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反射的に抱えた焼夷弾、細い階段リレー 不発弾処理した鈴木さん
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000075759.shtml
2006/07/23

姫路空襲で、姫路城天守閣の不発弾の処理にあたった当時の見習士官、鈴木頼恭さん(81)=岐阜市=が二十二日、姫路城を訪れた。決死の覚悟で焼(しょう)夷(い)弾を担ぎ上げ、複雑な城内から運び出した当時の状況を振り返り、「危険を顧みず不発弾処理にあたった兵隊の存在を知ってほしい」と話した。
鈴木さんは予備士官学校を卒業後、見習士官として二十歳で姫路に配属された。その後、大阪で不発弾処理の五日間の講習を受け、「即席」の専任の将校になった。
七月三日の姫路空襲時は、部隊本部の当直司令として、兵士の避難や消火を指揮した。翌朝、姫路駅の不発弾を処理していると、部隊本部から「姫路城内に不発弾がある」との伝令を受けた。
若い兵隊と二人で天守閣最上階に登ると、板間に百ポンド(約四十五キロ)焼夷弾が横たわっていた。実地経験を経て処理には慣れていたので、当初は安心したが、よく観察すると、信管の型が違い、処理の方法が分からなかった。
「間違ってドカンとやってしまったら、城を燃やしてしまう」。鈴木さんは反射的に不発弾を担ぎ上げ、もう一人の兵隊とリレーして細く急な階段を下ろしていった。
駆け付けた他の兵隊と交代で走り続け、城外の広場で爆破。途端に全身の力が抜け、その場にいた全員で大の字になって、たばこに火をつけた。
鈴木さんは「途中で爆発するかもしれないと思うと、運び出している間の長かったこと。若さと責任者意識で動いたが、いまだったら尻込みするだろう」と振り返る。
終戦後も不発弾処理の活動を続けた鈴木さんは、帰郷して小学校の教員となった。校長で退任後も児童文学の編集にかかわり、子どもたちに向き合い続けた。戦後六十年の昨年、児童文学研究会の機関誌に手記を寄せ、体験を初めて公表した。
現在は「岐阜・九条の会」の世話人を務めるなど、平和運動にも力を注ぐ。
「当時は、観光客がたくさん訪れている現在の光景など考えられなかった。やっぱり、平和がいい」。天守閣に目を細めながら、鈴木さんは感慨深げだった。
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