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〈私〉の起源について、西田幾多郎は(善の研究では)「個人ある前に経験あるのである」と言い、和辻は「個人は全体性の否定的契機」であると言いますが、そこでは独在性は抽出されていません。「このメートル原器はどのように生じたのか」と起源を考えてみるに、そこには他のモノサシでそれを規定したのではない「無条件性」があると思います。「なぜだかわからないが、〈私〉は存在してしまっている」という「無条件・無前提・無意味」に開かれるということです。永井哲学だとそれを「無内包の現実性」と呼んでいます。禅は独在性を取りこぼしながらも、その「無条件・無前提・無意味」を強調し続けてきた伝統があると思います。只管打坐の坐禅というのはまさに存在が「無条件・無前提・無意味」に開かれ於いてある状態を表現したものであると思うのです。「無所得無所悟」という言葉や「坐禅をしても何にもならん」という言葉でよく耳にします。藤田一照さんがよく言われる「云為」ということも、存在の無条件性に根差した「云為」であると思います。天下唯我独尊の「独尊」も無条件の尊さでなければと思います。「サピエンス全史」を書いたハラリ氏は「ホモデウス」にて、人類が飢餓・戦争・病気などあらゆる苦しみ困難を自分で克服する時代になって、神を頂点から引きずり下ろして、人間が神になってきていると言いますね。でも今まで神に判断してもらっていた倫理的基準「殺してはいけない、盗んではいけない、嘘をついてはいけない、等々」を人間は失い、迷いやすくなる。そこで今度はその判断をAIやビッグデータが行うようになると言います。恐ろしいのは、人類にとって独在性の自覚が必要とされなくなるのではないかということですね。自己の存在に驚き、その奇跡性に打たれるような経験を誰もできなくなる時代が来るのではないか。AIの判断は常に正しく、人間は自分で判断することを放棄して、常にぽかんと口を開けてテレビゲームに没頭する子供のような状態になってしまうのではないでしょうか。繊細な身体の感覚に向き合うとか、静かに物を見たり、聞いたり、ただ一つの独在性の開けに根差した人間的動機が失われるのではないか、とも妄想します。世界内に「私」という世界を開く窓が多数存在することを世界内のシステム(神やAIやビッグデータ)は知っているが、どれが本当の唯一の〈私〉であるかをシステムの側は把握できない。〈私〉が世界というシステムに参加するということは、〈私〉が世界というシステムを起動させるということですが、その構造をシステムの側、世界の側、神の側は知っているのであろうか?それを知ろうとするのが独在性の哲学で、特に最近では「永井均」という人がそのシステム側に大きく貢献をしている。本当に〈私〉は世界に寄与していないのか。
2020.08.23
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以下は2019年2月24日に行われた永井均氏の『世界の独在的論存在構造構造 哲学探究Ⅱ』を読む勉強会〈〉LABO.(ヤマカッコラボ)で発表した際の付録『世界のナニコレ論的存在構造』の論文です。1 永井哲学はナニコレを巡る哲学である (ともいえなくもない) 今回の課題書と勉強会の内容とは直接関係ないかもしれないが、ナニコレについて思いついたことを少し。 そもそも「ナニ性・コレ性」という二義性については、永井哲学に於ける〈私〉と「私」の対比、カント原理・ライプニッツ原理の対比、第一基準と第二基準の対比などについて、そして西田幾多郎の場所の論理における超越的主語面・超越的述語面の包摂関係、概念における特殊と一般の包摂関係など、これら複雑な議論をいかに簡単に人に伝えるかということで、岸政彦の『断片的なものの社会学』(※1)の「この小石」と「無数の小石」の話や、太宰治の『人間失格』の中で主人公と友人の遊び(※2)からインスピレーションを受けて使うようになった。※1岸政彦の『断片的なものの社会学』 小学校に入る前ぐらいのときに奇妙な癖があって、道ばたに落ちている小石を適当に拾い上げ、そのたまたま拾われた石をいつまでもじっと眺めていた。私を惹きつけたのは、無数にある小石のひとつでしかないものが、「この小石」になる不思議な瞬間である。(中略)そしてさらに、世界中のすべての小石が、それぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「この小石」である、ということの、その想像をはるかに超えた「膨大さ」を、必死に想像しようとしていた。いかなる感情移入も擬人化もないところにある、「すべてのもの」 が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの、意味のなさ。(中略)私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。※2太宰治『人間失格』「喜劇名詞、悲劇名詞の当てっこをはじめました。これは、自分の発明した遊戯で、名詞には、すべて男性名詞、女性名詞、中性名詞などの別があるけれども、それと同時に、喜劇名詞、悲劇名詞の区別があって然るべきだ、たとえば、汽船と汽車はいずれも悲劇名詞で、市電とバスは、いずれも喜劇名詞、なぜそうなのか、それのわからぬ者は芸術を談ずるに足らん、喜劇に一個でも悲劇名詞をさしはさんでいる劇作家は、既にそれだけで落第、悲劇の場合もまた然り、といったようなわけなのでした。」 自分にも人にもわかりやすく理解するということが当初の目的であったので、その使用法ついて厳密に定義づけたりはしておらずまったく恣意的でもある。ただ、「ナニ・コレ」の二元性において日常の修行やら生活やら学問やらを眺めるようになって色々と理解のふかまることが多い便利な概念でもある。 夢中になって取り組んでいたことが、ある日突然急に冷めてしまうというような経験は誰にでもあるはずだ。一晩寝て、目が覚めれば、百年の恋も、夢中になっていた趣味も、一所懸命の仕事も、過去のナニかとなってしまう。〈コレ〉という現実に主題化されるところものが、〈今・ここ・私〉を離れたとたんに「ナニ性」へと頽落してしまう。意志薄弱な私は、この変化を繊細に注意深く見つめていないといけないと昔から思っていた。不立文字・教外別伝・説似一物即不中など言語の不完全性を見抜く仏教用語だけでなく、練習は本番のように、本番は練習のようにだとか、朝令暮改だとか、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いだとかの言説は、すべてコレ性→ナニ性、ナニ性→コレ性への変換を先取りして使用されている。 自分事で恐縮だが、私は幼少の頃から不登校で18歳まで引きこもっていた。「明日の朝はちゃんと起きて学校に行こう」と決意するが、一晩寝て目が覚めると、昨日の自分の決意が跡形もない。朝は前向きな意思がまったく折れてしまっている。小学校1年生の時、「3日間だけでもちゃんと起きて学校にいけたら、(当時夢中だった)聖闘士星矢のおもちゃを買ってあげると」母と約束をした。おもちゃ欲しさもあったが、3日間は学校に行けた。2日目も終わるころになると、このまま毎朝普通に起きて学校にいけるようになれると思えてきて、その時はこの取引に勇気づけられた気がした。しかし4日目はまったく起きることができなかった。それ以降この決意と挫折の繰り返しである。寝る前は明日の朝がさわやかな世界に映ったが、次の日の朝が現実となると、辛くて重くて仕方ないのである。麻薬中毒だとかアルコール依存症の治療も同じ決意と挫折との繰り返しなのだろう。いまも体調が悪いと朝の寝床で世界の開闢を呪うことがある。しかしこれは坐禅修行をすようになり、祝福も嫌悪もしない、いわゆる開闢を染汚しない視点を得てらからはわりと対処できるようになった。先日師家養成所の主任講師の鈴木包一老師の話で、永平寺の禅師様から「あなたはいつもお元気ですねえ」と言われて、「はい、最近はとくに「元気そうに」するようにしています」と答えたという。この「元気そうにする・平気に生きる・大丈夫に生きる・狼狽えないで生きる・心頭滅却すれば火もまた涼しと生きる」ということが禅僧の生き方のようで、これは自分をナニ化してしまうとても簡単でとても難しい実践でもある。このナニ化は頽落するナニ化ではなく、成仏としてのナニ化でもある。しかし、この「心頭滅却方向のナニ化」は、戦時下での兵士のナニ化と混同されやすいの注意して参究する必要がある。教育ということは、このナニ化の方向に人間を訓練することでもある。兵士の教育、医師の教育、新入社員の教育、体育会的な教育等々。そこには他律的に目標が定められている。目標を定めてそれに向かって努力するということは、未来を具体的にコレと見て、今現在を抽象的にナニと見る態度だ。この構造だけで生きる限り、〈今ここ自分〉の自律的な在り方は否定され続けるだろう。2 現成公案についての所感 少し仏教的な話になったが、最近道元の正法眼蔵の「現成公案」を参究している。これは100巻近い正法眼蔵の中で最初の1巻目にあたるが、その最初の3行がまったく意味不明である。しかしここが一番重要であると思われ、ここ1年くらいこの3行をやっている。①諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。②萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。③佛道もとより豐儉より跳出(てうしゅつ)せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。 現成とは、この現ナマのこと、唯一絶対の事実である。永井哲学で言えば〈私〉の〈〉のこと。「コレ性」ということ。公案とは禅の問題集を指すのが一般的だが、もともとは公府の案牘(政府の掲示→ゆるがせない真理)とも言われる。事実に対しての意味、「ナニ性」ということである。 澤木興道老師は「一切経は坐禅の脚注である。」と言った。一切経とはいわゆるお経のことだけを指してはいないであろう。全ての言説についてである。 これにならえば、「公案は〈現成〉の脚注である」という事がいえる。あるいは、「意味とは〈事実〉の脚注である」とか。「過去と未来は〈現在〉の脚注である」。「他者とは〈私〉の脚注である」とか。この澤木老師の指摘する主文・脚注関係はまさにナニコレ関係である。そして、現成公案の各一文の最後に「これ現成公案なり」と入れてすべて意味が通るようになっていることにある時気が付いた。諸法の仏法なる時節 これ現成公案なり。萬法ともにわれにあらざる時節 これ現成公案なり。 永平寺の5世義雲禅師はこの現成公案を撰述して「是什麼 ぜしも」と箸語に挙げている。(※箸語:詩のタイトル・頌:漢詩)是れ、什麼(なん)ぞ。コレはナンだ。ということで、現成公案の「ナニコレ」構造をよくよく理解してそう命名したであろう非常に優れた箸語だと思う。多分、道元さんが見たら、これを「是の什麼」とでも言うかもしれない。如是を「是の如し」ではなく「如の是」と言うように。「如」は無論ナニ性である。頌:面前一著莫蹉過 空劫春容此早梅 一字入公門内了 九牛盡力挽無廻(面前の一著 蹉過すること莫れ 空劫の春容此の早梅 一字公門の内に入了れば 九牛力を盡(つく)して挽けれども廻(かえ)ること無し)(※一箸:囲碁の一手→禅問答における悟りを伝える一手一喝のこと)訳:是什麼 コレはナニ目の前の世界を見誤ることなかれ。永遠の時間を満たす穏やかな春の陽気(仏性)、そして〈この〉梅の花。ほんのわずかでも〈この〉真実世界に入ったならば、たとえ多くの牛が引っぱっろうともその真実は動ずることがない。 永遠が極まった所が〈今〉無辺が極まった所が〈ここ〉現実が極まった所が〈私〉この極点をどう理解し表現するかという話でもある。ところで、面前の一著を蹉過してしまった人の代表格として、今回の議論によく登場したデカルトがいる。「コギト・エルゴ・スム われ思う故にわれあり」というとても有名な言葉。この世界全てを疑ってみて、例えば自分を欺く悪い神が居るとして、この現実がマボロシであるとしても、すべてが夢の中であるとしても、どんなに悪霊が私を欺くとしても、私が思うたび、私があると考えるごとに、私の存在は疑いえないのである。というのが彼の結論である。ここから、その「われあり」という現成そのものをデカルトは「精神」としてしまう。これが義雲禅師の言うところの蹉過の一著で、現前の生々しさがまったく失われている。 そしてデカルトの「コギト・エルゴ・スム われ思う故にわれあり」と真逆の回答を出したのが道元禅師である。正法眼蔵の坐禅箴の巻が「現成」ということについて詳しい。「仏々の要機、祖々の機用。不思量にして現じ、不回互にして成ず。不思量にして現ず、其の現、自ずから親しし。不回互にして成ず、其の成、自ずから証なり。其の現、自ずから親しし、曾つて染汚無し。其の成、自ずから証なり、曾つて正偏無し。 」(正法眼蔵 坐禅箴)「われ思う故に我あり」に対して道元禅師は「不思量にして現ず、其の現、自ずから親しし。」と現成の現について述べている。デカルトの「思うゆえにわれあり」が「不思量にして現ず」に対応する。「自ずから親しし」ということは「明らかで疑いがない」ということであろう。 新鮮な現ナマの魚をデカルトさんは「精神」という「思量や言葉」ですぐに冷凍してしまった。冷凍焼けして鮮度が落ちる。道元は現ナマを現ナマのまま不思量のまま扱い、とれたて新鮮な刺身のように受け取っている。 それが「不回互にして成ず、其の成、自ずから証なり。」ということで表されている。不回互ということは相互に働かないということで、独立の〈私〉〈今〉の独在性を含んでいる(と私は読みたい) また、前回ゲーデルの不確定性原理の話題の中で、一照さんが「1」の正体が数学の世界ではまだ明らかになっていないという話をしていた。この「不回互にして成ず、其の成、自ずから証なり」という現成の独在性が「1」の起源ではないだろうか。自然数「1」は無限の内容を含むので、「1」が定まるにはどこかで断定の基準が必要であり、それが「不回互にして成」ではないか。「1」とはつまりコレがナニ化されたもので、これはあらゆる名詞の起源にもなっている。現成というコレ性を通過した後に自然数「1」が出てくるのではないか。 この現ナマを現ナマのまま現成させるということが大切で、例えば、右を見れば右側の世界が現成する。左を見れば左の風景が現成する。目を閉じれば、音の世界がより親しく現成してくる。その現成には執着ということがない。目が執着すれば、目を閉じても目の世界は残ったままになる。右に執着すれば左は見えなくなる。だから目も耳も鼻も口も解脱して不染汚なものである。3老いない人生 まどみちお このように〈コレ〉として現ナマの世界を見続ける生き方が仏道修行であろう。それを仏教を通さずに悟りに生きた1人が詩人のまどみちおである。 『いわずにおれない』より抜粋「そもそもアリや菜の花ちゅう名前自体、人間が勝手につけたものですよね。われわれが社会生活をする上では名前がなくちゃ困るけれど、名前で呼ぶことと、そのものの本質を感じることは別なんじゃないでしょうか。なのに「あ、チョウチョだ。あれはモンシロチョウか」と思った瞬間たいていはわかった気になって、その対象を見るのをやめてしまう。どんな存在も見かけだけのものじゃないのに、人間はその名前を読むことしかしたがらないんですよね。本当に見ようとは、感じようとはしない。それはじつにもったいないことだと思います。」見える世界から言葉を外すということ、すなわちコレをナニしないでみるということが詩作的な生き方であり、仏道修行であろう。 まどみちおは104歳の長寿を生きた人だが、最後まで詩作を続けた。「存在の詩人」として、言葉を外して存在そのものを見つめ、存在そのものとの邂逅を素朴な言葉で救い出そうとした人である。ナニ性の世界からコレを救い取ろうとする仕事をした偉人である。 普通、老人になると、〈今〉と《今》とのつながりが弱くなる気がする。〈コレ〉と「ナニ」とのつながりが弱くなる気がする。物忘れが増えたり、時間の流れが極端に早く感じられたりする。この背景には現実のナニ化があるのだろう。過去の記憶や経験によってあらかじめ説明的にものが見えていしまっているのだろう。現成に現れるほとんどのモノ・コトに最初からラベルが貼りつけられてしまっている。あたりまえのように、あたかもわかったつもりで世界を見ること。これが年を重ねるにつれて時間の流れが速くなる秘密であろう。 時間の体感速度についての話のついで、「自由意志」について。先の小石の話と同様、対象のナニ性をコレ化するということで、そのナニコレの能力を任意に働かせることができることが自由意志の根拠なのではないか。「注意を向ける」とか「よく見る」ということにはその機能がある。意識上に主題化されたり、抽象されたりを自由にできると思えることが、自由意志と呼ばれるのではないだろうか。ナニ的にものを見るということは、他律的にものを見るということだ。コレそのものを見ようとするとき人は自律的で自由である。道元禅師の有名な歌に「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」というのがある。 春をミクロ的方面に限定していくと花が出てくるが、〈この花〉には行きつかない。また逆に〈この花〉をマクロ的方面に拡大していっても春そのものに還元されつくされない。 子供が言葉を学習するのに最初に春からはおぼえない。まずは〈この〉花を見て、それから花は春に咲くものだと春の概念を学習するだろう。〈これ〉は→「何か」(の一例)であると学ぶ。春はナニ。花はコレである。 大人になる、年を重ねるということは「コレ」を「ナニ」へと還元する経験が増えるということだ。科学者や法律家、経済学者や評論家の仕事はすべてがそれであるだろう。 逆に詩人、芸術家は「ナニ」かであるものから「コレ」を救い出す方向の仕事をしている。修行が「ナニ」かであると、途端につまらなく辛いものになる。「コレ」を見いだせると途端にありがたく大切になってくる。正法眼蔵の現成公案は「コレナニ」ってことだという話をした。現成→コレで公案→ナニである。ナニから〈コレ〉を救い出せる修行が成仏ということにもなるのではないか。先に引用した岸政彦の文章での「この小石」は無数の小石から成仏させられて「この小石」になったとも言える。公案を現成させる。意味から事実を救い出す。これが成仏ということであろう。 4 ナニコレ経済学とナニコレ布施行 経済学的な「需要と供給」というのも、ナニとコレである。 消費者は〈コレ〉を欲望し、所有できる〈コレ〉を探し求めている。生産・供給側は消費者に欲望される〈コレ〉が何かをよく研究・観察し、コレを生産する。生産ということはコレを複製するということで、複製されたコレとはナニのことなので、すべての商品とは即ちナニである。消費者は市場・店頭であたかも「コレ」として陳列され販売されるナニを購入する。お店で何を買おうか迷うということは、ナニをコレ化しようか迷っていることだ。所有して自分のものにするということにはナニからコレの変換が必要である。買ったものに飽きるということは逆に「コレがナニ化」することだろう。 貨幣とはナニからコレへの物理的な変換装置そのものである。消費者はお金でコレを買い、販売者はナニでお金を得る。仏教者が持ち物を少なくするのは、所有の「ナニ→コレ」には迷いが生まれることを見抜いているからである。ナニということには所有ということがない。所有されたものはすべてコレとなる。だから宗教者が「宇宙と一つになる」とか「絶対無限の愛」とか「尽十方界」とか「大自然の働き」とかいうことは〈コレ〉である我を捨て極大のナニへと志向する方向性である。解脱というのもコレへの執着からナニへと解脱することである。 布施行ということは、布施するナニ(お金・品物・行為)が受け取り手にとってコレにならないように十分に注意しながら布施する修行である。凡夫が行う所有の「ナニ→コレ」には迷いが生ずるが、仏道修行においてナニ性をコレ性に変換させることを「成仏」と言う。生活すべてを成仏させるということはこの方向性で人生を生きるということでもある。永平寺の先代住職の宮崎禅師が曲がって刺さった線香や、散らかったスリッパを正して、「成仏した」というのはまさにそれである。 澤木興道師の「自分が自分を自分する」は「坐禅が坐禅を坐禅する」などともよく読み替えられるが、これを一般定式化すれば「〈コレ性〉が「ナニ性」を〈コレ化〉する」とも言えるだろう。この時に自分が成仏したり坐禅が成仏したり、食事が成仏したりする。現在における救いの形式は「ナニ→コレ」である。逆に過去や未来での救いということを期待する場合には「コレ→ナニ」と働くであろう。例えば「あの時の失恋は辛かったけど、今となってはいい思い出だ」とか「この失敗の痛手は、将来笑い話になるだろう」とか。でも今ここの直下の現実においては「コレ→ナニ」的な慰めは誤魔化しでしかない。5 言語の機能と知の集積 言語の本質的な機能は、対象を説明し記述するということだけではない。意識の上で、コレをナニに、ナニをコレに変換することがその機能の本質であるだろう。言葉には単なる文章の羅列があるだけではなく、その文脈の強弱がある。すなわち意識において主題化されるべき〈コレ〉と抽象されるべき〈ナニ〉がある。 例えば推理小説において、真犯人がストーリー序盤で登場する場合、あたかも殺人犯的な〈コレ性〉ではなくナニ性・一般人性が強調された人物として登場する。最後に名探偵が「犯人はお前だ!」と言った時にそれまでのナニ性がひっくりかえって〈コレ性〉へと大転換する。起承転結など物語の構造にはナニとコレの転換がある(ナンだコレミステリ―論とでも言おうか)。言葉自体にその機能がある。ある言葉が人に傷を負わせたり、死の淵から救ったり、引きこもりを出家させたりする。 無数の「私」は実は唯一の〈私〉であったという開闢を驚愕することが可能であるためにはこの言葉のナニコレ機能が必要である。現成に公案が現れ、公案が現成をひっくり返すような仏教的な悟りの文脈でもそれは機能している。 ところで、「永遠」だとか、「絶対」だとか、「無辺」だとか、「無尽」だとか無限性に関する言葉はナニであるかコレであるか?これらは宗教の真理となるような概念である。神や仏と言われるものである。これらは「ナニ性」の極致ではないか。 宗教はコレ→ナニへの巨大な変換装置でもある。逆に究極のコレ性は仏教の伝統的には禅であり、永井哲学においては独在性である。だから究極のコレ性とは〈私〉である。しかしそれは世界内に登場したとたんナニとなる。これが独在論的存在構造なのだろう。 また現実の世界が現成してくること自体が、究極のコレ(〈私〉の生)が→究極のナニ(大自然)へと還っていくの巨大な変換装置の働きであるとも捉えられる。 〈現成〉や〈コレ〉や〈私〉という事実は、知識としては究極の知識ではないだろうか。〈コレ〉知識という鮮度抜群の智を集積するために神は〈私〉や〈今〉という唯一中心化された主人公を創造したのでは?という(形而上学的・SF的な)想定もできる。 たとえそうでなくても生命の進化にはそのような先人からの知の継続がある。その継続にはコレのナニ化が必要である。それは例えば地球上の進化の多様性に表されたり、武道の型に表されたりする。師匠の《私》の現成が弟子である〈私〉へと伝播するのが禅の世界で行われる嗣法(師弟の間で起こる悟りの伝播システム)であるが、これこそまさに現成の超越的継続である。6 仏教と永井哲学との接続について 仏教の悟りにおいては、現成〈〉そのものの自覚による存在驚愕を得るところまでいくが、そこから永井哲学の核心、すなわち世界の開闢と「受肉」された〈私〉の驚きまで精密に参究した祖師は歴史上まれであるだろう。独在性の独とは受肉の奇跡であり、在とは開闢の僥倖である。その受取の最も最醇なる方法は道元的な只管打坐の坐禅であろだうと私は思っている。 そこに開けてしまったなら、救いの根拠にはもう十分で、いつでもどこでも何をしてても開闢している限りそれが世界そのものの祝福であり、救済である。仏教の修行はそこから始まらないと無意義であるし、キリスト教の理解にもそれが必要で、その奇跡と僥倖の無い宗教は無意義ではないか。 釈迦が生まれて7歩周遊して、天地を指さし、「天上天下唯我独尊」と叫んだといわれる。7歩歩いたことは、六道輪廻からの解脱を比喩的に意味していると言われるが、ここではそのような神話的解釈はどうでもよい。唯我独尊の叫びは、仏教教説がまさにこの僥倖と奇跡を含みながらS、永井哲学と接続される叫びでもある。「天上天下唯吾独尊 今茲而住 生分巳盡 」(天の上にも天の下にも、唯われ一人尊い、今ここに住し、また生まれ変わることもない。)実はこれは玄奘三蔵の『大唐西域記』に記載がある言葉で本当は釈迦ではなく、釈迦の生まれる以前の過去七佛の最初の一人、仏毘婆尸仏言った言葉とのこと。この言葉を釈迦が言ったか言わないかが重要なのではなくて、この認識を得た仏教者が(おそらく歴史上の仏弟子に)居たということがここでは重要である。 他に〈私〉の僥倖・奇跡性に肉薄した仏教者は親鸞であろうか。『歎異抄』の中の一文「弥陀の五劫思惟の誓願も、親鸞一人が為なりけり」というのはまさに〈私〉の奇跡性と救いの受けとりについてを言及しているように思える。悪人正気という重要なキーワードが親鸞にはあるが、悪人というのはまさに社会から〈コレ〉として主題化される存在である。つまり罪とは〈コレ〉性であり、それに対して下される罰とは「ナニ」性へと罪を還元させることである。(それは決して成功しない処罰であるが)罪に対してその加害者も被害者も事実を受け取れず、意味を要求する。「なぜこんなことを起こしてしまったのか」「なぜこんなことが起きてしまったのか」。なぜと問うことは意味の要求である。それも、どこまでも納得されることを拒否されることが暗に前提されている。だから罪に対する罰は真に納得をもたらさない。7 罪悪感とコレ性 ところで、私はこれまでの人生で二度出家をしたと思っている。 1度目は18歳の時、社会に出ようとひきこもりから出家した。 2度目は28歳の時、社会から出ようと仏道に出家した。 1度目の発心のきっかけは15歳の時に読んだ永井均の『子どものための哲学』である。幼児期より喘息があり、ものごころついたころの最初の記憶は病院のベットで点滴につながれて天井の模様を心地よくぼーっと眺めていたことだったのを覚えている。入退院を繰り返したこともあったが、人前に出るのが怖くて学校に行けず、親や周囲の大人たちに沢山迷惑をかけたように思う。ある時から「なぜこんな自分が生まれてきてしまったのか」という罪悪感と存在不安とを伴った実存的な問いを持つようになった。ほとんど学校に行かず18歳まで引きこもった。なので義務教育はほとんど受けていないに等しい。 ある時、偶然家の本棚にあった(おそらく子育てに悩んでいた母がタイトルでジャケ買いをしたのだろう)永井均の著書を読んだ。それまで存在不安が存在驚愕へとそのままひっくりかえった。「この〈ぼく〉があるということは誰にも生きることができない人生を生きるということなのか!」この自分とこの現実世界の唯一無二のオリジナリティに気が付いたときは嬉しくて嬉しくて仕方なかった。この時から初めて自分の人生が始まった気がした。これが私の救いであり、引きこもりから出家する発心であった。 存在の意味を求めることではなく、存在の事実を受け取ることが生まれて初めてできた。私はこの独在性の自覚で本当に救われたと思っており、そしてどこかの誰かも同じように独在性の自覚で救えると本気で思っている。 だから永井哲学には人を救い得る深い宗教性があると思っている。私はこれを中心に仏教への理解も信仰も始まってるし、仏教の布教ということについても、本当に伝えたいのは実はその一点だけである。仏教の悟りは諸法無我を理解することが大きなテーマでもあるので〈私〉は伝統的な仏教的な文脈では悟りの結論とはなりえないだろう。しかし仏教の伝統であろうとなかろうと、悟りということの成立には〈 〉の現成だけではなく〈私〉であることが必要不可欠であるのは間違いない。 悪人正機説はそれを言わんとしているのではないか。六道輪廻の一番上に位置し悩み苦しみのない「天人」が仏教に出会えず解脱ができないということは、苦しみも罪悪もない満ち足りた天人が〈コレ〉性の欠如した存在であることを意味する。悪人の〈コレ〉凡夫の〈コレ〉が悟りの契機として必ず要求されるという意味でもある。 また、慈悲ということが成立する為にも〈〉ではなく、〈私〉から《私》を見るのでなければならないだろう。慈悲は他者の開闢を超越的に見ようとすることである。死にゆくものに対して遺族は、死者の開けの側からその苦しみ・孤独・悲しみ・人生・思いを、自己のうちに見ようとする。これが悲しみの起源であり、慈しみの起源であろう。西田的に言えば、絶対の彼岸に開ける他者の超越的独在を、自己の底に見るのでなければならない。 〈私〉という一点のミクロの視座で現成を捉えるか、〈 〉という場所・純粋経験・身心脱落・尽十方界真実・というマクロの視座(視座が外された視座)から現成を捉えるか。仏教では〈〉という現成そのものから徹底して受肉された〈私〉の観点を外していく方向で修行される。一方の永井哲学では〈私〉の開闢と受肉は同時発生的である。この「独」と「在」における存在驚愕と伝達不可能性について論理的探究をする。同じ構造の問題を過去に西田幾多郎の純粋経験と永井均の〈私〉との対比で考えたことがあったが、未だ整理はつかない。思いの外付録が長くなりすぎてしまった。これは引き続きの課題としてここでペンを置く。
2020.08.20
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