>なんとかく幕末、維新の歴史に思いをはせるのもよい。

幕末には、関ヶ原で敵対した大名なども徳川の結婚政策で多くは親戚関係になっていたようです。当初ほとんどの藩が討幕になど考えていなかった状態が短期間に討幕に傾き、最後に「版籍奉還」というウルトラC。自分の支配する土地や人を天皇に返還する。
朱子学による文化革命が進んでいたのでしょうか。
人々の価値観を変えることが社会を変える第一歩だという一例にも思えます。
(2010年04月05日 09時58分56秒)

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2010年04月03日
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カテゴリ: 神社
桜が満開を迎え、どこの桜を見に行こうか迷う時期である。
最近、幕末から維新にかけての歴史に興味があるので、松蔭神社の桜を見に行くことにした。
この松蔭神社、もともとは毛利家の下屋敷があったところで、吉田松陰の遺骨を高杉晋作らが密かに葬り、霊を祭ったことに由来するという。
したがって境内の一角には松下村塾を復元した建物があり、境内の隣には吉田松陰の墓所もある。

松下村塾は激動の時代に人材を輩出したことで知られるが、復元した建物自体は極めて質素で、これより立派な家に住んでいた豪農はいくらでもいただろう。武士は支配階級といっても、庶民と隔絶した贅沢をしていたわけではない。そしてまた江戸時代は厳しい身分制度の時代などと教科書にはあるが、松下村塾の中には武士階級以外の出自のものもいた。塾の客分の桂小五郎の親は武士ではなかったというし、伊藤博文の親にいたっては貧農だったという。
こういうことは、藩なんかによっても違っただろうし、「身分制度は親の敵」なんていう福沢諭吉の言葉にもあるように身分差別の厳しいところもあったかもしれない。
でも、藩の武家社会は狭い。そうした中で子供のうちから学問や武芸などを稽古していれば、誰が優秀で誰が駄目かなんてことは、皆が了解していたのではないか。べつに剣術の腕で出世がきまるというわけではないにしても、叩かれて(当時は今の剣道と違い防具もない)わあわあ泣いている子供と歯をくいしばって立ち上がっていく子供では、その資質の差は誰が見たって明らかであろう。一藩の経営にはそれなりの能力も必要で、家老の子は家老、足軽の子は足軽では藩がつぶれる。
とまあ、脱線したが松下村塾では身分の差なく塾生がたがいに研鑽に励んだだろうし、それがまた塾のよさだったのだろう。

復元した松下村塾の説明には維新の偉人だけでなく、萩の乱で刑死した前原一誠も含まれていた。歴史の中での勝者だけでなく、いわば敗者も松下村塾の塾生としてきちんと紹介してあるのがなんかうれしい。吉田松陰は前原一誠の人格を激賞していたというが、司馬遼太郎の小説「翔ぶが如く」(現在読書中)では非常に愚かしい人物のように描いている。
さて実像はどうなのだろうか。

とまあ、そんなふうに境内の満開の桜をみながら、なんとかく幕末、維新の歴史に思いをはせるのもよい。





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最終更新日  2010年04月03日 21時36分46秒
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歴史上の人物はわかりません。  
赤いオーケストラ荒木 さん
以前「坂本龍馬」を取り上げられてましたが、「物語上」英雄であり、維新三傑か四傑にも取り上げてもいい人物ですけど、しばらくの間忘れられていた存在でしたね。それほど「活躍」とした人物ではありません坂本自身は「単なる商人」で、操船技術者の第一人者だから、薩摩、長州の間に取り立てられた、薩摩も長州も「関が原」は続いていたから、たぶんそんなにも
重要なほどではない、彼が勝海舟を始めとして、何人の重要な幕閣と付き合いがあって、彼らの知識を何らかの語らいで知ったわけでしょう。それに薩摩は200年も徳川と裏向きでは対立してますし、17世紀終わりごろは「密貿易」で、莫大な利益を上げ、半ば独立国でした(翔が如くも、薩摩国物語といってもおかしくはありません)
あと、江戸時代は、身分制度はありましたが、中期や後期になると、経済力が上回り、商人の時代になっていた、でも人々の暮らしはよく、武家とはいえども
「近所付き合い」と変わらぬものだった説もありますよ。 (2010年04月04日 00時16分20秒)

代官も楽じゃない  
鳩ポッポ9098 さん
>藩の武家社会は狭い。そうした中で子供のうちから学問や武芸などを稽古していれば、誰が優秀で誰が駄目かなんてことは、皆が了解していたのではないか。

泰平の世に「軍人」は必要ないんですよ。忠臣蔵の元禄時代にはもう、武芸も過去の遺物となっていたんですね。今と同じように、藩の整理、統廃合が進み、再就職先の見つからない浪人が社会問題にもなりました。

剣術・馬術・槍術などはセンセにでもなるのでなければ、嗜み程度の物だったようです。世が平和になれば、槍の又左のような人物もいなくなっていく…いつの世も同じことですね。

独立採算制の藩や天領の代官にとって、一番の悩みのタネは農民一揆を如何に起こさないようにするかという事でした。農民一揆は、一般的に食い詰めた農民が起こすものという理解をされていますが、一種のストという見方の方がいいと思います。

そのため、藩は直属の藩士とは別に、半士半農の専門家に治水・徴税・意見の取り纏め等を依頼していました。これも今の士業と同じですね。こういう手続を無視し、杓子定規に税を取り立てると、すぐにストをされる…藩や天領の経営は、自分の首がかかってるだけに本当に大変だったようです。 (2010年04月04日 01時25分34秒)

Re:歴史上の人物はわかりません。(04/03)  
七詩  さん
赤いオーケストラ荒木さん
剣の達人であるばかりでなく、女人とのエピソードや多士済々の人々との交友など小説の主人公としては一番面白いのでしょう。歴史の中での実績という意味ではちょっと疑問です。薩長同盟も主役は薩長ですし、大政奉還も誰が最初に考え付いたかなんてどうでもよいことで、慶喜がそれをやったということが重要でしょう。
幕末や維新のころの人物をみると出自というのは決して高くないですね。幕末は特に流動性が激しかったのかもしれませんが、江戸時代でも案外能力次第で上昇するという道がひらけていたようにも思います。 (2010年04月04日 13時46分42秒)

Re:代官も楽じゃない(04/03)  
七詩  さん
鳩ポッポ9098さん
武芸は腕そのものというよりも案外ああいう稽古は忍耐力の鍛錬にはなっていたのかもしれません。
基本的に藩の経営は今の行政に通じるようなものだったのかもしれません。代官も含め、かなりの能力を要したでしょう。 (2010年04月04日 13時50分59秒)

Re[1]:歴史上の人物はわかりません。(04/03)  
ユトプス  さん
七詩さん
>赤いオーケストラ荒木さん
>剣の達人であるばかりでなく、女人とのエピソードや多士済々の人々との交友など小説の主人公としては一番面白いのでしょう。歴史の中での実績という意味ではちょっと疑問です。薩長同盟も主役は薩長ですし、大政奉還も誰が最初に考え付いたかなんてどうでもよいことで、慶喜がそれをやったということが重要でしょう。
>幕末や維新のころの人物をみると出自というのは決して高くないですね。幕末は特に流動性が激しかったのかもしれませんが、江戸時代でも案外能力次第で上昇するという道がひらけていたようにも思います。
-----
(2010年04月04日 18時23分40秒)

Re[1]:歴史上の人物はわかりません。(04/03)  
ユトプス  さん
七詩さん
>大政奉還も誰が最初に考え付いたかなんてどうでもよいことで、慶喜がそれをやったということが重要でしょう。

七詩さん
>大政奉還も誰が最初に考え付いたかなんてどうでもよいことで、慶喜がそれをやったということが重要でしょう。

それはちょっと違います。
 大政奉還はあの当時としては、なかなか思いつけない『コロンブスの卵』です。
 あれによって幕府と佐幕藩を徹底的に叩き潰そうと思っていた倒幕派の思惑は肩透かしを食わされた。

 幕府内の反対派を抑えてそれを実行した慶喜も確かにえらいが、あれを思いつくというのはかなり柔軟な頭でなければできません。
 戊辰戦争というのは、革命にしてはかなり犠牲者は少なかったといいます。これは龍馬と、彼の意見を取り上げた後藤象二郎、山之内容堂、そして慶喜の快挙です。

 龍馬の偉大さは、その卓越した交渉力と商才でしょう。薩長同盟の前の薩摩と長州は、禁門の変でも実際に戦闘をするほどの犬猿の仲でした。
 それを他藩の、しかも、一介の浪人でしかない龍馬が同盟させたのは、並外れた交渉力としか言いようがないです。

 彼は、海援隊で今のお金で言えば数十億というお金を動かして商売をしてます。どこの藩も代表しない一介の浪人がです。彼が生き延びていたら、財閥を築いた岩崎弥太郎どころではなかったでしょう。
(2010年04月04日 18時24分43秒)

Re[2]:歴史上の人物はわかりません。(04/03)  
七詩  さん
ユトプスさん
> 大政奉還はあの当時としては、なかなか思いつけない『コロンブスの卵』です。
そうですね。
でも後藤象二郎が竜馬の手柄をとったというのは違うように思います。一介の郷士の名を出せばかえってまとまらない可能性もあったでしょうし、そこは有力者である自分の思いつきにした…と。
竜馬はたしかに時代の枠を超えた途方もない人物だったのですね。 (2010年04月04日 23時24分21秒)

Re:松蔭神社の桜(04/03)  
蜆汁硯海  さん

Re[1]:松蔭神社の桜(04/03)  
七詩  さん
蜆汁硯海さん
日本の歴史などをみると戦いがそんなに長引いたというのはあまりないように思います。なぜか…それは理念の対立のようなものがない。せいぜいが朝敵とか官軍とかそんなものくらいですが、それとても勝てば官軍ですし。
だからいったん優勢と見るとどっとそっちになびいていく。源平でも太平記でもその構造はかわりません。
維新もそうでしょう。最初から倒幕をやっていたのは薩摩長州くらいで、それも殿様には幕府をつぶすまでの意図はあったかどうか…。
その後、形勢をみて、土佐、そして肥前が最後に倒幕側に加わります。
版籍奉還は日本的なバスに乗り遅れるなの世界ですね。薩摩と長州の殿様が最初に版籍奉還すると、他の殿様もどっとそれに追随しました。
(2010年04月06日 07時35分06秒)

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