「Life」を求めて
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今週末に本多流の審査があるが、毎日残業続きで忙しく、思うように的前の稽古ができず、加えて先週末の大会の結果(角見が分らず、発がでない悩み)があり、なんだか今週は気持ちばかり焦ってしまっている。。。こんな時こそ、教本四巻の鈴木弘之範士の言葉を改めて見返してみた。鈴木範士は謙虚な語り口で、・真を尽くすこと・目的に気を通わせること・調和以上のことを繰り返し述べている。腕の角度がどうの、どこを使えだの細かい技術的な話は一切していない。足踏みにしても、両手の内にしても、大三にしても、「ぴたっ」と決めてしまったらもうそこで往生して覚悟を決めること。最後までやり抜くこと、真を尽くすことの大事さを語る。下記のような言葉がある。「隙ができたらこれは、待つことであります。じいっ、と待つのであります。待って隙を塞いでしまうのであります。そのあとに、離れがやってまいります。」自分の場合、角見が「隙」として射から抜け落ちててしまっている。先週末から見失っっている角見の感触は、自分で手の内をいじり、弓手を推して探していくのではなく、逆に、もう弓を手の内で受けるに任せて、待ってみようと思った。そんな風に考えゴム弓を引いていたら、なんだか「待つ」ことのうちに徐々に角見の在り処が分ってきたような気がした。ここでの「待つ」ということはけして消極的なことではなくて、返って、積極的に感触を味わい尽くすことなのだと思う。自分の身体感覚に沈潜してくような、その果てに発があるような、次の的前はそんな風に挑もうと思う。
2009.03.24
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