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「神の祝福に満ちあふれた人(2)」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年7月23日放映「キリスト教の神髄」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=57447&dreamon=Y「神の祝福に満ちあふれた人(2)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、5章1~16節 「神の祝福に満ちあふれた人」の第一回目は旧約聖書の詩篇84篇から「真の祝福」は、「神を求める幸い」(1~4節)と「神にある幸い」(5~8節)と「神の与える幸い」(9~12節)という3つの段階があることを学びましたが、第二回目は、新約聖書の「至福の教え」から学んでみましょう。 一、至福の教えは、詩篇84篇が教えている幸福の三段階を教えています 「山上の説教」の中の5章の前半は、「至福の教え」と言われているところです。この八つの幸いの前半の部分には、「神を求める幸い」と「神にある幸い」が、後半の部分には、「神の与える幸い」が記されています。 二、八つの幸いは、内側の心における幸いで、塩と光です 八つの幸いは、互いに何の関係もないものではなく、「心の貧しい者」を第一段階とし、「義のために迫害されている者」を第8段階とする「真の幸福の八段階」を教えています。 山上の説教が教えている八つの幸いは、外側に表れた幸福というよりも内側の心における幸福です。この内側の心における幸いは、「塩」と「光」であり、それは必ず外側の行為に表れます。 「塩」は、腐敗(社会の堕落)を防ぎ、良い味をつけます(世の人々に良い感化や影響を与えます)。「光」は、やみ(罪深い世)を照らし、世の人々に救いの真理を示します。 英語で幸福と訳されることばには「ハッピネス(happiness)」と「ブレッスィング(blessing)」の二つがあります。前者は、いくつかの偶然がうまく重なった幸運な出来事で、後者は、神が与えてくださる真の祝福で、それは必ず外側の行為に表れる「塩」と「光」です。 三、塩と光という内側の心の幸いは、必ず外側の行為に表れ、真の祝福を受けます 主は、「心に満ちていることを口が話す」(マタイ12章34節)と言われましたが、心は、ことばだけでなく、行為に表れます(ヤコブ2章14、16節、第一ヨハネ3章17、18節)。 心の貧しい者とは、自分の心の姿が「富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って」、うぬぼれているのではなく、かえって罪のために「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であること」(黙示録3章17節)を知ってへりくだり、救い主の必要を自覚して神から離れない人のことです。天の御国はその人のものです。 心の貧しい者は、自己憐憫に陥って世の楽しみや慰めを求めることなく「神のみこころに添って」罪を悲しむ者になります(第二コリント7章9節)。その人は慰められるのです。 罪を悲しむ者は、悪者の栄えるのを見てねたんだり(詩篇73篇3節)、悪人に復讐したりすることなく、悪を耐え忍んで柔和な者になります。その人は地を相続するのです。 柔和な者は、悪と妥協することなく、義を愛し不正を憎む、義に飢え渇いている者になります。その人は満ち足りるのです。 義に飢え渇いている者は、「あわれみのないさばき」をすることなく(ヤコブ2章13節)、あわれみ深い者になります。その人はあわれみを受けるのです。 あわれみ深い者は、「不正を喜ばずに真理を喜び」(第一コリント13章6節)、心のきよい者になります。その人は神を見るのです。 心のきよい者は「争ったり、戦ったりする」ことなく(ヤコブ4章2節)、平和をつくる者になります。その人は神の子どもと呼ばれるのです。 平和をつくる者は、不正を憎んで「敬虔に生きよう」とするので(第二テモテ3章12節)、義のために迫害される者となります。天の御国はその人のものです。 四、神の栄光が現されます 心の幸いという「塩」と「光」は、必ず外側の行為に現れ、それは罪深い世を照らし、世の人々に救いという真理を示し、人々は、その良い行いを見て、神をあがめるようになります(16節)。これこそ神から与えられる真の祝福(blessing)です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.01.28
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「神の祝福に満ちあふれた人(1)」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年7月10日放映「聖書に基づく確かな信仰」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=57307&dreamon=Y「神の祝福に満ちあふれた人(1)」 甲斐慎一郎 詩篇84篇1~12節 「幸福」は人類共通の切なる願望であり、だれでも幸福を願わない人はいないでしょう。しかし現実には、多くの人々は「幸福」を求めながら、「真の幸福」が何であり、どこにあるかが分からないために、「偽りの幸福」に甘んじたり、「真の幸福などあり得ない」と言って、あきらめてしまったりしているのではないでしょうか。 英語において幸福と訳されることばには、「ハッピネス」と「ブレッスィング」の二つがあります。前者は、いくつかの偶然がうまく重なった幸運な出来事で、後者は、神が与えてくださる真の祝福です。 この詩篇には、「なんと幸いなことでしょう」というみことばが三回も記されています(4、5、12節)。聖書は、私たちに真の幸福があることをはっきりと教えています。この八四篇は、休止を表す「セラ」ということばによって次のような三つに区分することができ、幸いの三つの段階を教えています。 一、神を求める幸い(1~4節) ここには、「慕わしい」とか、絶えいるばかり(死ぬほど)「恋い慕って」ということばが記され、詩篇42篇の記者のように「生ける神を求めて渇いてい」る姿が描かれています(2節)。すなわち全身全霊をもって神を慕い求めているのです。 真の宗教の中心は何でしょうか。すばらしい神のことばや教えを学ぶことでしょうか。荘厳な宗教的儀式や礼典に出席して、その雰囲気に酔うことでしょうか。神の戒めを堅く守り、神への奉仕に励むことでしょうか。これらはみな大切なことですが、中心的な事柄ではありません。真の宗教の真髄は、生ける神との親しい人格的な愛の交わりです。そのために神を慕い求める人は幸いです。 人間の幸福の第一の段階は、この神を求める幸いです。神は、まず私たちにこのことを学ばせるために、私たちに様々な体験をさせたり、色々な所を通らせたりするのです。 二、神にある幸い(5~8節) このように神のみを慕い求める人は、「その力が、あなた(神)にあり、その心の中にシオンへの大路(すなわち神に近づく心)」があり(5節)、「シオンにおいて、神の御前に現れます」(7節)とあるように、ついには神にまみえ、神と一つになって、その力も、その心も神にあるようになります。このような人は、目に見えるものや周囲の環境に惑わされず、神のみを喜ぶことができ、神にある幸いを知っているのです。 人間の幸福の第二の段階は、この神にある幸いです。この幸いを知っている人は、「涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」(6)とあるように、苦難と試練の涙の谷を過ぎるようなことがあっても、そこを祝福と恵みの泉がわく所とするのです。 三、神の与える幸い(9~12節) 最後にこの詩篇の記者は、「主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません」(11節)と言っています。これはだれが見てもわかる祝福です。私たちが普通に考えている幸いというのは、このように神から恵みと栄光と良いものが豊かに与えられることです。 人間の幸福の第三の段階は、この神の与える幸いです。しかしこの神の与える幸いは、まず神を求める幸いを体験し、次に神にある幸いを体得した者だけが、ほんとうの意味において得ることができるものであり、先の二つの幸いを飛び越えて、いきなりこれを味わうことはできません。 この真の幸福の三段階を地で行った人が聖書に記されています。それは旧約のヨセフです。彼は、エジプトに売られ、監獄にまで入れられましたが、これは神を求めるのに妨げになるものを取り去られて、神のみを求める幸いを体験したのであり、次に同じ監獄にいる人を慰めることができましたが、これは神にある幸いを体得したのであり、ついにエジプトの支配者になりましたが、これは神の与える幸いを得たのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.01.20
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「逃避の霊的な教え」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年11月23日放映「神の悩みと人の悩み」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=59006&dreamon=Y「逃避の霊的な教え」 甲斐慎一郎 箴言28章1節 「悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい」(1節)。 「逃避」とは、文字通り「逃げて避ける」ことです。これは「エスケープ」という英語のままで、よく用いられることばです。 逃避する時、私たちは、何から逃げようとするかが問題です。なぜなら聖書は、逃避することは、必ずしも悪であるとは教えていないからです。たとえばペテロは、「イエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ」(第二ペテロ2章20節)と述べ、罪からのがれることは必要であると教えています。 それでは、どのような逃避がいけないのでしょうか。それで、逃避ということ関して、その対象と、その意味と、その霊的な教えについて聖書から学んでみましょう。 一、逃避の対象について オズワルド・サンダースは、聖書の中には、死を祈り求めた預言者が三人いると述べています。その三人とは、モーセ(民数記11章15節)と、エリヤ(第一列王記19章4節)と、ヨナ(ヨナ4章3節)です。 彼ら三人の、死を祈り求めた原因を調べてみると、次のようになります。モーセは、直面する困難や重荷に耐え切れなくなり、エリヤは、戦いに疲れ切ってしまい、それぞれ現実から逃避したかったのでしょう。ヨナは、神の御顔を避けて、逃避したものの、自分の思い通りにならない現実に嫌気がさして自分から逃避したかったのではないでしょうか。 このようなことから聖書が戒め、また禁じている逃避は、次の三つのことです。1.現実からの逃避です。2.自分からの逃避です。3.神からの逃避です。 二、逃避の意味について このような逃避は、何を表しているのでしょうか。 1.敗北の表れです 人間には、だれでも取り組まなければならない問題や課題、また負わなればならない重荷や十字架というものがあります。これが人生の現実です。しかしこの現実から逃避しようとすることは、戦わずして、すでに敗北しているのです。 2.わがままの表れです このような逃避は、自分さえよければ、ほかの人は、どうなっても構わないという身勝手さ、また自分を変えようとしないで、環境を変えようとするわがままの表れです。 3.無責任の表れです 罪を犯したアダムとエバは、神の御顔を避けて隠れましたが、これは謝罪も償いもせずに、自分のしたことに責任をとろうとしない無責任や責任転嫁です。 三、逃避の霊的な教え それでは、この逃避ということから何を教えられるのでしょうか。私たちは、この逃避という観点から信仰を学ぶことができます。 1.信仰は、神と自分から逃避せず、神に踏みとどまることです。罪人の特徴の一つは、神を避けて隠れることです。しかし神から逃避することは、滅びであることを知らなければなりません。 2.信仰は、神のもとにのがれ、神にすべてを任せることです。神から逃避するということは、とりもなおさず神にすべてを任せることを拒むことです。ですから神は、神から逃避する者を救うことも助けることもおできにならないのです。 3.信仰は、現実から逃避せず、正面から取り組んで、勝利を得ることです。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8章31節)。私たちが神から逃避せずに、神のもとにのがれるなら、神が私たちの味方になってくださり、神から恵みと力が豊かに与えられて、現実の問題に打ち勝つことができるのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.01.16
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「神のことばである聖書」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年11月15日放映「神の愛と人の愛」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=58910&dreamon=Y「神のことばである聖書」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第二、3章14~17節 私たちは、「聖書は神のことばである」と安易に語ったり、伝えたりしていますが、このことばのほんとうの重みを知っているでしょうか。聖書は、なぜ神のことばなのでしょうか。私たちは、このことをしっかりと心に銘記しなければなりません。そうしなければ、どんなに聖書を読んで、その内容を知ったとしても、それは普通の書物を読んでいるに過ぎず、その結果、永遠のいのちや救いに関係がないばかりか、私たちの心と生活に何の変化も起きないからです。 一、神よりの啓示の書である聖書 「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」(ヘブル1章1、2節)。 ここには「神は......語られました」と明白に述べられています。聖書は、人間に対して神が語っておられることを記した書物です。このことを専門的なことばで「啓示」と言います。 「啓示」ということばは、もともと「おおいをとる」とか「ベールをはぐ」という意味があります。ですから「啓示」とは、人間の理性や人の探求では分からない神と神に関する真理を、神のほうからおおいを取って、私たちに明らかに教え示すことです。 私たちは、この神より啓示された聖書によってのみ、真の神とその神のみこころや神のご計画、また人間の窮状とその救い、さらに世の終わりや次に来る世(来世)について知ることができるのです。 二、神の霊感を受けた書である聖書 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益す」(16節)。 「聖書の預言はみな......決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」(第二ペテロ1章20、21節)。 聖書は、神の語りかけを記した神より啓示された書物ですが、その神の語りかけを人間がどのようにして誤りなく記すことができるでしょうか。それで神は、聖書の記者たちが聖書を書くにあたって、間違いなく神の啓示を記すように働かれました。このことを専門的なことばで「霊感」と言います。 「霊感」ということばは、もともと「神の息や神の霊を吹き込まれる」という意味があります。H・オートン・ワイレーは「霊感とは、その書き記すところが、神の意志の表現となり得るために聖書の記者たちの上に与えられる聖霊の働きである」と述べています。 三、神によって必ず成就する書である聖書 「聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです」(使徒1章16節)。 「必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」(イザヤ55章11節)。 聖書のことばは、必ず成就します(ルカ1章20節)。すなわち信じる者には、聖書に記されているすばらしいことが必ず成就し、信じない者には、聖書に記されている恐ろしいことが必ず成就するのです。 なぜ聖書のことばは、必ず成就するのでしょうか。それは、聖書は神から啓示され、さらに誤りなく記されるように神によって霊感された正真正銘の神のことばだからです。 聖書は、神から啓示されたことばです。ですから私たちは、神のことばを聞かなければなりません。聖書は、神によって霊感されたことばです。ですから私たちは、神のことばを信じなければなりません。聖書は、神によって必ず成就することばです。ですから私たちは、神のことばを実行し、人々に宣べ伝えなければならないのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.01.08
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