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『日本書紀』には邪馬台国も卑弥呼も記載されていないとするのが通説ですが、そんな事はありません。「神功皇后条」の最後に、 「居注に、武帝の泰初2年10月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、朝貢したと記している」とあります。神功皇后(じんぐうこうごう)は第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后です。仲哀天皇と共に実在説・非実在説があります。武帝の泰初2年は西暦紀元前103年で、「魏志倭人伝」に記された卑弥呼が初めて魏に使いを送った西暦239年と開きがあります。しかし、明らかに卑弥呼を意識して、シャーマン、サイキッカーとして性格が似ている神功皇后の条に、この文を配したのだと考えられます。『日本書紀』の編纂者は遣隋使/遣唐使が持ち帰った中国の歴史書に書かれた卑弥呼・邪馬台国の存在を無視出来なかったのでしょう。卑弥呼の名は「魏志倭人伝(正確には『三国志』の中の『魏書』の中の『鳥丸鮮卑東夷伝』の中の『東夷』の中の『倭人の条』、要するに東にいる儒教思想を持たない野蛮人である倭人)」に留まらず、『後漢書』、『隋書』、『梁書』、『北史』などにも登場するビッグ・ネームです。神功皇后も『日本書紀』において天皇以外で唯一独立した「巻」を持って登場する人物です。********************************************「魏志倭人伝」と言ったり書いたりすると、邪馬台国近畿説派の人が、そんな「書」はない!と揚げ足を取る事があるHi「倭」とは従順、小さいの意、後に遣隋使/遣唐使が悪字をあてられている事に気づき、「和」に置き換え、「大和 やまと」とした。「日本 ひのもと」が用いられるのは奈良時代の聖武(しょうむ)天皇の時代から。********************************************では、卑弥呼=神功皇后なのかと言うと、それは無理です。卑弥呼は3世紀前半の人物、神功皇后は実在したとすれば4世紀半ばの人物です。『日本書紀』には卑弥呼とみなされる人物がもう一人書かれてます。第7代孝霊(こうれい)天皇の皇女で、初の大型前方後円墳である箸墓古墳(はしはかこふん、奈良県桜井市)に眠るサイキッカー倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)です。これが邪馬台国近畿説の根拠となり、邪馬台国があった場所は纏向遺跡(まきむくいせき、奈良県桜井市)とされます。更に卑弥呼と倭迹迹日百襲姫は同一時代の3世紀前半~半ばの人物です。では、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫(何度もキーボードを打つのがめんどくさい、声に出して言うと舌を噛みそう、声に出してないけど)なのかと言うと、それも無理です。邪馬台国≠纏向遺跡(纏向王朝、三輪王朝、初期ヤマト王権)、と、卑弥呼と倭迹迹日百襲姫は別人物だからです。数々の根拠があって、 ・卑弥呼は連合国の女王、 倭迹迹日百襲姫は三輪山(みわやま)の大物主神(おおものぬしのかみ)を祀る巫女 ⇒ 職業の描かれ方が倭人条と『日本書紀』で異なる ・倭人条に書かれた邪馬台国は戦争をしていて、城柵・環濠で国を囲い、兵を配した軍事国家、 纏向王朝は銅鏡と桃の実で祭祀を行う平和な政治都市 ⇒ 倭人条に書かれた邪馬台国の国家像と纏向遺跡の考古学的発掘調査結果が一致しない ・倭人条に書かれた邪馬台国への道程は距離も方角も正しく、九州北部に納まる ・ヤマト王権に倭人条に書かれている様な奴隷貿易を行っていた記録がない ・倭人条には海に潜って海産物を獲ると書かれているが奈良に海はない ・倭人条には皆顔や体に刺青をしていると書かれているが、ヤマトには刺青の風習がない ・女王国の東の海を1000里渡ると別の倭人の国があると書かれているが奈良の東は陸続きの三重 ・魏の皇帝が贈った銅鏡(漢鏡)は100枚、近畿地方で見つかる卑弥呼の鏡とされる 三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)は、かれこれ500枚以上発掘されていて、 今後も見つかる可能性が高く、数が合わない 三角縁神獣鏡は中国では見つかっていない 宮内庁が天皇や皇族の墓として調査を許可しない陵(古墳)には更に多くの 三角縁神獣鏡が副葬されているはずで、明らかにメイド・イン・ジャパンの普及品などなど、私にとって邪馬台国近畿説はムリゲーです。更に、『日本書紀』には卑弥呼とみなされる人物がもう一人書かれてると言われます。「神代」に登場するスーパー・サイキッカー天照大神(あまてらすおおみかみ)です。卑弥呼=日の巫女=太陽神の天照大神なんだそうで、更にムリゲーレベルが上がります。伊勢神宮に祀られているのは卑弥呼なのかい!しかし、天照大神実在説があり、一人の個人ではなく、複数の人物が重なり合った複合的な象徴とも言われています。『古事記』と『日本書紀』に日本の始まりとして書かれている神話は荒唐無稽なフィクションではなく、史実に基いてアレンジされた「物語」であるとする説があります。では、ヤマト王権の成立時期、初代神武(じんむ)天皇は実在したのか、神武東征はあったのか、ヤマト王権と邪馬台国との関係、銅鐸文化が忽然と消えたのは何故か、出雲族・吉備族とヤマト王権の関係、神話とリアルな歴史の関係は次回にします。
Jan 31, 2026
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第26代継体(けいたい)天皇以降、『日本書紀』に記された事績年は干支と天皇年から西暦への変換が可能です。しかし、継体天皇崩御の531年から大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)失脚までの540年には『日本書紀』に不自然な記載があります。そこで、聖徳太子に関する伝記集である、 『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』元興寺(飛鳥寺)が朝廷に提出した寺の縁起と財産目録である、 『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』歴史学者の林屋辰三郎氏の著書、 『継体・欽明朝内乱の史的分析』の内容を歴史順に並べてみました。(上図)謎その1:継体天皇の崩御年と死因『日本書紀』には、 「継体25年(531年)2月、天皇は病が重くなった、7日、天皇は磐余の玉穂宮で崩御された、 時に82歳であった 12月5日、藍野陵(あいののみささぎ、摂津国三島郡藍野)に葬った - ある本によると、天皇は28年(534年)に崩御としている、 それをここに25年(531年)崩御としたのは、 『百済本記(くだらほんき)』によって記事を書いたのである、その文に言うのに、 25年(531年)3月、進軍して安羅(あら)に至り、乞屯城(こつとくのさし)を造った、 この月高麗はその王安を弑した、また聞くところによると、 日本の天皇および皇太子、皇子皆死んでしまった」と記され、まるでクーデターが発生したかの様な政府の大事件を朝鮮半島の歴史書である『百済本記』から転記しています。また崩御年を「ある本」を参照して534年とも記していています。謎その2:継体天皇の次に即位したのは誰『上宮聖徳法王帝説』と『元興寺縁起』に記された仏教公伝は欽明7年の戊午年、538年。そうすると欽明元年は532年になります。つまり、継体天皇の崩御後に即位したのは安閑(あんかん)天皇ではなく欽明(きんめい)天皇です。謎その3:不自然な大伴金村大連の失脚『日本書紀』によると、大伴金村大連は任那(みまな)四県割譲の責任を物部尾輿(もののべのおこし)大連に問われて失脚します。任那四県割譲は512年、金村失脚は540年です。なぜ、28年も経過した後に責任を問われて失脚するのでしょう?林屋辰三郎氏の二朝並立説531年:「辛亥の変」蘇我氏を主たる支持勢力とした欽明が継体を討つ532年:欽明が即位534年:欽明勢力に反対した大伴氏を中心とする勢力が安閑を擁立536年:安閑崩御後、宣化(せんか)を擁立539年:宣化崩御540年:安閑・宣化を擁立した大伴金村が失脚母違いの皇子たちが異なる豪族をバックに、皇位継承をめぐって争うのは日本史の定番です。『日本書紀』は皇子たちの皇位簒奪争いを明確に記さなかったり、全く記さない場合があります。あまり謎でもなかったかHi一般に『日本書紀』に事績が多数記されたり、朝鮮半島との関係が詳しく記されている天皇の治世年は長く、逆に事績が少なく国内の記事のみが記されている天皇の治世年は短い傾向があります。安定した政権は長く続き、視線が外に向かうのでしょう。この後、欽明天皇の治世は32年間続き、『書紀』には朝鮮半島の百済(くだら)、新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)、任那(みまな)との関係の記事が大量に記載されています。
Jan 31, 2026
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ここに至る。
Jan 30, 2026
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Jan 23, 2026
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Jan 21, 2026
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Jan 20, 2026
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RNZさんより嬉野市を頂いて、佐賀県 & 6エリアをコンプリートしました!
Jan 1, 2026
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