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「個人の尊厳の自覚」 2021年6月26日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2019年1月19日放映「神の与える幸いと人の求める幸い」 「個人の尊厳の自覚」 甲斐慎一郎 マタイの福音書10章29~31節 現代のように人口が非常に多くなり、人々が大都会に集まって来るようになると、多くの人々は、社会とか大衆また団体というものを重要視するようになってきます。 そのためにひとりの人間の存在がますます小さなものとなり、個人というものが失われてしまいます。ですから私たちは、社会が大きくなればなるほど、ますます個人に目を向け、個人の尊さを自覚しなければなりません。そうしなければ、真の人間らしさが失われ、人格の崩壊という最悪の事態を招いてしまうことになるからです。 一、個人の「存在の価値」を自覚すること 私たちは、個人の存在の価値というものを自覚していませんと、数え切れないほど多くの人々に圧倒されて、「どうせ自分など、いてもいなくても同じだ。自分が何をしようとも、この社会には関係がない」と思うようにならないでしょうか。人間は、個人の存在の価値を見失うと、無責任になってしまうのです。 主イエスは「あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」と言われました(31節)。ダビデは、「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」と(詩篇8篇4節)、広大無辺な大宇宙を造られた偉大な神が、小さな自分にも心を留めて顧みてくださることに驚嘆しています。 私たちは、自分が神の前に尊い存在であり、それゆえ責任をもって生きていかなければならないということを自覚する時、神への恐れと信仰が芽生えてくるのです。 二、個人の「存在の意義」を自覚すること 私たちは、個人の存在の意義というものを自覚していませんと、私たちの周囲に起きる様々な苦難や困難に敗北して、「なぜ自分だけがこんなに苦しみに会うのか。何だかわけが分からなくなり、何もかもいやになってしまった」と思うようにならないでしょうか。人間は、個人の存在の意義を見失うと、失望落胆して無気力になってしまうのです。 主イエスは「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」と言われました(29節)。まして多くの雀よりもすぐれた人間と、その周囲に起きる出来事に対して、神は雀以下の配慮しかしてくださらないことがあるでしょうか。 私たちは、自分が神の前に尊い存在であり、周囲に起きる苦難や困難も、決して無意味ではなく、それらは神が個人個人を造り上げるために最高の知恵と愛の配慮をもって送られていることを自覚する時、希望に満ち、気力にあふれてくるのです。 三、個人の「存在の目的」を自覚すること 私たちは、個人の存在の目的というものを自覚していませんと、多くの人たちの存在が煩わしくなって、「他人なんかどうなってもかまわない。自分さえ良ければよいのだ」と思うようにならないでしょうか。人間は、個人の存在の目的を見失うと、自己中心になり、隣人に対して全く無関心になってしまうのです。 主イエスは「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」と言われました(30節)。神は、ひとりびとりを特別な関心をもって愛してくださいます。神は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と仰せられました(イザヤ43章4節)。私たちは、ひとりびとりの人間が神の目には「キリストが代わりに死んでくださったほど」に尊い愛の対象であり(ローマ14章15節)、個人個人の生涯には、深い神のご計画と目的があることを自覚する時(第一コリント2章9節)、隣人に対する無関心が取り除かれて愛をもって接することができるようになるのです。 私たちは、「個人の存在の価値」と「個人の存在の意義」と「個人の存在の目的」をどれだけ自覚しているでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2021.06.26
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「父と子の交わり」 2021年6月20日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2019年1月19日放映「神の与える幸いと人の求める幸い」 「父と子の交わり」 甲斐愼一郎 ローマ人への手紙、8章14~17節 このローマ人への手紙の8章14~17節には、「子」または「子ども」という言葉が各節に、そして「父」という言葉が二回(アバとはアラム語で父という意味)記されています。 そこで、この父と子という観点から、聖書が教えているキリストの救いとは、どのようなものか、また真のキリスト教とは何かということを考えてみましょう。 一、肉体の苦行 およそ宗教と名のつくものには、何らかの形において、肉体の苦行というものがあります。その内容を、大ざっぱに述べるなら、次のような四つです。1.様々な欲望を自ら断つ禁欲です2.肉体を苦しめる行為をすることです3.自らの肉体を痛め、傷つけることです4.自らの生命を死に至らせることです キリスト教においては、第一のものに相当する断食があります。しかしこれは、神に近づくための一つの手段であり、決してこれ自体を目的としているのではありません。 聖書は、神の宮である肉体を、いたずらに苦しめたり、傷つけたりしてはならず、かえって、その「からだをもって、神の栄光を現」さなければならないと教えています(第一コリント6章20節)。 使徒パウロは、「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めは、「肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」と述べ(コロサイ2章21、23節)、肉体の苦行によっては、決して真の救いは得られないと教えています。 二、心の修行 次に宗教を心の修行と考えている人々がいます。これをキリスト教に当てはめるなら、次のようになるでしょう。 1.ある人々は、キリスト教とは、理詰めで神の存在を信じ、ただ聖書を読んで、神の教えを学ぶことであると考えています(知性的な面)。 2.ある人々は、キリスト教とは、信じることによって神を感じ、ただ神の愛に感動して生きることであると考えています(感情的な面)。 3.ある人々は、キリスト教とは、すべての悪や罪をやめ、ただ神に仕えて、善行と奉仕に励むことであると考えています(意志的な面)。 キリスト教を、このように考えている人は決して少なくないでしょう。それぞれキリスト教の一面を表しており、真の救いを受けた結果としてこのようになります。しかし、たとえどれにも片寄らず、この三つのものに均衡が取れて備わっていたとしても、これは心の修行であり、真の救いではありません。 三、霊の交わり 聖書が教えている罪からの救いは次のような三つの面があります。1.「義と認められること」です2.「新しく生まれること」です3.「神の子どもとされること」です 罪を悔い改めて、キリストの十字架は私の罪のためであると信じる者は、義と認められ(すなわち罪を赦され)、新しく生まれるだけでなく、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が……あかししてくださ」り、私たちは、この御霊によって「アバ、父」と呼ぶことができるのです(15、16節)。 私たちは、この御霊によらなければ、神をほんとうの意味と内容と資格をもって「天のお父様」と言うことはできません。「御霊のあかし」は、父の側から子の側への語りかけであり、「アバ、父」は、子の側から父の側への語りかけです。ここから父と子の霊の交わりが始まるということができます。この罪から救われた者だけが持つことができる父と子の交わりこそ、キリストの救いです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2021.06.19
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「永遠に存在する人間」 2021年6月13日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2019年1月8日放映「人生に必要な三つの期間」 「永遠に存在する人間」 甲斐慎一郎 マタイの福音書10章28節 現代は、いのちを重さを知らず、いのちを軽視する風潮があるように見えますが、一昔前の戦争をしていた時代も同じではないかと思われます。それで人のいのちはどのようなものかについて考えてみましょう。 一、人のいのちの重さについて パウロは、「聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるため」と述べています(使徒20章28節)。この箇所にはキリストのことは記されていませんが、実際に血を流されたのはキリストです。父と子と聖霊なる神は、ご自身のいのちを捨てるほど私たちを愛し、私たちの救いのために贖いのわざを成し遂げてくださいました。言い換えれば、このみことばは、私たちのいのちは、三位一体の神がいのちをかけるほど重く、尊いということを教えているのです。 二、人間の不滅性について なぜ人のいのちは、それほど重くて尊いのでしょうか。それは神によって造られた計り知れないほど価値のあるもので、決して消滅することなく、永遠に存在するからです。 人間がほかの動物とは異なる根本的な特徴を述べるなら、次のような三つです。 1.自由意志――人間は選択と決断をする自由を持っています。 2.自己批判――人間は自分で自分を批判することができます。 3.継続性――人間は永遠に存在し、消滅することはありません。 自由意志を持ち、自己批判ができる人間は、責任をとるべき自己というものが消滅することはありません。墓は、人が来世に行くために通過するトンネルのようなものです。私たちの来世の運命は、私たちがキリストの贖いのわざを信じるかどうかによって決まります。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は……神の怒りがその上にとどまる」のです(ヨハネ3章36節)。 霊が不滅であることについては次のような四つの証明があります。 1.本能的な証明――正常な人間は本能的に霊が不滅であることを自覚しています。 2.心理学的な証明――霊は非物質的な存在で、分割することはできず、不滅です。エネルギー不滅の法則は、物質であるエネルギーが不滅であることを教えています。まして霊が不滅なのは当然ではないでしょうか。 3.目的論的な証明――人間は、この世においては、その人の持っているすべての可能性や将来性、すなわち品性や人格、能力や賜物などがすべて花を開くということはありません。それがすべて十分に開花するためには、次に来る世(来世)の存在と継続が必要なのです。 4.道徳的な証明――この世は、悪人が栄え、義人が苦しむことが多く、常に正義の取り扱いを受けているとは限りません。それで、次に来る世(来世)においてすべての善と悪とが公平にさばかれることがどうしても必要なのです。 三、人間の不滅性を教えているみことば 神のことばである聖書は、次に来る世(来世)が存在し、人は永遠に消滅しないことを教えています。 ヨブは、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう」と述べ(ヨブ1章21節)、「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は私の肉から神を見る」と告白しています(同19章25、26節)。 イエスは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われました(マタイ10章28節)。 ヨハネは、「死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また別の一つの書物が開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた」と神からの啓示を記しているのです(黙示録20章12節)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2021.06.12
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「力と愛と慎みの霊」 2021年6月6日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年11月29日放映「日々新たにされる内なる人」 「力と愛と慎みの霊」 甲斐愼一郎 テモテへの手紙、第二、1章3~14節 「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(7節)。 ジョン・ウェスレーは、その注解において「力と慎みとは両極端である。愛はその中間にあり、両者の結合帯また調和である」と述べています。言い換えれば、力に偏れば無謀になり、慎みに偏れば萎縮しますが、愛は、両極端の二つのものを均衡と調和が取れた状態にして、両極端の過ちを防ぐのです。 「健全」というのは、それ自体は良いものであっても互いに相反する二つのものが均衡(バランス)と調和(ハーモニー)を保っている状態のことを言うのです。 実際生活において私たちは、この健全さに欠けるなら、純粋な動機で物事を行っても、極端に走ってしまうので、自分が失敗したり、他の人に迷惑を掛けたりして、様々な問題が起きてしまいます。神は、私たちに純粋な動機である愛を与えるとともに、均衡と調和の取れた力と慎みを与えてくださるのです。 一、健全な思想や考え方――神の恵みと人間の働きの調和(9節) 9節には、神の恵みと人間の働きとが対照的に記されています。ピリピ人への手紙にも神の側の働きかけと人間の側の救いの達成について記されています(2章12、13節)。 「神の恵み」は、神の力の現れであり、私たちを高い所に引き上げるものですから、言わば「神の理想の方向」と言うことができます。これに対して「人間の働き」は、人間の力の現れであり、神の力がなければ、弱く罪深い人間にとって、それは私たちを低い所に引き下げるものですから、言わば「人間の現実の方向」と言うことができます。 神は、私たち一人一人にふさわしい理想の姿を求められますが、同時に人間にもその人なりの現実の姿というものがあります。ですから私たちは、人間の現実を無視して、神の理想だけを追い求めたり、反対に神の理想を無視して、人間の現実だけを肯定したりしてはなりません。神の理想と人間の現実の両者が均衡と調和を保つ時、私たちは健全な思想や考え方を持つことができるのです。 二、健全な品性や人格――喜びと悲しみとの調和(4節) 4節には喜びと涙、8節と12節には苦しみが記されています。喜びは私たちを高くし、高揚させますが、悲しみは私たちを低くし、謙虚にさせます。しかし何の悲しみもなく、喜びだけが与えられるなら、軽薄になるだけでなく、有頂天になり、ついには高慢にふるまってしまうことでしょう。反対に何の喜びもなく、悲しみだけが与えられるなら、陰気になるだけでなく、失望落胆して、ついには自暴自棄に陥ってしまうことでしょう。 神は私たちに喜びと悲しみの両方を与えられます(ピリピ一章29節)。賛美歌285番3節に「主よ飲むべき わが杯 選び取りて授けたまえ 喜びをも 悲しみをも 満たし給う ままにぞ受けん」とあります。 ですから私たちは、神から喜びが与えられたなら、心から感謝することです(第一テサロニケ5章16~18節)。また悲しみが与えられたなら、逃避することばかり考えず、神のよしとされる時まで耐え忍ばなければなりません(ヤコブ五章7節)。喜びと悲しみの両者が均衡と調和を保つ時、私たちのうちに健全な品性や人格が形造られるのです。 三、健全な行動や働き――大胆さと注意深さの調和(12節) 12節には神にゆだねて確信した大胆さが、14節には聖霊によってですが、自らを守る注意深さが記されています。ゆだねることは、私たちに確信と大胆さを与え、注意深さは、私たちに勤勉と責任感を与えます。しかし大胆さが行き過ぎるなら、無責任や怠慢や不注意になり、反対に注意深さが行き過ぎるなら、小心や臆病や不信仰になるでしょう。 神にゆだねた大胆さと自らを守る注意深さの両者が均衡と調和を保つ時、私たちは健全な行動と働きをすることができるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2021.06.05
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