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「神をあがめる生涯」 2021年1月31日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年3月4日放映「苦難の意味するもの(1)」「神をあがめる生涯」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、5章13~16節 一、人間の創造と礼拝 東京フリー・メソジスト教団の教理問答集には、次のように記されています。問……人間の創造された目的は何ですか。答……神の栄光を現し、永遠に神を喜び楽しむためです(創世記1章27節、イザヤ43章7節、エペソ1章5、6節、第一ペテロ5章10節)。 神の栄光を現すこと、言い換えれば神があがめられることについて、聖書には、多くのことが記されていますが、おもなものは次のような5つです。 1.「神を神としてあがめ」る(ローマ1章21節、第一ペテロ3章15節)、「霊とまことによって父を礼拝する」(ヨハネ4章23節)。 2.「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5章16節、ピリピ1章20節)。 3.「ふさわしく奉仕し……キリストを通して神があがめられる」(第一ペテロ4章11節)。 4.「異邦人も……神をあがめるようになる」(ローマ15章9節)。 5.「すべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめる」(第二コリント9章13節)。 第一は、神を礼拝すること、第二は、私たち自身や良い行いを通して神があがめられ、第三は、ふさわしい奉仕、第四は、福音宣教の前進、第五は、惜しみなく与えることを通して神があがめられることを教えています。 二、聖日礼拝と説教 人間は、神の栄光を現すために創造されました。第一は、聖日に教会に集まって神をあがめることです。第二から第五は、日々の生活と歩みにおいて神をあがめることですが、そのようになるためには、礼拝に出席し、説教を聞き、それに応答することが必要です。 私たちは、説教に応答することによって、人々が私たちの良い行いを見て神をあがめる人に、ふさわしく神に奉仕することによってキリストがあがめられる人になり、また福音を宣べ伝える人、惜しみなく与える人に変えられ、人々が神をあがめるようになるのです。 三、説教と礼拝の生活 ヤコブは、みことばを「聞く」こと、「信じる」こと、「実行する」ことについて述べていますが(1章22、21節)、これこそ説教に対する3つの応答です。 説教者は、説教する準備をしますが、会衆に語る前に祈りのうちに神のことばを聞き、神のことばを信じ、神のことばを実行するように神のお取り扱いを受けて講壇に上り、講壇において説教する時は、会衆とともに神を礼拝しているのです。 1.神のことばを聞くこと 私たちは、説教者が聖霊に満たされて神のことばを正確に語ることができるように、そこで語られる神のことばが聖霊によってわかり、この礼拝において神が語ってくださることを明確にとらえることができるように祈りつつ、説教に耳を傾けなければなりません。 2.神のことばを信じること しかし私たちは、説教を「ただ聞くだけの者であっては」ならず、「すなおに受け入れ」る、すなわち信じなければなりません(ヤコブ1章22、21節)。確かにキリスト者は、神のことばを信じていますが、この礼拝において説教者を通して今、神が語られたことを新しく信じることが必要です。そうするなら、新しい神体験をし、神のことばを実行することができる人に変えられるのです。 3.神のことばを実行すること これから始まる一週間、礼拝説教で教えられたこと、示されたこと、信じたこと、新しい神体験をしたことを毎日の生活において実行することを祈りのうちに神に約束し、礼拝を終えることです。 このようにする時、新しく始まる一週間、私たちの日々の生活と歩みを通して神があがめられ、このことを毎週、行うなら、私たちの一生の間、神があがめられます。これこそ神が求めておられる真の礼拝です。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2021.01.30
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「目標を目ざして(2)」 2021年1月24日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年1月28日「平安と将来と希望を与える神の計画(2)」「目標を目ざして(2)」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、3章13、14節 二、前のものに向かって進むこと 「前のもの」とは、未来や将来のことではありません。パウロは、言葉を続けて、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために」と述べ、殉教の死を前にして、「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」と告白しています(第二テモテ4章8節)。これは、主人である神から「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25章21、23節)とお褒めの言葉を頂くことです。この「神の栄冠」や「義の栄冠」こそ「前のもの」です。 しかしこの栄冠を得るためにはジョン・ウェスレーが「根本を撃つ」という神学論文で述べているような「きよめ」が必要です。 「今神にむかって生きている者以外、後にだれも神とともに生きないであろう。地において神の像(神の聖と愛と義と真実)をもつ者以外、だれも天において神の栄光を楽しまないであろう。現在罪から救われていない者は、だれも将来地獄から救われ得ない。この世で自分の中に神の国をもたなければ、だれも天において神の国を見ることはできない。天においてキリストとともに支配しようとする者は、だれでも地において自分を支配されるキリストをもたなければならない」(ジョン・ウェスレー著、野呂芳男訳「ウェスレーの神学」175頁、新教出版社、1963年)。 この「神の栄冠」や「義の栄冠」こそ私たちをひたむきに前に、進ませるものです。私たちは、神とキリストの贖いによる「救い」と「きよめ」を信じなければ、私たちをひたむきに前に進ませる「神の栄冠」や「義の栄冠」を得ることはできません。それでは前進も成長も期待することはできないでしょう。 三、目標を目ざして一心に走ること キリスト者にとって「神の栄冠」や「義の栄冠」を得ることは、最終的な目標ですが、それは、現在においては目に見えないものですから、その目標を達成するために、目に見える具体的な目標というものが必要です。 パウロの最終的な目標は、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得る」ことでした。しかしそのためにパウロは、「キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝え」(ローマ15章20節)、「神のご計画の全体を、余すところなく……知らせ」(使徒20章27節)、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げ」る(エペソ4章12節)という3つの目標を目ざして、一心に走りました。これは、私たちの目標ではないでしょうか。 1.私たちは、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えているでしょうか。 それはまだ福音を聞いていない遠い外国の人たちだけではありません。日本の、いや私たちのすぐ近くにいる家族や友人や知人の中に福音に耳を傾けようとしない人たちがいないでしょうか。私たちをあざけり、ののしり、私たちに反抗する人たち、私たちとうまが合わず、接することが難しく、私たちの嫌いな人たちの中にまだ福音を聞いていない人たちがいないでしょうか。福音は、貴賎上下の別なく、人種の差別なく、あらゆる階層のすべての人に宣べ伝えなければなりません。 2.私たちは、神のご計画の全体、すなわち聖書全体を隅から隅まで語っているでしょうか。 自分の好きな聖句や得意な聖書の箇所だけを話したり、人の嫌がる罪や神のさばきのことなどを語ることを避けたりしていないでしょうか。「健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらう」ことを願う人たち(第二テモテ4章3節)の誘惑に決して負けてはならないのです。 3.私たちは、どれだけ「自分自身と群れの全体とに気を配」っているでしょうか。 パウロは、自分が出発した後、狂暴な狼が群れを荒らし回ったり、いろいろな曲がったことを語ったりする人が起こることを知っていました(使徒20章28~30節)。教会は、改革しなければ、マンネリ化し、形式的になり、沈滞を招くだけでなく、曲がった方向に行く危険性があります。2000年に亙る教会の歴史には数多くの宗教改革がありました。私たちは、自分が属する教会と群れの建て上げのために、私たちに従ったり、賛成したりする人たちだけでなく、私たちに反対したり、改革したりする人たちの意見や考えに耳を傾け、常に軌道修正していかなければなりません。 神は、私たちがこのような目標を目ざして一心に走ることを求めておられるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2021.01.23
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「目標を目ざして(1)」 2021年1月17日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年1月20日「平安と将来と希望を与える神の計画(1)」「目標を目ざして(1)」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、3章13、14節 「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ人への手紙、3章13、14節)。 冒頭の聖句には、私たちが前進し、成長するための三つの秘訣が記されています。 一、うしろのものを忘れること 「うしろのもの」とは、過去のことではありません。ダビデは、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103篇2節)と記し、モーセは、「主が贖い出されたこと」と、民がどんなに「主を怒らせたかを覚えていなさい」と述べ(申命記1515節、9章7節)、パウロも、「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも……あわれみを受けたのです」と告白しています(第一テモテ1章13節)。 詩篇103篇1~2節と20~22節には、自分のたましいとほかの人たちに神への賛美を呼びかけていることが記されていますが、3~19節には、ただ神のなされたみわざと、その恵みが書かれているだけで、人間のわざや働きについては何も記されていません。 文化や文明と呼ばれるものは、進歩や向上を図る人間の営みであり、それは人間の偉大さや、その人間が行った偉大なわざを称賛するものです。確かに文化や文明は、人間の世界を向上させましたが、その反面、あらゆる罪悪の満ちている暗黒の社会をもたらしたことも否定することができない事実です。 これに対して聖書が教えている真の宗教は、その暗黒の社会をもたらした罪悪から人を救うとともに、私たちを罪から救ってくださった神の偉大さと、その神のなされた偉大な恵みのわざを賛美するものです。 私たちは、これまで数え切れないほど多くの神の栄光を現す良いわざを行ってきましたが、それとともに神を悲しませる多くの過ちと失敗を繰り返してきました。良い行いは、神にゆだねて、神に栄光を帰し、悪い行為は、悔い改めて赦され、そこから教訓を学んだなら、神にゆだねて忘れなければなりません。 しかし私たちが神のなされたみわざとその恵みを忘れて、人間のわざや自分の働きに固執し、それを誇示するなら、神に栄光を帰さない不敬虔の罪に陥るだけでなく、良い結果の時は、高ぶって人を見下げ、悪い結果の時は、卑屈になって神と人を恨むようになるのではないでしょうか。 私たちは、キリストの贖いを信じなければ、人間のわざや自分の働きは-それが善であっても悪であっても決して忘れることができず-私たちの足を引っ張り、私たちが前進したり、成長したりするのを妨げます。「うしろのもの」とは、過去のことではなく、私たちの前進や成長を妨げる、いわば私たちをうしろに引っ張るもの、すなわち神の恵みのみわざを忘れて誇ったり、卑屈になったりする「自分のわざや働き」のことです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2021.01.16
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「神の働きと人の働き」 2021年1月10日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年5月23日放映「イエスを仰ぎ見なさい(2)」「神の働きと人の働き」 甲斐慎一郎 コロサイ人への手紙、1章1~29節 「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」(コロサイ1章29節)。 「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(ピリピ2章13節)。 この二つのみことばのそれぞれの前半には神の働きについて、後半には人の働きについて記されています。そこで神の働きと人の働きについて聖書から学んでみましょう。 一、神の働きについて これに関しては、次のような3つにわけて考えるのが分かりやすいでしょう。 1.神の働きの範囲――すべて 万物を創造し(使徒17章24節)、万物を保っておられる(ヘブル1章3節)神は、(1)すべての自然の法則の中に働いておられる(2)すべての人類の歴史の中に働いておられる(3)すべての人々の心の中に働いておられるということができます。 2.神の働きの期間――常に 聖書は、「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」(詩篇121篇4節)、また「わたしの父は今に至るまで働いておられます」(ヨハネ5章17節)と教えています。 3.神の働きの程度――完全 聖書は、「主のみわざは完全」(申命記32章4節)、「神、その道は完全」(詩篇18篇30節)、「天の父が完全」(マタイ5章48節)であると教えています。しかし、私たちの目に主のみわざが不完全に見えるなら、その原因は私たちの心にあります。なぜなら神は、「全き者には、全くあられ……曲がった者には、ねじ曲げる方」(詩篇18篇25、26節)であるからです。 二、人の働きについて これに関しても、次のような3つにわけて考えるのが分かりやすいでしょう。 1.人の働きの範囲――ごく一部分 みなで力を合わせるなら、大きな働きをすることができますが、ひとりひとりの働きは極めて小さなものです。特に心に関しては、「自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行って」(ローマ7章19節)しまうほど無力なのです。 2.人の働きの期間――短期間 次の世代の人が受け継ぐなら、長期間、働きを継続することができますが、ひとりひとりの働きは極めて短く、また休みを必要とするだけでなく、未完成のままで終わってしまうことが多いものです。 3.人の働きの程度――不完全 人の働きには、失敗や欠陥、また誤りや間違いが付きものであり、不完全極まりないものです。 三、働きについての教訓 このようなことから働きに関して次のようなことを学ぶことかできます。 1.人が働くことができるのは、神が働いてくださるからです。 まず最初に神が働いてくださらなければ、私たちは何もできません。しかし神は、常に私たちのうちに働いてくださるのであり、人の働きというものは、この神の働きに対する応答なのです。 2.人が休むことができるのも、神が働いてくださるからです。 神は、私たちを守るために休むことなく絶えず働いてくださるので、私たちは安心して休むことができるのです(詩篇121篇4節、127篇2節)。 3.人が罪から救われて、良い行いをすることができるのも、神が働いてくださるからです 神は、私たちを罪から救うために、キリストの十字架による贖いのわざを成し遂げてくださったのであり、私たちは、行いや働きによらず、ただキリストの贖いのわざを信じることによって罪から救われるだけでなく、良い行いをすることができるのです(ローマ2章22~25節、エペソ2章8~10節)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2021.01.09
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「新しい年を迎えて」 2021年1月3日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年5月14日放映「イエスを仰ぎ見なさい(1)」 「新しい年を迎えて」 甲斐慎一郎 ヨシュア記3章1~4節 私たちが新しい年の初めに当たり、その出発点に立って、これから進もうとしている道について考えることは、何よりも大切なことです。私たちの前には、どのような道があるのでしょうか。 一、私たちが通ったことのない道 この個所において、つかさたちは「あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ」(4節)と言いましたが、「この道」というのは、直接的にはヨルダン川を渡る道のことを指していました。しかしこのことはイスラエルの人々が、これから行くすべての道についても同じように言えることです。 私たちがこれから歩もうとしている人生の道も、同じように私たちが通ったことのない道です。このことはキリスト者も世の人々も同じです。しかしキリスト者は、途中の道は分からなくても、出発点と目標点は、はっきりと分かっているということです。 イスラエルの人々はエジプトの国を出て、カナンの地に向かいましたが、キリスト者は罪の生涯を出て、天の御国に向かっているのです(ピリピ3章20節)。 ですから私たちは、一度も通ったことのない人生の道を進むために、次のような3つのことを心がけていなければなりません。 1.出発点である罪からの救いを明確にする。2.目標点である天の御国に向かう自覚を持つ。3.途中の道については信仰によって歩む。 二、キリストが通られた道 しかし私たちが通ったことのないこの道を、すでに通られた方がおられます。それはイエス・キリストです。キリストは、苦しみも弱さも涙も経験されたのであり(ヘブル4章18節、15節、5章7節)、「すべての点で、私たちと同じ」でした。人としてのキリストと私たちの違いは、ただ一つ「罪は犯され」なかったことだけです(同4章15節)。 しかしキリストは無実の罪を着せられ、私たちの罪を自分の身に負われました。これは誰も経験したことがない想像を絶する苦しみでした(マタイ27章46節)。このようにしてキリストは、私たちのために「苦しみを受け、その足跡に従うようにと」、私たちに「模範を残され」たのです(第一ペテロ2章21節)。 よく言われるように私たちが行く道のすべてにキリストが立っておられます。キリストは、私たちのために先にそこを通られ、「道を踏み固め、平らにしてくださったのです」(S・D・ゴードン)。 誰も通ったことがなく、踏み固められていないものは道ではありません。キリストは、ご自身のことを「道」であると言われました(ヨハネ14章6節)。これは、キリストが私たちのために神に至る道となってくださったという意味だけでなく、私たちのためにすべてのことを経験して、私たちが通りやすいように踏み固めてくださったという意味においても道なのです。 三、キリスト者が通るべき道 パウロは、晩年に「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」と告白しています(第二テモテ4章7節)。 1.勇敢に戦う生涯――私たちは、どんなに小さな良いことでも勇敢に戦って獲得しなければ、真に自分の身につきません。 2.走るべき道のりを走り終える生涯――私たちは、「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」、身軽になり、「忍耐をもって走り続け」なければなりません(ヘブル12章1節)。しかもコースを間違えずに、また完走するためには、途中で脱落しないように節制と計画性が必要です。 3.信仰を守り通す生涯――主は、私たちのためにいのちを捨ててくださいました。ですから私たちは、どんなことがあっても信仰を守り通さなければならないのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2021.01.02
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