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http://www.jic-gifu.or.jp/np/newspaper/kikaku/gifusengo2/gifusengo2_10.htm
焼夷弾担ぐしかない
児童文学者の赤座憲久さん(78)=可児市今渡=が岐阜空襲で焼けた岐阜駅から久留米に向かう時、姫路駅も焼かれてはいても、姫路城天守は見えたはずだ。
姫路空襲は、岐阜空襲の六日前の一九四五(昭和二十)年七月三日。岐阜師範学校を四四年に卒業し、四五年六月に豊橋予備士官学校を卒業した鈴木頼恭さん(80)=岐阜市長良、元児童文学誌「コボたち」編集室長=は、姫路の中部第四十八部隊に配属され、小隊長となった。
鈴木さんは、今春の「ぎふ児童文学」戦争特集号に初めて戦争体験を書いた。
〈(初め広島に配属命令が出たが姫路に変更になった。広島だったらと思うと今でもぞっとする)天下の名城白鷺城を毎日隣にあった部隊から仰ぎ見て、いいところへ来たものだと思っていた...その(空襲の)夜わたしは、部隊本部で当直司令の任務についていた。部隊全体の夜の総責任者である...兵舎や付属施設のほとんどを焼失させたが、部隊の中枢である本部を残したことを、駆けつけた部隊長にほめられ、ほっとしたころ夜が明けてきた〉
鈴木さんは、部隊でただ一人の不発弾処理専門将校だった。といっても着任後に何日か講習を受けただけなのだが、一トン爆弾やら焼夷(しょうい)弾やら、米軍による都市空襲が激化する中、不発弾処理に部隊を引き連れて駆け回り場数を踏んで度胸をつけていた。
鈴木さんは一睡もせぬまま、朝から兵を集めて部隊内の不発弾を処理した後、自らの判断で姫路駅に駆けつけた。焼け落ちた駅の構内に残る不発弾を次々片付け、無事にレールを開通させたころ、本部から「 姫路城へ行け
」と伝令が来た。
〈途中街の焼け跡に不発弾を見かけたが後回しにして直行する。事務所員が『 先ず天守閣の五階にあるやつを
』と頼む...わたしは屈強の若い兵一人を伴って...急階段を駆け上った。最上階。五階の南側の床板に 百ポンド焼夷弾
がデンと転がっている。窓から見上げると、軒端の瓦が四枚ない。瓦を飛ばして窓から飛び込んできたらしい...よく見ると後部の信管が違う。こんなの初めて。どう処理してよいかわからない。ここで間違った外し方でもして、ドカーンとやったらおしまいだ。せっかく残った姫路城を焼いてしまう。と反射的に、さっとわたしはひっかついだ。かついで降ろすしか方法はない。途中でドカーンとやられるかもしれない。こいつと心中するのはいやだ。この時間の長かったこと、長かったこと〉
城外の広場まで何とかかつぎ出し、三十メートルほどの導火線をつけて点火。ドッカーンと、処理は成功した。その後もあちこちから処理依頼が殺到し、阪神の被災都市を駆け回るうち終戦。空襲は無くなっても不発弾はまだそのままで、連日の出動依頼で三カ月余が過ぎた十一月下旬、「このあたりで打ち切りにしたい」と部隊長らを残し、不発弾処理隊は解散、復員した。
中津川出身の鈴木さんは少年時代、陸上選手にあこがれた。駅伝の伝統校の中津商を出てから岐阜師範に進んだ変わり種だ。敗戦前後はこうして工兵顔負けに働き、戦後は教壇に。戦後六十年を機にこれまであまり公言してこなかった戦争体験を明かし、今月初めには姫路城を再訪した。天守に上ってみると、五階と思った最上階は六階だった。軒端瓦四枚の位置、焼夷弾が飛び込んだ窓、命懸けで担ぎ下ろした狭い階段...。記憶の糸をたぐるように確かめようとしたが「よく思い出せなかった」。もう六十年。長い時間が過ぎた。
(永井豪編集委員)

(写真)「憲法9条を守れの一語に尽きる」と話す鈴木頼恭さん=6月、岐阜市長良の自宅
(写真)不発弾処理に奔走した見習い士官時代の鈴木さん
《岐阜新聞7月31日付朝刊総合面》
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