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「人間観と神観と国家観」 2018年7月1日 甲斐慎一郎 創世記2章7節インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年1月2日放映「生命の設計図であるDNA(遺伝情報)」 人間の本質は何かということについては三つの考え方があります。(1)人の究極の実在は物質である(唯物論)。(2)人の究極の実在は動物である(進化論)。(3)人は、神の像に似せて造られた不滅の霊を持つ者である(聖書)。 一、人の究極の実在は物質である(唯物論) 唯物論は、究極の実在は物質であるというもので、史的唯物論は、マルクスによって提唱されたもので、マルクス主義とも呼ばれ、共産主義国家の哲学的教条となっています。 二 人の究極の実在は動物である(進化論) 進化論は、無から有を生じる自然発生という偶然から始まり、無生物から生物へ、そして猿から人間へ進化したというものですが、唯物論者は、進化論を受け入れています。 「社会主義・共産主義・無政府主義、その他多くの『左翼』運動の科学的で理論的な根拠として進化論が使われてきました。その一方で『右翼』の哲学者は、『闘争』と『適者生存』というダーウィン進化論の概念を用いて、ナチズム・人種差別・帝国主義・自由放任的資本主義などの多くの有害な体系を正当化しようとしてきました。前者に属するマルクス、レーニン、スターリンは熱烈な進化論者でしたが、後者に属するヘッケル、ニーチェ、ヒトラーもやはり熱烈な進化論者でした。 世俗ヒューマニズムの教義として有名なヒューマニスト・マニフェストが一九三三年に宣言されましたが、その第一条と第二条では、宇宙と人類が進化したことを事実としています。どんな形であれ、無神論・汎神論・神秘主義は必然的に進化論に基づいてしまいます。決定論・実存主義・行動主義・フロイト主義、その他同様の非道徳的心理学体系も進化論に基礎をおいています。……実質、進化論は、無神論やヒューマニズムだけでなく、汎神論(あらゆるものを神として崇拝)・神秘主義(霊との接触やそれへの帰一融合)・アニミズム(あらゆる事物に霊魂や精霊を認めてそれらを崇拝)などさまざまな宗教の根幹をなす前提です。 広く信じられている民族宗教(道教・仏教・儒教・ヒンズー教・他同様の信仰)はすべて、本質的にある形式の進化論に基づいています。……進化論の哲学は、ほとんどの反キリスト教的な社会哲学・経済哲学・宗教哲学の基礎であるだけではありません。今日世界を荒廃させている多くの反社会的で不道徳な行為(妊娠中絶、麻薬、同性愛、動物的不道徳など)に対して、進化論という疑似科学が理論的根拠を提供しているのです」(ヘンリー・M・モリス『科学は聖書を否定するか』CRJ出版)。 三、人は神の像に似せて造られた不滅の霊を持つ者である(聖書、キリスト教) 人は、いのちの息(霊)を吹き込まれたことによって「生きもの」となりましたが(7節)、人の霊は、神の霊がともにおられることによってのみ生き続けることができます(創世記6章3節)。ところが人間は、罪を犯し、堕落してしまいました(同3章6~19節)。 人が堕落したということは、人の霊から神の霊が離れて、その人の霊が死んだことを教えています(同2章17節、エペソ2章1節)。そこで神は、人に聖霊(神の霊)を与えて、人の霊を再び生き返らせるように計画し、そのことを実行されました。これがキリストの十字架による罪の贖いとそれが成し遂げられたことによる聖霊の降臨です(使徒2章33節)。 「人の究極の実在は物質である」という「唯物論」も「人の究極の実在は動物である」という「進化論」も、「政教一致」で「信教の自由」のない国粋主義(右翼)の国家や共産主義(左翼)の国家を建設するのです。 これに対して「人は神の像に似せて造られた不滅の霊を持つ者である」と教えるキリスト教(聖書)は、人間の生命・平等・自由を重んじる基本的人権を保障します。創造論を教えるキリスト教は、基本的人権を保障し、「政教分離」で「信教の自由」がある民主主義の国家を建設することができるのです。(神のご計画の全体 57 人間観と神観と国家観より転載)甲斐慎一郎の著書→説教集2018年5月20日に出版した「神のご計画の全体」です。「神の
2018.06.30
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「イエスを仰ぎ見なさい(2)」 2018年6月24日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2017年11月21日放映「神学と論理的思考」「イエスを仰ぎ見なさい(2)」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、12章1~14節 先回は「イエスを仰ぎ見なさい(1)」の第1回目として、イエスを仰ぎ見ることを妨げる「自分と他の人」から目を離さず、「自分と他の人のこと」を考え、「自分と他の人」に期待し、求めることについて学びましたが、今回は、どのようなイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、求めるかについて考えてみましょう。 一、信仰の創始者であるイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、求める 神は、「万物の創造者」また「万物の創始者」です。さらに「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下」ります(ヤコブ1章17節)。そして神は、私たちの「うちに良い働きを始められた方」です(ピリピ1章6節)。 「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、またいろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」(ヘブル1章1節)。神は、御子イエスによって私たちに語られたということを信じるのが信仰であり、イエスは、私たちが信仰を持つことができるようにしてくださる「信仰の創始者」(2節)です。 私たちは、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負」う(第一ペテロ2章24節)ために生まれてくださった信仰の創始者であるイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、祈り求めて、「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(1節)。 二、信仰の導き手であるイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、求める ヘブル人への手紙の12章2節の日本聖書協会の口語訳は、イエスは「信仰の導き手」であると訳されています。神は、良い働きを始められた方で、信仰の創始者ですが、完成するまでには、アブラハムとサラのように、「さまざまの試練の中で、悲しまなければなら」ず、「信仰の試練」を受けます(第一ペテロ1章6、7節)。 このように信仰は、紆余曲折を経て完成していくのですが、イエスは、信仰の試練を受けている私たちの「信仰がなくならないように」祈ってくださる方であり(ルカ22章32節)、私たちの信仰を正しく導いてくださる「信仰の導き手」(2節、口語訳)です。 私たちは、「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍」ばれた(2節)信仰の導き手であるイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、祈り求めて、「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(1節)。 三、信仰の完成者であるイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、求める 神は、天と地を「完成された」方で(創世記2章1節)、「終わりの事を初めから告げ……望む事をすべて成し遂げる」と仰せられる(イザヤ46章10節)「万物の完成者」です。そして、私たちの「うちに良い働きを始められた」ことを「完成させてくださる」方です(ピリピ1章6節)。 神は、さまざまな信仰の試練を受けている私たちを正しく導いて、私たちが終わりの日に「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25章21節)と、神からお誉めのことばを受けるまで、私たちの信仰を完成してくださる「信仰の完成者」です(2節)。 私たちは、「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれ」た(ヘブル1章3節、12章2節を参照)信仰の完成者であるイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、祈り求めて、「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(1節)。甲斐慎一郎の著書→説教集2018年5月20日に出版した「神のご計画の全体」です。
2018.06.23
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「イエスを仰ぎ見なさい(1)」 2018年6月17日 みことばに聞く インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2017年11月7日放映「神の息である聖霊」「イエスを仰ぎ見なさい(1)」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、12章1~3節 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスを仰ぎ見なさい」(2節、文語訳、口語訳)。 エーリヒ・ザウァーは、「失望したければ他人を見なさい。落胆したければ自分自身を見なさい。しかし勇気を得、勝利を味わいたいと思うなら、イエス・キリストを仰ぎ見なさい」と述べています。そこでイエスを仰ぎ見ることの意味について学んでみましょう。 一、イエスから目を離さないこと(2節) 人間は誰でも欠点や悪いところを持っています。もし私たちが他の人の欠点や悪いところばかりをいつも見ていて、目を離そうとしなければ、他人につまずいてしまうでしょう。また自分の欠点や悪いところばかりをいつも見ていて、目を離そうとしなければ、自分に落胆するのも当然ではないでしょうか。 私たちが他の人と自分の欠点や悪いところを一生懸命に目を離さないで見ているその労力と時間は大変なものです。しかしそれだけの労力と時間をこのような無益で有害なことのために使わず、すばらしいイエスから目を離さないことのために使うこと、これこそイエスを仰ぎ見ることの第一の意味です。 二、イエスのことを考えること(3節) 人間というものは、あるものから目を離さないで見ていると、今度はそのことに関して深く考え始めてくるものです。 私たちは他の人の欠点や悪いところから目を離さないで見ていると、そのことに関して色々と考え始めるため、その人の小さな欠点や悪いところも、だんだん大きく見えてきて、ついには私たちの頭や心がそのことで一杯になり、他人につまずいてしまうでしょう。また自分の欠点や悪いところから目を離さないで見ていると、そのことに関して深く考え始めるため、初めは小さな欠点や悪いところもだんだん大きく見えてきて、ついには私たちの頭と心がそのことで一杯になり、自分に落胆するのも当然ではないでしょうか。 私たちが他の人と自分の欠点や悪いところを一生懸命に考えているその労力と時間をこのような無益で有害なもののために使わず、すばらしいイエスのことを深く考えるために使うこと、これこそイエスを仰ぎ見ることの第二の意味です。 三、イエスに期待し、求めること(3節) 人間というものは、他の人の欠点や悪いところを深く考えているうちに、今度はその人に改めるように期待したり要求したりするものです。そしてその人がこの期待や要求にすぐ応えなかったり、この期待や要求そのものが過剰であったり身勝手さがあったりすると、不平や不満やつぶやきになり、さらに非難や中傷に発展し、つまずいてしまうのです。 私たちが自分の欠点や悪いところを棚上げして、他人にばかり改めるように期待したり要求したりするその労力と時間をこのような無益で有害なことのために使わず、自分の欠点や悪いところが取り除かれるようにイエスに期待し、求めるために使うこと、これこそイエスを仰ぎ見ることの第三の意味です。 四、神を通して自分と他人を見ること 私たちは、神を無視して他の人を見る時、もしその人が自分よりも優れているならば嫉妬するでしょうし、劣っているならば卑下するでしょう。また神を無視して自分を見る時、もし自分の思い通りにすべての物事が運ぶなら、高ぶるでしょうし、何もかもうまく行かなければ落胆するでしょう。どちらにしても神を無視して他の人と自分を見るなら、罪を免れることはできないのです。 私たちは、他の人を見る時、(1)私たちの姿を教えるための「鏡」(箴言27章21節)、(2)私たちを懲らしめ、造るための「砥石」(同27章17節)、(3)私たちが神に仕えるための「相手」(マタイ25章40、45節)として見ること、自分を見る時、(1)「神に愛されている自分」(イザヤ43章4節)、(2)「神の恵みによって救われている自分」(第一コリント15章10節)、(3)「神の作品である自分」(エペソ2章10節)を見ることが必要です。 このように神を通して自分と他の人を見る時、嫉妬したり卑下したり、高ぶったり落胆したりすることなく歩むことができるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集2018年5月20日に出版した「神のご計画の全体」です。
2018.06.16
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「心の一新」 2018年6月10日 みことばに聞く インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2017年9月28日放映「道と真理といのちであるキリスト」「心の一新」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、12章2節 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(2節)。 一、心の一新の必要 なぜ私たちは「心の一新」が必要なのでしょうか。消極的な面は「この世と調子を合わせ」ないためであり、積極的な面は「神のみこころをわきまえ知るため」です。 パウロは、この世の人は「神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くな」るか、または「神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようにな」る、と鋭く指摘しています(ローマ1章21、28節)。 ですから人間にとって最も大切なことは、「神のみこころ……をわきまえ知るために」「神を知る知識を増し加え」ることです(コロサイ1章10節)。それでペテロは、「キリストの恵みと知識において成長しなさい」と勧めているのです(第一ペテロ3章18節)。 二、心の一新の意味 聖書は、人間は「霊、たましい、からだ」という三つの要素から成り立っていると教えています(第一テサロニケ5章23、24節)。 たましい(ソウル)には、「知性の面での心(マインド)」と、「感情の面での心(ハート)」と「意志の面での心(ウィル)」という三つの面があります。「心の一新」の「心」は、原語のギリシャ語は「ヌース」で、「肉の思い」(コロサイ2章18節)の「思い」と同じことばです。英語の聖書は、「知性の面での心」を表す「マインド」と訳されています。 私たちは、罪を悔い改めてキリストの贖いを信じるなら一瞬にして罪が赦される救いを体験します。これが「霊の回心」です。しかし、それがどのようなことかということは、長い間、聖書を読んで学ぶだけでなく、祈りつつ思い巡らして考え、聖霊に教えられなければ、理解することができません。これが「心(思い)の一新」であり、「霊の回心」に対して「心(思い)の回心」と呼ばれるものです。これは、一生の間、変えられ続けなければならないものです。 私たちは「霊の回心」をしたとしても、この「心(思い)の回心」をしなければ、私たちの心には、神を知らない「世的な思い」また「知性の腐った」(第二テモテ3章8節)「肉の思い」があり、その「肉の思いは死であり……肉の思いは神に対して反抗」し、「それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです」(ローマ8章7節)。 三、心の一新の秘訣 「肉の思い」を持っている私たちは、「神の律法に服従できないので」、ただ聖書を学び、神のことばを心にたくわえても「心(思い)の回心」にはなりません。 それで神は、律法にそむいて、契約を守り通さなかったイスラエルの民と「新しい契約を結ぶ日が」来ることを約束されました(ヘブル8章8節)。その新しい契約とは、石の板に記された神の律法を与えるのではなく、人の心の板に神の律法を記すこと、すなわち神の「律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」ことです(同8章10節)。 神は、このことをキリストの十字架の死と復活による罪の贖いとその罪の贖いが成し遂げられたことによってもたらされる聖霊の降臨によって成就されました。私たちが罪を悔い改めてキリストの十字架の贖いを信じるなら、罪が赦されて聖霊が与えられますが(使徒2章38節)、さらに「うちに住む罪」(ローマ7章12、20節)がキリストとともに十字架につけられるなら(ガラテヤ2章20節)、罪がきよめられて聖霊に満たされます。この聖霊に満たされることこそ神の律法が心に記されることであり、その思いは「御霊による思い」になります(ローマ8章6節)。これが「心(思い)の一新」また「心(思い)の回心」です。甲斐慎一郎の著書→説教集2018年5月20日に出版した「神のご計画の全体」です。
2018.06.09
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「豊かないのち」 2018年6月3日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。「万物の創始者・支配者・完成者である神」「豊かないのち」 甲斐慎一郎 詩篇23篇1~6節 「すべての信仰者は、この詩篇の1~3節を歌うことができる。しかし、ただきよめられ、聖霊に満たされた者だけが4~6節を歌うことができる。主は、『わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです』(ヨハネ10章10節)と言われましたが、これこそこの詩篇23篇を開く鍵のことばです。すなわち1~3節には、羊がいのちを得る『救いの生涯』が、4~6節には、それを豊かに持つ『きよめの生涯』が記され、その中間の『死の陰の谷』は、『きよめの転機』」です(B・F・バックストン)。 一、救いの生涯(1~3) 詩篇23篇は、その前後の二つの詩篇と密接な関係があり、一連の詩篇です。その主題は、▼22篇――キリストの十字架の死 ▼23篇――キリストの復活の生命▼24篇――キリストの昇天の栄光 私たちは、キリストの十字架の死を自らの罪を贖うためであると信じるなら、救われてキリスト者になります。 「主は私の羊飼い」(1節)――これは、まさに神から離れて迷っていた罪人が「自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った」(第一ペテロ2章25節)という救いを予表していないでしょうか。 「緑の牧場、いこいの水のほとり」(2節)――これは救いの恵みのすばらしさを予表しているのではないでしょうか。 「たましいを生き返らせ、義の道に導かれる」(3節)――これは救いの二つの面である新しく生まれる「新生」と、義と認められる「義認」を予表しています。 二、きよめの転機(4節前半) キリスト者が実際に「死の陰の谷を歩く」なら、一体何を考え、どのようになるでしょうか。 (1)過去のことに関して――実際の死に直面した人は、過去の出来事と一切の関わりを断たざるを得なくなり、その結果、それを神にゆだねるようになるのではないでしょうか。 (2)現在のことに関して――実際の死に直面した人は、神と永遠に関する最も大切なことだけを求めざるを得なくなり、それ以外のことには見向きもしなくなるのではないでしょうか。 (3)未来のことに関して――実際の死に直面した人は、自らの計画や予定を全部捨てざるを得なくなり、永遠に備えて神のご計画に添おうとするのではないでしょうか。 きよめられるための条件である全き献身と信仰、また自我の死というのも、実際の死に直面したのと同じような心境になることです。 三、きよめの生涯(4節後半~6節) 「頭に油をそそぐ」とか、「杯は、あふれる」ということばは、聖霊に満たされる「きよめ」を予表していますが、次の二つのことばもきよめられた者の特徴をよく表しています。 「あなたのむちと杖」(4節)――これは神の懲らしめを表しています。罪をきよめられた人も、無知のために間違いや過失や失敗をすることがあり、神の懲らしめを受けます。しかし、きよめられた人は、その神の懲らしめに反発せず素直に教えられて、慰めとさえなるのです。 「私の敵」(5節)――これは悪魔の誘惑やほかの人からの誤解や非難また中傷や迫害を表しています。自分が無知であるように、ほかの人も無知であり、そのために私たちを誤解したり、非難したり、中傷したりすることがあります。しかし、きよめられた人は、「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ」(5節)とあるように、そこからも教えられて霊的な糧とするのです。 これこそ、いつくしみと恵みが追いかけて来るすばらしい「きよめの生涯」です。甲斐慎一郎の著書→説教集 2018年5月20日に出版した「神のご計画の全体」です。
2018.06.02
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