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中国では無差別殺傷事件が増えているというが、この点では日本も似たようなものだ。特に昨今連続して起きている強盗事件は体感治安を悪化させている。マンションなら安心と思っても、住民の後にくっついてドアを通る方法もあるので、結局、マンションといえども誰でも入れることは変わりない。そのうち、マンション住民の心得として、自分にくっついて見知らぬ人物が入ってこないかを気にしなければならなくなるのかもしれない。そしてこうした事件が続けば、一戸建てはますます人気がなくなるだろう。東京の近郊にいくと、さほど老朽化していないのに、空き家の目立つ住宅街がある。庭付き一戸建てが人生の成功の証とされていて、土地は永遠に値上がりし続けるものと信じていた時代、人々は無理してでも一戸建てを購入した。会社の上司などが、どこそこに土地を買った、家を建てたと自慢気に語っていた時代を覚えている。今、そうした住宅を購入した世代は高齢化し、次の世代は、結婚しても共働きが普通なので、もっと便利な地へと離れていく。閑静な、というよりも、とりのこされたような住宅街では、人々はますます不安に暮らす。強盗だけではなく、それ以外の無差別殺傷事件もある。札幌の放火事件は可燃物を使用するなど京アニ事件を連想させるが、平日の昼間でもそうしたところに行く人々がいるというのも驚きである。この事件の詳細はわからないが、拡大自殺型の事件かもしれず、そうだとしたら、こうした事件を防ぐのは非常に難しいのではないか。
2024年11月27日
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その昔から名前は知っていたのだが読まないできた本である。奈良の名刹を巡った旅行記であり、大正8年に刊行された。著者は当時は30歳であり、車(人力車?)でお寺を巡り、お坊さんに会って仏像を見せてもらったりしている。今の観光旅行とはずいぶん趣が違う。そこで出会った仏像に感動しながら、唐や天竺に思いをはせ、結局はこうした仏像は穏やかな日本の風土の中で生まれたものであろうとする感想が多い。著者の後年の名著である「風土」の考えの芽生えはすでにこのころからあったのだろう。それにしても、穏やかな日本の風土、日本の自然といっても、この本がでた4年後には関東大震災が起きる。日本の自然は穏やかなだけではない。日本の自然は穏やかだから、日本人は農耕民族だから…という前提で、日本人の国民性や習俗を理屈づければなんとでもいえるし、そうした「日本人論」が流行した時代も知っている。こうした論調の淵源の一つは和辻哲郎にもあるのかもしれない。余談だが、和辻哲郎の「風土」は読んだことがないのだが、そこに記述されている砂漠には一神教が生まれ、自然豊かな地域では多神教が生まれたという論調は、かなりの影響力をもっていたようだ。しかし、イスラム教は砂漠よりもインドや東南アジアの信者数の方が数では多い。和辻哲郎氏は実際には中東には滞在したことはないという。昔は今に比べると外国滞在の経験機会も少なかったし、該博な知識と流麗な文章があれば、多くの読者を感心せしめたのであろう。「古寺巡礼」は、読んだ後、奈良を訪れてみたくなる本であり、また、随所に仏像などの写真があることも読書の助けになる(もっとも今ではスマホですぐに見ることができるが)。
2024年11月25日
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数学には嫌われているのだが、どういうわけか数学のでてくる映画は好きだ。特に「博士の愛した数式」は小説だけでなく、映画の方も大傑作だと思う。そして今回ネット配信でみた韓国映画「不思議の国の数学者」もそれに匹敵する、またはそれ以上の傑作だと、個人的には思う。主人公は脱北した数学者で、韓国では学校の警備員をしている。生徒たちは彼の正体を知らず、脱北したことにちなんで「人民軍」のあだ名でよんでいる。主役のチェミンシクは有名な俳優なのだが、いわゆる知的な風貌ではなく、天才数学者のイメージではないが、さすがの貫禄の演技で、目が離せない。その彼と、貧しい母子家庭で塾に通うことができず、落ちこぼれ気味で転向を薦められている高校生ジウとの交流が物語の大きな流れでそれに脱北の複雑な事情が絡んでくる。不思議という言葉には日本ではマイナスの意味はないのだが、原題は異常な国であり、主人公は、自由な研究を許さない北朝鮮も異常なら、数学が就職の手段になっている韓国も異常だと言う。問題を解くことが重要なのではない、問題を解く過程が重要なのだといったような含蓄の深い言葉が随所にあり、数学を度外視しても、十分に楽しめる。もちろん博士の愛した数式にもでてくるオイラーの等式はここにもでてきて、数学者は、高校生相手にその美しさを熱弁する。さらに、円周率を音楽に直してピアノ演奏する場面は圧巻であり、この円周率の音楽は映画の随所に使われている。数学は美しい、だからこの世界は美しい…ぜひお薦めしたい映画である。
2024年11月24日
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このごろポピュリズムという言葉をよくきく。ポピュリズムの定義はいろいろあるのだろうが、「大衆からの人気を得ることを第一とする政治思想や活動」をいうとしたら、民主主義制度下での政治とはそうしたものではないか。多くの有権者の票を集めなければ政治家になれないし、政治に関与することはできないのだから。そして大衆政治家というとよい意味になるのに、ポピュリズム政治家というととたんにうさんくさいイメージになるのも変な話だ。実のところ両者は、おそらく同じ意味なのだから。そしてまた、このポピュリズムという言葉を使う人は、自分の意見に反する候補者が大量の得票をした場合に、その候補者をポピュリズム政治家と呼び、投票した人々をネット情報に踊った〇〇と表現する。こういう言説は昨今の内外の選挙についてよくみられるのだが、本当にそうなのだろうか。ポピュリズムの定義の曖昧さはひとまずおくにしても、有権者がネット情報に踊ったというような見方にはすでにバイアスがかかっているようにみえる。つまり正当な言論であるマスコミに対してうさんくさいネットという色分けである。実際にはマスコミも、過去に一方的な人格バッシングを行った例もあるし、逆に報道しない自由を行使した例もある。現総理ではどうかしらないが、過去の総理の中にはマスコミ幹部とさかんに高級レストランなどで会食を行っていた方もいた。今の人々はマスコミなるものを一方的に信頼しているわけではない。ネット情報が玉石混同であり、真偽不明なものも多いことはネットを見る人なら小学生でも知っているだろう。有権者がネット情報に踊ったというよりも、マスコミ情報に踊らなくなったというのが真相であるように思える。それにしても、ポピュリズムという語を使い、有権者を〇〇よばわりする言説のいやらしさはなんとかならないだろうか。なにやら自分を大衆よりも一段と高いところに置き、見下している匂いがぷんぷんとする。まあ、安定した職のある方がこうした言説をいうのは自由なのだが、人気商売の評論家などだとちょっと他人事ながら心配になる。それにいくら自分が賢いと思っても、政治の世界には賢い人が正解を出すとは限らない。抜群の知能と優れた人格を持ちながら、結果的に人々を地獄に導いたような政治家だっている。むしろなぜ、こうした政治家が票を集めたかというその背景を謙虚に見つめるべきではないか。欧州では最近移民排斥をとなえる「ポピュリズム政党」が支持を拡大しているという。こういう主張に対してナチズムに似ているとか多様性だとか外国人との共生だとか言ってみてもなんの解決にもならない。貧困が拡大し、外国人と職を奪い合う中で失業したり待遇が低下したり、はては住居周辺の治安が悪化して不安な日々を過ごさなければならない人々が自国民の中にいるという現実にこそ向き合うべきであろう。
2024年11月23日
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昆虫食を手掛けるベンチャー企業が倒産したという。もともとこの食糧危機だから昆虫食推進という議論には疑問がいっぱいだったので、倒産というニュースをきいてもさして驚きはない。そもそもなのだが、食糧危機だから昆虫食という思考自体に何段階もの飛躍がある。順序としては、そもそも食糧危機は来るのか、来るとしたらいつ頃くるのか、食糧危機の対策としては何があるかというふうに考えるのが普通であろう。そして、もしかりに将来の食糧危機が予想され、そのための対策を現在において建てる必要があるのだとしても、昆虫は飛躍しすぎである。まず、現在食べているものを増産する方向があり、次には、食料になりうるものを開発することを考えるというのが普通だろう。現在、棄農地がものすごい勢いで増えており、農業人口も高齢化が著しい。考えるべきは、この農業生産のありかたの見直しではないか。次に、それでも食料が足りないのだとしたら、食糧になりうるものの開発なのだが、それは郷土食など、すでに食用例のあるものから考えるべきではないか。自然界には多くの動植物があり、中には毒というものもあるが、多くは不食といって、毒ではないが、まずくて食用にもならないものだという。地域によってはイナゴや蜂の子、蚕蛾などを食べるところもあるが、これは醤油などできつい味付けをして珍味として食感を楽しむためのものになっている。昔、醤油が貴重だった頃は薄い味つけだったのだが、あまりおいしくないので、豊かになるとともにきつい味付けになったのだろう。そんな昆虫食の盛んな地域でもコオロギを食べたという話は聞かない。だいたい、コオロギ食を推進しようとしている人々は自分がそれを食べたいと思っているのだろうか。自分が食べたくないものを推進しようとしてもうまくいくわけがないのはあたりまえである。そういえば、過去にも食糧危機が喧伝され、食材として輸入されたものがある。アフリカマイマイやウシガエルがそうである。これらのものは、結局は食用としては根付かずに生態系の破壊が問題となっているだけである。
2024年11月22日
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新田神社については以前も書いた。「太平記」を読んだので、新田義興の物語は興味深かったし、新田義興の謀殺と怨霊を扱った歌舞伎「神霊矢口渡し」も見たことがある。今回はこの新田神社も含めた多摩川のあたりを訪ねることとした。前回、見ていなかった矢口の渡し跡もぜひ見てみたい。この矢口の渡しは多摩川大橋ができるまで存在していたという。武蔵新田の駅をおり、最初に謀殺に加担した船頭の頓兵衛が供養のために建てたという頓兵衛地蔵尊にまずお参りする。その後、商店街を通ってしばらく歩くと新田神社があり、そしてその先に義興の家臣を祀ったという十寄神社がある。ここで商店街は終わり、道は閑静な住宅街へと変わる。その先の東八幡神社の向こうに多摩川土手が見える。このあたりが矢口の渡しである。ここから船に乗った乗った新田義興らは両側から矢を射かけられ、憤死したというのだが、目の前の多摩川は穏やかで川幅もさほどではなく、太平記のイメージとは違う。川というものはしばしば流れを変え、そのために川の周辺には低地が形成される。かつての多摩川も今の新田神社や十寄神社の近くを流れていたという。現代人は川は動かないものだと思っているが、それは護岸工事をするようになったせいだろう。自然の地形は山も川も雨が降り風が吹くたびに変わっていく。それを人間は護岸工事や法面補強で動かないようにしている。太平記の時代には多摩川も今の場所を流れていたわけではなく、上流にダムなどももちろんなかったので、水量もまったく違っていたのだろう。
2024年11月19日
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福本邦雄の短歌評論であるが、著者の経歴は一言には言いにくい。新聞記者であり、岸内閣の時の内閣官房長官秘書官であり、企業経営者であり、美術品のバイヤーであり…。本書はある新聞に掲載されていた短歌論集を本にまとめたもので、これが様々な歌人の経歴に焦点をあてたもので面白い。とにかく著者の文才もさることながら、それぞれの歌人の男女関係や恋愛遍歴を、そのときどきの歌とともに紹介するのが斬新である。教科書的な偉人として描かれている人は一人もいないのだが、それぞれの人生にそれぞれの歌があり、なかには共感したり印象に残ったりする歌がある。タイトルの「炎立つ」のもとになった歌は吉野秀雄の以下の歌である。これやこの一期(いちご)のいのち炎立(ほむらだ)ちせよと迫りし吾妹(わぎも)よ吾妹終戦の直前に胃の肉腫で死んだ妻を詠ったものなのだが、この歌をよむと、光る君でおなじみの中宮定子の辞世である「夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき」を思い出す。死期の近いことを知った女は命の痕跡をとどめたいと思う。それを女の立場で詠ったのが定子の歌なら、男の立場で回想したものが吉野秀雄の歌なのではないか。このほか、与謝野晶子の有名な歌「ああ皐月(さつき)仏蘭西(フランス)の野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟」も鉄幹と晶子の夫婦の歴史を背景にみると見方が変わってくる。与謝野晶子のように功成り名遂げた女性ではなく、若くして獄死した金子文子の以下のような歌も、一瞬の心情に思いをはせることができる。盆蜻蛉すいと掠めし獄の窓に自由を想いぬ夏の日ざかり金子文子については韓国映画「朴烈」があり、その中で愛人金子文子がヒロインとしてでてくる。金子文子の自伝「何が私をそうさせたか」も文庫になっているものを読んだのだが、大変な逆境にあっても向学心を失わずに苦学していたことが描かれている。いつの時代にも向学心に燃え、学問をやりたかったという女性は大勢いた。
2024年11月18日
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「刀伊入寇~藤原隆家の戦い」を読んだ。歴史小説にはだいたい二種類ある。明治期を扱った司馬遼太郎の小説によくあるように史料を読み込んであくまでも歴史的事実に即して書くものと、想像力を駆使した伝奇小説やファンタジーに近いものとである。本書は後者である。刀伊の入寇は歴史的事件であるが、大鏡などでの記載は少ないし、元寇に比べるとあまり知られていない。都にいる貴族たちには大した事件にはみえなかったのかもしれない。この刀伊入寇の際に、大宰権師だった藤原隆家が九州勢力をよくまとめて撃退したことは史実であり、隆家は日本史上の英雄であるともいえる。隆家は枕草子にもでてきており、優雅で学才のある伊周とは少し違った磊落で明るい人物として描かれている。このあたり蜻蛉日記にでてくる藤原兼家が豪放磊落な印象で芸術家肌で繊細な道綱母とは性格があわなかったのを髣髴とさせる。本書ではこの隆家は理想的な英雄として描かれており、文章も読みやすいので、エンタメとして楽しんでよめる。ストーリーの詳細はネタバレになるので書かないが、日本人や日本人の血を受けた英雄が大陸で活躍するのはあの源義経チンギスハン説を思わせるし、もっと古くは源為朝の息子が琉球王朝を建てる椿説弓張り月にも似てる。余談だが、こういう物語を読むときには、たいてい作中人物の顔を思い浮かべて読むのだが、女主人公ともいえる刀伊の女性にはぴったりの顔があった。看板を出しているので個人情報ではないのだろうが、ある駅に医院の広告があって、そこに愛新覚羅さんという女医の顔写真が大きくでていた。愛新覚羅といえば清朝の王族の姓で清朝といえば女真族、女真族といえば刀伊ではないか。そして素晴らしい経歴にはっとするほどの美人…ということで、今回の読書ではこのイメージを拝借した。
2024年11月17日
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米大統領選挙で一番印象的だったのは、その日の夕方までに結果、それもかなり一方的な結果が出てきているのに、朝刊の見出しは「史上まれにみる大接戦」となっていたことだ。どこが大接戦やねん…別にこれは日本のマスコミのせいではないだろう。日本のマスコミが取材源にしている米国の高級紙の予想がはずれたというだけのことだ。じゃあ、なぜ米国のマスコミの予想が外れたのだろうか。米国のマスコミだってしかるべき世論調査を行ってこの結論になったわけだし、彼らとて願望をそのまま予想にしているわけではない。世論調査の対象にしても、その昔のリーダーズダイジェストの徹をふまないために、属性には留意しているはずだ。それでも、世論調査と実際の結果がくいちがうというのはそれなりの理由があるはずだ。よくあるのは、ワールドカップで日本が出場するとき開催国の住民にマイクを向け勝敗予想をきくのがある。そうすると、実際の可能性以上に日本の勝利を予想する人が多いようにみえる。考えてみればあたりまえで、聞いているのは日本の記者だとわかるし、そうだとしたら喜ぶような回答をするのがあたりまえだろう。世論調査については、回答が匿名であり、電話調査などの顔の見えない調査であっても、回答する側は自分の答えがどううけとめられるかを気にする。日本での報道を見る限り、米国のマスコミはかなり一方的に民主党候補を推していた。それも冷静に政策を比較した理論的なものではなく、トランプを支持する人々が〇〇であるかのような印象調査をしているのではないかと思うほどだった。こういう状況の中では、世論調査であっても、トランプ支持というのは言いにくかったのではないかと思う。同じことがもしかしたら日本でもあるのかもしれない。兵庫県知事選である。マスコミ報道では現知事をとんでもない人物であるかのように報じているし実際そうかもしれない。しかし、その中身をみてみるとパワハラの被害者は県幹部職員で、本当に弱い立場の者を踏みつけたというのとはちょっと違うように思う。まあ、もともとは現知事は総務省官僚で、彼らの中には自治体職員に対する強烈な優越感を持ち、なめられないために威圧的態度をとるというのもいるのかもしれないけど。いずれにせよ、個々の行為は態度悪いねえ…といったもので、あの「こ~のハゲ~」のようなものとは違う。内部告発者が自殺に追い込まれたのは大きな問題ではあるが、これと対立候補とを比較して県民はどちらを選ぶのだろうか。世論調査と実際の投票との乖離はないのだろうか。気になるところである。
2024年11月15日
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町の書店が消えているという。少し前には雑誌が消えているとか、新聞の購読者が激減しているというニュースもあった。そりゃそうだろうなと思う。今はネットを通じて情報を得る時代だし、本を買う需要もずいぶんと減った。それだけではない。学習塾が続々消えているとか、歯科医や美容院の廃業が相次いでいるというニュースもある。学習塾の苦境は少子化によるものが大きいだろうし、歯科医は過当競争、美容院は生活習慣の変化や高齢化の影響があるのかもしれない。一方で人手不足が言われながら、一方では様々な業界で需要減や廃業の話ががある。時代の流れとともに衰退する業種もあるが、需要が増大する業種もあるということなのだろう。こうした予測であるが、高齢化や人口減少をおりこんでもその予測が当たらないものがある。かつて、将来は墓地不足が起きるといわれたことがある。高齢化の先には大量の墓地需要があり、高度成長期に都会に流入してきた世代が寿命を迎えるころには墓地不足が起きるはずだという予想はもっともらしかった。しかし、現実にはそんなことは起きていない。葬儀や墓地の形態も変わってきたからだ。むしろ墓地整理や過疎の地域では廃寺も増えている。墓地は実は生きている人のためのものであり、少子化や人口減少で需要はむしろ減っていく。今後、なにがおこるか、予想することは難しい。歯科医の苦境の次にはクリニックの経営難がくるのではないか。医師はきちんと定員管理されている資格なのだが、今後すすむのは高齢化の中の高齢化である。前期高齢者なら健康管理のための投薬や検診などを行っても、後期高齢者になればそうしたものに無頓着になるかもしれない。そしてさらにいえば医療機器も高度化している。最近、近所にもクリニックがいくつか開業し、中にはMRIやCTなどの高価な機器をいれているところもある。素人目にはこれで採算がとれるのか心配になる。真偽のほどは知らないが、弁護士業界では資格者を増やしたことで生活できない人もでてきているという。医師が資格があっても生活できないこともあるような職業になったらかなり問題であると思う。
2024年11月14日
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岸田元首相の狙撃犯の公判が来年2月に開かれるという。この事件は2023年4月に起きたものだが、そんな事件あったっけと思う人も多いのではないか。それにつけても思い出すのは安倍元総理銃撃事件である。これは2022年7月であり、岸田元首相の狙撃事件よりも1年近く前だ。なぜこちらの方の公判はこんなに遅れているのだろうか。どう考えても変なのに、マスコミはこうしたことには一切ふれない。そしてまた、裁判では証人が呼ばれ、証人は自分の記憶に従って証言をする。ところが人間の記憶は時間がたてばたつほど薄れたり変容したりする。この意味でも、あまりにも遅い刑事裁判、それも事件から2年以上たっているのに初公判すら開かれない刑事裁判というのは異常なのではないか。安倍元総理の殺害以降、この事件に関しては膨大な量の報道がなされた。特に統一教会がらみの報道は大きく、政局にまで影響を及ぼした。それなのに、銃撃犯自身の声はいっさい聞こえてこない。どう考えても変だし、変だという報道がマスコミにでてこないのはもっと変だ。
2024年11月13日
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漫画家の楳図かずお氏が亡くなった。この人の漫画にはあまりいい思い出はない。とにかく怖くて、それもなんか憂鬱になる怖さだった。一番怖かったのは「紅クモ」という漫画で、毒クモを口に入れられた美少女が次第に化け物になっていく話だった。化け物に襲われる話と自分が化け物になる話とどっちが恐ろしいだろうか。いうまでもなく後者である。化け物から逃げることはできても、自分からは逃げられないのだから。とにかくこの頃の楳図氏の漫画は普通の少女が化け物になるような話が多かったように思う。「へび少女」とか「猫目の少女」とか…いやだよね、こういう話。そしてしばらく後で読んだ漫画「ネコ目小僧」もまた怖かった。ネコ目小僧という妖怪少年が主人公でも鬼太郎のような懐かしく土俗的な怪談ではなくて、ひたすら気持ち悪い話だ。再生力の異常に強い男がいて、足を切ると、その足が化け物になって屋敷をはい回る。特に印象的な話は怪奇肉玉という話で肉の塊のような化け物を見ると必ず死ぬ。肉玉を見ないように目をつぶしても闇の中に肉玉がみえるというような話だった。ある解説によるとこの肉玉は癌のことだとあった。そうかもしれない。だいたい恐ろしい怪談というものは、なにか潜在的な現実の恐怖がかくれている場合が多い。一時流行った口裂け女などは少女が女性になることの恐怖が背景にあったのだろう。少女が女性になることは、現実には出産など生命の危険にさらされることであり、今でも途上国では女性の平均寿命の方が短いという。だから口裂け女を怖がったのは小学校高学年の少女たちで男子はさほど騒がなかったという。まあ、それ以外の怪談でも、それが死の予兆だとなると、とたんに怖さが増す。楳図氏の漫画はそうした人間の潜在的恐怖にフィットするようなところがあり、だから今でも思い出すと怖いのだろう。
2024年11月12日
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米国の大統領選の結果のでた日、机の上にあった朝刊の見出しをみると、史上まれにみる接戦、結果判明に数日も…という見出しが躍っていた。たしか、米国大統領選の情勢はマスコミ報道によると大接戦ということであったし、それはおそらくその取材源となった米国の高級紙もこうした論調だったのだろう。そして結果が判明した後、日本在住の米国人論客の多くが選挙結果に落胆する意見をネットに掲載していた。彼らが米国の世論すべてを代表しているわけではないが、米国のいわゆるインテリ層の意見というのはこうしたものではないのだろうか。マスコミ人士に代表されるインテリ層や都市型富裕層、そしてハリウッドセレブのような社会的に影響力のある成功者達はほぼ民主党の候補を推していた。一昔、いやふた昔前の選挙だったらここで勝負がついたのだろう。マスコミは社会の木鐸であり、セレブはオピニオンリーダーだったのだから。でも、時代は変わった。人々はネットというものを手にしたので、自分で情報を探し、自分で意見を形成するようになった。経済が好調だといっても、その富は自分のところには来ない。物価だけはあがり生活は苦しくなるばかりだ。そんなところにエリートの黒人女性が大統領候補をしてでてきて、黒人だから黒人の支持があって当然だ、女性だから女性の支持があって当然だ、ダイバーシティだから女性でマイノリティの大統領はおおいにけっこうではないか…といわれてもねえ、というのが多くの人の感想だったのではないか。マスコミやハリウッドセレブたちがやたらと彼女を支持しているけれども、マスコミ人士もセレブも自分とは別の世界の人間だからなあと思った人も多かっただろう。さらにいえばここ何年かで目立ってきたポリコレだのダイヴァーシティだのに辟易としている人もきっといる。ポリコレといって金髪碧眼のイメージだった中世ヨーロッパの物語のお姫様を黒人にして誰が喜ぶのだろうか。ダイヴァーシティといって下駄をはかせて要職に女性をつけたところで、一般の女性にとってはどうでもよい話だ。今回の選挙結果についてはサンダース氏の言った「労働者を見捨てた政党は労働者に見捨てられる」というものが一番正鵠を射ているようにみえる。リベラルと左翼は違う。トランプが庶民の味方とも思えないが、不法移民排斥は実際に職を奪われ、待遇が低下し、治安悪化に不安を持つ庶民層の琴線にふれただろうし、利口ぶったエリート女よりも面白いおっちゃんの方が投票先としてもよいに決まっている。今回の大統領選は庶民を見捨てたリベラルの退潮の契機になるのかもしれない。
2024年11月10日
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米国大統領選をニュースでみているが、日本の感覚では異様に見えることが多い。まず、セレブといわれる著名な芸能人達が自身の応援する候補を明確にし、実際にそのための活動を行っていること。次には、日本で報道されるマスコミのほとんどが一方の候補者に肩入れしているように見えること。さらに、これが最も異様なのだが、マスコミが総出、セレブが総出で応援しているような候補がどうやら敗北しそうなこと。米国の事情には詳しくないし外国滞在経験もないのだが、よくいわれる人種とか宗教による分断の他に、もう一つの分断があるように思えてならない。つまり、高学歴インテリとそれ以外の大衆との間の分断である。日本にいてメディアの報道ばかりみていると、聞こえてくるのが高学歴インテリの意見である。だから事前の報道の印象と実際の結果の落差にとまどう。インテリ以外の大衆といっても、米国のような強固な二大政党では、いわゆる左翼の出番はない。ただ左翼でなくとも、結局はインテリ以外の大衆をつかんだ政治勢力が急伸する。この点、トランプのように新規移民に厳しい政策をとり、偉大なアメリカの復活を唱える候補は強いのかもしれない。貧しい移民の流入によって職を奪われたり、待遇が低下したり、はては住んでいる地域の治安が悪くなって困るのは、その国にもとからいた貧困層である。そしてまた、能力主義と自己責任論の中で不本意な生活をしている人々は偉大な〇〇国民のような自分に自信を与えてくれるようなアイデンティティを求めるものである。
2024年11月07日
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流行語大賞の候補30が発表されたのだが、まったく知らない単語がけっこうある。アサイーボールとかアザラシ幼稚園とか8番出口とかいうのは、へえ、そんなのあったの、初めて聞いたというレベルだ。本当に流行っていたのだろうか。また、界隈といって場所ではなく特定の人々をさす使い方って昔からあったような気がする。侍タイムスリッパ―とか被団協となると、たしかに今年の話題なのだけれども、あくまでも話題であって、流行語というのとは違う。初老ジャパンは40歳くらいを初老というのは明らかに死語だし、マスコミがいっていただけではないか。この流行語のノミネートは朝のニュースワイドショーでもとりあげていて、ただおやっと思ったのは、女性のコメンテーターの方が朝ドラの「虎に翼」のファンで友人たちともこの話題でもりあがっているので「はて」を押したいと発言していたことである。この女性のコメンテーターは政治経済の硬派なテーマでもコメントしているのでもちろん有識者である。これが別の朝ドラだったら自分がファンだとか友人との話題だとかいうだろうか。たぶんそうはならないだろう。番組そのものを見ていないのにかってなことをいうのはなんなのだが、もしかしたら「虎に翼」で朝ドラ視聴者層の中身に異変が起きたのかもしれない。昔の女性の法曹の物語ということで、いわゆる意識高い系のシニア層に大うけしていて、その分、懐かしい話を時計がわりにみるような視聴者は離れていったのではないか。後番組の「おむすび」の不振は虎に翼の視聴者層が離れ、かつての視聴者層が戻ってこないという不運な時期にあたったということで説明がつく。違っているのかもしれないけど。個人的にはこの中では50-50が選ばれるように思う。連続強盗がらみのトクリュウなども印象的なのだが、マイナスの印象の強い言葉はたぶん選ばれない。
2024年11月06日
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韓国ドラマ「謗法」を見終わった。基本は韓国のムーダン(巫女)などの土俗信仰を扱ったホラーなのだが、話の中心は狗神、付喪神などの日本の憑き物になっている。そのため、韓国ドラマなのだが、なんとなく日本のホラーのようでもある不思議な感じになっている。外国の扱う日本の物は総じて勘違い系が多いのだが、ここでの狗神はネットで調べたところかなり正確である。そういえばこういう憑き物をテーマにした日本のホラーというのはあまりない。おそらく日本ではできないのだろう。こうしたものは差別とか社会問題とかといった地雷を踏むことにもなりかねないからかもしれない。韓国にも似たような憑き物の迷信があるのかもしれないが、そのあたりの面倒をさけるために日本支配の時代に日本からやってきた悪霊ということにしたのかもしれない。憑き物もウィルス同様に人から人に伝播するものかもしれないが、悪いものが日本由来というのもなんとなく複雑な感じだ。まあ、ずっとまえに子供向きの韓国の辞書をみたことがあるが、それをみると、日本という語と次にくるのが日本脳炎だったりしてこれもなんだかなあ…である。
2024年11月05日
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「火星の人」を読んだ。有人火星探査船で事故のため主人公マークはただ一人火星にとりのこされる。彼は植物学者でありメカニカルエンジニアでもあり、ありとあらゆる知識を生かして火星でのサバイバルを図る。NASAと連絡が着くまでは登場人物はマーク一人。そして技術的な説明が延々と続く。思うのだが、SF作家でそれほど深い科学知識を持っている人はあまりいないのではないか。知識があるとかえって書けないのがSFだろう。だから詳細な技術的説明も適当に読み飛ばしていた。まあ、古畑任三郎にでてくるファルコンの定理と同じようなものだと思って…。しかし、解説を読むと(途中で解説を読むという悪い癖があるので)、作者は宇宙開発に関心のあるプログラマーで15歳から国の研究所に雇われているのだという。となると、こうした技術的説明もそのつもりで読まなければならないのかもしれない。普通の人にとってはどっちでもよいことで、どのつもりで読んでも、理解しがたいものはさらっと読み飛ばすしかないのだが。というわけで、この小説の最初の部分はかなり退屈である。しかし、そのうち、NASAや仲間のクルーと連絡がつき、秘密裏に宇宙開発を進めていた中国の協力もあり、様々な困難を克服して地球への帰還を目指すという段になってがぜん小説らしくなる。そして最後は人間には互いに助け合うという本能があるという述懐で終わる。この小説でまず言いたいのは主人公は素晴らしい人物であるということ。これは聖人という意味ではなく、知力体力人に優れ、どんな困難にあってもポジティブ思考とユーモアのセンスをかかさないという意味である。翻訳も素晴らしくこなれた日本語で主人公の明るく剽軽な言葉遣いを上手く訳している。クルーたちも、これもまた優秀かつ素晴らしい人々で、皆、自分の危険をかえりみずに主人公の生還に協力しようとする。面白いといえば面白いのだが、一方で人間同士の葛藤とかそういうものがでてこないので、小説としてはものたりない。というよりも、こうしたものは通常の小説とは別の一ジャンルとしてみた方がよいのかもしれない。そしてまた、いいにくいのだが、科学技術というものは発展すればするほど人間の間の能力差を可視化する。主人公やその周辺の登場人物と一般人の間には天地ほどの能力差がある。そうした分断の中で、これからも、人間は「互いに助け合うという本能」(もしあるとしたら)を維持できるのだろうか。こうした分断がこれからは大きなテーマになりそうな気がする。なお、この小説は映画化され、日本では「オデッセイ」というタイトルで公開されている。ネット配信で映画の方も見たが、これは火星の風景の再現の迫力もあって、映画の方がはるかによい。小説を読むなら映画も併せてみることを薦める。
2024年11月04日
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同性婚をみとめないことは憲法第24条等に反して違憲という判決ができたという。最初見出しだけを見た時、うっかり「同性婚は違憲」だと思った。憲法第24条は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とあり、国語辞典では両性は男性と女性で、だから両性具有なんて言う言葉もある。でも、まあ、法解釈は自然科学ではないし、憲法の「両性」も心は男性あるいは心は女性でもよいのだろう。そのうち女性同士、男性同士の婚姻もできるようになるだろう。実際にはLGBTの人よりもそうでない人の方が多いし、LGBTでも婚姻を望まないという人もいるので、同性婚が合法になったとしても、別に世の中ががらっと変わるわけではない。多くの人にとってはどうでもよいことである。ただ、今でも進行中であるが、結婚と独身で扱いを変えるようなものは大幅に見直されるかもしれない。配偶者手当は無くすところが増えているというし、公営住宅も独身者用も供給されている。結婚休暇というのはどのくらいの企業に認められているのだろうか。もし夫婦を独身よりも有利に扱う制度が残った場合、よいとか悪いとかではなく、こんなライフスタイルもでてくるかもしれない。LGBT以外の同性婚の届け出である。男性と男性、女性と女性が親しくしていても、外からは単なる友人かLGBTかなんてわかりようがない。最近では結婚の予定のない独身中高年も多いし、そうした中で友人同士が同性婚の届をする。それにより、めでたく結婚休暇をとり旅行にでかける。会社によっては結婚祝金を出すところもあるだろう。片方には広い家があるが収入に乏しく片方はそこそこの会社に勤めていれば二人で広い家に住み配偶者手当をもらうこともできる。公営住宅が夫婦仕様の方がずっと広くて当選確率も高ければ夫婦として申し込む。同性婚という制度がこんなふうにつかわれることもあるのではないか。LGBTのカップルの婚姻を認めないことは憲法第24条のほかにも、第14条の法の下の平等原則にも反するという。愛し合っているということには変わりないのになぜ差別するのかという理屈であろう。ならば叔父と姪、叔母と甥が愛し合っていたとしたらどうなのだろうか。また、最近の民法改正で女性の婚姻年齢は16歳から18歳に引き上げられた。こちらの方では逆に婚姻が認められるハードルが高くなっている。このあたりは、成人年齢の引き下げ同様にあまり議論もなくすんなり決まったように見える。
2024年10月31日
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かつてはよく改革を叫んで支持を訴える候補者がいた。今回もいたのかもしれないけど、昔ほどではなかったように思う。そう…以前は「改革」といえばよいもののように聞こえ、候補者や政党でも「何かやってくれそうだ」というだけで支持されていたという例もあった。改革が昔ほどはやらなくなったのは、どうも、ここのところの改革というのはよいことばかりではないということに気づいたということもあるのかもしれない。余計な改革をやるよりは現状のままの方がよい。世の中のムードもそのようになっているのかもしれない。だからだろうか。「穏健な保守」ということを言っていた政治家が支持を集めたりする。今回の選挙では、大声で改革、改革…と連呼していた政党はなかった。これも一つの変化なのだろう。選挙結果は与党の過半数割れという結果になり、今頃は水面下でいろいろな駆け引きが行われているだろう。あの低投票率を見ても、世の中には政権交代自体の期待というのはないように思うが、政権交代自体を目的にするような政治屋もいる。細川総理や村山総理が担ぎ上げられたようなサプライズもまったく可能性がないわけではない。なお、今回の選挙で、あまり他では言われていないのだが、一つの感想がある。変なことを言っているというのなら無視していただきたいのだが、小泉議員が総裁選の中で、解雇規制の緩和などの発言をした。結局小泉総裁というのは実現しなかったものの、自民党の総裁選の中でこうした発言が出てきたということは、その後の総選挙に影響したのではないか。解雇規制の緩和に不安を感じる人々が自民党への投票を躊躇するというのはありそうなことである。争点はマスコミが作るのではなく、国民一人一人が自分が重視する点を考えて投票するものなのだから。
2024年10月29日
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ぐりとぐらの作者の方がなくなったという。この絵本はロングセラーになっていて、それだけ子供たちの願望や夢がつまっているということなのだろう。話は単純で森の中に友人同士で住むネズミのぐりとぐらがおいしいものを作って仲間たちと食べるという話である。このぐりとぐらは友達ということなのだが、興味深いことに、物語にお父さんとかお母さんは全くでてこない。そういえばやはり子供が大好きな絵本の「のんたんシリーズ」ものんたんの友達はでてくるのだが、のんたんのお父さんやお母さんは出てこない。もしかしたら出てくる話もあるのかもしれないが、知るかぎりではないように思う。いずれも対象は幼稚園や保育園児であり、実際には自立ははるか先という年齢なのだが、そろそろ友達という横の関係が視界に入ってくる頃でもあり、友達を求めるようになる頃でもある。だからうるさい大人などはぬきにして友達だけで楽しくわいわいやりたいという夢は、意外に小さい頃からあるのかもしれない。そういえば長じて子供が読むような物語にも、親のない子の物語が非常に多い。家なき子、母をたずねて三千里、小公女、秘密の花園、十五少年漂流記、アルプスの少女などなど。親はいないが元気に生きる主人公に自分を重ねながらわくわくどきどきするわけである。そして親なしでここまでやれる主人公をうらやましく思う。そして現実に自立できる年齢になると、当然のように子供は親の元を離れていくし、親の元にいても今度は庇護者としてふるまうようになる。それが長い間の生物としての人類の歴史だったのではないか。ところが最近では、成人しても親元を離れないという人も多くなっている。人は成長して親から離れ伴侶を求め、その間に生まれた子供も、また成長して親から離れていく。こういうサイクルも変わってきているのかもしれない。
2024年10月28日
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今日は選挙日。とにかく投票には行こう。それにしても、最近めだつ匿流による犯罪の頻発。これが一時的現象なのか、社会の大きな地殻変動の表れなのか気になるところである。地位、財産、名誉、家族、職場、友人などの失うものを持たない人を無敵の人(アイロニーではあるが)といい、こうした無敵の人の犯罪が今後増えていくという話はよくきく。しかし、匿流による強盗の実行犯は若者であり、これは若さという最大の財産をもっている人々である。けっして失うもののない無敵の人ではない。どうかその最大の財産、これからの人生というものを無駄にしないでほしいものである。話が変わるが三年続けて日本人の自然科学系ノーベル賞受賞者はでなかった。これも、たまたま三年間の空白なのか、これからもずっとそうなのかはなんともいえない。ただ国家のステイタスというものは、いろいろな考えがあるのだろうけど、その国がどれだけ科学技術の発展に貢献したかということがあるのではないか。そして現実的な話をすれば、その国発の技術は金を生み、その金は国内にまわっていく。ジャパンアズナンバーワンといわれた頃は全世界を日本製品が席巻していた。そして国内で豊かな大衆が生まれたことで大衆文化が発展し、日本発のエンタメもまた流行した。日本の大学は法文系は私学も多いが、理系は国立大が中心になっている。国立大の授業料値上げなど、どう考えても愚作としか思えない。今回の選挙はもしかして将来において歴史の転換点になった選挙といわれるかもしれない。よく考えて投票をしよう。
2024年10月27日
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人間は自分の信じたいものを信じるという習性がある。これは知能の高低とはあまり関係ないのかもしれないが、ネット上でこんな話を読んだ。実名をだしての記事なので、たぶん本当なのだろう。闇バイトに応募して強盗殺人を犯した男に弁護士が接見したら、あと何年くらいで出られるのかと聞くという。そしてたぶん出られないだろうというと茫然とした様子なのだという。彼の脳内では、自分は「やらされただけ」だし、危害を加えたのも老い先短い老人だし、自分は少年ではないけど少年に近いほど若いし、だから何年か我慢するだけですむだろうということなのかもしれない。よく思うのだが、犯罪についての基本的な知識など中学生のうちに年に数回くらい時間をとって学校の特別学習の時間にでも教えた方がよいのではないか。講師は地元警察の幹部、場合によっては巡査でも十分だろう。れっきとした犯罪案件を「いじめ」というあいまいな言葉でよび、学校を治外法権みたいにしているのはおかしな話だ。そうした中で強盗殺人は重罪中の重罪であることを当然の知識として教えておけば、今度のような事件についても、いくばくかの予防にはなるのかもしれない。信じたいことといえば、少年法の寛大さについても、犯罪少年の中には中には過大に考えた人がいるようで、千葉で一家4人を殺害した当時19歳の少年Sは接見に来た母親に、今度は長くなりそうだからといって国家試験の参考書の差し入れを要求したそうである。18歳以上なら死刑がありうることは計算にいれなかったのだろう。いまさら市中引き回しや磔獄門なんてものが復活するわけがないのだが、厳罰というのは犯罪抑止効果がたしかにある。世間の衝撃を与えた狛江市の強盗致死事件で実行犯の主犯に無期懲役が求刑されたというが、こうしたことが報道されることで少しでも抑止効果があればよい。
2024年10月26日
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実はけっこう好きなジャンルである土俗系ホラーともいうべきドラマである。聞いた話では韓国では仏教や儒教が伝来する以前からあった民間信仰を巫俗とよんでいるらしい。巫女による神降ろしを中心にするシャーマニズム信仰なのだが、それは、宗教ではなく民俗という位置づけなのだという。専門的にはどうなっているのか知らないが、こうした民間信仰は宗教ではないとすることによって、外来の儒教や仏教との衝突を避けたのかもしれない。そのせいで、そうした巫俗は、現在も他の宗教と共存していて、クリスチャンが巫女の託宣を聞くことも普通にあるという。このドラマでは人を呪う能力を持つ女子高生と女記者が悪霊にとりつかれた男と対峙するのだが、男が時代の最先端をゆくIT企業の会長という設定が面白い。ただ、意外なのは、ドラマにでてくる悪鬼が日帝支配の時代に日本からわたってきたという設定になっており、狗神や付喪神がでてくる。なんと悪鬼は日本製なので、ますます日本の土俗ホラーとよく似た感じになっている。悪霊のとりついたIT会社会長に呪いの正体がばれ、主人公らは追う立場から追われる立場へ…。いっきに見たくなる展開なのだが、それでは視聴中の楽しみはあっという間に終わってしまう。全部見た後にあらためて感想を書くことにする。
2024年10月25日
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昔読んだ小説にこんなのがあった。盗賊の一味が年貢をつんだ荷車を襲う。それに先立って、一味はともに血判と杯で仲間の誓いをする。誉められること、明るみにでてもよいことをするのであれば、こんな仲間の誓いはきっと必要がない。そうではなく、表に出れば処罰されるようなことをやるから結束を確認しなければならないのだ。裏切るものは誰もいない、密告するものは誰もいない、そういう互いの信頼がないと悪事などとてもできない。それだけではない。下っ端の者にとっては、分け前は確実にもらえる、口封じで殺されるようなことはないという信頼も重要である。実際にはそんな信頼が裏切られることもあり、小説などではよく、「おいら兄貴を信じていたのによ~」と泣きながら殺されていく小悪党がよくでてくる。だから本来なら悪をなすのに、匿名で流動的に集まった連中というのはありえない。悪い奴が面識もない利用されただけのカモに律儀に報酬を渡す可能性は少ない。それどころか口封じで殺害される可能性だってかなりある。ある闇バイト逮捕者は家族に危害を加えると脅されたというが、本人自身が殺される可能性も相当ある…ということになぜ気づかないのだろうか。闇バイトにホイホイ乗っかるのも人がよいというか世間知らずというか、悪の集団の怖さをまるでわかっていない。道理で普通の若者の顔をしているわけだ。今までのところ、闇バイトの逮捕者で不良そのもののゴンタ顔はあまりいない。さらにおかしいのは詐欺のカケ子で外国で観光をしながら高級ホテルでの優雅な仕事というのを信じて海外に行く人々である。途上国で遺体が見つかったって身元どころか日本人だということすらもわからないだろう。もしかしたらこの種のカケ子で海外で行方不明になっている人もいるのかもしれない。もちろんこういう人は周囲からも孤立し、海外にいることも誰も知らないので、行方不明が問題になることもない。そう思うと、外国での映像で手錠姿が映るようなのはまだ生きているだけ運のよい人々なのかもしれない。
2024年10月24日
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政治ネタは書かないと決めているが、米国の大統領選挙についてならよいだろう。どうせ知識は少ないし、米国に住んで経験もないので、素朴な感想を書いてみるだけなのだが。昔は民主党はリベラルな党であるのに対し、共和党はWASP(こんな言葉が今もあるかどうかはしらないが)を中心とする金持ちに支持が多いときいていた。それがどうやら民主党はリベラルだというのは昔のままだが、共和党の支持層は伝統的な保守富裕層だけでなく、ラストベルトの比較的恵まれない労働者層が多いという。一昔前の感覚だと、リベラルというのはライトな左派で、当然リベラルの支持層は労働者層が多いということになりそうなのだが、今のリベラルは経済的弱者の側に立つ左派という概念とは別物と解した方がよいだろう。リベラルが伝統的価値観や宗教からの自由という意味でのリベラルなら、それは都市部のエリートとの親和性が高く、移民への寛容や多様性礼賛も、そういう意味でのリベラルの主張に近い。一方で、外国人労働者に職を奪われ、待遇が悪化していると感じている貧困層は逆の見方をする。よくいわれる治安の悪化も都市エリートは移民系といってもお行儀のよい人々としか付き合っていないので、不良外国人による治安悪化の不安はそういう地域に隣接して住む貧困層ほど高い。だから米国の大統領選をみていると、黒人だの白人だの、そして男性だの女性だのというと、なに眠たいことを言っているのだという気になる。対立はエリート対労働者だろう。ただあの強固な二大政党制の下だと貧困層の利益を代表するような左派の政治家は出にくいというか出ることができないようになっている。さて、米国の大統領選…どういう結果になるのだろうか。
2024年10月23日
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その昔、更級日記を読んだとき、文学好きの少女の等身大の日記という印象をもっていた。教科書に出ているのが、父の帰任にともなって京都に向かう旅日記風の記述だったり、源氏物語に夢中になっている記述だったりしたこともあったのだろう。いずれも少女時代の回顧である。実際には更級日記の記述は少女時代以降も続く。32歳で内親王の下に出仕し、33歳で橘俊通と結婚する。当時としても相当遅い結婚である。その間、高齢の父の常陸介任官、単身赴任、帰任後の引退、母の出家などもあり、作者は将来にかなり不安を感じていたのではないのだろうか。源氏物語の浮舟の境遇に憧れていたようなのだが、素晴らしい貴公子に人知れぬところに囲われていたいという夢をいつまでもみているわけにもいかない。宮仕えは辛いことや意に添わぬこともかなりあったようで、作者はやや内向的で仕事を器用にこなすというタイプではなかったのかもしれない。けれども、源資通との春秋の優劣論など和歌を通じての交流もあり、作者の学識や和歌の才能は宮仕えでも評価されていたのではないのだろうか。資通との交流は、物語めいていて、恋愛とは別物であっても、強烈な印象を残した。夫は下野守、信濃守に任官しているが、これにはいずれも同行していない。夫についての記述は少ないが、作者はひたすら子供たちを一人前にするのに必死になっており、夫が信濃から帰任して、すぐに亡くなったときも非常に悲しんでいる。悪い妻というわけではなかったのだろう。宮仕えは断続的に続けており、宮仕えの中で知り合った気の合う友人との交流を支えに子供が独立した後の日々を暮らす。更級日記の書名は晩年になって訪れてきた甥にあてた下記の歌による。月もいででやみにくれたる姨捨になにとて今宵訪ねきつらむ今、読んでも、やはり作者は等身大の女性という印象である。ただ実際にはこの作者は単に物語好きの文学少女、文学おばさんであるだけでなく、よわの寝覚めなどの数編の物語を書いており、いくつかは断片的に今日も伝わっている。そうだとしたら逆に不思議である。更級日記は晩年までの記述があるにも関わらず、物語を書いたことの記述は一切ない。そのあたり、あの紫式部日記には書きかけの源氏物語についての記述があるのに。
2024年10月22日
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一戸建てのところにはけっこう飛び込みの営業があるという。多くは外壁のリフォームなどの話で、どこそこで特許をとった工法だとか、特別に安くするとかいうのだが、そんなによいものであれば飛び込み営業などやらないように思う。普通の業者がほとんどなのかもしれないが、中には強盗の下見という場合もあるのかもしれない。少なくとも、そこに住んでいる人がどんな人で、暮らし向きはどうかくらいは見当がつくだろう。また、知っている高齢者で、屋根が壊れていてこのままでは水漏れがするといってきた業者に修理をお願いしたという人もいる。値段は100万円以上かかったというが、その業者のおかげで水漏れに悩まされずに済んだと最後まで思っていたという。旗から見ると、近くにその家の屋根を見下ろせるような高台もないし、おそらくリフォーム詐欺だったのかもしれない。リフォーム詐欺とは別にリフォームが強盗や窃盗の下見というのもありそうな話だ。代金を請求すると、すぐに10万単位の現金を持ってくるようならタンス預金があるのではないかと思うし、実際、金利が低いせいもあり、タンス預金をしている高齢者は多いという。さらに恐ろしいのは強盗に入った後、住民を拉致する例もでてきたことだ。タンス預金はなくても、ATMカードはある。拉致して暗証番号を聞き出せば、まとまった金を手にできるし、強盗プラス名古屋の闇サイト殺人を複合したような犯罪になる。そして犯人の方であるが、これは金になる簡単なバイトということで集められたケースが多く、最初はもっと抵抗の少ないことをやっているうちに抜けられなくなったのだろう。目先の金に困るほど窮迫し、なおかつ豊かな時代に育ったせいもあって、きつい仕事をやるという選択肢ははじめからないという若者も多いし、また、金なく職なく家族なしといった無敵の人タイプもいるので、予備軍にはことかかないのかもしれない。犯罪は時代を写す鏡であり、こうしたタイプの犯罪もでるべくしてでてきているのだろう。
2024年10月21日
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今まで名前は知っていても読んだことのない本はなるべく読むようにしている。「野菊の墓」は今の若者はどうかしらないが、我々世代なら多くの人が読んだ小説ではないかと思う。中学生の頃、国語の教科書の末尾にお薦めの本という頁があり、その中にもたしか紹介されていた。当時はこのお薦めの本というのはたいていはつまらないものだという変な思い込みがあり、それで今まで読まないできたのかもしれない。読んでみると、夕焼けに染まる畑の描写などかなり美しく、当時すでに歌人として名をなしていただけのことはある。政夫と民子のようやく恋といえるかいえないかのような関係も初々しく、この小説が長く愛され読み継がれている理由もわかる。この小説が発表されたのは明治39年だというのだが、この時代の農村の社会というものはどういうものだったのだろうか。政夫と民子との交際が禁じられた背景が、単に従姉で二歳年長ということだけだったのか、それとも、中学に通う政夫と手伝いのような民子との間の身分の差があったのか、どうもそのあたりがわからない。地域にもよるのかもしれないが、従姉との結婚や姉さん女房は戦前の日本でもさして珍しくなかったようにも思う。同じ作者の小説で「守の家」というのがあり、これは優しい守の娘が不幸な結婚をして早世してしまうという話で、なんとなく「野菊の墓」に似ている。年齢にもよるのかもしれないが、「野菊の墓」よりも「浜菊」の方が印象に残った。久方ぶりに東京から柏崎に友人を訪ねていくという話で、友人とは喧嘩をしたわけではないが、気持ちが隔たってしまったことを実感して寂しい心地で帰京するという話だ。もっとも主人公の方にも浜菊の想い出とともに友人の妹に多少惹かれているところがあった。柏崎に妻子をもち落ち着いている友人と主人公はいつのまにか別々のものの見方、別々の価値観にたつようになっている。多くの人がそうだと思うのだが、年賀状だけでつながっている昔の友人というものがいる。そうした友人ともし今会うとなるとちょっと怖いような気がするし、たぶん会うこともないだろう。もし会ったとしても、おそらくこの小説の主人公のように、互いの隔たりを実感し、より深く寂しい思いをするだけだろうから。
2024年10月21日
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韓国ドラマ「アゲインマイライフ」を見た。巨悪政治家と戦う検事ヒウが命を落とすが、死後、あの世の使者(ジョスンサジャ)から巨悪政治家に復讐するという条件で10年前の自分として生き返ることになる。これは「財閥家の末息子」や「私の夫と結婚して」と同じファンタジー設定だが、それでも面白いのは俳優の迫真の演技のせいだろう。財閥家の末息子のように韓国の現代史をたどりながら未来の知識を活用して成功してゆくというわけではないが、頭の中身は30歳の敏腕検事、生まれ変わったのは20歳の若者という設定なので、適宜、知識を生かして人助けをし、味方を増やしていく。たとえば10年越しに父の無実を証明した青年の事件を担当したことのあるヒウは20歳に戻ったときに、即座に父の無実をはらし、その10年を自分のために使えと言う。その青年は二度目の人生でヒウの忠実な味方となる。二度目の大学入試を受ける際には数学なんて10年ぶりだといい、兵役のときには二度も兵役をやるなんてという。たしかに20歳のときに、今のままの自分が戻ったとしたらそういうものだろう。それにしても、最初の人生に現れない人物がなぜ現れたのか、あの世の使者は二度目の人生では巨悪政治家の秘書としてあらわれるが、彼女の正体はなんなのか。そして最後も、悪は完全には消えていないので、なんとなくすっきりとしない。もしかしたら、続編を考えているのだろうか。似たようなパターンの韓国ドラマを比べると、韓国現代史のドキュメンタリーのような感のある「財閥家の末息子」の方が面白いように思う。しかし「アゲインマイライフ」は主演のイジュンギが知的な役もアクションもこなし、とにかくかっこいい。余談だが、彼のような切れ長の目は古来日本では美男美女の要件とされていたが、なぜか整形では目を二重にする手術や大きくする手術はあっても、ああいった一重切れ長の目にする手術というのはきかないのは、技術的に不可能なのか、顔の好みが変わったのか。枕草子には「目はたてざまにつき」を醜い顔の表現として使っている箇所があり、このたてざまの目を大きな目と解すると、あまり大きな目は、昔は好まれなかったのかもしれない(違っているのかもしれないが)。美そのものはおそらく時代を超えて変わらないのだが、好まれる美男美女のタイプというのは時代とともに違っているのだろう。
2024年10月20日
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こんな実験があるという。やわらかいとかたい、暗いと明るい、甘いと酸っぱいといったような反対の意味を持つ形容詞を表す各国の言葉を並べる。そしてその言語に全く知識のない被験者に、どちらがどちらの意味をあらわすかを当てさせるというものだ。そうすると、世界のどこでどの言語を対象に実験をしても、半数以上の正答率を示すという。いつ人類が言葉を獲得したのかは知らないが、言葉とは結局は人が作り、人が使うことによって成立したものだろう。そうだとしたら、その背景には言葉以前の語感というものがあっても不思議ではない。また、語感と関係あるかどうかわからないが、世界の言語の多くに否定の意味でN音が使われているという。これも世界の多くの言語といってもインドヨーロッパ語族のような大語族もあり、それに日本語などいくつかの言語も入れば「世界の多くの言語」になるのかもしれない。リンクさせていただいている方の日記に、「ヌ音の破壊力」などについて記述されているものがあったが、それについて以下のようなレスを書いた。詩歌では語感も大切である。なお、余談だが、大昔「かきすらのはっぱふみふみすぎちょびれ」という変な流行語があったが、これを流行らせたタレントは学生時代、俳句で名を成していたという。俳句で鍛えた言葉のリズム感あっての流行語で、決して、お笑いタレントがバカ言っていたというわけではない…と妙に納得。そうですね。ぬらりひょん、ぬりかべ、ぬし、ぬさ…なにかぬ音には人間を超えたものに対する畏れのようなものを感じます。音にはそれぞれ語感があって、素朴で技巧とは無縁といわれる万葉集でも、額田王の「茜さす紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」では31文字の中にサ行音が5文字使われていて清新なイメージを出していますし、人麻呂の「あしびきの 山どりの尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」ではナ行音が7文字使われていてねっとりとした独り寝の辛さを感覚的に伝えているように思います。優れた歌は、音の語感を大切にしているものですね。
2024年10月17日
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そろそろ流行語大賞の季節がやってくる。しかし、今年の流行語といっても思いつかない。主観では無課金おじさんが断然よいと思うのだが、さて、この言葉、世間一般ではどの程度流行っているのだろうか。おそらく50-50くらいになるのかもしれないけど、野球関連の流行語がやたらに続くように思う。この流行語大賞、まず、事故や犯罪関連は除外(犯人の言葉など)、世間一般に流行ったもの、できれば明るいものといった要件があるようなので、スポーツ関連、それもまだまだ一般的な人気のある野球関連になるのは当然なのかもしれない。金メダリストの名言、ノーベル賞受賞者の言葉などがあればぴったりなのだが。なお、流行語とは違うのだが、最近よく使われるようになったことばで「ひりひりする」というのがある。これは昔はカチカチ山の狸じゃないけど唐辛子を塗られたような痛みを表現する言葉だった。それが非常に肯定的な意味で緊張感のあって面白いスポーツの試合などに使われるようだ。個人的に一番古い記憶では10年以上前に見た麻雀漫画で「ひりひりする麻雀を求めるプロ雀士」という表現があった。言葉は人が作り、人が使うもの。有名人が使い始めれば流行語になるのだが、いつのまにか使われ広まっていく言葉というものもずいぶんある。この頃聞く言葉、この頃使わなくなった言葉・・・、考えてみればいろいろとある。もし、2000年後に誰かが今の言葉を解読するとどう思うのだろうか。例えば、しゃしゃりでる…テントウムシに関して使っている用例は確認できるが、他の生物や人間に対して使っていたかは説がわかれる とか。
2024年10月16日
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昔、加賀乙彦の長編「湿原」を読んだことがある。冤罪を軸とした物語であるが、国家と個人、組織と個人などいろいろなことを考えさせられる。印象的だったのは、冤罪にかかわる警察官、検察官に悪人は誰一人いない。皆よき社会人、よき家庭人、そしてよき友人、隣人である。冤罪の被害者は窃盗前科のある男と精神病入院歴のある女で、この二人が小説の主人公である。最初に自白を引き出す刑事は捜査のコツとして、自分でとにかく容疑者が犯人であることを信じ、その固い信念で自白を迫ると言う。別件逮捕、そして長期間の取調べで自白に至る心理はこの小説のよみどころとなっている。この小説では第一審有罪、第二審無罪となるのであるが、冤罪が濃厚になると、警察キャリアはノンキャリア刑事の強引な捜査にひっぱられたと責任転嫁を始める。そんなものなのかもしれない。冤罪は国家がものすごい暴力装置として一私人に襲い掛かるものであって、被害者からみればこれ以上に不条理な不幸はなかなかない。なぜ冤罪が起きるのかというメカニズムはもっと検証すべきだろう。あってはならないことだから考えないというのではなく、ありうることだから、なぜ起きるのかを徹底的に調査することが必要ではないのだろうか。捜査や訴訟に携わった方の多くは鬼籍に入っているのかもしれないが、当時若かった人の中には存命の方もいらっしゃることだろう。そうした人々の中には役立つ話の出来る方もいるかもしれない。当時、冤罪を信じていたという裁判官の美談だけで終わってよいとは思えない。なお、裁判員という制度にどうしても疑問と違和感を持つのは、刑事裁判における冤罪の可能性がある。冤罪の多くは偏見や思い込みが背景にあり、市井の人である裁判員は裁判官以上にそうした偏見や思い込みにとらわれている場合が多い。裁判員制度は冤罪防止には役に立つとは思えない。そして抽選に選ばれただけの市井人には、後に冤罪が発覚したとしても、いかなる意味でも責任を問うのは不適当であろう。刑事裁判における判断は非常に重い。こうしたものを市井人に関与させる裁判員制度はやはりおかしい。
2024年10月15日
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いつも思うのだが、ノーベル賞の中で自然科学系の賞と文学賞、そして平和賞は全く別のものと思った方がよいのではないか。業績を客観的に評価できる自然科学と異なり、文学の評価などは客観性がない。だいたいノーベル賞が発足して以降もトルストイは受賞していないし、その反面、政治家チャーチルの自伝が文学賞をとっている。今日、トルストイとチャーチルとどちらが読まれているのだろうか。日本でも川端康成と大江健三郎が文学賞をとっているが、この二人が大好きな作家だという人はあまり多くないのではないか。たいていの人は、川端や大江よりも、好きな作家や作品があるように思う。思うのだが、川端康成は作品に流れる日本的美意識が外国人に響いたのかもしれず、大江健三郎はヒロシマノートなど反核の思想が選考委員の共感を呼んだのかもしれない。それは反核というよりも、中国やフランスなどに核が拡散した以上、日本には核を保有してほしくないという欧米社会のメッセージのように思う。佐藤栄作のノーベル平和賞も今回の被団協の受賞も同様だろう。もちろんだからといって、文学賞や平和賞にケチをつける気などない。被団協は今回の受賞を契機になお一層世界全体に向けて反核のメッセージや思いを発信してほしいものだと思っている。中国やロシアも含め、国際社会が一体となれば北朝鮮の核を止めることができるかもしれないのだから。二度あることは三度ある…日本にはこんな諺もあり、恐ろしい。「百年の孤独」は1982年にノーベル文学賞を受賞しているが、これも、背景には中南米の土俗的風土に対する異国趣味があるのかもしれない。物語は魔術的リアリズムというらしいのだが、現実の中に4年間続く雨とか人間が突然空に吸い込まれると言ったような非現実要素が織り込まれたもので、少し違うのかもしれないが、阿部公房や別役実にも現実と非現実の融合といった要素はあるように思う。最初は、正直言ってなんてつまらない小説かと思った。架空の町を舞台にしたある一家の六代にわたる繁栄と滅亡を描いているのだが、共感できる登場人物はいないし、ぶっとんだ話が淡々と続いていくだけのようにみえた。しかし、物語が終わりに近づくにつれ、物語世界にある種の詩情を感じるようになり、読後感は悪くない。
2024年10月14日
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袴田事件が今日起こったとしたら間違いなく裁判員裁判となる。もし、袴田事件が裁判員裁判だったら冤罪は防ぐことができたのだろうか。冤罪には多くの場合、思い込みが背景にある。事件が起きた、その近所には前々から素行が問題になっていた不良青年がいた、あいつに違いない…ということはよくある。徳島ラジオ商事件では冤罪被害者は当時の社会通念では奔放な生活をしている女性であったし、冤罪かどうかは別にして、カレー事件も保険金詐欺は事実だろうし、近隣の住民から見れば異質な生活をしている者が疑われた。袴田事件でも、やはり、元ボクサーという素性に偏見がもたれたのではないか。今は違うのだが、当時のボクサーのイメージというのは元不良といったところがあり、実際、米国のボクサーの中には少年院で矯正教育の一環としてボクシングに触れたのが、この道に入る契機だったという人もいる。一般市民から抽選で選ばれた裁判員が裁判官以上にそうした偏見や思い込みから自由であるという保証はない。むしろ、様々な事件をてがけている裁判官以上に偏見に凝り固まった人も多いように思う。裁判員が判決に関与(現実には裁判官の横でうなづくだけかもしれないが)したとしても、冤罪を防ぐことはできない。さらにいえば、こうした冤罪の可能性のある刑事事件に裁判員が関与することには別の問題がある。裁判員は多くの場合、他の職業があり、素人としての立場で裁判に参加する。しかし、参加した以上、こうした冤罪が明らかになった場合、その責任に耐えられるだろうか。それが自分の職業であれば大いに責任を感じるべきだし、そうした責任の大きな仕事にやりがいを感じてその職業を選んだはずだ。けれども裁判員はそうではない。裁判員は抽選にあたっても、自分がどんな事件にあたるかは知らされない。袴田事件のように死刑確実だが本人は否認しているという事件にあたることもある。ちなみにこの責任とは民事刑事の責任ではなく、心理的な責任である。自分がもし袴田事件の裁判員だったら責任を感じるだろう。これは逆にいえば裁判官にしてみれば、裁判員が関与していることで、自分の責任感を軽減できる。ここで冤罪事件として何度もとりあげている甲山事件であるが、これはいったん不起訴になった後で、検察審査会の議決を踏まえて起訴されたという経過をたどった。検察審査会も裁判員同様に抽選で選ばれた素人で構成される。甲山事件の冤罪が確定した後で、ある検事の談話で「検察審査会が余計な議決をした」云々と言っていたのを読んだ記憶がある。冤罪を作ったプロの検事が素人の検察審査会に責任をなすりつける発言をするなんて…と腹立たしく思った(記憶違いかもしれないことを付記しておく)。裁判員制度というのは、もしかしたら、冤罪事件についての裁判官の心理的負担、死刑判決についての裁判官の心理的負担を軽くするための制度なのかしらん。
2024年10月11日
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その昔、遺跡捏造事件というものがあった。民間出身の研究者がたてつづけに旧石器時代の遺物を見つけたのだが、のちにそれが捏造と発覚した事件だ。おそらく最初の発見は本物だったのだろう。それが「神の手」と持ち上げられることとなり、ひっこみがつかなくなって捏造ということになったのだと思う。この民間研究者は一時は講演などで高収入を得たのかもしれないが、捏造は、それが目的というよりも、周囲の期待に応えないと申し訳ないという心理の方が強かったのかもしれない。偶然が左右する発掘の世界で、神の手などというものがあるわけもなく、捏造を見抜けなかった学会にもかなり問題があったのではないか。犯罪捜査の証拠捏造も似たようなものなのかもしれない。かつては名刑事という人があちこちにいたのだが、そうした名刑事も評判が立つとどうしても期待に応えねばと思い、強引な捜査をしがちになる。静岡県警にもそうした名刑事(後にはトカゲの尻尾?)がいて、自白をとるためにかなり強引なこともやっていたという。名刑事退職後もそうした捜査手法は受け継がれ、それが袴田事件の冤罪の一因になったのだろう。そして袴田事件の公判が始まり、当初の証拠物の証明能力が疑われ始め、無罪判決の出る可能性がでてきた。捜査員達はあせったことだろう。冤罪事件の責任を問われ、降格されたうえ、55歳で亡くなった名刑事の末路は知られている。無罪判決がでたら自分らも同じことになるだろう。追い詰められての捏造。証拠捏造があったとしたら、それを行ったのは少数であったとしても、見て見ぬふりをした人間は多かったのではないか。当時の捜査員で噂くらいは聞いた人はいるだろうし、中には存命の人もいるかもしれない。警察官も証拠捏造だけなら罪悪感があるが、その罪悪感をふきとばすのは、組織のためという論理と、そして彼が真犯人に間違いないという確信であろう。後者は罪悪感を消すために、証拠捏造後ますます強くなったのではないか。袴田事件からは本当に長い年月がたっている。国家権力の側で、今発言をしているのは、無実と思いながらも有罪判決にかかわった裁判官や再審決定にかかわった裁判官であり、彼らはまるで美談の主のような扱いである。そして当時の捜査員や死刑判決にかかわった裁判官や検察官の発言は聞こえない。歳月とはそういうものであろう。
2024年10月10日
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袴田事件で検察側は控訴を断念し、謝罪も行ったというのだが、その謝罪の理由が「結果として長期間にわたり、法的地位が不安定な状況に置かれてきた」ことに対する謝罪というのがよくわからない。確定した死刑囚の法的地位が不安定な状況というのはなんなのだろうか。このあたり、証拠を捏造して申し訳ないなどというわけもないから、こうした表現でも仕方ないのかもしれないが…。それにしても、過去の冤罪事件をみても、みな異様に時間がかかっている。再審無罪でなく、最終的に無罪判決が確定した場合でも異様に時間がかかっている。甲山事件の25年というのはいくらなんでも長いと思うのだが、他の無罪事件でも時間がかかっている。もちろん情状だけを争うような事件に比べて、否認事件ではそれだけ立証等に時間がかかるというのはわかるのだが、それ以上に、無罪判決がでるような事件については、かなり意図的な長期化が行われているのではないか。長い年月をかければかけるほど直接の責任者は退官し、勲章でも貰って地位と名誉に包まれた人生を全うできるだろう。その当時、若くて直接の責任のなかった人が無罪確定後に「私は無罪だと思っていた」なんていうのはずっと気楽であるし、マスコミは美談のように扱ってくれるだろう。袴田事件のように死刑判決が確定してからの再審無罪となると、さらに時間がかかっている。再審開始の決定が行われたのは2014年であり、今回の再審無罪まで10年近い年月が流れている。当事者の年齢を考えれば、その間に何があってもおかしくない。再審開始決定で死刑及び拘置は執行停止となっているので、検察のいう「長期間にわたり、法的地位が不安定な状況」とは、この釈放された死刑囚の状態をいうのだろうか。それならわかる。つまり、検察はこの10年分について謝罪したわけである。
2024年10月08日
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冤罪関連のサイトをいろいろと見ていたら、静岡県警の警部が複数の冤罪事件にかかわっていたという記事があった。袴田事件には直接関係していないものの、冤罪の背景には静岡県警の強引な捜査手法が残っていたのではないかという指摘がある。この静岡県警の警部は在職中は名刑事として表彰まで受けていたのだが、担当した事件で無罪判決が確定すると警部から交通巡視員に降格となり55歳で死去している。今では昭和の拷問王ともいわれているらしい。まあ、拷問が行われたとしても、それは密室で一人だけで行っていたわけではないだろう。この警部が取り調べで強引なことをやっていたとしても、同僚は知り、上司も知っていたはずだ。だいたい、この警部がかかわった冤罪事件の一つであるに二保事件では裁判で同僚捜査員が組織自体が拷問による自白強要を容認放置する傾向があったと証言したが、この証言を行った捜査員はその後、偽証罪で逮捕され、懲戒免職となった。こんなことは一警部でできるわけがない。要するに数々の冤罪の責任をこの警部一人に押し付けたという感じがする。ただ、いったん逮捕あるいは起訴した事件が冤罪となると、担当の警察、検察はペナルティを負うことになる。降格の上、55歳で死去した拷問王だけでなく、他の警察官や検察官も出世コースから外れるなどのことは普通にあるのだろう。だからこそ、いったん起訴まですれば、有罪判決をとるのに必死になる。その過程なら証拠捏造もありうるのかもしれない。そうでなければ、甲山事件のようにとにかくとにかく裁判を引き延ばす…担当検事が無事に退官し勲章をもらうまで引き延ばすという手だろう。いったん国家という化け物に魅入られてしまうと悲劇としかいいようがない。昭和の拷問王は袴田事件には直接の関係はないのだが、在職中は名刑事と呼ばれていた。こうしていったん名刑事などという称号がついてしまうと、どうしても事件を解決しなければならないというプレッシャーがかかって強引な捜査に結び付きやすいのではないのだろうか。同じく名刑事と言われた平塚八兵衛も三億円事件では誤認逮捕をやっている。過大な名声でひっこみがつかなくなるというのも、一種の落とし穴なのかもしれない。
2024年10月07日
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埼玉県幸手市の権現堂堤に行ってきた。桜の名所としても有名なのだが、今は彼岸花である。堤一面に咲く彼岸花は赤の絨毯のようで、これに匹敵するのは、巾着田くらいしか思い浮かばない。この堤を歩いていくと最後に巡礼碑というものがある。昔からこのあたりには巡礼が来ていたのだろうかと思ったのだが、実はこれには哀話がある。享和2年(1802年)のこと、この堤が長雨により切れたため、堤奉行の指図で村人達は必死の改修工事をしていた。そこに、母娘の順礼が通りかかり、人身御供を立てなければなるまいと言った。そして、母順礼は念仏を唱えて渦巻く泥水の中に身をおどらせ、娘順礼も後をおったという。これには実際には村人が母子巡礼を水に投げ込んで殺害したという話があって、こちらの方が史実のような感じがする。もちろんいまさら確認しようもないのだが。母子巡礼というと今のお遍路さんのようなものを想像するが、実際には映画砂の器にあるような物乞いをしながらの母子放浪だったのではないのだろうか。災害で疲弊の極にある村人とそこにやっていた貧しいよそ者。なんかこの構図は関東大震災の際に旅の行商一家が殺害された福田村事件を想起させる。砂の器のように社会に居場所を無くした母子が死に場所を求めていたのかもしれないし、村人たちが貧しいよそ者に不満のはけ口をもとめたのかもしれない。人身御供であり、村全体のためであるという大義名分は罪悪感を薄れさせただろうし、世代が変わり、巡礼が自ら水に飛び込んだというような話になったことも同様である。巡礼碑は昭和11年に建てられたものだという。なんか暗い話をしてしまったが、権現堂堤の彼岸花は今が見ごろであり、駐車場等も巾着田ほど混んでいないのでぜひお薦めである。彼岸花は曼殊沙華の他にも死人花、幽霊花という気味の悪い別名もあり、野仏や墓地の傍に多く咲いていることもあって、なにかこうした哀話が似合うように思ったりする。 曼殊沙華母子巡礼の血の涙
2024年10月06日
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いつも思うのだがノーベル賞の中で平和賞と文学賞は別カテゴリーにした方がよいように思う。平和賞は西側諸国の政治的思惑がみえかくれするし、環境問題など「平和」とは直接かかわりのないテーマでの受賞の例もある。環境問題への貢献でノーベル平和賞を受賞した方が大量のごみを出していたという真偽不明のジョークもあるのだが、そんな話を聞いても誰も驚かない。文学賞も同様で、自然科学への貢献がわりあい客観的に判断できるのに対して文学のレベルなど客観的に評価できるのだろうか。日本でも川端康成と大江健三郎が受賞し、今年もきっと村上春樹が話題になると思うのだが、この御三方以外にも好きな作家がいるとか、この御三方のどこがそんなにいいのかわからないという人も多いのではないか。所詮は文学の味方など主観的である。そして過去のノーベル文学賞をみても、チャーチルの自伝が受賞しているが、今この自伝はどのくらい文学的に読まれているのだろうか。なにか政治的な背景があるように思えてならない。また、「クオバディス」も受賞しており、これは非常に面白い小説でるが、登場人物はやや類型的で善玉悪玉もはっきりとしていて、やや深みにかけるようにおもう。大衆小説と純文学の区分というのは難しいのだが、これは間違いなく大衆小説に分類できよう。もちろん大衆小説が価値が低いということはないのだが、ノーベル賞の趣旨は純文学の表彰なのではないか。なぜ、こんなことを書いているのかといえば、ノーベル文学賞受賞作「百年の孤独」を読んでいるのだが、これが全く面白くない。登場人物が似たような名前でわかりにくいというのはよいのだが、登場人物がぶっとびすぎていて、何を考えているのかわからない。このあたり「村上春樹」の小説もそういうところがあり、最近の文学の流行なのかもしれないが、ちょっとついていけないなと思う。この「百年の孤独」は三分の一ほど読んだところであり、リタイアせずに、読了したら再度感想を書いてみる。
2024年10月04日
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最近の韓国ドラマによくみられる人生やり直しファンタジーである。これにはタイプがあり、一つは同一人物の過去に戻るタイプ、そしてもう一つは別人の人生を生きるタイプである。同一人物として何年か前の自分に戻るタイプは「私の夫と結婚して」があり、これは過去の自分に戻ることで、自分も気合をいれて身なりをかまっていれば本当は美人だったのでは、自分もその気になっていればできる女だったのでは、そして自分にも本当は自分を気にかけてくれる理想の恋人がいたのではないか…という勝手?な願望を物語化している。別人としての人生を生きるタイプは「財閥家の末息子」があり、これは貧しい家庭出身で苦労してエリート社員になった男が過去の時代の財閥家の御曹司として生きる物語で、ここでは同じ時代に家計を支えながら契約社員として働く自分と御曹司のエリートとして生きる自分とが併存している。また、そもそも別人としての人生をいくつも体験するというタイプは「もうすぐ死にます」がある。いずれも面白いのだが、「アゲインマイライフ」は同一人物として何年か前の自分に戻るタイプである。最初は武闘派の検事という設定が荒唐無稽で、すぐにリタイヤするかもしれないと思ったのだが、大人の検事と高校生の演じ分けが上手く、すぐに物語に引き込まれる。巨悪を追求して一度は殺害された検事が過去に戻ってどうリベンジしていくかが楽しみである。
2024年10月03日
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最近東海七福神を歩く機会があった。出発は京急大森海岸駅で第一京浜を横浜方向にしばらく歩くと磐井神社がある。磐井といえば磐井の乱を連想するが、その磐井とは関係ない。ここが弁財天にあたる。七五三ののぼりが立ち、全体に明るい雰囲気である。その後、向きを変えて品川方面にしばらく歩くと旧東海道に入る。旧東海道は思ったよりも狭い。昔もこの道幅ならかなり狭いのだが、大軍勢がやってこないようにあえて道幅を狭くしたのかもしれない。この道をええじゃないかの群衆が、そして新政府軍が…と思うと興味深い。さて、旧東海道に入ってすぐのところに鈴ヶ森刑場遺跡がある。200年の間に10万人から20万人もの人が処刑されたというのだが、実際の処刑場はもっとひろかったのかもしれない。三日に二人ほどの感覚で処刑があったわけなのだが、冤罪も結構あったのだろう。今だってあるのだから。この遺跡の一角は手入れをする人もいないようで雑草が生い茂っているのだが、その中でも彼岸花はたくましく咲いている。そしてなぜか柘榴の木があり、ちょうど実をつけていた。さらに歩いていくと天祖・諏訪神社に着く。七福神めぐりでは福禄寿にあたるのだが、境内に池がまずあり、こちらが弁財天でもよいように思う。弁財天が技芸の神で、それは水の流れる音が楽器のように聞こえるのに由来するというのだが、たしかに水の流れる音は心地よい。しっとりと落ち着いたよい雰囲気である。立会川を超えると坂本龍馬像があるが、これはけっこうあたらしいものらしい。全国に龍馬像っていくつあるのだろうか。毘沙門天の品川寺も街道沿いにあり、さらに行くと目黒川に出る。かつてはどぶ川、今は桜の名所であるが、ここまで下流に来ると川幅も広く、きらきらと陽を反射して貫禄たっぷりの姿になっている。擬宝珠のついた赤い橋を渡ると荏原神社の森になる。ここが七福神の恵比寿にあたる。さほど大きくない神社なのだが、荏原という地名は大変古く、万葉集にもみられ、荏原の範囲は今よりもずっと広かったわけである。そしてその先に、寿老人の一心寺と布袋尊の養願寺があり、向きを変えて第一京浜沿いには大黒天の品川神社がある。近くには関東黒湯の銭湯もあり、これも歩いた後にはちょうどよい。
2024年10月02日
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袴田事件の再審無罪判決であるが、特異な点として、警察の証拠捏造を判決の中で指摘していることがある。今までの再審無罪では証拠不十分を理由にしているのに対し、これは物証があるがそれは捏造されたものとしているわけである。検察は、どうみても時間かせぎとしかみえない控訴はしないだろうけど、警察の方は穏やかではないかもしれない。証拠捏造という積極的な不祥事(というよりも権力による犯罪)が指摘されたまま後にのこってしまうのだから。袴田事件の取り調べを行った主な警察関係者などはとっくに故人になっているだろうし、今更当時の話などはきけそうにもない。ただなぜそうした捏造事件が起きたのだけは検証する必要があるのではないか。重大事件が起きれば、警察はその威信にかけても犯人を検挙しようとする。そういう場合に近所で評判の良くない人物、とかくの風評のある人物、あるいは犯人がこの中にいると見込みを付けた集団の中から消去法的に可能性のない人物を消していく…こういう場合に冤罪は起きやすい。ただ、そうした場合でも積極的に証拠を捏造してまで冤罪を作るということは考えにくい。なぜなら迷宮入りは警察の威信にはかかわっても、個々の警察官の利益には関係ない。証拠捏造という危ない橋をわたってまで、個人の警察官がそこまでやる理由はないし、こうしたことを組織的に行っていたとまでは考えにくい。ただ、これが捜査段階ではなく、起訴後となると事情が違う。起訴した後に無罪となると、警察や検察は厳しく批判される。真偽のほどは知らないが、無罪判決を出した検察官は出世コースからはずれるという。袴田さんの事件では、当初の証拠が危ぶまれ、無罪判決がでる可能性もあった。そこで事件から1年半たってから、みそ樽の中にあった新証拠の着衣がでてきたわけである。いったいなぜ、そしてどうやって…というのが気になる。
2024年10月01日
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神奈川県渋沢の日向薬師に行ってきた。ここは日本三大薬師の一つということであるが、この三大というものは二つまでは異論がなく、三つ目がいくつもの説があるというものが多い日本三大稲荷はそうで伏見稲荷、豊川稲荷は異説がないのだが三つ目はいくつもある。そして三大稲荷はまだ聞くが三大薬師はきいたことがない。そもそもお薬師様で有名な寺とは…と気になって便利なスマホで調べてみると、伊勢原市の日向薬師、新庄市の峯薬師、高知県大豊町の芝折薬師をいうが、諸説あるという。峯薬師、芝折薬師は恥ずかしながら初めて聞いた。三大薬師は三大稲荷ほどには一般的ではなさそうである。とはいえ、山の中腹にある日向薬師は茅葺の屋根が印象的なお寺で、歴史も702年創建と伝えられているので非常に古い。そして本堂須弥壇の薬師如来像と十二神将を拝むことができるのだが、この十二神将の制作年代は平安後期にさかのぼるもので非常に見事である。この十二神将と薬師如来様を拝むだけでも来る価値はあるだろう。この日向薬師は彼岸花の名所でもあり、周辺には彼岸花の群生地がいくつもある。今年は猛暑の影響で開花が遅れていたが、ようやく見ごろとなっていた。巾着田のような一面が真っ赤に染まる大群落ではないが、田んぼの畔、野仏の傍の彼岸花も風情がある。今年の彼岸花は開花が遅れただけではなく、開花の時期もまちまちになっているように思う。今まで気づかなかったのかもしれないが、花の傍にいくつもこれから咲く蕾があったが、茎の長さはまちまちで、早い段階から蕾をもった茎が生え、それがつくしのように伸びて行って花を開き、花が枯れたのちに葉がでてくるという変わった生態のようである。温暖化はすすめば植物の生態もずいぶん変わっていくのかもしれない。
2024年09月30日
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このタイトルは昔から知っていた。あまりにもダサいタイトルだと思ったからだ。しかし、作者ブラッドベリは詩情あふれるSFの名手で火星年代記は言わずと知れた傑作だ。そんなわけで、おくればせながら読んでみたのだが、あまりにも駆け足で読んだせいか、印象に残る話はなかった。これは作品が悪いというよりも、こちらの方にSFを受け入れる能力がどうやら減退してしまったせいだろう。年齢とともに読書傾向はかわるものだが、昔は「…ここはフォーマルハウト星系第7惑星」なんていう書き出しだけでも、わくわくしたのだが、今では舞台が火星だろうが、遠い未来だろうが、ああ、そうですかといった感じだ。この分野は特に読者の年齢を選ぶのかもしれない。しかし、SFというのは別に宇宙や未来を扱うものばかりではない。広い意味でのSFとなると、かなりの作品が含まれるだろう。となると、自分くらいの年齢向けのSFジャンルというのもあるのかもしれない。
2024年09月28日
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韓国ドラマ「智異山」を見た。最初は山岳レンジャーものと思ったが、実際は山岳ミステリーで、しかも、事件現場を思い浮かべる超能力とか、生霊が山をさまようといったファンタジー要素もある。このため、ややジャンルとして中途半端な気がする。舞台となる智異山は韓国最高峰の山で、実際にはいくつも峰があるので、山塊といった方がよいのかもしれない。高さは2000メートルに満たず、そのため登ってくる人々も、自殺志願の中学生、薬草採取者、山で祭礼を行う老人など様々だ。ただ、高くないといっても山は山なので、鉄砲水、熊、山火事、落石といった危険はあり、登山者に警告を行ったり、遭難者の救助を行うレンジャーは忙しい。ドラマ制作にはかなり費用がかかったといい、山火事、鉄砲水などの場面は迫力がある。そして随所に山の美しい映像があり、それだけでも見る価値がある。ただ、主軸のミステリーやファンタジーの部分がちょっと弱く、これなら普通に山岳レンジャードラマでもよかったように思う。次々と人が死に、主人公も半身不随になったり、意識不明で生死の境をさまよったりする暗めの話なのだが、もっと明るい話ならよかった。
2024年09月27日
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本日、袴田事件の無罪再審判決がでた。袴田氏やその姉の年齢からして、国家の側がなにかの期待をもって引き延ばしをしていたようにもみえた時間をかけていたようにみえたこの事件、とうとう判決の日を迎えてまずはよかったといいたい。冤罪の恐ろしいところは、国家そのものが一個人に対しての加害者となるところだろう。特に本件のようにひとたび有罪が確定した事件について誤りを認めることは国家そのものの権威に傷がつくので極力認めたがらない。再審が開かずの扉ともいわれる所以である。この開かずの扉が初めて空いたのは弘前大学助教授夫人殺人事件であった。これは真犯人の告白という変則的な事態によるもので、もしこれがなかったら再審はいまだに開かずの扉だったのかもしれない。袴田事件についてのリアルタイムの報道はあまり記憶にないのだが、注意深く新聞などを読んでいた人の中には変に思った人もいたのではないか。ただ当時はネットのように個人が意見を述べる場がなかったので、そうしたものは表にでなかっただけのことかもしれない。そしてまた、この事件当時はボクサー=不良という偏見も蔓延していた。そういえば、少年院出身のボクサーが主人公の人気漫画もあった。冤罪事件といえば、25年も裁判が続いた甲山事件については、事件当時から変だと思っていたので、よく覚えている。軽度知的障碍児が寮生活を送る施設甲山学園で児童二人が浄化槽の中で死んでいたという事件で、こうした場合にまず考えられるのは事故ではないか。実際、浄化槽の蓋は子供たちによっても開けられたことがあったようで、外から投げ込んだとみられるゴミもあったという。しかし、捜査は学園関係者の大人による密室殺人ということになり、施設職員の中で一番立場の弱い新人の女性職員が犯人とされた。自白もなく、動機もなく、唯一の証拠は入所児童が5年後に行ったという目撃証言だけで、これには知的障碍者は作話能力がないので証言は健常児よりも信用できるという鑑定意見もあったと記憶する。動機は某推理作家が「科学捜査官」という小説の中で女性蔑視のきわめつけのような妄想を書いているし、知恵遅れの児童は嘘をつかないという鑑定もたぶんこの裁判にだけでてきたものだろう。おまけに国家賠償請求訴訟で被告人に有利な証言をした施設の上司が偽証罪に問われたという恐怖。甲山事件はこうした異様奇怪な経緯をたどって、一度も有罪判決のでないまま、福祉を志した若い女性を25年間も刑事被告人にした。身柄拘束期間が短かったのは不幸中の幸いである。国家というのは、検察というのは、自らの体面を守るためにこんなことまでやるのだ。もちろん誰も責任を負わず、勲章でも貰って、名誉と富につつまれて…。甲山事件では、新聞記事を読むたびに、変だ、変だ…と思っていたが、ネットがなかったのでいうことができず、変だと思っているしかなかったのだった。今なら変だと思ったことはネットで書くことができる。もちろん報道の範囲で変だと普通に思うことなので、それが本当に変かどうかはわからない。でも、今までの冤罪事件は、後知恵かもしれないが、最初から変なところのある場合が多いように思う。
2024年09月26日
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巾着田の彼岸花を見に行った。埼玉県日高市にある彼岸花の名所で毎年彼岸の頃には一面真っ赤に染まるのだが、今年は開花が遅れているということで、一面真っ赤とまではいかなかった。それでも、場所によっては見事な群落もあり、十分に見ごたえもある。それにまだ見ごろではないということで入場料も無料だったし…。だいたい毎年、ここに彼岸花を見に来るが、以前の猛暑の年は暑くて彼岸花が早くに見ごろをすぎてしまったというときはあったように記憶するが、猛暑で彼岸に咲き進んでいないというのは初めてのように思う。それだけ、ことしの猛暑、いやいや炎暑が記録的だったということだろう。巾着田を見た後は、日和田山に登った。標高305メートルなのだが、低山らしい登山道に一か所だけ設置されてある鉄の手すりにしがみつかなければ登れそうもない旧坂もあり、苦労して上ると、頂上に絶景が広がるというわけで、山歩きの楽しさを堪能できる。ただ去年は彼岸花のちょうど見ごろのときに登ったせいか、巾着田からこぼれてやってきた普段着の登山客もずいぶんいたのだが、今回は人通りも少なく、見かけた人もほぼ皆登山モードであった。低山とはいえ、急な坂もあるので、特に下りは横歩きくらいで下りないと不安である。でも今年も来られた日和田山。高山はバス以外では登ったことはないのだが、昔はよく秩父や丹沢の低山歩きをした。苦労して上って絶景をみるときの達成感は昔も今もかわらない。日高の街が一望にみえ、遠くには大山の特徴ある山容もみえる。天気さえよければスカイツリーも見えるという。
2024年09月25日
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世の中の事象は複雑にからみあっているので、二つの事項について関係を調べると、相関がみられるものがかなりある。一方が増えれば一方も増える、また逆に一方が増えれば一方が減るという関係である。こうした相関がみられる関係があると、すぐに因果関係を想像するのだが、現実には因果関係のない場合も多い。ただ、自然現象と違い、人間に関する事象は複雑で個々の場合にはそれでも因果関係のある場合もないこともない。たとえば、将棋の好きな子は学校の成績がよいというデータがあったとする。こういうデータを見て、将棋が好きになれば学校の成績がよくなると考える人はあまりいない。将棋が好きなような子は学校の成績がよいことも多いのだろうと解するだけである。ただし、個別の事例の中には、将棋がきっかけとなって、落ち着きや自信が出て学業成績も上がったという例がないわけではないが、それはあくまでもそういうこともあるというだけのことである。次に因果関係があったとしても、どちらが因でどちらが果かは、また、別の問題である。ランニングをやっている高齢者は元気であるというデータがあった場合、だからランニングは健康によいという結論をだすのは早計というものだろう。現実は、元気だからランニングをやっているという場合が普通だからである。以上を踏まえ、未婚男性は既婚男性に比べて短命だというデータがあるが、それをどう解すべきだろうか。まず、収入がなかったり極端に低収入の男性というのは、結婚の機会もないだろうし、健康管理や生活態度に問題のあるケースも多いので、一般に短命だろう。未婚男性の中には一定数そうした層もいるので、統計データで短命というのもうなずける。次に、そうした層を除外して、似たような条件の独身男性と既婚男性を比較した場合、それでも既婚男性の方が長生きなのだとしたら、家族を持ったことによる責任感やそれにともなう健康管理への関心、また、外食が減ることによる食生活の改善などが寿命を延ばす要因になっていることが考えられる。これもおそらく無視できないものなので、男性諸君よ長生きしたければ結婚しろというのも一理ある。ただそうした責任感があり、自己管理能力の高い男性は、女性に選好される機会が多く、それゆえにとっくのとうに結婚しているという見方もできる。もちろん心を込めて健康によい食事を準備するような良妻を得て…。今後、生涯未婚率の高い世代も次第に高齢期に入っていく。そうなると、日本の平均寿命も急速に短くなっていくのかもしれない。※※立憲民主党の代表は野田氏になった。野田氏が政権とりにいく…なんちゃってね。政治と金などスキャンダルを前面に出しての政権批判、LGBTや選択的夫婦別姓のような一般国民にはあまり関係ないことよりも、普通の人の普通の生活に密着した問題をとりあげて論戦してほしいものである。もう政治テーマはやめたので、これ以上は書かないけど…。
2024年09月24日
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ホキ美術館に行ってきた。千葉の閑静な高級住宅街の一角にあり、建物自体もオブジェのような塀に囲まれた美術品のようであり、長い廊下に現代の写実画が展示されてある。絵画というと水彩にしろ油絵にしろ、筆の跡があるものなのだが、写真とみまごうような具象画にはそうした筆のあとはみられない。現代絵画というと抽象画のイメージが強いのだが、具象画も、ガラスや布、金属などの質感表現がみごとでおどろくばかりである。昔、絵の初心者が静物画から入るという話をききかじったことがあるのだが、静物画の具象画をみると、これほど難しいものはないのではないかと思う。展示されている画で、もっとも多いのは人物画で、そのほとんどは美しい女性の絵である。もちろんこうした絵もよいのだが、昔見たアンドリューワイエスの人物画を思い出した。アンドリューワイエスは米国の田舎で周辺の無名の人々の絵を多く描いたのだが、彼らは決して妙齢でもなければ美男美女でもない。それでいて、その肖像をみていると、なんとなくその人物に出会ったような気になった。もちろんそうした絵をみたのはずっと以前であり、今見れば印象は違うだろう。ただそれに比べると、今回見た具象画の女性たちは美しいのだが、人間を、そして人生を感じさせる絵というのとは違うように思う。けっしてそれが悪いというのではないのだが。
2024年09月22日
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レバノン各地では小型通信機器の爆発が相次ぎ多数の死傷者がでたというが、どうもよくわからない。遠隔操作で爆発させたとあるのだが、いくら遠隔操作をしても爆発物がなければ爆発しないだろう。建物に爆弾を置くのならともかくあの小さなポケベルやトランシーバーにどうやって爆発物を仕込むのだろうか。まさか通信機器を製造した企業がこんなテロにかかわっているとも思えないし、いったいどこでどうやって爆発を仕込み、そして遠隔操作はどういう仕組みでやったのか。そしてまた、こうした技術はごくごく限られた機関でなければできないものなのか、かなり多くの人(要はテロ予備軍)にも可能なことなのか。こんなことがもし国内で起きたらたちまちパニックになるだろう。科学技術の進歩はよい面もあるが新種の犯罪を誘発したりすることもある。ある時は正義の味方、ある時は悪魔の手先…という言葉が昔々の人気アニメの主題歌にでてきたが、科学技術は本来そうしたものであろう。明治の近代化も戦後の復興も科学技術の振興なしには不可能だったであろう。ジャパンアズナンバーワンといわれたほどの日本の繁栄も日本発の技術が世界を席巻し、その結果生まれた豊かな大衆層を市場として優れた文化も生まれて行った。その国の科学技術の水準は国力といってもよいし、そうした人材を育てるためには支援を惜しんではならないと思う。大学の授業料や奨学金が議論になっているが、少なくとも国立大学理系の授業料は激安でよいと思うし、激安であるべきだとも思う。こういう際に、よく貧困家庭には授業料免除や奨学金をだせばよいという議論があるが、大人の大学生が自分のために学ぶ費用についてなぜ親の所得云々がでてくるのだろうか。パッパは高給だから授業料なんかいくらでもだしてくれるんだという発想をするのはバカ息子であり、多少なりとも賢い子は親の負担を考える。だいたい理系は文系に比べ受験勉強の負担も大きいし、入ってからも大変だ。能力に恵まれた子が難関理系を目指そうというインセンティブがわくためにも、国立大、特に難関とされる国立大については授業料激安という措置をとるべきだろう。値上げなどは亡国の施策である。
2024年09月19日
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