隷監督人で、上司のパワハラのいいなりになって、奴隷を虐めていたので、1つ前の前世で、そのパワハラ上司の妻になって、かつての奴隷たちが上司の上役になり、カルマにより、パワハラを仕返し、虐められている上司の愚痴の聞き役になって、カルマを半分解消し、そして今度は、その半分を、ペスタロッチとなって、同じ地域の村民に転生した奴隷たちの子どもを預かり、教育し、解消したものだった。

つまり、教育者ペスタロッチは、2つ前の前世の奴隷監督人のときに背負ったパワハラの罪を解消するためのものでもあったわけである。このペスタロッチという偉人の功績の裏には、カルマの解消が隠されていたわけで、この輪廻転生からも、人の上に立つ責任が重いのがわかる。上司の命令とはいえ、パワハラの罪は拭えないわけで、ペスタロッチのなかで、前世のパワハラの罪が、現世で、パワハラをしない教育に変わったわけである。

ペスタロッチ~近代教育の父~ - 保育タイムズ (hoikushisupport.com)

ペスタロッチとは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)


このペスタロッチの奴隷監督時代のパワハラ上司はいわばプチ独裁者といえるだろう。この上司は、前世のパワハラのカルマを背負ったために、次の転生では、前世でパワハラをした奴隷が上役になり、パワハラをされる立場に陥ったわけである。多くの人にパワハラをすれば、より多くの人からパワハラを受ける、いわば、ニュートンの作用反作用の法則のように、カルマの法則を背負うことになる。独裁者は、このカルマの法則を知らないから、愚か者といえるわけなんである。簡単にいえば、上に立つ者は下に立つ者の気持ちを理解できないとダメなんである。

神秘学の原則の、上にあるものは下にもある、というのは、水が低きに流れる、のと同じように、神は下々を通じて、人の良心を推し量る、という意味をもつ。仏陀やキリストがホームレスになったのも、神が下々を通じて、人間の道徳性を高め、良心を育成するためである。宇宙では上に立っているので、地球では、下から眺めないと、悪を善導し、地獄を改めないと、天国の領域が拡げられないからである。

水を下(ひく)きに 流さない〜治療効果を「目視」せよ〜: Cadetto.jp (nikkeibp.co.jp)

現代人は愚かなんで、孟子が性善説の例えで言った、水は低きに流れ、人は易きに流れる、という格言を、人は楽な生活をやめられないと他愛もない諺に曲解しているが、そんな解釈では、現代人のほとんどが地獄に堕ちてしまうように、これは完全な誤解釈で、本当は、お釈迦さんの善因善果を言っているわけで、水が万物に水分を与え、瑞々しくさせ、生命に潤いを与え、加水分解で、酵素反応を高め、再生させるように、善導できなければ神の使徒ではなく、人間ではないという、人間の性善説、道徳性を説いたものなんである。

簡単にいえば、下々を救えないものは人間をやめるべきである、という厳しい格言なんである。水がなんのために、下へ下へと流れているのか、人間も、水に肖り、下へ下へと善を施し、養うべきである、と説いたわけである。つまり、水が下へと流れるように、人間も善を施すのが、自然の、カルマの、宇宙の法則というわけなんである。楽な方向に流れるのは、いかにも安易な解釈で、恐らく、「易き」を安易と捉えた誤訳だろう。



人は楽な方向に生きる、では、背後に隠れている神の摂理、天の理が全く隠れてしまう。水を低きに流すのも、人を道徳や倫理に高めるのも、神の摂理で、天の理なのを、説くのが、孟子の性善説だから、人は道徳によって、高めあわないといけない、と孔子の道徳を継いで、孟子は述べているわけなんである。孔孟、老荘を、唯物論で解釈してしまうから、偉大な賢者の格言が、陳腐な俗物になってしまい、独裁者のような地獄行きの天狗たちを生み出してしまうわけなんである。

ペスタロッチの輪廻転生でもわかるように、過去の非道徳的行為を、未来の道徳的行為へと転換していくのが、人間に与えられた人生の宿命なんである。ペスタロッチのように、水が低きに流れるように、人間は道徳的行為によって高きに浮上し、天国に行くべきである、と孟子は説いたわけなんである。

教育が水のように下々に行き渡り、そして、その教育から道徳的行為が生まれて、より多くの人間が天国に行けることが、孟子が説いた性善説という学問体系なんである。現代人は、過去の学問体系を馬鹿にしすぎて、プチ独裁者になって、金持ちなどの地獄行きに憧れるから、独裁者の顔色を窺い、独裁者の暗殺などに一喜一憂するわけなんである。

そこで、人生において、なんの道徳的行為を行わずに、破壊行為ばかりを行う不真面目な666の肉食獣のような、独裁者の顛末を知るために、シュタイナーの輪廻転生の本から、独裁者ネロの輪廻転生を紹介する。ペスタロッチのパワハラ上司の転生でもある程度わかるが、自分がしたパワハラは、ブーメランとして、今度は自分に返ってくるのを、人の上に立つ責任者は、是非良く知るべきである。

シュタイナーははっきりと、ネロのような如何わしい人物が皇帝の座についたのは軽蔑すべき、人間の悪しき行為と述べている。もし、人間に自由が与えられていなかったら、ネロが皇帝になりえなかったかもしれない。「全世界を侮辱する心の持ち主で、人間の生命を軽視する霊魂」とシュタイナーは、ネロの霊性を読み解いている。

この愚か者は、「私の死と共に、一人の芸術家が失われる」とほざいたようで、この言葉から、ネロという霊魂の、自己認識の不真面目さ、自我探求への無知さを、シュタイナーは指摘している。この霊魂は、破壊欲や破壊衝動のみを追求したらしい。人生で行った行為全ては、死後にそのまま自分に返ってくる。破壊行為や破壊衝動は、自分に返ってくるわけで、それは被害者の恨みや怨念としてそのまま返ってくるというわけなんである。

ネロ - Wikipedia


先のパワハラ上司のように、パワハラをした相手に今度はパワハラを仕返しされるようなものである。少し前に、ドラマの半沢直樹の、倍返しが巷で話題になったが、皇帝ネロは倍返しどころでは済まないだろう。半沢直樹のドラマは現世だけの話だが、実際は、輪廻転生を通じてカルマにより、水が下に流れるように、自然の法則のように、人生の法則として行われるわけである。だからといって、現在の不幸を前世に求めるのは間違いである。

というのも、報復されることで、カルマが解消されるからで、報復を避けていたら、人の痛みがわからない、人間失格の落第者となって、悪魔になってしまうからである。悪魔は人の痛みがわからないので、互いに痛め合い続けるしかない。人の痛みがわからないから、虐めが際限なく行われ、地獄となるわけなんである。人の痛みがわかることが、人生の学びだからでもある。かといって、報復を肯定するわけではない。際限を越えて報復が行われないように、人間には死がある。

半沢直樹 - Wikipedia


いずれにしろ、ネロの破壊的人生が凄まじかったのか、ネロの次の転生については、シュタイナーは、2、3世紀後に転生したが、重要な人生ではなく、破壊行為に対しての、カルマの均衡がとられた、としか記していない。恐らく、先のパワハラ上司のように、あらゆる人々からパワハラを受けるような立場の人間に転生したのかもしれない。生まれてから死ぬまで不幸続きだった人の話が残っていないのは当然かもしれないし、そんな人生を語っても無意味だろう。

「全世界を侮辱する心の持ち主で、人間の生命を軽んじる霊魂」が逆の立場を経験するわけで、それは全世界から侮辱され、自分の生命が軽んじられる人生を経験することになるのだろう。その転生の話は、置いておいて、シュタイナーは、次の転生を述べている。ネロは、破壊者の人生と、次の転生で、破壊の被害者の人生を経験したらしい。そして、次の転生では、今度は、命令により破壊に従う立場の人生を経験することになったという。そして、その立場というのは、オーストリア皇太子ルドルフとして転生したという。

ルドルフ ( オーストリア皇太子 ) - Wikipedia

皇太子ルドルフは、皇位継承という輝かしい未來よりも、自殺を選んだのである。ネロという破壊者の人生と、その均衡をとるための転生の人生とを天秤にかけてみて、皇帝となった人生を破棄したのである。それだけ、均衡をとるための転生の人生が過酷だったのかもしれない。人の痛みを知った存在は、皇帝になるよりも自殺を選んだわけなんである。そもそもネロのような人物が皇帝になったのが間違いで、それはルドルフ皇太子の自殺により、人間の、独裁者の、愚かさが証明され、人間の無知さが、カルマにより解き明かされたともいえるかもしれない。



さて、シュタイナーは、次の第6文化期に鍵となる人物を挙げている。それはソロヴィヨフである。そこで、ソロヴィヨフの輪廻転生を紹介する。シュタイナーによると、ソロヴィヨフの前世は、有名な、キリスト教がルシファーーアーリマン化する切欠となった4世紀のニカエア公会議に関わる重要な人物だったという。

ウラジーミル・ソロヴィヨフ ( 哲学者 ) - Wikipedia

第 1 ニカイア公会議 - Wikipedia


ニカエア公会議で、アタナシオス派が主張する人の子キリストが父である神と同一なのか、アリウス派が主張する、あくまで父に似た子なのか、議論されたなかに、ソロヴィヨフの前世となる人物が参加していたという。この人物は、この両者の主張を統合できる論拠をもっていたのだが、指導的役割ではなかったので、不首尾に終わり、エジプトに帰って隠棲し、禁欲的な生活をしながら、思考の源流となる霊的なイメージ、霊語を探求したという。思考のイメージとは、空海が説く真言であり、曼荼羅のことでもある。プラトンのイデアでもある。

シュタイナーによると、ソロヴィヨフの前世こそ、キリストの真意、神意、天の理を知る人物だったという。しかし、彼は論争を好まずに、公会議で議論しなかった。シュタイナーによれば、アタナシオス派も、アリウス派も、キリストの真意には達せずに、どちらの主張も不十分で、アタナシオス派に沿うと、人間の内なる神は、宇宙の外なる神から切り離され、人間の内なる神の、霊我を語る者は異端とみなされるが、逆に、アリウス派に沿うと、人間の内なる神について語り、人間は神の受肉と考え、ついには全ての自然は、神の化身と考え、外なる神へと向上する、人間の認識への努力が無視されがちになるという。

シュタイナーは、この2つの外なる神と内なる神の見方を、神の子の黄金伝説と、人の子の神殿伝説として語っているが、アタナシオス派は、神の子の黄金伝説寄りで、いわばルシファー的な偏りがあり、逆にアリウス派は、人の子の神殿伝説寄りで、いわばアーリマン的な偏りがあり、両者の統合を目指すために、キリストによる中庸の人智学を興したわけでもある。つまり、シュタイナーは、ソロヴィヨフの前世の人物を目指していたわけでもある。

だから、シュタイナーは、ソロヴィヨフの前世を、外なる神と内なる神を統合する叡智をもった人物と霊視したわけなんである。これまで紹介してきた、輪廻転生での男女の役割からいえば、黄金伝説は、女性的な働きを、神殿伝説は、男性的な働きを、象徴化しているともいえるかもしれない。というのも、黄金伝説は、外なる宇宙神を、内なる人間の自我につなげる役割で、神殿伝説は、内なる人間の自我を、道徳的行為で努力で高めて、神にして、外なる宇宙神につなげる役割と考えられるからである。



さて、この人物はエジプトで隠棲し、禁欲的な生活を送りながら、ついには秘儀に参入し、古代叡智まで至り、思考のイメージの源流にある、宇宙神の叡智に達したらしい。そして、死後に、その叡智を外から見て検証し、次の転生では、中世に女性に生まれ、自らの前世のなかで、統合したキリスト教を尼僧として布教活動したという。

女性として生まれ活動することで、古代叡智をキリスト教としていわば巫女のように柔軟に地にもたらしたが、それは地上のどのキリスト教よりも、柔軟で中庸的なので、個人的に自由なキリスト教として乗り越え克服していったという。そして、地上に全ての集団的なキリスト教がなくなるのを霊視できたという。

そして、この女性だった前世が、あくまで個人的に自由なキリスト教徒として、転生し、生まれたのが、ソロヴィヨフなのだという。ソロヴィヨフの思想のなかには、第6文化期のキリスト教が隠されているわけなんである。それはいわば、人類全体の波動関数としての、人類の神人化といえるべきものかもしれない。しかし、独裁者のような愚かな輩が跋扈しているので、神人というよりも、悪魔化、堕天使化して、悪性腫瘍化しているのが、現状といえるかもしれない。自由と横暴をはき違え、人の痛みを知らない666の獣が闊歩する黙示論の世界が到来しているのが、その証である。

同じ痛みを知る人間として生きるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。

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 以前、公開講義で、偉大な哲学者ソロヴィヨフに触れた。ロシアで最重要な思想家の一人である。ソロヴィヨフは傑出した思想家だが、生粋のロシア思想家で、西欧の観点から極めて理解困難な精神の持ち主である。しかし、人智学徒は、彼の仕事を研究し、理解すべきである。そこで、ソロヴィヨフの主要な中心的理念について、霊的な観点から述べたい。

 ソロヴィヨフは、個人的な自我について、集合魂による生命の原理を躊躇なく採用するには、あまりにも進歩的な哲学者である。彼は、現に、その採用について多くの困難に遭遇し、多くの点で同意しなかった。しかし、彼のなかでは、統一的な理念が支配的である。

 確かに、彼は、あまり意識していなかったが、霊能者であったならわかっていたはずなのに、だから、彼の霊魂が、第6文化期に受肉し、地上での霊視を待つしかなく、そう願うしかない。西欧や中欧の人々に究めて理解困難な、次のような概念が、ソロヴィヨフの精神では主要の中心的な理念になった。

 第6文化期の準備として、西欧の我々が追求すべき霊性は他にも色々あるが、彼のなかでは、死の意味、特に、生命にとって、死は何を意味するのか、その意味を把握するのに力を尽くしていた。死が、宇宙のなかの、いかなる存在の一形態の顕現なのか、また霊魂が、死に際して、別の存在形態に、どのように変化するのか、の理解に努めていた。

 我々人智学徒は、霊視から、霊魂の霊的な生活、つまり死から新たな誕生までの間の生活様式を描きだし、人間の死を理解できる。死は、霊魂にとっては、衣服のような外見にすぎない。霊魂は死を通過した後も、生き続けるのを実感できるように、死の克服に努めている。このような霊的な理解を通じて、死を克服することが、現代において、切実に、重要な、人間の進化目的である。

 しかし、この目的において、我々人智学徒は、ある別の観点に到達する。実際に、最も肝要な観点で、この観点から、人智学は、偉大なロシアの思想家ソロヴィヨフの保持した中心的理念から、完全に離れる。彼の理念は、次のものである。

 「この世には、悪があり、愚かさがある。もし我々が、個人的な自我の感覚で、邪悪と愚劣を眺めるなら、この世が、この2つで満ちているのを否定できない。この2つが、この世の神性を否定する。」と、ソロヴィヨフは述べている。

 「日常の感覚で、この世を眺めれば、一体、どこに、神の世界があり、神の存在がみつけられるのか? というのも、神が、悪を開示することは、断じてありえないからだ! しかし、我々人間の感覚から、悪が至るところに知覚され、その悪の極みが、死である。この世に、死がある限り、この世は、邪悪と愚劣の全てが開示される。死こそ、根本悪である!」 

 このようにソロヴィヨフは、この世界を特徴づけた。実際、彼は、次のように述べている。

 「この世界を、日常の感覚で見よ。日常の精神で理解してみよ。そうすれば、この世界における、悪の存在を決して否定できない。そしてまた、死を、思考から理解しようとすれば愚かしいだけだ! 死は実存するからだ。日常の感覚を通して獲得された知識は、愚劣に満ちた、悪の世界を開示する。この世界が悪に満ちていること、そして、あらゆる場面に、死がやってくるとき、この世界が神のものだと、我々は信じられるだろうか?」

 このように、ソロヴィヨフは投げかける。

 「我々に、死を開示する、この世界が、神の世界であるとは、断じて信じられない。というのも、神は、悪でも愚でもないからだ。何より、根本悪の、死があるはずがない。神に、死はありえない。それゆえ、もし、神が、この世界に生まれるとしたら、もし神が、現れたら、神が、神であるのを、我々は、ただちに信じられるか? 否、信じられないはずだ!

 神は、神であるという自己同一性を確立しなければならない。もし、神だと主張する存在が現れたら、その主張は通らないだろう。神は、我々人間が、神として認識できるような世俗の文書のようなものを提出し、自らの神性を証明しなければならない! 

 そのようなものは、この世の中には存在していない。神は、この世界に存在するものを通じて、神の自己同一性を証明できない。というのも、この世界の全てが、神性に矛盾しているからである。それでは、どんな手段で神は自己同一性を証明できるのか。

 それは、この世界に現れるとき、神が、死を克服したと、死が、神に対して何ら力をもちえないのを示すことしかない。キリストが自らの自己同一性を証明しなかったなら、我々は、キリストが神だとは決して信じないだろう。

 しかし、キリストは、それを為した。キリストが復活した以上、根源悪の死が、キリストにはない、と示した限りにおいて、キリストは、神という自己同一性を示した。」

 このようにソロヴィヨフは述べている。この自己同一性は、キリストの、歴史的な事実上の復活に基づく、潜在意識による神性の知覚である。このように、キリストは、神として、神の自己同一性を証明した。ソロヴィヨフは更に続ける。

 「この世界の何物も、復活という唯一の例外を除けば、我々に神が存在する、と実感できるものはない。もしキリストが復活しなかったなら、我々の信仰は空しいものとなるだろう。そして我々が、この世界のなかの、神性について知覚できる全てもまた空しいものとなるだろう。」

 ソロヴィヨフは、聖パウロの、この言葉を度々引用している。

 以上が、ソロヴィヨフの根本的な見解である。もし、我々が、この世界を見れば、悪に満ち、愚劣に満ち、退廃に満ち、無意味さだけを見る。もし、キリストが復活しなかったなら、この世界は無意味そのものとなるだろう。それゆえに、キリストは復活した! 

 この文によく注目すべきである。というのも、これは東欧の最も偉大な思想家の一人の根源的な言葉だからである。

 「もしキリストが復活しなかったなら、この世界は無意味な墓場、地獄となっていただろう。この世界を救うために、キリストは復活したのだ!」

 ソロヴィヨフは、次のように述べている。

 「もしキリストが復活しなかったなら、この世界は無意味となっていただろう。それゆえにキリストは復活した、と私が述べるのを、非論理的に思う人がいるかもしれないが、そのような、私の発言を反証するために提示し得る、いかなる物証的な論理を、遥かに超えるのが、神性復活の論理なのである。」

 このソロヴィヨフの、神の神性を証明する文書、このようなオカルトに独特な例を挙げて、これはソロヴィヨフの著作にしばしば見つけられるが、東欧における思考の不思議さの具体例として示した。いかなる手段によって、自らが神であるのを論駁の余地なく、神が啓示するのか、それを理解する努力から、オカルト的な独特の思考が体現し、叡智の金字塔となる。





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Last updated  2024年07月17日 13時44分53秒
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