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土曜日にアンパンマン列車に乗った。なんだそれ!と思う方もいらっしゃるでしょうが、四国にそう言う企画の列車があります。徳島から阿波池田まで約1時間の、アンパンマン列車の旅です。アンパンマンのペイントの施された列車に、子どものプレイルームが設置されていて、子供達は無邪気にそこで、飛び回って遊ぶ事が出来るのです。いっぱい汗かいて、とても楽しそうでした。そして高知県のアンパンマンミュージアムへ。土曜日はそこに隣接してあるホテルで宿泊、お部屋もアンパンマンのプリントが施された、アンパンマンルームです。しかし、晩ご飯は本格的で大人も楽しめて、満足な夜を過ごすことが出来ました。総勢5人の旅です。ボクとうちの奥さんと3歳の息子、そしてその息子の彼女(3歳)とそのおかあさんと言う構成でした。3歳にして彼女がいるとは、羨ましいばかりです(^_^)明くる日は、待望のアンパンマンミュージアムです。こぢんまりとしていましたが、結構楽しめる雰囲気を醸し出していて、子どもだけでなく結構楽しめる事が出来ました。お薦めですね。その上、その日は地元香北町のイベントで、アンパンマンの着ぐるみショーも開催されていて、子供達に取ってはラッキーな1日になりました。子供達に愛されているアンパンマンの生みの親、やなせさんもこの町の出身だと言うだけでなく、町の大人も子どもも、アンパンマンが大好きなんでしょうね。そんな風に感じた1日でした。旅としても明石海峡大橋から淡路島を横断して四国に入り、四国四県を縦断して瀬戸大橋も渡ることが出来、淡路島、四国初体験のボクとしても、とても楽しめた小旅行となりました。そして、夫婦としてのゆっくり泊まりの旅行も初めてなのでした。
October 30, 2005
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27日にタイムドメインの音の研究会をした。六名ほど集まって、それぞれ好きなお薦めCDを持参して、色んな音源を再生してみたのです。一度タイムドメインのスピーカーで音楽を聴くと、色んなジャンルの音楽を聴きたくなるんですよ。純粋に音楽を楽しめるからなのでしょうね。まだYoshii9と言うタイムドメインの最高のスピーカーを持っていないボクは、試聴室でその音を実感したくて、したくて。新しい家が出来たら、リビングを試聴室にして、みんなに聴いて貰おうと、企てています。その節は、お近くの方はもちろん遠方の方も是非聴きに来てくださいね。タイムドメインのスピーカーで聴く最高の音、好きな音のCDリストを作ろうと、音楽好き集いをしていますが、なかなかリスト作りがはかどっていません。ロック、ジャズ、クラシック、フォーク、民族音楽、演歌、それぞれに音の良いCD、レコードは存在します。そして所謂名演奏と言うのも存在します。そんな貴重な音源を再発見と言うか、発掘と言うか、もう一度聞き直してみたいと思うのです。大げさな言い方をすると、それは人類の財産に匹敵するものだと思っています。タイムドメインの音の研究会を通して、そんな活動が出来ればと願って、続けて行けたらと思うのです。音楽って、理屈ぬきで良いものですから・・・。
October 29, 2005
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まだまだ幼い子どもの頃、子守歌代わりにおばあさんがいつも語ってくれた物語がある。ふつうは絵本の読み聞かせだったりするのだろうが、ボクの場合、おばあちゃんの膝の上に抱かれて、いつも物語を聞かされていた。みなさんにも同じような経験があると思うので、ちょっと思い出して見て欲しい。最初に聞いた物語を。ボクのそれは、「八岐大蛇」だった。なぜがおばあさんはボクを寝かせつけるとき、これしか知らないのかと思うぐらい、必ずこの話を聞かせてくれた。そしてボクは「こわい!こわい!」と言いながら眠った。そのせいか、今では、こわい、痛い、つらい状況と仲良くやっていける自信がある。ホラー映画も好きだし、怪奇小説もよく読んだ。小学3年の時、トランジスターラジオで、夜9時半から放送していた日本の民話の朗読を寝床で聞くのが、大好きだった。そのストーリーはたいがい少し怖い話だった。布団を頭からかぶり真っ暗ななかで聞いていた。そして、その番組が終わると、ラジオから「澪つくしの鐘」がなり、その鐘がスイッチであるかのように眠りに落ちていった。怖い話からスタートした事が、どんな風に自分の性格に影響しているのかは分からないけれど、人間の本質と言うか心の奥にあるものは、人が恐怖の状況や辛い立場に置かれた時に、現れる事が多いように思え、そう言う特殊な状況で冷静でいられる事も、おばあさんのおかげなのかも知れない。そのせいかどうか分からないが、怖い夢を見ることが多かった。「おろち」のような夢だ。「おろち」は追いかけられる話だったけれど、ボクの夢は、追いかける夢だ。正体は不明なのだが、その正体不明の人物に危険を知らせようと、必死に追っかける。追っかけて角を曲がると、電話ボックスにトラックが突っ込み、電話中の人物もろとも木っ端みじんになっていたり、またその人物を追っかけて違う角を曲がると、ビルの樋が落ちてきて、歩いている人に突き刺さる。そんな惨劇が次から次へと繰り返されるのだ。悪夢と言えば悪夢なのだけれど、それは意味合いとして少し違った。なぜならボクが危険を知らせたい人は、常に無傷なのだ。もしかしたらボクが追いかけることで、その人が何とか危険をくぐり抜けて、かろうじて無事でいられるかのようだった。こんな夢の合間に、好きな女の子の夢などを見たりすると、とんでもないファンタジーに思えたりして、普通の倍ぐらいはドキドキしたりもした。怖い夢もその対比として有意義だったのかも知れないと、無理矢理結論づけたりしたものだ。はじめて面白いと思った映画は小学2年の時に見た「白髪鬼」と言う映画だった。そして「ミステリー・ゾーン」へと続くのだが、怖いものと不思議なものに興味津々だった。最初に聞いた物語と言うのは、人に影響を与えているのか、その人がそれを求めたのか、どちらだろう?
October 28, 2005
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いつの時代からアイドルという言葉が使われるようになったのだろう。初代ジャニーズ?ロカビリー全盛の平尾昌明らの頃だろうか。グループサウンズもアイドルだし、もうその頃にもアイドルは存在していた。中学三年のころ、中三トリオ(桜田淳子、山口百恵、森晶子)が全盛の頃だった。同級生たちは、こぞってファンレターを書いてはせっせと送りつけていた。返事なんか帰ってくるはずはないのだけれど、それでもみんなは返事がもらえると信じて送っていた。「そんなん送っても、絶対返事なんか帰ってこないって!」ボクは、ひねくれてるワケでもないが、ホントにそう思っていた。でも、ホントにそうだろうか?芸能人でもちゃんと返事を書いてくれる人もいるに違いないとも思ったりもしたわけだ。そこで、「返事がもらえるファンレター大作戦」と名付けて、自分なりにリサーチを始めた。まずは、新人でまだアシスタントみないな仕事しかしていなくて、素直で人のようさそうな人を探した。文通のような事ができたら面白いな~程度にしか考えていなかったが、当時は結構真剣に挑戦していた気がする。そして、やっと手紙を書く相手を決めた。「ミミ」と言う女の子だった。今では女子プロレスラーのミミ萩原として有名なので、知っている人もいると思う。当時、日曜の午後に土居まさるが司会をする「TVジョッキー」という番組のアシスタントをしていた女の子だ。経歴を調べると、親の都合でスイスに住んでいたらしく、帰国してきたところのようだった。と言うことは、日本語、特に書く方が苦手なんじゃないかと思い、手紙と一緒に返信用の封筒に自分の宛名を書いて、返信用の便せんまで同封して送ってみた。2週間ほどたったある日、家のポストに見慣れた文字の書かれた封筒を見つけた。返事だった。「ひらがなだけで、句読点も全くない文章は、とても読みにくかった。ファンレターを貰ってすごく嬉しかった、と言うような内容が書いてあった。一生懸命書いたのが、その文字から伝わってきた。まだ、ドラマにも出ていないし、レコードもだしていないような状態では、ファンレターも来なかったのかもしれない。今なら少しでもテレビやグラビアに出るだけで、ファンは出来るのかも知れないが、当時はまだのんびりとした時代だったのかもしれない。年齢も2歳上なだので同じレベルで話ができたせいか、返信封筒と便箋を同封したからか、毎回返事が返ってきた。そのうちクリスマスカードやバースデーカードが届いたり、写真が入っていたりと、やり取りも楽しいものになってきていた。彼女は、楽しかったこと、悲しかったこと、悔しかったこと、仕事や日常の中で感じたことを素直な気持ちを書き連ねて送ってきてくれた。彼女がレコードデビューをするという知らせを一緒に喜んだ。そして忙しくなるに従って、やり取りの回数も少なくなり、事務所からの案内が多くなって、彼女との手紙のやり取りは、自然消滅のようにして終わった。それでも、延べ2年半程の間、文通のようなことをしていたことになる。とても頑張りやさんで負けず嫌いな性格だった彼女が、後に女子プロレスにデビューすると言うのをテレビで見たとき、ボクはテレビに向って1人で頷いていた。そして彼女の中にある色んな思いにエールを送った。2017年追加実家の整理をしていたら大事にしまいこんでいた手紙が出てきた。それについてのブログを書きました。https://plaza.rakuten.co.jp/akmix/diary/201704190000/
October 26, 2005
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パトカーから降りてきたのは、事故処理をしてくれた警官だった。「どうしました?」全身ぐっしょり濡れて冷え切った身体は、猫のように惨めに、そして小刻みにふるえていた。「こん人たちが、殴る蹴るの暴力をふるって・・・」「それは通報で聴きました、通りかかった人から連絡をうけましたから」警官は、事務的に答えた。「まだここにいたんですか」「相手が高校生なので心細いだろうから、親が来るまでと思ったんですよ」「そんなことは、どうでもいいんですけど、こいつを訴えるんで、連行してもらえますか」高校生の兄貴を指さして言った。怒りが高まって、押さえるのに苦労するほどだった。気が付くと、もう高校生たちは居なかった。先ほど彼らの親父が帰るときに一緒に連れて帰ったらしい。その時には、もうボクの父親は到着していた。一通り説明して警察署まで付いてきて貰うことにした。警察署までボクの車はフェンダーを引きづるようにして何とかたどり着いた。応接室のようなところに通され、担当の刑事と話を始めた。タオルを借りたが、着衣はぐっしょりと濡れたままだったので、カラダは相変わらず冷え切ったままだった。刑事が言うには、傷害罪で告訴をしても、外傷がない場合、結果は期待できないらしい。それでも、告訴をすると言い続けた。不思議だったのは、刑事はボクを説得しているようなのだ。おそらくこれぐらいのことで告訴だなんて面倒なことしなくても、とでも思っていたのだろう。その態度にも納得が出来なかった。その上、父親は刑事とどうでもいいような世間話で盛り上がっていてボクの気持ちを逆なでしていた。父親はいつもそうなのだ。仕方がないのだ。呼んだボクが間違っていた。彼はいつも本題とはずれたところで生きている。その事については今回は書かないでおこう、それだけで宮本武蔵ぐらい長い連載になってしまいそうだ。警察に来たのが、午前0時半ぐらいだった。3時過ぎまでずっと刑事の説得は続いた。裁判したところで大した勝算は見込めないし、時間と経費も掛かるのだから、考え直した方がいい。の一点張りなのだ。高校生の父親に連絡を取ってくれと言った。連絡はしたが、繋がらないらしい。ボクは次第に疲れを感じるようになり、体温も奪われて、衰弱してきたのが自覚できた。フロントガラスに当たったおでこの痛みもズキンズキンと頭に響きだす。もうこの場を離れて、温かい風呂に浸かり、ベッドで眠りたかった。結局、告訴はしないと言う事で落ち着いた。しかし、加害者にはちゃんと謝って欲しいと刑事に訴えた。そんなことも出来ない奴は許すことは出来ないと。暴行をした高校生の兄貴は、警察署のロビーに出てきて、刑事に促され、頭を下げた。「もう二度とこのようなことはいたしません」まるで教わって練習してきたかのような言い方だった。長い長い夜がやっと終わった。高校生は、なぜいきなり右車線に出てきたのかと、刑事に聴いた。左車線に水たまりがあったからだと聞いた。「水たまり?」耳を疑った。そんなバカみたいな事が、この事件の始まりだったとは!そして、思った通り高校生の乗った車には保険が掛かってなく、その後の処理にもまた一苦労した。以前にも事故では苦労したが、痛い目に遭ったのは、この時が初めてだった。親切心で高校生と一緒に残って居なければ、こんな痛い目には遭わなかったのかも知れないが、そう言う性格は治りそうにない。何が起こるか分からない世の中なので、みなさんも気をつけて欲しい。
October 25, 2005
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仕事中に社長秘書に頼み事をされた。「Mixさんのお宅、○○店の近くですよね。これを帰りにお店に届けてもらえませんか?」「いいですよ。急ぎじゃなければ」仕事を終え、帰りに○○店に寄って荷物を降ろした。店の同僚と少し話をして、片付けを手伝い、駐車場に出ると雨が降り出していた。車のタイヤがすり減って来ていたので、明日にでも車屋に行かなきゃいけないな~と思いながら、車に乗り込んだ。春の夜の、気持ち悪いような温かい雨が降り始めていた。雨は次第に強くなり、ワイパーをハイスピードにしなければならないくらいになった。車は、変形四つ辻の交差点にさしかった。左前方に車がとろとろと左折専用車線に入ってきた。こちらの信号は青だった。ボクは、用心のため車線を右側に変更し、交差点を通り過ぎようとした。その時、一時停止をしていたはずの前方の車が、ずるずると頭を出してきたのだ。それもなぜだか分からないが、右側車線まで飛び出してきた。「危ない! 当たるぞ!」視界全体に車がズームアップして、その画像が超スローもションで動き始めた。止まったように見えるのだが、止まっていない。確実に前方の車めがけて突進していった。土砂降りの雨の日にキューブレーキほど役に立たないものはない。おまけにタイヤは交換しなければならないほどすり減っていた。ガァ~~~ン!ボクの車は、滑りながら前方の車のフェンダー部分に激突した。ショックで頭をフロントウィンドウに強打した。膝も何処かで打ったようだ。車は土砂降りの車道で無惨な形で止まった。フロントガラスは弾丸が当たったようにひび割れていた。カラダの痛みで急には動けなかった。気を取り直し、なんとかドアを開け、雨の中に出て、傘をさした。そして前の車の状態を確認しに行った。若い少年のような3人が乗っていた。怪我はないかと訊ねたら、怪我はないようだ。「そこの公衆電話で警察に電話してくるから、前のガソリンスタンドのところで待っててくれますか?」そこには屋根があるからだ。そう言って、公衆電話から警察に電話をかけた。警察署は直ぐ近くにあったので、間もなくパトカーが到着した。雨の中、現場検証が行われ、明日、暑の方に来てくださいとだけボクたちに告げ、警察は帰っていった。事故の相手は、高校生だったので、「親に連絡した?」「連絡したので、兄貴と親父が来てくれると思います」「じゃ、お父さんが来るまで、待っててあげるね」そう言って、こちらも車がまともに動かないので、父親に電話をして、来て貰うことにした。その親切があだになるとは思いもよらずに。しばらく待っていると、荒っぽい運転の黒のセダンとワンボックスが止まった。「われ~、お前か息子にぶち当たってきやがたのは!」そう言って、男2人がボクの方に襲いかかってきた。傘を盾に牛若丸のように相手をかわした。2人は歩道につっぷした。それがいけなかった。最大の刺激を与えたようだ。そしてさっきよりも大きな声でがなり立てながら、襲いかかってきた。おやじの方が、ボクの傘を掴む、傘の骨が無惨に折れ、傘の用をたさないような形状になり、飛んでいった。パンチパーマの若い方が胴体を羽交い締めにしてきた。咄嗟に振り払い、2人から少し離れることが出来たが、膝を強打して動きが鈍くなっているボクは、若い方の男のパンチを食らう。しかし、上体を少し引いたおかげでそれ程のダメージはなかった。次はおやじの方が、蹴りを入れてきた。痛めた膝の少し上に当たり、ボクは雨の歩道に横倒しになった。その時、ボクの目に工事中の資材置き場の鉄パイプが目に入った。こいつらのパンチや蹴りの強さから言って、それほど強そうには思えなかった。このパイプを手に戦えば、やっつけることは可能だと感じた。しかし、見境がなくなったボクは、きっと取り返しの着かないことをしてしまうのではないかと、自分が怖くなった。結局鉄パイプを手に取ることはなかった。転がっているボクにパンチを食らわそうと、殴り込んできた拳は、瞬間に頭をずらして免れた。拳は鈍い音をたててアスファルトの歩道に跳ね返された。ボクは、相手を疲れさせるために、蹴られると大げさに倒れ、殴られると大きくのけぞり、カラダを捕まれると自分からカラダを揺さぶった。土砂降りの中、しばらく乱闘が続いた。おやじの拳はぼろぼろになっていた。血がながれうなり声を上げながら、暴れていた。そして、遠くの方で、サイレンが鳴る音が聞こえた。「叩きのめしてやれ!」何故かそう言い残して、自分だけ車に乗って立ち去ってしまった。サイレンが急に大きくなった時、若い方の男をボクは強く掴んだ。すっぽんのように、絶対放してやるもんかと思いながら。パトカーがけたたましいサイレンを鳴らしながら、目の前に止まった。つづく、、、
October 24, 2005
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完全無職だった頃の話です。高校を出てしばらくは、半年働いて半年自由と決め込んでいた。春のポカポカ日和のある日、日課にしていた京都御所へ出掛けた。朝食にサンドイッチを作り、その半分を昼食用として持って出た。御所の芝生の上に寝ころんで本を読むのがその時期の日課だった。御所に午前9時頃に着き、いつもの場所へとてこてこ歩いていたら、外人さんに声をかけられた。「今、何時ですか」「9時10分です」「ありがとう、鴨川はどっちの方ですか?」「あっちの方ですよ」指さして教えてあげた。そして、いつもの芝生で、いつものように本を読み、いつものように昼になったらサンドウィッチの昼食をとり、またしばらく本を読み、後は丸太町界隈の古本屋を巡って、楽しみながら歩いて河原町までぶらぶらするのだ。お香を売ってる店に寄ったり、インド雑貨の店に寄ったりして、ほんとにぶらぶら気の向くまま風の向くままを実践していた。寺町から本能寺のところの抜け道を通って河原町に出て、四条に向かって歩いているとき「えぇっと、おにいさん、」と声をかけられた。「はい、」と振り向くと、河原町のジュリーだった。ジュリーと言っても、沢田研二に似ている人とか、そう言うのではない。当時の京都の事を知っている人なら、きっと知っていいる超有名人だ。落ち武者が何年も風呂に入らないときっとこんな髪型になるだろうと思われるような髪をして、日がな1日河原町、四条界隈をうろうろしている、いわば浮浪者だった。そう、そんな彼に声をかけられたのだ。「今、何時だ?」「時間ですか、えっと、もうすぐ5時です」「そうか」声をかけられただけでも、相当な驚きなのに、時間を聞かれた。彼でも時間を気にするんだ。時間を聞いてどうするんだろう!誰かと会う約束でもあるのか?そろそろ飯の時間だろうか?バスや電車に乗ることはないだろうし、、、、何だろう?そんなことを考えながら、彼の後ろ姿を呆然と見ていた。木屋町を抜けて四条に向かった。路地を通り抜けようとしたとき、「あのそこの彼氏!」「いいえ、結構です」黒服の男性に声をかけられ、思わずそう答えた。「違うって、今何時かなって、聞きたかっただけだから」「すみません、5時半です」「ありがとう」昼サロの多い路地だったのでてっきりキャッチかと思った。何だか今日は、やけに時間を聞かれるなと思いながら、電車に乗るために地下に降りて行った。そして通路へと曲がったとき、「すみません、今何時ですか?」まただ、条件反射のように振り返りもせず答えた。「5時40分です」答えると同時に振り返った。そこに立っていたのは、ぴったりフィットでくるぶしが出るくらいの短め黒ジーンズ姿の田中邦衛さんだった。テレビで見慣れた顔がくしゃっとなって「ありがとう!」と微笑んだ。「いいえ」ついつられてくしゃくしゃな笑顔でお返し。1日に何度も時間を聞かれた、その締めくくりがこれだった。全日本女子バレーチームに出くわしたときもビックリしたが、この時もそれに負けず驚きだった。1日何回も色んな人に時間をきかれただけでも、不思議だったのに、最後が田中邦衛さんなのだ。映画の「アフリカの光」を数日前に見た後だっただけに、その驚きは大きかったように思う。不思議な1日だった。
October 23, 2005
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秋晴れの爽やかな秋の日だった。大学が休みだったので、バイクであてもなく出掛けた。広沢の池の辺りを気持ちよく走って、「高尾パークウェイ」と言う有料道路へ向かった。そこは、当時バイク乗りが集まる場所だった。平日の午前中だしゆっくり走れると思って行くことに決めた。思った通り、車もバイクも少なかった。2回ほど往復して、展望台で保津峡を見ながら休憩をした。風がヘルメットで固まった髪に櫛を入れるように流れ込んできた。爽やか気分を十分に味わい、また走り出した。ヘヤーピンカーブをバンクして回り、立ち上がりにアクセルを全壊にする。走りまでも気持ちよく決まった。その時だ。前方から赤いつなぎを着た女性が歩いてくる。歩いて?そう、ココは自動車専用道路だ!なぜこんなところを人が歩いているんだろう!だんだん近づいてきた。赤いつなぎを着て風にたなびかせた髪が、まるで映画のワンシーンのようだった。「危ないな。」ヘルメットの中でそう呟いた。すれ違いざまに髪に隠れた顔が半分だけ見えた。何処かで見た顔だ。誰だった?こんなところで知り合いに会うことはないだろう、ましてや歩いている。頭の中がぐるぐる回った。危なく次のカーブでふくらんでしまいそうになった。前方は京都市内が見渡せる崖だったので、ドキッとして走りに集中した。何だったんだ。幻想でも見たのか?事故で死んだ人の亡霊か?考えがまとまるはずもなく、ただ不思議に思った感情も次第に薄れていった。出口まで行ってまた逆戻りして、同じ場所を通り過ぎたが、もう女性の姿は見あたらなかった。それから2回ほど往復した。昼も過ぎ、腹ごしらえに、休憩所の食堂に入ろうと駐車場にバイクを止めた。そこにはワゴン車や車が何台か止まっていた。いつもより車が多いな、ぐらいにしか思わなかった。食堂の扉を開けた。満員だった。店の中を見渡したが、空席が見つからなかった。2回ほど見渡したとき、ひとつだけ席が空いているのを見つけた。ゆっくりと席まで近づき、「ここいいですか?」と声をかけた。「どうぞ!どうぞ!」それは何処かで聴いたことがある声だった。座ってから、礼を言おうと思い、横を向き「ありが・・・」言いかけて、言葉が止まった。赤い繋ぎを着た秋吉久美子さんだった。「なにしましょう?」店のお姉さんがそう聞いてきた。「きつねうどん、ください」「こっこう、美味しかったよ!(^_^)」すかさず秋吉さんがボクの方に向いてそう言った。緊張しながら微笑みを返した。そして、反対側の隣をみてまた驚いた。千葉ちゃんだっだ。よく見ると、周りの人は、どうも映画関係者のようだ。さっき道を歩いていたのは、秋吉さんだったんだ。きっと映画の撮影なんだ。そう思って、「撮影ですか?」と訊ねてみた。「そうだよ、え~っと、タイトルなんだったけ?」「冒険者カミカゼだよ」秋吉さんは、上機嫌だった。雑誌などで気むずかしい女優のように書いてある記事を思い出しながら、ボクは隣でちょこんと座っていた。きつねうどんが運ばれてきて、おそるおそる食べた。ホントにそんな感じで食べた。放送局では、よく俳優さんたちに囲まれて食事をした経験はあったし、そう言う状況に、なれていると言えば慣れていたのだけれど、突然出くわした場合は、心の準備が出来ていないのか、今までになく緊張した。しかし、上機嫌な秋吉さんにいくらか救われた思いだった。「エイトマンの歌、全部歌える? 光る海♪ 光る大空♪ 光る大地♪」歌い出してしまった。秋吉久美子、面目躍如だぞ~。一緒にコーヒーを飲んで、楽しい昼食は終わった。背負っていたバッグにしっかりサインを貰い、「映画みますね」といって別れた。実は、「赤ちょうちん」でデビューしてから映画も全部見ていたし、密かに好きな女優さんの1人だったのだ。「冒険者カミカゼ(1981)」は、アラン・ドロンが出ていた「冒険者」の焼き直しのような映画だった。道路を歩いているシーンでボクのバイクが映ってないかと、期待半分で見ていたが、バイクは映っていなかった。殆ど話題にもならなかったので、この映画を知っている人は少ないかもしれないな。映画の出来は別として、忘れられない映画のひとつとなった。
October 22, 2005
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村西とおると言うAV監督をご存じでしょうか?知ってる人でも、素直に知ってるとは言えないかも知れませんね。お世話になった人も多いはずです。(^^ゞ(笑)レンタルビデオの店で働いていた時のこと。レンタルビデオの店の利益割合でアダルトVの比重が大きかった時代の話です。村西軍団と呼ばれる、彼が抱える女優たちが一世を風靡した時代がありました。バブルまさかりの頃、会社でアダルトV女優を店に呼んで、イベントを企画したのです。自ずと村西とおるに白羽の矢はたてられ、彼にアポイントを取ったわけです。と言っても、実際に契約を取り付けたのは、ビデオの卸会社の人だったのですが。そして村西監督が連れてきたのは、当時人気が高かった脇毛女優で有名な黒木香と松坂季実子、野坂なつみ(後のよっちゃんの奥さん)、沙羅樹、あと2人は新人だった。駅前のホテルで村西軍団と落ち合い、車2台で女優さんたちをイベント会場の店まで乗せて走る事になった。回る店は全部で4,5店あった。ボクが乗せたのは、沙羅樹、野坂なつみと新人の女優さんだ。最初は、松坂季実子も乗せたが、体調が悪く、ボクの車が2ドアだった事もあって、直ぐにもう一台の方に移動することになったので、1日この3人と一緒だった。沙羅樹は、エキゾティックな顔立ちで人気の女優さんだ。野坂なつみは家庭教師風の出で立ちで、だてめがねをして売り出していた。<野坂なつみさん>野坂「昨日は引っ越しだったのよ」新人「そうなんですか?」野坂「引っ越しのし過ぎって感じ(^_^)」沙羅「よくするよね」野坂「食器とか箱詰め大変でしょ、もうくたくた(^_^)」後部座席では、そんな普通の会話が飛び交う。アダルト女優と言っても、当たり前の話だけれど、普通の女の子なのだ。とりわけ野坂さんは、ほんとに性格良さそうな普通の女の子だった。途中からボクも会話に加わり、ギャグ混じりで笑わせながらの運転も楽しく、最初の緊張がウソのようだった。イベント会場の店間の移動は、時間的な問題もあって、衣装のままの移動だった。車の中でも派手なステージ衣装なのだ。沙羅「チョット衣装をなおしてもイイ?」新人「外から見えないかしら?」ボク「後ろはスモークウィンドウだから、外からは見えないと思いますよ」沙羅「見ないでね」そう言いながらミラー越しにボクの方をみた。目が合った。「はい」と言いながらも、見ないでと言われると見たくなるもんだ。沙羅「見たわね」ボク「すみません」ストラップレスのドレスを直している時、胸がむき出しになったのを、ミラー越しに見てしまったのだ。野坂「役得、役得!見えちゃったものはしょうがないよね」とすかさずフォローをしてくれた。沙羅さんは、ミラー越しにエキゾティックな笑みを浮かべていた。何故かそれからうち解けた感じになって、話しやすくなったのが不思議だった。きっとそれは野坂さんの性格の良さのおかげだった。イベントが全て終わり、打ち上げがてら寿司屋で食事をした。考えてみれば、異様なメンバーだ。店内の人も何人かは気が付き、黒木香さんにサインを求めてきた。黒木さんは週刊誌にも良く取り上げられていたので、女性でも知っている人は多かったからだ。打ち上げも終わり、みんなを駅まで送って行った。黒木さんとは、最後まで一言も話すことは出来なかった。そんな雰囲気を持った人だったからだ。イベント本番の時以外は、村西監督としか話をしない。それも他の人に聞こえないような小さな声なのだ。みんなが見ている黒木香は、作られたものだった。ホントに不思議な1日だった。こんな経験をする事はもう二度とないだろうけれど、忘れられない1日だった。今でも、よっちゃんがギターを弾く姿をテレビで見るたびに、その日の事を思い出すのだ。<沙羅樹さん>松坂季実子さん追記:記事のイベントの写真が数枚見つかったので、載せてみました。お客さんと写っていたので、わざとらしく加工してあります。(^_^)写真を追加して、アップしようとすると、アラートが出て更新できませんでした。「公序良俗に問題ある」的な指摘がでて、更新拒否されました。「えいぶい女優」(原文んは、アルファヴェット)が、引っかかったようなので、「アダルト女優」に変えたらOKでした。こんなしょうもない検閲を掛けるの? 発想が幼稚すぎると思いませんか?(^_^)
October 21, 2005
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PAの仕事でかなりの量をこなしたものとして、ファッションショーがある。それは大手のブランドの仕事ではなく、大小様々なブティックや百貨店主催のファッションショーが殆どだった。まずはショーのイメージ仕様書のようなものをもらい、そこに記入されている使用曲をチェックしレコードを用意する作業から始まる。ショーの雰囲気や使う曲の長さなどを打ち合わせし、こちらのプランも織りまぜて進行表を作るのだ。そのためのレコード(曲)探しも重要な仕事だった。大抵は輸入レコード店に物色にいくのだが、日頃から通っている強みで、ほとんど苦労することなく必要なレコードを見つけることが出来た。テープ作りは、徹夜で作業することもしばしばだったが、ボクにとっては楽しい作業のひとつだった。どの部分をどれだけの長さを使ってとか、使いやすいように頭出しのところにリーダーテープを噛ましていく作業だ。当時のテープはオープンリールタイプだったので、テープカッターで切ってはつぎはぎするのだ。この作業自体は楽しくないのだけれど、仕事仕事した作業もまた楽しく感じていた。最初のうちは、ショーの本番が始まるとドキドキが止まらなかった。それはボクに限った事ではなく、誰でもそうだと思うのだが。モデルさんは当然身長も高く、容姿もスタイルも良いわけだ。そのモデルさんが目の前で着替えながら裸同然の恰好でうろうろしているのを想像してみて頂くと、すんなり理解できると思う。ボクはまだ下っぱだったので、バックステージで曲のキューだしをするのが主な仕事だったのだ。インカムをつけてモデルさんがスタンバイできたら連絡を入れ、ステージに飛び出していくタイミングを曲だしをしているミキサーの人につたえる仕事だった。当然バックステージは戦争のごとく、色んなものが飛び交い、想像を絶するほどの慌ただしさだった。じろじろ見るわけにも行かず。かといって仕事上全然見ないと言うことも出来ないのだ。まぁ、役得といえば役得なのだけれど。しかし、ドキドキしたのは最初の時だけだった。と言うよりはむしろ、ドキドキしている暇はなかったと言った方が正しいと思う。ショーの進行は秒刻みのスケジュールで組まれていて、タイミングを合わせるだけでも神経を張りつめていなければならないからだ。ファッションショーのBGMは単なるBGMではなく、ショーの大事な一要素として、その役割の担うところは大きい。当時から海外ブランドのショーで使われた曲がヒットチャートをにぎわすことも多かった。参考のために欠かさず見るようになった海外のファッションショーだが、見ているとそれなりに面白い。仕事とは別のレベルで楽しんで見ていた気がする。新しいもん好きのボクの心を刺激してくれたのだ。いやいや、正直に言います、奇麗なお姉さんを見て喜んでいただけかも、、、。 (^^ゞ(笑)
October 20, 2005
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山下洋輔 (pf) 坂田明(as)森山威男 (drs) このメンバーから受けた、打ちのめされるような強烈なパワーを今も忘れることが出来ないでいる。何がそんなに強烈なのか、普通のJAZZを想像する限りでは、思いもよらないだろうが、そのパワーには、ただただ圧倒されるだけだった。PAの仕事を始めてまだ間もない頃だった。「山下洋輔トリオ」の仕事だと言うこともあって早めに出勤した。勤めている会社が管理しているホールでのコンサートだったこともあり、気合いを入れての早めの出勤だ。まだ、誰もいないホールの鍵を開け、客電だけをオンにし、機材の点検を始めた。マイクの入ったアルミケースを引っ張り出し、その日使う本数をチェックしたり、マイクスタンドをその本数分セットした。そんなことをしていると事務所から電話が入り、「早いな! 暇だったらショーで使うBGMのテープ作りを手伝ってくれるか?」「いいですよ。。。」渋々そう返事して、事務所に向かう。リハーサルから楽しみにしていたのに、、、と思いつつテープ作りを手伝った。作業が終わって、お茶でも行こうと誘われたが、仕事があるからと体よく断りをいれ、ホールに戻った。リハーサルはまだ始まってなかった。ほっとして控室のあるフロアーに向かう。メンバーはもう到着してた。ステージに戻ると先輩PAの人が「セッティングしてくれたの、自分か?」「そうです、ちょっと早く来たもので」「ありがとう、助かったわ」「いえいえ、で、リハーサルはまだですよね」「もう来ると思うで!」と言うが早いか、メンバーがステージに現れた。「順番に音だしするんで、適当に音を拾ってくれますか?」坂田明さんが、そう言った。まずは、ドラムが4ビートを刻みだした。しばらく単調なリズムでひたすらビートを刻む、そしてドラムソロが一通り終わると。そこにピアノが絡んできた。しばらくドラムとピアノがセッションしたあと、ピアノだけになった。音は順番にコンソール卓の設定されていき、次はサックスの番だ。一通り終わった。「調整できた?」山下さんは笑いながらそう言った?「後は適当にやってるから、チェックおねがいします」そういって、何故か「エリーゼのために」をJAZZアレンジで弾きはじめた。ブレイクに「ツラトゥストラはかく語りき」を使い、ドラムとサックスが同時に絡む。ー始まったぞ!次のブレイクから、肘とと拳を振り子のように鍵盤の上にたたき付け、お得意のフリーJAZZが炸裂しはじめた。足は地団駄を踏んで、頭はバンキングしていた。それでもリズムはしっかりとキープされ、サックスはまるで肺活量の検査でもしているかのように、鳴り続ける。ピアノ鍵盤の上で指は踊っていた、それはまるで、トムとジェリーのハンガリアン狂想曲のようだ。汗が飛び散る、こめかみには血管が浮き出てきて、それらが客電の中でさえ輝いて見えた程だった。タタ、タタ、タタ、タータタタ、タタタ~最後は「エリーゼのために」で終わるのかと思いきや、自然に「星に願いを」に変わり、うねりのようなリズムは、うってかわって切なげな静寂へと導かれるように、ピアノが願いを込めて語りかけてきた。終わった。予想もしなかった終わり方だ。鳥肌が立つような即興演奏だった。何かのインタビュー記事で、「コンサートの時は毎回パンツまで履き替えますから」と言うのを読んだことがあったが、目の前でその意味がわかった。凄い汗なのだ。まるで真夏に全力疾走でもしてきたかのようだった。15分ぐらいのリハーサルだった。リハーサルとしては凄く短い。しかし、スタッフもPAもただただ圧倒されて、なんだか良くわからないうちにリハーサルは終了した。こんな音合わせは初めてだった。でも最高のリハーサルだった。控え室の素顔からは想像することが出来ない演奏だ。ピアノの調律が一回のコンサートで狂ってしまうと言われるのも理解できた。その上、この人たちがタモリを見つけだした、その理由も納得できる程の意外性を見てしまった。どれほど強烈なインパクトだったか分かってもらえるだろうか?テクノラティプロフィール
October 19, 2005
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小学生のころ、夏休みはおじいさんの家で過ごすことが多かった。夏休みに入るとすぐ、おじいさんが迎えに来てくれ、連れて行ってくれた。おじいさんの家から少し歩くと汽船乗り場があって、泳ぎに行くときはいつもそこから汽船に乗って一駅向こうまで行くのが楽しみだった。今では汽船に乗ることの方が贅沢で、運行本数もすくなくなっていて、何となく寂しさを感じるが、当時は汽船の数もバス並みに多くて地元の人の足として活躍していた。おじさんの家も直ぐ近くにあり、言ったり来たりを繰り返して夏休みを満喫したのだった。それは、小学校の4年の時の事だったと思う。いつもなら従姉妹のお姉さんに海まで連れて行って貰うのが常だった。小学生だけで泳ぎに行くことは危ないからだ。しかし、なんと言っても冒険少年の血が騒ぐ!おじいさんには、山の方で遊んでおじさんの家に寄ってくると行って、ボクは汽船乗り場へ向かった。わくわくしながら1人で汽船に乗り込む。入道雲がそびえ立つように見える、真夏の日差しの中を汽船が出航する。きらきらと波間に輝くガラスのような水しぶきをぼんやりと見つめながら、20分ほどの汽船の旅を楽しんだ。船着き場に着くと直ぐに橋があった。この橋は90度回転して汽船が通るようになっている。子どものボクには、この橋も珍しい存在だった。回転橋がもとに戻るのを待って、その橋を渡り海水浴場へと向かった。3km程の松林が続き、そこに隣接するように砂浜があった。いつも通い慣れた砂浜なので、どの辺が砂が多くて泳ぎやすいかは知っていた。その日も早速、潜って砂の中の貝をとったり、素手で魚を捕まえたりして遊んでいた。遊び疲れると、波間に浮かんで空に浮かぶ雲を見るのが好きだった。その時も、気持ちよくぷかぷかと波に揺られながら、休憩がてらしばらく浮かんでいた。その年の夏休みの自由研究のテーマは「雲」だった。毎日雲の形や種類を観察してノートをとって居たので、その時も、そんなことを考えながら、ぼんやりと雲を眺めていた。波のちゃぽちゃぽと言う音とは別に、遠くの方でざわめきのような声なのか物音なのかわからないような音が聞こえてきた。そしてそのざわめきをかき消すように、アナウンスの声が拡声器から流れてきたのだ。「鮫が、この海水浴場に確認されました! 危険ですので、直ぐに浜に上がってください! 繰り返します・・・・」ドキッとした。今まで温かく感じていた海水が急に冷たく感じられた。ボクは慌てて態勢をかえ、頭を上げて浜の方を見た。監視塔の上には、赤い旗が翻っていた!速く戻らなきゃいけない。しばらく浮かんでいたせいでかなり沖まで流されていることに気が付いた。海水がさっきより冷たく感じられた。そして大変なことが起こった。慌てて泳ぎだしたために、力が入りすぎたせいか、足がつってしまったのだ。その上顔に波がかかり海水を思いっきり口の中に吸い込んでしまった。足を抱えると頭が水面に出ない、むせ込んでいるので、また水を飲みそうになってしまう。苦しかった。足をさすって、そろっと伸ばしてみた。そんなにひどくはつっていないようだ。片足をぶらんとしたまま、泳ぎ始めた。水を飲んでしまったせいで、息がくるしくてしかたなかった。必死に泳いでいるのに進んでいる気が全然しない。聞こえているのは水しぶきの音だけだった。その後もアナウンスはあったはずなのに、全然覚えていない。足は痛いし、息はくるしい。泳いでも泳いでも浜はいっこうに近くにならない。泳いでも泳いでも近づかないような気がしてきた。恐ろしいほど遠くに感じた。泣きそうだった。後ろが気になって気になって仕方がなかった。もう近くまで鮫寄ってきていて、噛みつかれるんじゃないか、心臓が張り裂けそうだった。それでも泳いだ。とにかく泳いだ。自分がそんなに泳げるとは知らなかった。数分も経っていないはずなのに、ものすごい時間が過ぎていったように思えた。「あっ~~~~」その時腕をぐいっと捕まれた。真っ黒な顔の男の人が2人、ボクの腕を掴んでくれたのだ。「もう大丈夫だから。。。」「足がつってるんです」「分かってる、変な泳ぎ方してたから」ぐいぐいと引っ張ってくれるその力に、ボクはカラダを任せた。「もう足がつくからな」「歩けるか?」「はい、」息苦しく肩をふるわせているボクに「鮫は湾の外に出ていたみたいだから、安心だ」そういってニッコリと笑いかけてくれた。熱くなった砂浜に腰を下ろして、足をさすった。胸の高鳴りは、収まったけれど、足はまだひくひくしていた。普通なら帰るには早い時間だったが周りの人たちも帰り支度をしてたし、もう海に入る気にはならない。ボクも着替えをして、汽船乗り場へとみんなの後をついてぞろぞろと歩いた。鮫騒動で海水浴を切り上げて帰る人たちで、汽船乗り場はごった返していた。1時間近くも待たされて、やっと帰りの汽船に乗ることが出来た。汽船乗り場からは、おじさんの家の方が近かったので、そちらに寄った。おじさんの家で、鮫騒動の話が出た。「鮫がでたらしいね」「そうなの? 良く出るの?」「珍しいね、昔は多かったんだけど」今日その場に居たなんて言ったら、二度と1人でいっちゃいけないと言われると言うことは分かっていた。この話は大人になるまで、ボクの心の奥でしっかりと封印されたまま置き去りにされていた。
October 18, 2005
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京都で毎晩のように飲み歩いていた頃の店で、今日25周年を迎える店がある。「ファルーカ」と言う名の飲み屋だ。名前から分かる人もいるかも知れないが、マスターがフラメンコ好きなので、この名前になった。簡単にこの店の出来るまでの話を、お話ししたいと思う。マスターの加藤さんは、もともとタクシーの運転手をしていたらしいが、この店を開店させる前に、河原町のファッションビル「BAL」の横の路地を入ったところにある「ガウチョ」という店で働いていた。そのずっと前にボクもそこでバイトしていた事がある。高校生のころから出入りしていて、卒業してからバイトさせてもらっていた。「ガウチョ」は昼間が喫茶店で夜7時を過ぎるとスナックになる。東映の映画関係の人や大学の先生や大学生や色んな人が集っていた。この店で働いていた人たちが、後に店をだし、「ろくでなし」「あるまじろ」「ファルーカ」など同じようだが毛色の変わった店を生み出した元祖的な店だった。「ろくでなし」の横ちゃんと言うマスターはその道ではかなり有名な人で、ネットで検索しても出てくる人だ。この店については、改めて書いてみたいと思っている。その中でも、一番多く通ったのが「ファルーカ」だった。フラメンコのダンサーやギタリストも良く集まってきていた。個性的なメンバーが沢山集まる面白い店だった。ボクもその頃付き合っていた女の子とよくこの店に通った。その店に、今夜は飲みに行ってきた。25年もたつのに、店は殆ど変わっていない。客の顔ぶれも殆ど変わっていなかった。と言うことは、店も客も老齢化が進んでいると言うことなのだが、次々と世代交代していく店々のなかで、続いていてくれるのが嬉しい。ただただ昔と同じように馬鹿話をして、酒を飲むだけなのだけれど、そのひと時は、ある種の存在感を感じることが出来るのだ。そして次に「ガウチョ」にも寄ってみた。マスターは昔のままの姿でカウンターでひょうひょうと相槌をうち、ここも何も変わっていない。周りの店は殆ど入れ替わっているのだけれど、この店だけは、まるでタイムスリップしたかのように、そのままの姿でちゃんとそこに存在していた。30年前に初めてこの店に行って、バイトもした。その店で30年の月日がどう流れたのか、それは分からないが、このままで行けば100歳までも生きられるんじゃないかと思えるほど、時の流れがゆっくりと感じられた夜だった。当時はタクシーの運転手と知り合いになるぐらい通っていた。今日乗ったタクシーの中で、運転手さんと当時の話をしていて、やっと時の流れを感じた不思議な夜だった。
October 16, 2005
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芝居の仕事をしたあと、PAの仕事に就いた。PAと言うのは舞台やコンサート、ファッションショーの音響を設置調整する仕事だ。ファッションショーの仕事も好きだったし、お話ししたいこともいっぱい有るのだけれど、今回は、一番印象に残っていると言うか携わったことが、ホントに良かったと思える仕事についてお話ししたいと思う。天才少女、演歌の女王、彼女をたとえた呼び名は数々存在する。好き嫌いは別として、日本を代表する偉大な歌手であることは、紛れもない事実だ。魚屋さんのお嬢さんで終わる人ではなかった。美空ひばりは、戦後の歌謡史に名を残す程の歌唱力と人の感情を表現できる能力をもっていたんだと思う。機材を満載にしたトラックに乗って、京都会館の搬入口に着いた。朝から機材の設置とマイクのケーブルの準備で大変な1日が始まった。搬入口にトラックを止め、楽屋入口から劇場入りした。その時、学ランを着た青年が2人、入口の両側に仁王立ちしている姿があった。「おっす」と挨拶をされた。そんな経験は今までなかった。そして、楽屋口の通路には、迷彩色の洋服をきて編み上げのブーツを履いた青年が2mおきに直立していた。今までにない異様な雰囲気だった。これは「興行」なんだと感じた。芝居のバイトの時、「興行」を仕切っているのは、その筋の人たちだと言うことを知っていたので、他の人より驚きは少なかったのだけれど、その状況は、その認識を遙かに超えたものだった。念入りに設定を終え、リハーサルが始まった。ひばりさんは、本番と同じように衣装もつけステージに現れた。数曲の音合わせのリハーサルにもかかわらず。その歌声は本番のそれと変わらず、素晴らしい声量と迫力だった。「悲しい酒」では、リハーサルにもかかわらず、涙を流しながら歌っていた。仕事をしていると言うより、感動を貰っていると言う感じだった。照明担当の人の緊張も並大抵のもではなかった。ピンスポットを外して首になった照明マンがいたと言う噂があったからだ。みんなが緊張していた。まるでその緊張が最高のステージを作る力になっているかのようだ。そのオーラのような力が本当の大物のだす不思議な実力なのかもしれない。その時の緊張と感動は、その仕事をしてからしばらくは忘れていた。その事を思い出したのは今まで2度ある。それは、彼女が亡くなったという知らせをニュースで見たときと、彼女の歌をタイムドメインのスピーカーで聴いたときだ。邦楽を殆ど聴かなかった。しかし美空ひばりの歌を直に聴いたそのときから、演歌も聴くようになったし、雅楽や民謡さえも聴くようになった。本物の歌、本物の演奏を聴くことで、何かが変わったのかも知れない。そうその時、音楽についての感じ方や思いが変わったのだろう。彼女と同じ現場で仕事が出来たことを今では感謝している。偉大なものに接することで、自分の環境や考え方も変わると言うことを身をもって教わったような気がしてならない。4半世紀前のひばりさんは、ボクの目の前で確実に輝いていた。
October 16, 2005
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京都に「拾得」と言うライブハウスがある。その前身は1970年頃から「賁」として有ったようだ。「拾得」のWebサイトには、設立1973年となっているが、初めて「拾得」に連れて行ってもらったのが、確か中学に入る前の春休みだったと記憶しているから、71年の春だったと思う。その時はまだライブハウスと言う形態を取っておらず、バンド仲間が集まって、セッションしたりして楽しんでいた感じだった。酒蔵を改造したような建物は、初めて見たときも十分にボクを驚かせた。「拾得」へ連れて行ってもらう直前に、「ポパイ」と言うロック喫茶にも連れて行ってもらった事があるが、その時流れていたレッド・ツェッペリンの「移民の歌」は今でも強烈に覚えている。ボクが初めて訪れたときは、有山淳司さん(オムニバス/春一番ライブ’79)や後にウェストロード・ブルースバンドを作った永井隆さん(オムニバス/春一番ライブ’79)がいた。連れて行ってくれた従兄弟のお兄さん(ジミー・ペイジみたいな)がそう教えてくれた。その日も、いつものようにセッションが始まり、ブルースが延々と演奏された。しかし、途中で近所から通報があり、警察が注意しに店に来た。ボクは、まだ子どもだったので、厨房に隠れるようにいわれ、厨房から様子をうかがっていたのだった。今では、ライブハウスと言う呼び方は普通だが、当時はまだそんな和製英語は耳慣れない存在だった。サイトでもふれられているが、ライブハウスと呼ばれた最初の店だったと思う。店主のテリーさんは、その時はまだ若く、僕の目にはカッコイイ外人さんのイメージが強烈だった。色んなミュージシャンをそこで見、色んな演奏を耳にした。それは今思うと貴重な体験だったと思う。京都は、学生の街として若者独自の文化のようなものが存在した。ロック喫茶やジャズ喫茶、ライブハウス、その他、色んなものが生まれた街だったのだ。「拾得」で受けた印象は、ホントに強烈だった。何回か1人でも訪れたりしたが、いつも店の人は可愛がってくれたのを覚えている。しばらくして、病気で外出できなくなるのだが、音楽を聴くことの楽しさを味わったおかげで、寂しさを感じなかったのかも知れない。しかし、ボクの小遣いは全てレコードと言う塩化ビニールに姿を変えてしまった。そして、そのレコードたちは、今でもボクを楽しませてくれている。レコード店で持ち金を全部使ってしまい、帰りの電車賃もなくなったこと、傷ついたレコードをもらって帰り、自分で修復して聴いたよくわからない音楽、すべてがボクを楽しませてくれた。知り合いのギタリストが、この「拾得」で、披露宴をしたことがあった。親戚たちは驚きの表情を隠し得なかったようだが、ボクの記憶の中で輝いて残っている披露宴のひとつだ。おそらくそれは、自分の歴史の中に組み込まれたかのように、今でも鮮明に心の中心に残っている。つかず離れずではあるが、今でも音楽に関わっている事で、心地よさを感じる事が出来るのは、この時の楽しさが忘れられないからなのかも知れないと思うのだ。iTunes に入っている 18,179曲と数百枚のレコードは今でもボクの宝物だなのだ。
October 15, 2005
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iPod が発売されました。噂通りビデオ再生の出来るようになっています。iPod nano を購入しようと思っていたのに、また迷ってしまいます。iPod shuffle , iPod mini , iPod とフルラインで持っているので、必要性は全然ないのですが、どうもアップルらしい製品作りに、どうもはめられてしまっています。(^_-)-☆音楽関連の話が少ないので、今日は、昔PA(コンサートなどの音響係)の仕事をしていたときのエピソードをひとつ。iPod があればもっとスマートだったお話し。コンサートの仕事をしていると、コンサートホールの裏口から出入りするのが普通です。見たいアーティストが来日すると、公演先のホールに行き、裏口から入って、舞台の裾で見たり出来たのです。今は、セキュリティがしっかりしているので、そんな事は出来ないでしょうね。エリック・クラプトンが来日したとき。例に漏れずフェスティバルホールに見に行った。もちろん裏口から(^^ゞ(笑)リハーサルは客席で見ることができた。リハーサルの終わる寸前に楽屋から、ラジカセを持って現れた彼は、舞台のモニタースピーカーの近くに、そのラジカセを置いた。「さわるなよ」とスタッフに言い残して、控え室に戻る彼。本番が始まるまで、舞台の裾で待機。客電が落ちて、開場がざわつき出した。ボクの横をバックメンバーが通り過ぎていく。ドラム、ベース、ギター、キーボード、コーラス、そしてクラプトンが目の前30cmぐらいのところを通り抜けて舞台に上がった。今ほどの渋みはまだなかったものの、それでも十分カッコイイ。舞台の横側から見ていると、彼のおかしな行動に気が付いた。先ほどリハーサルの時に、舞台に持ち込んだラジカセのテープを入れ替えたのだ。片面が終わったテープを裏返しに入れ、録音ボタンを押した。なんと自分の演奏を舞台上で録音していたのだ。ギターの神様、「スローハンド」が、自分の演奏を自分で録っている、なんだかひどく人間くさく思えた。おそらく客先から見える彼の行動は、エフェクターをいじって入るぐらいにしか思えなかったと思う。そのカッコイイ仕草が、実はラジカセをいじっていたとは誰も思わなかっただろう。後で、関係者の人の噂で聞いた話によると、日本人のガールフレンドにカセットテープをプレゼントしたらしい。ホントかどうかは定かではないが、録音したことは事実だった、(^^ゞ(笑)
October 14, 2005
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続きものですので決死の捜索(上)からお読み下さると嬉しいです。しかしこちらは原付だ、あっちは最新の2サイクル250ccだ、普通では追いつくわけがない。前方には青信号があった。そこの信号! 赤になれ! 念じた。頼む信号よ、赤になってくれと強く念じた。信号は、黄色に変わり、そして赤になった。落ち着け!落ち着くんだ。そう自分に言い聞かせた。今度は、信号よ、まだ青に変わるんじゃないぞと思いながら、バイクに近づいていった。ナンバーを確認できる距離まで来た。間違いない、ボクのバイクだ。バイクの横まで行き、隣に並んだ。並んだと同時に腕を伸ばしてキーを抜き取った。「何すんねん!」バイク泥棒は、そうがなり立てた。「何ゆうてんねん! 泥棒が!」「これはオレのじゃ、お前のやっていう証拠でもあるのか」「自分のバイクぐらいわかる!」彼は、バイクを降りて逃げようとした。ボクはあわててバイクを支え、スタンドを出して、彼を追いかけた。彼はつまずいて転けそうになっていたので、直ぐに追いついた。腕を掴んで、言い争いはつづく。「おれと違う」「何が違うねん」「さっき友達からかりたんや」「その友達は、何処にいる?」かれは、指をさした。その時、ふと道路に置き去りのバイクの事が気になって、振り返った。その瞬間、彼は腕を振り払って走り出した。後を追ったがが、置き去りにしたバイクが気になり、追いかけるのをやめた。バイクのところまで走って戻った。一台ずつ歩道に移動させ、とりあえず2台のバイクを歩道に止めた。2台同時に運ぶことは出来ない。原付の方を、近所の民家にお願いして、しばらく預かってもらい、後でとりに行った。ものすごく疲れていた。バイクを貸してくれた友人に礼をいい、帰ろうとしたが、被害届を出したことを思い出した。このままこのバイクに乗っていたら、ボクが捕まってしまう。しかたなく、被害届を出した交番に事情を説明に行った。「今書類を本所の方に送るところです」「もう、いいです。自分で見つけましたから」「じゃ、受け取りの書類を書いてもらわないと」「また書くんですか?」「決まりだから」納得出来なかった。自分で見つけたものを自分で受け取るために自分で書類を書く?とにかく、早く帰りたかった。しかし書類を書いてる警官は、急ぐ様子もなく、いや、わざとのんびりと書いているように思えるくらい、だらだらしているように感じた。「バイクは壊されたりしてなかったですか?」そう聞かれた、はじめて気になった。書類を書いている途中だったが、表に飛び出して、街灯の下にバイクを移動させ、念入りにチェックした。燃料が殆どなくなっていた以外は、キズらしいキズもなかった。書類を書き終わったのは、夜中の1時を過ぎていた。「良く見つけたな」帰り際に警官にそう言われた。確かにそうだ。奇跡的な夜だった。一瞬一瞬がスローモーションのように思い出せる夜だった。
October 13, 2005
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とあるレコード店で働き始めた頃の話。ボクは買ったばかりのバイクで通勤していた。早番だったボクは、夕方に仕事が終わった。帰り支度を済ませ、店の前に置いておいたバイクにギーをさした。その時、電話が掛かってきたと店の子が教えてくれ、あわてて店に戻った。ほんの2,3分の事だった。バイクがない!しまった!鍵をさしたままだった。直ぐ側の道ばたで、靴修理の店を出しているおじさんに尋ねた。「ここにあった緑色のバイク見ませんでした?」「おぉ、見たぞ、若い兄ちゃんが押して行ったぞ」「どっちに行きましたか?」「あっちだ」「ありがと!」おじさんが指さした方に全速力で走った。ビルの間を抜け大通りに出た。舗道上の人通りをかき分け、車道に飛び出した。しかし、そこにそれらしいバイクの姿は見えなかった。とりあえず、近くの交番に被害届を出しに行った。「被害額はいくらぐらいですか?」「○○円です」「それは新車の値段ですよね、今の実売価格でお願いします」「その値段で買ったんです、まだローンも全然払ってないし」「すぐ探して貰えるんですか?」「まずは書類を送ってからですね」「いつですか?」「それは分からないな」そんなやり取りをしているうちに、だんだん苛立ってきた。こんなことしている間に、バイクは転倒して潰れているかも知れない、部品を取られているかも知れない、、、と頭の中に良くない想像が渦巻いた。結局書類を書くのに1時間以上掛かった。居ても立っても居られず、友達に電話して原付を貸してもらう事にした。何処を探そう? 借りたバイクにまたがり目をつぶって考えた。探すあてなど、はなからないのだ。バイク乗って行きそうなところを想像してみた。近くの山にバイク好きが集まる峠がある。まずはそこだ!そう思ってその峠を目指して原付を走らせた。とろとろと走り大きな交差点の信号で止まった。その時バリバリバリ!と目の前をボクのバイクが走り去っていった。ーやった! 見つけたぞ。やっぱりあの峠に行く気だ。国道から峠の方に入っていった。馬力のない原付で峠を登った。走って上った方が速いような気がした。峠坂を上る間、バイクや車には一台も出くわすことはなかった。展望台の駐車場には、たくさんのバイクが止めてあった。暗くなった駐車場は、確認しづらく、近くに寄って一台ずつチェックして回った。「あいつ何してるんや」そんな声が聞こえたがが、こちらはそれどころじゃない!全部のバイクを調べたが、その駐車場で見つけることは出来なかった。考えに考えた。もしココに上ってきたのだったら、後を追いかけても追いつくはずはない。この先の道は、ぐるっと回って街の方に繋がっている。逆戻りして待ち伏せするのもひとつの手だ。全ては仮定だった。その道を通ったと言う保障はない。しかし、そうとしか考えられない。来た道を逆戻りして、先ほどバイクを見かけた交差点を曲がり、大通りをとろとろと走った。ーここにやってこい! 絶対に自分で捕まえてやる!そう思いながら、まるでレーダーで周りを探査しているような緊張感でゆっくり走った。その時!向こうからバイクがやって来た、目の前でUターンをしたのだ。ボクのバイクだ! 第一発売されたばかりのバイクなので、同車種のバイク自体まだ少ないはずだ。ナンバーも確認した。 間違いない!つづく、、、。
October 12, 2005
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旅行に行くと必ず美術館や博物館に足を運ぶようにしている。特に外国では、常設で有名な絵画や彫刻などが展示されていて、その存在感を実感出来るからだ。メトロポリタン美術館や近代美術館など、ニューヨークにも美術館や博物館が数多くあります。メトロポリタン美術館前の階段に座りホットドックを食べるのも、映画のワンシーンみたいで好きなのだが、それは置いておいて。美術館に入ると有料で案内用のイヤホンセットを借りることができます。これを借りずに、チョット変わった手段で館内を案内してもらう方法が有るのをご存じでしょうか。それは、美術館側が用意してくれる案内ではなく、地元の小学校や中学校の課外授業の団体について回るという、せこい手段なのです。(^_^)必ずと言って良いぐらい、平日の美術館には、先生と生徒の20名ほどの団体が来ています。そう言う団体を見つけるとその後を付いて回るようにするわけです。その美術館の歴史的背景などを先生は喋ってくれます。そして必ず絵画を取り囲んでの課外授業が行われるのです。先ずひとつの絵画について、先生が生徒たちに、それぞれの感想や意見を求めます。生徒たちはそれぞれに感想を述べ、その後それぞれの感想についてディスカッションをするのです。誰々さんの意見も分かるのですが、ボクはそれについてはこう思うとか、同じ意見の人に何故そう思ったのか等の質問を投げかけたりするのです。中学生ぐらいになると、会話の内容がかなり高度になり、完璧に理解するのは難しくなりますが、小学生の団体だと、なんとか話の内容について行けるのです。そして、その内容が、結構奇抜な意見などが飛び交って、面白いのです。絵画の勉強だけでなく、人の意見をしっかりと聞き、それに対して自分の意見を相手に投げかける、と言う授業内容、そしていつも感心するのは、しっかり相手の意見を尊重して、なおかつ自分の意見もハッキリ言えていると言うことです。美術館や博物館の風変わりな案内役を見つけてみましょう。変な奴に思われないように、態度はあくまで自然に優雅に(^_^)そして、忘れてはならないのは、美術館で食べたサンドウィッチ。ベーコンとトマト、ハム&チーズ 美味しかった! パンは「wheat」にしましょうね。自分の好きなものを何でも挟んで貰えるので、じっくり選んで頼むのがコツ。大きい美術館は、1日がかりなので、お昼ご飯も大切な要素です。ですが、時折、本末転倒気味になったりするのです。
October 11, 2005
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川端康成原作の映画と言うより、山口百恵の最後の映画と言った方が、思い出す方が多いかも知れない。東宝映画は、プロモーションに力を入れていた。映画館もそれぞれに企画をして、ロードショウを盛り上げようと、色んなアイデアを出し合った。ボクがバイトしていた映画館もその例に漏れず、入口にディスプレイをして盛り上がりを演出することになっていた。「古都」と言う映画のタイトルと同じ銘柄のお酒を出している酒蔵とのタイアップが決まっていた。映画館の入り口に「古都」のタルを積み上げて飾り付けをし、川端康成と「古都」と言う内容で、立て看板に「古都」にまつわる記事を掲載する、と言う企画だった。仕事が終わる少し前に、ボクは支配人に呼ばれた。「この書類を○○酒造の△△さんに持っていってくれるかな、そのまま帰っていいから」「はい、、分かりました」そのまま帰られるということが嬉しくて、気持ちよく了解した。酒造会社の事務所を訪ね、係の人に書類を渡した。彼は、渋い顔をして、しばらく書類を見つめ「これじゃ、だめだ、前にも支配人に言ってあったのにな」何のことか分からず、ボクは返事に困った。「君は大学生なの?」「まぁ」「文系か?」「一応そうです」「もう時間がないから、君そっちの部屋で、考えてくれ」「えっ? ボクがですか?」文系と言っても、文学部じゃないし、第一突然そんなことを言われても、何をどういう風に書けばいいのかも分からない。「そもそも、これはどういう趣旨で、何をアピールすればいいんですか?」この質問がいけなかった、やるきが有ると思われてしまったようだ。一通り説明を受けて、資料になるような本を数冊渡された。「出来たら、内線で呼んでくれればいいから・・・」そう言って、係の人は部屋を出て行った。川端康成について書かれた文献や小説「古都」の本や、その小説の解説の様な文献や京都の文化財や文化について書かれた本、をパラパラめくりながら、自分なりに文章を書いてみた。そして、やっとの思いで指定された文字数になるように、なんとか書き上げた。「出来ました」内線で係の人にそう伝えた。「チョット待っててくれるか、直ぐ行くから」そう言われたが、30分ほど待たされた。彼は慌ただしそうに部屋に入ってきて、ボクが書いた原稿を読んだ。「う~ん、何か違うな、、悪いけど書き直してくれるかな」「どう違うんですか? それを言ってもらわないと書けませんよ」「それは、自分で考えてよ」「・・・・・」「頼むで!」そう言いながら部屋を飛び出していった。ボクはまた部屋にひとり残された。何をどう書き直せばいいんだろう。仕方ないので、もう一度、文献を読み直してみた。川端康成の「古都」自体はまだ読んでいなかったのだけど、舞台の北山と双子の姉妹の話を読み進むうちに、何だか読みふけってしまい。とうとう全部読んでしまった。時計を見ると、もう10時を過ぎていた。その間一度も様子を見に来てはくれなかったわけだ。しかし、うだうだ言っていても始まらないので、はじめから書き直してみた。そして、係の人を呼んで、見てもらった。「ん~、さっきより良いけど、後半がまとまり悪いな。もうちょっと直してみてくれるか」「そうですか、でも・・・」ボクの話を聞くこともなく、彼は部屋を出て行った。1時間ほどかけて、何とか書き直した。傑作が出来たとおもった。今度は、OKが出ると思ったが、「何か、インパクトのある言葉がひとつ欲しいな」「それが出来たら、帰っていいから」そう言われたとき、何だか我に返ったように、なんでボクがこんな仕事をしてるのか疑問が湧いてきた。しかし、ココまでやったら、何とか完成させないとと言う意地もあった。インパクトの有る言葉と言っても、コピーライターでもないわけだし、そう簡単に見つかるわけがない。しかたなく机の上の辞書を引っ張り出して、パラパラとめくりながら言葉を探した。どんな言葉を見つけたのかは、もう思い出せないけれど、辞書の中から、ぴったりの言葉を見つけ出した。「これ、いいやん、やっぱり文化系やな」だから、それは関係ないって、、、と思いながらも、喜んでくれたことは、素直に嬉しかった。「お疲れさん!」「お疲れさまでした!」そしてもう夜中の1時を過ぎた街に飛び出していった。最終電車を逃してしまったので、いつもの店で朝まで飲んだ。心地よい興奮のために、眠気も酔いも感じなかった。ロードショウが始まった時、入口のディスプレイには、企画通り酒樽が積み上げられ「古都」についての、文章がお寺の説明文のように掲示されていた。殆ど読んでくれる人はいなかったけれど、仕事でその前を通る時は、なんだか密かに嬉しかった。そして、山口百恵引退の映画は、ボクの心に色んな意味で焼き付いたのだった。
October 10, 2005
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ニューヨークでの交通手段はタクシーと地下鉄だ。夜の地下鉄は危ない感じが否めないので、夜中の移動は殆どタクシーを使う。所謂イエローキャブだ。イエローキャブの運転手は、外国人が多い。もちろん地元の人もいるにいるのだが、どうも日本人の目から見ると外国人の方が見た目で目立つ分、そう思うのかも知れない。ひとしきり遊んで、夜のバッテリーパーク(自由の女神が見える公園)から、ホテルに帰るためにイエローキャブを止めた。乗り込んで宿泊しているホテルのある通り名を告げる。「ところで、あんたら音楽はすきか?」車を発進させるとすぐに、運転手はそう聞いてきた。「音楽、好きですよ」そう言うと、大音量でロックがなり出した」「どんな音楽が好きなんだ」「ロックやジャズ、などなど」「そうか、最高だな、ラップはどう思う?」キツイ口調でそう聞いてきた。「オレは、あんなもんは認めん」「そうなんですか?」「ありゃ、音楽とちがう」「第一、下品だ、なぁ、そうだろ」一概にはそうとは言い切れないと思ったけれどそんな微妙なやり取りを英語でするのは大変だ。「・・・そうですね。」「だろう、やっぱり音楽はこうでなくちゃな」そういって、またボリュームを上げた。リヤーウィンドウの下には、家庭用のステレオスピーカーが取り付けられており、車内に音が充満した。車で20分ぐらいの移動だったので、4,5曲は聴かされたと思う。運転手は上機嫌で、代金も端数は切り下げておまけしてくれた。「ニューヨーク、音楽は最高だよ」次に乗ったのは、ターバンを巻いたインド人のイエローキャブだった。流ちょうな英語を喋るのだけど、道が分からないという。「1週間まえにここに来たんですよ、この仕事は昨日からなので、道を教えて貰えますか?」タクシーに乗っているのに、道案内をしなきゃいけないなんて。行き先をハッキリ言えなかったので、一旦車を停めてもらい、地図で確認しなければならなかった。そして、料金の端数はまたもや、まけてもらった。普通ならチップを上げなきゃならない方なのに、なぜかいつもまけてもらっているのが不思議だ。次に乗ったイエローキャブは、アメリカ人の運転手だった。街角のソニーの看板をみて、「ソニーはいい会社だ。アメリカの誇りだ」「でも、ソニーは日本の会社ですよ」「そんなことないだろう!そんなはずはない・・・じゃ、あれはどうだ、いい会社だ」「東芝ですか?」「そうだ、アメリカの誇りだ」「あれも日本の会社ですよ」運転手は、意地になってきたみたいだった。「じゃ、あれはどうだ、あの会社は誰がなんと言おうとアメリカの誇りだ。」看板をみたら「HITACH」と書いてあった。「すみません、残念ながらあれも日本の会社です」料金を払ったら、当たり前だと言わんばかりに、つりはくれなかった。この曖昧な認識には、面食らった。しかし、アメリカ人にそう思わせるような何かが有るのだろう。ユダヤ商法が世界にはびこるのとは、別のやり方で、周到に世界の消費社会に浸透していった日本の会社のやりかたをかいま見た気がした。ニューヨークのイエローキャブは面白い、運転手は気取らず陽気で、会話してみると親近感が持てる。そしてあらゆる人種、あらゆる状況の人がいるのだ。ニューヨークの旅の楽しみのひとつとなった。ただしみんながみんなそう言う運転手じゃないということも忘れないで欲しい。(^_^)
October 9, 2005
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その夜、友人から電話でツインタワーが大変なことになっていると聞いて、テレビをつけた。そこには白煙をあげるツインタワーの映像が映し出された。そしてもう一機の旅客機が追突した。2001年9月11日の米国同時多発テロ事件が起こり、この2つのビルは一瞬のうちに崩壊した。この出来事が人々に与えた影響は計り知れないものがある。崩れ落ちた瞬間にそのビルに居た人々の事を、全く知らない人々の事を思い、震撼とした痛みを感じた。3回訪れたニューヨーク、3回ともWTCに上った。同行する人たちが違ったので、案内役のように名所を回ったのだ。2回目の時に、前日WTCの地下で爆破事件が起こり、地下街は閉鎖されていた。始めていったときは、ジョン・F・ケネディ空港で発砲事件があった。きな臭い事件に出くわすことが多かったNYへの旅だった。もともと高いところは苦手なのだけれど、あれほど高いと逆に高さを意識しない。下を見下ろすと車はミニカーより小さく見え、人は点にしか見えない。展望台の透明な床の上に立つと、何とも言えない浮遊間を感じるだけなのだ。色んな人種が各地から集まってきて、そのビルの展望台を行き来する。ずり落ちそうなぐらいに腰でジーンズをはく少年を初めて見た場所。今まで見た中で一番小さな自由の女神。気持ち悪くなりそうなぐらい長くて速いエレベーター。階段で下りたら何分ぐらいかかるんだろうと気が遠くなった超高層ビル。そんなことを思い出しながら、テレビの画面の中で崩れ落ちるビルを見た。見ているその瞬間、ホントにニューヨークでツインタワーのは崩れているんだ。その同時性に震撼した。崩れ落ちるまでの間、あの上に居た人は、あの高さを実感していたはずだ。折角したまで降りたのに、その瞬間に崩れてきたビルに飲み込まれた人もいただろう。頭の中には、色んな想いがぐるぐると音を立てて回った。自分があのビルに何回も上っていなかったら、また違った思いで崩れゆくビルを見ていたかもしれない。しかし、あの上に自分は居たことがある。そう思うとその恐怖はふくれあがった。阪神・淡路大震災で崩れ落ちた家々を見て涙した時とは、また別の、何とも言えない感情、怒りの混じった複雑な思いだった。忘れられない出来事が数多くある。ボクが生きている間にどれほどの忘れられない出来事が起こるのだろう。そしてそこには計り知れない掲示が存在しているような気がしてならない。それらは、忘れられないことではなく、忘れてはいけないことなのだろう。
October 8, 2005
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ニューヨークの楽しみのひとつにライブがある。訪れるたびにライブハウス巡りをした。次々と老舗ライブハウスが閉鎖されいるので、訪れておいて良かったと思う。いつもニューヨークに着くと情報誌を街角のスタンドで購入し、ホテルでくまなく読むようにしていた。滞在中に開催されているライブやイベントをチェックするためだ。この時のメインミュージシャンは、今手元に当時の資料がないので定かではないのだが、たしかソニー・ロリンズだったと思う。ライブが始まるのは、10時からだったので、その近くで夕ご飯を食べようと、ぶらぶらと適当な店を探した。しかし、なかなか決まらず結局ボトムラインの斜め前にあるヘルシー系のレストランに入った。玄米のピラフや野菜たっぷり焼きそば等、ヘルシー系を注文する。しかし、出てきた料理をみてビックリ、確かにヘルシーなのだけど量が半端じゃなく多い。山盛りの料理に圧倒された。品数をそんなに頼まなかったにもかかわらず、食べるのに苦労するほどの量だ。そして甘いものに目がないボクは、チョコレートケーキを注文した。興味深かったのはそのケーキの名前だ。「ミシシッピー・マッド・ケーキ」ミシシッピーの泥ケーキと名付けられたそのケーキは、チョコレートベースのスポンジケーキにごてごてとチョコレートでコーティングされたまさに泥のようなケーキだった。そして泥の味がしたとは言わないが、舌触りはまるで泥のようだった。解けきってないグラニュー糖がざらざらと砂利のように舌を刺激し、その上強烈に甘い。どこがヘルシーレストランだ~~~ぁ!胃がもたれそうな食事を済ませ、ボトムラインの入場の列に並ぶ、無事に当日券を購入して店内に入った。店内はステージの前にずらっと並ぶ丸テーブルがあり、その後ろは立って見ることが出来るようになっていた。入口から続くカウンターは、バーになっていてお酒を飲みながらライブを見ることが出来るようだ。ボクは早速ジャックダニエルズのロックを注文して、そのままカウンターにもたれながら、ちびちびとグラスをすすり、ライブに聴き入った。人がいっぱいで、もう元の席には戻れなかったからだ。しばらくするとボクの前に2人組の男が割り込んできた。そして2人は寄り添いながら、首筋にキスし有ったり、うなじをさすり有ったりと、なんだか目障りになってきた。男女のカップルだったらまだしも、目の前で毛むくじゃらな男がじゃれ合っているのは、気分のいいものではないのだ。なんと言って注意をしたらいいのか分からず、煩わしい気持ちのまま、なるべく前を気にしないようにして演奏を聴いていた。ボクの横には、如何にもニューヨーカーといった装いのおしゃれなカップルが並んで見ていた。ボクがファッションショーの企画者だったら絶対にモデルに使うぞと思えるほどカッコイイ男性だ。なんで男の方なのだと言う突っ込みはしないでください、女性の方はボクの位置からは、ちゃんと見えなかったからです。(^_^)ボクが嫌そうな顔をしていたのが分かったのか、そのカッコイイ男性が、前にいた男たちに注意をしてくれた。その仕草がまたカッコイイのだ。人に意見をする仕方がこんなにも様になっている人を今まで見たことがないと言わせるぐらい、自然に、しかも強制力のある注意の仕方だった。ボクはそのカッコイイ男性に礼をいいその男性はにこっと笑顔で返した。ステージの休憩中に3杯目のバーボンを飲みながら、隣の男性にさっきのお礼をもう一度丁寧にした。一緒にいた女性がすごくゴージャスだった。これほどマンハッタンの夜景が似合う女はいないんじゃないかと思うほどだ。折角だと思い、その男性に「この辺りで、お薦めの場所や店はありますか?」と質問してみた。こんなにカッコイイ人だったら、きっと、とびきりお洒落な場所や店を教えてくれるんじゃないかと思ったからだ。何カ所か教えてくれたのだけれど、メモも持っていなかったので、聞くだけでは殆ど覚えてられない。と言うよりも、ざわざわしたと店内で、ぼそぼそと早口で喋る彼の言葉は殆ど聞き取れない程だった。殆ど雰囲気で返事をしていた。後半は、変な男のカップルもいなくなり、ゆっくりとライブを楽しむことが出来た。ライブが終わって出口に人混みが移動するのを待っているボクの目に、ボトムラインのロゴがプリントされたTシャツが目にとまった。「そのTシャツが欲しいんだけど、値段はいくらですか?」と側にいるスタッフジャケットを着た人にきいた。「あれは売りもんじゃないんだ」「どうしても欲しいので、売って貰えませんか?」「・・・マネージャーに聞いてみるから、ちょっとココで待っててもらえるかな」そう言って彼は店の奥へと歩き去った。10分ぐらい待たされた。客はもう殆ど店から出ていき店内はがらんとしていた。口ひげを生やした男性が先ほどのスタッフと一緒にボクのところに来たので、もう一度売って欲しいと頼んだ。「これは売りもんじゃないんだけどな、そんなに言うなら売って上げてもいいよ、何枚欲しいんだ?」「3枚でもいいですか?」「オーケー」1着10ドルだと言うので、30ドルを渡した。お礼を言って店を出た。その後、そのTシャツは販売されるようになったみたいだが、その時点では非売品だったので、ボクはひとり満足だった。外に出ると、時間はもう夜中の1時を過ぎていた。ニューヨークのライブハウスを十分に堪能した夜だった。
October 7, 2005
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グリニッジ・ビレッジは、無名のバンドが普通のバーで演奏していたり、ギターの弾き語りだけしているカフェがあったりと、長い夜を楽しむのには絶好の場所だ。食事を取ってからが、大人の時間だ。ライブ自体も9時か10時にならないと始まらないので、ゆっくり食事をしてから、出掛けても間に合うようになっている。その夜はどことは決めずに行き当たりバッタリで、良さそうな店を適当に選んで入ってみることにした。最初に入った店は、アンティークな感じの広めの店だった。もうすでにバンド演奏は始まっていた。サザンロック系の泥臭いロックだ。店の雰囲気といい、バンドの演奏といい、何だか南部に来たような雰囲気だった。銘柄は忘れたが地元のビールだと思われるような名前のビールを瓶で頼んで飲みながら、バンド演奏をたのしんだ。次に入った店は、ブルースバンドの演奏が渋くて、2バンドを聴いた。後のバンドは、結構な年のおじさんバンドだったが、スローなブルースに泣きのギターがなかなかマッチしていて、アメリカの音楽層の厚さを感じていた。バーボンが古い感じのカットグラスに注がれて、店の中を行き交っていた。ウェイターにお金を渡し、グラスを受け取りぐいっと一口飲む。安物だけど香りの高いバーボンが喉を刺激する。そしてバスドラの音が下腹部を鈍く押すように響いていた。店の客達は、話に興じたり、演奏を聴いたり、黙って酒を飲んだりと、それぞれが自由に楽しんでいる感じだ。居心地が良かったので、この店では、かなり長居をした。店を出て夜中のウェスト・ビレッジの街を歩いて大通りまでタクシーを拾うつもりだったが、ちょっと飲み過ぎたせいか、コーヒーを飲もうと言うことになった。と言うよりもう少しこの街に居たかったのかも知れない。ギターの弾き語りが店から聞こえてきたので、どうせならライブを聴きながらコーヒーでもと思い、店の人に、「コーヒーだけでもいいですか?」と訊ねる。「いいよ、どうぞどうぞ!」と背中を押される。店の中に入ると、若い男性が歌い終わったところだった。ボクたちはコーヒーを注文して、ステージからいちばん近いテーブルに座った。コーヒーが出てくると同時に。若い女性シンガーがギターを抱えてステージに立った。ステージと言ってもフロアーの続きなのだ。最初の歌が始まったジョニ・ミッチェルの「青春の光と影」だった。アレンジが少し違っていたがなかなかセンスのいいアレンジで聴かせてくれた。2曲連続で歌ったあと少しMCが入る。これから歌う歌を作ったときの話をしていた。話しながら、こちらの方をチラチラ見ているなっと思っていると、「そこの3人さん、旅行で来られたんですか?」どうもボクたちに話しかけているようだ。「そうです」話しかけられるとは思わなかったので、ちょっとドギマギした。「どこから来たの?」「日本からです」「めずらしいね」「そうなんですか?」「観光の人は、この店にはあまり来ないからね、楽しんでいってね」「ありがとう!」さっきオリジナルだと言っていた歌が始まった。メロディラインはスザンヌ・ヴェガっぽい爽やかな歌だった。それから数曲連続で歌って彼女の演奏は終わった。次に出てきたのは、ドブロギターを持った暗そうな青年だった。ブルースっぽい曲だが、演奏が下手であんまり聴く気にならなかったので、みんなで話を始めた。その時、入口から目つきの悪るい3人が入ってきた。その場で少し立ち止まり、店の中をぐるっと見渡し、店の奥へと入っていた。「あいつら何かやばそうだし、もう出ようか」「そう? どうヤバイの?」そう聞き返されたけど、ボクは立ち上がって、早く出ようと促した。店からでると通りの向かい側に、くだものを売ってる店が開いていたので、朝食用にとグレープフルーツとリンゴを買った。店員は、めんどくさそうに袋に詰めてくれ、お金を渡すと袋を差し出した。その時、さっき居た店の方から銃声が三発響いた。「隠れて」そう言って店員は店の中に入っていった。ボクたちは、店の棚の後ろに隠れて店の方を見つめた。動くと危なそうだったので、しばらくその場で身を隠していた。「きっとさっきの奴らやね、危なそうやったしね」「なんで分かったん?」「外人でも危ない奴は目つきが違うって」「そうか」その時、パトカーがけたたましいサイレンを鳴らして店の前に止まった。3人の警官がピストルを構えて店の中に入っていった。静まりかえった通りにはパトカーのランプだけが赤々と輝いていた。もう大丈夫だと思いさっきの店とは反対の方向に歩き出した。少し歩くと大きな通りが有ったはずなのだ、そこでタクシーを拾おうと思った。グリニッジ・ビレッジの夜は、まさしくアメリカだった。映画よりも強烈にボクたちの脳裏に刻まれた。イエローキャブを止めて、果物の入った袋を強く抱えて車に乗った。
October 6, 2005
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それぞれやりたいことトライしようと言うことで、セントラルパークで自転車に乗ることになった。まずは形からと、スポーツ用品店により、スポーツウェアを買うことにした。みんなそれぞれ好みのモノを選んで購入。ボクは、ウィンドブレーカーっぽい紫の上着を買った。みんな店で着替えた。やる気満々で、いざセントラルパークへ。本で調べて公園内にレンタサイクルが有ることは分かっているのだけれど、なにしろ広い公園なので直ぐには見つからない。みんなで、ぞろぞろぞろぞろと歩きながら探した。樹木が生い茂っているので見通しが悪く、遠くを見渡せる場所がないのだ。仕方なく、散歩をしている男性に尋ねてみることにした。「池の反対側にあるよ」と教えてもらい、教えられた通り池沿いに歩いた。池沿いの道から降りていくと、「あった!」色んな種類の自転車が、整然と並べてあった。自転車の種類によって値段が違うので、それぞれ好きなのを選ぶことに、しかし悲しいかな日本人、みんなそろって安いのを選んでいた。しかし解せない。なぜにこんなに大きな公園のど真ん中にレンタサイクルがあるんだ? 普通なら公園の入口付近に有っても良さそうなのだ。まぁ、考えられるのは盗難に合いにくいのかもしれないと言うことだだけだ。真夜中にこんなところまで自転車を盗みに来る危険を冒す奴もいないだろう。さあみんなで、公園の外周をサイクリングだ!ローラーブレードで滑走するおねえさん、専用のベビーバギーで赤ちゃんと一緒に走るレオタード姿のおかあさん、派手な色のマウンテンバイクで追い越していくおにいさん、いや~まさにアメリカですねっ!て感じで風を切りながら公園の小径ををみんなで走った。気分はまさにニューヨーカーだ。こんなに安上がりなニューヨーカー気分もあったかと思いながら、走った、そしてまた、走った。セントラルパークは広い。自転車で3分の2ぐらい回ったところで売店が出ていた。自転車を脇に止めてジュースを飲んだ。木漏れ日の下で飲むジュースが不思議と爽やかに感じられた。しばらく休憩をして残りの3分の1をゆっくりと走った。自転車を返して、ぶらぶらとセントラルパークを横切るように西に向かった。ジョン・レノンが凶弾に倒れたダコダ・ハウスが見えていた。セントラルパークの西、ダコダ・ハウスの前当たりに、ストロベリーフィールドがある。円形の祈念碑の周りに囲むようにベンチ並んでいる。それは、平和を愛したジョンの祈念碑だ。中央にイマジンと書かれた文字が、活動を開始したばかりで命を絶たれた無念をボクに語りかけているようだった。ベンチにはあご髭を生やした初老の紳士が座って新聞を読んでいる。その隣には彼の座高ほどもある大きな犬がおとなしく座っていた。まるでイマジンの文字を見つめているように。僕たちはそれぞれにベンチに腰掛けた。彼が亡くなった12月8日はもうすぐだ。その頃にはきっとここに多くの人が集まることだろう。そしてボクは同じ12月8日に亡くなった知り合いのことを思い出していた。Imagine there's no heaven,It's easy if you try,No hell below us,Above us only sky,Imagine all the peopleliving for today...Imagine there's no countries,It isnt hard to do,Nothing to kill or die for,No religion too,Imagine all the peopleliving life in peace...Imagine no possesions,I wonder if you can,No need for greed or hunger,A brotherhood of man,Imagine all the peopleSharing all the world...You may say Im a dreamer,but Im not the only one,I hope some day you'll join us,And the world will live as one.words by John Lennon
October 5, 2005
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ニューヨークへは、合計3回旅をした。二回は例によって会社の慰安旅行兼視察名目の旅だ。そしてあと一回は、気の合う友達との旅だった。始めていったのは、12月の初旬だったので、マンハッタン・ブリッジを渡るときのマンハッタンの夜景が目に染みいるような鮮やかさで、瞬きするとシャッターを切ったように脳裏に刻まれていく音がするほどわくわくしたのを思い出す。親しい友と行く旅は楽しいものだ。行くメンバーにもよるのだが、この時のメンバーは個性的で楽しめる要素は濃厚だった。会社の同僚といつも行く喫茶店のマスターと漫画家の竜巻さんとそのダンス仲間の女性、男3人女4人の気ままな旅だった。もっとも竜巻さんたちは、ブロードウェイのダンスレッスンを受ける事になっていたので、一緒の行動は少なかった。普段はオプショナルツアーに参加したことは無いのだけれど、今回は、女性の方が多く、かつハーレムを回ると言うことと、土地柄問題が起こりやすいだろうという判断から、「ゴスペルツアー」を申し込んだ。しかし、担当の人の話では、そのツアー自体まだ誰も利用したお客さんはいないらしい。「いちご白書」の舞台となったコロンビア大学の横を通り、ミニバンに乗った僕たちは、ハーレムへと入っていった。セント・マーティンズ教会やアポロシアターを見て、ゴスペル礼拝の行われる教会に到着した。しかし、添乗員の方が、教会に入っていってなかなか戻ってこない。その間、車の中から街を眺めていた。大きなチェーンを肩にかけて自転車に乗って通り過ぎる若者、バスに掴まりながら走り去る自転車の少年、午前中なのに茶色の紙袋にバーボンを入れて飲みながら歩くおじさん。まるで映画のワンシーンの様な風景だ。添乗員の人が疲れた表情で車に戻ってきた。「すみません、今日の礼拝は中止になったそうですので、別の教会を紹介してもらいました。ここより小さいですが、家族的でいい雰囲気の教会らしいです」「・・・らしいです?」こういうハプニングも、団体なら怖くないのだ。数分走って教会に到着した。外から見ると只のビルだった。中の雰囲気はどうなんだろうと、すこし不安に思いながら白いドアから中に入った。まずは、別室に通され午前の礼拝が始まるのを待った。いろいろと説明を受け、アメリカにしては天井の低い部屋でしばらく待機した。ロングドレスの黒人女性が、礼拝堂へと案内してくれた。礼拝堂は、乳白色系の壁で明るい雰囲気だった。牧師さんが、講話のようなお話しを少ししたあと賛美歌が歌われた。そのあと、歌詞カードのようなリーフレットが配られ、それに載っている歌をみんなで合唱した。知っている曲も有った。いっしょに歌っているとなんだか高揚してくるのを感じた。この高揚と一体感と感謝で、アメリカが団結しているんじゃないかと思えるほどだった。最後の歌がリフレインされ、みんなが抱き合って退室していくのだけれど、その順番というか流れというか、人がうねりが気流を起こしているかの様な不思議な感覚と共に人々が礼拝堂から少しずつ外に流れていった。肌の色が違っても人間の距離が縮まったような気になったのは事実だ。昼から洗礼式があるらしく、特別に見学をさせて貰えることになった。洗礼室の隣の赤絨毯の部屋へ通された。この部屋も天井が低い。最後の晩餐のテーブルのような長いテーブルにみんなは囲むように席につき、パンとワインをご馳走になった。こういう場所に来ると、自然と厳かな気持ちになるから不思議だ。洗礼式は30分ほどで終わった。映画やTVでは何度か見たことがあったが、最初から最後までを見たのはこの時がはじめてだった。父方の実家が寺と言うこともあり仏教の儀式に接することは多かったので、その違いもいろいろと感じる事ができた。「良く来てくださいました、感謝します」とみんなに見送られ、温かい気持ちで教会を後にした。ところが、表に出たとたん状況は一変したのだ。僕たちの乗ってきたミニバンの前後にぴったりと他の車が駐車してあったのだ。添乗員さんは、教会に戻って状況を説明しに行ったようだった。ボクたちは車の中で待った。まわりを見渡すとさっきより目つきのわるいおじさん達が、それぞれ酒の瓶を袋に入れて、ラッパ飲みしてる。あるものは街灯にもたれながら、またあるものは消火栓に腰掛けて。しばらくして添乗員の人が車に飛び乗った。「みなさん、強行突破しますので、外は見ないようにしてください!」まるで、ソドムトゴモラだ!「強行突破?」添乗員さんは、緊張した面持ちでイグニションキーを回した。車を前進させて前の車にぶつけた、そしてバックして後ろの車にぶつけた。それぞれの車は少し移動したようだ。しかしその音に反応したかのように、まわりにいた酒をもったおじさんたちは一斉にこちらを向いた。のそのそと歩よっくるものもいた。「みなさん、シートにしっかり掴まっていてください!」添乗員さんはそう言うと、前後の車にぶつける行為を2回ほど繰り返した。さっきより勢いはよかった。周りの店からも、何事だといわんばかりに、怪訝な顔をしてでてくる人たちがいた。「行きますよ!」ミニバンはタイヤをならして発信した。奇声をあげて追いかけてくる人がいた。まるで映画だ。これからカーチェイスでも始まるんじゃないかと思えたほどだった。「大丈夫なんですか、あんなことして」「教会の人が、車を押しのけて出てください」そう言われたらしい。映画の世界は現実を切り取ったモノだったのだ。おそらく一番ドキドキしていたのは、添乗員さんだったと思う。こちらで暮らしている人は、その危険度を知っているからだ。そのあと、ソールフードを食べに行く予定だったのだけれど、添乗員さんは完全にその予定をとばしてしまった。早くハーレムから脱出したかったんだと思う。セントラルパークの近くまで来てから、忘れていたことをみんなに告げ、謝罪をされた。みんなも少々興奮していたのもあって、そのことは気になってないようだった。その後、ブロンクス動物園に行こうと思っていたボクは、みんなにそのことを言い出せなかった。もう一度ハーレムを通らなきゃ行けないからだ。
October 4, 2005
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映画を見たいと言う気持ちだけで、映画館でバイトを始めた。半年ほどして大学に行くまでは、バイトの時間以外は映画を見てすごした。大学に行くようになってからは、平日1日と土日の週3日のバイトだ。平日の午後は5時から11時まで別のバイトをしていた。なので映画を見るのは、映画のバイトの日の仕事が終わってからになるのだけれど、土曜日などはオールナイトが有るので、それもフル活用して映画を見るわけだ。映画館には、業務視察証というモノが置いてあって、これを一回10円で借りることが出来た。この券を映画館の入場の時に見せると、映画が無料で見ることが出来るのだ。ただし新作1週間の間と、日祝は、原則としてその券を使うことが出来ない。しかし毎週3回も映画館通いをすると、顔も名前も覚えられる程になって、入れて貰えるようになっていた。映画をみるにも体力がいる。じっとしているだけだと思うかも知れないが、オールナイトで4本立てだとかなり疲れる。映画をみるのは、いつも最終回なのだが、その時間は俳優さんが良く見に来ていて面白い。昔の京都には撮影所が有ったせいで、役者が沢山集まってたからだ。ある時など、エレベーターで大門正明さんと一緒になり、ロビーに上がると、大谷直子さん真田広之さん志保美悦子さん、などなど総勢20人程の俳優さんがそろっていて、圧倒された。他の客は、いたのかどうか覚えてないが、そんな中で映画を見ていると、撮影所でラッシュを見ている気持ちになってきて、妙な気分だった。映画館で働いていると、なぜか役者さんをよく見かける。映画を見に来る場合もあるし、街で出くわすことも多い。普段の顔を見慣れると気づきやすくなると言うのもあるかも知れないけれど、レコード店で働いている時は、ミュージシャンによく出会ったし、それだけでもないようだ。そうそう、真田広之さんで思い出した。黒の野球キャップをかぶりサングラスをかけ、白いマスクをした真田さんが映画を見に来たことがあった。その恰好がとても奇妙で、すぐ真田さんだとわかった。そして、その直ぐ後で、sさんが、全く同じ恰好をして有られた時には、吹き出して笑いそうになったことがある。かえって目立ってますよと忠告してあげたくなった。(^_^)梨本さんより先に、誰と誰がデートしてるとか、付き合ってるとか知っていたかも知れない。そのころ梨本さんってもういたかな?今までに見た映画って何本ぐらいなのだろう?2000以上は見ていると思うのだけれど、よくもそんなに沢山の映画を見る時間があったものだと、我ながら感心してしまう。しかし、一生懸命なにかに没頭しているときは、いつも楽しかった。楽しいことを探しているのが人生の目的なのかと思うぐらいだ。
October 3, 2005
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昨日は、奥さんの誕生日だった。その前日に宇治にある「伊藤久右衛門」に抹茶系スウィーツを食べに出掛ける。3歳の子供の彼女とそのお母さんと家の子と奥さんとボクの5人で出掛けた。我が息子は3歳にしてなんと彼女がいるのだ。遺伝だとよく言われる。(^_^)以前からこの店は我が家のお気に入りの店だ。抹茶パフェとワラビ餅のセットを注文し、子供と分け合って食べた。子供はバニラアイスと生クリームだけを食べて、後は拒否した。まぁ、3歳の子に抹茶の味は受け入れがたいでしょうね。ワラビ餅もいらないと言ってくれたので、ボクの食べる分は十分確保されたワケです。(^_-)-☆実はこのワラビ餅が大好きで、これさえ有れば良かったのでラッキーでした。そして、翌日が奥さんの誕生日なので、誕生日ケーキに「パパジョーンズの抹茶チーズケーキ」とそのた諸々を購入。一度食べてみたかったのですが、なんせ大きさの割に値段がモノで、今まで手が出なかったのです。こんな機会でもないとなかなか思い切れない、貧乏性でして(^_^)で、昨日食べました。お誕生日です。美味しかったのですが、チーズケーキとしては、以前食べた「ルタオのチーズケーキ」の方が好みに合うと、夫婦で意見一致。今度は伊藤久右衛門オリジナルのチーズケーキの方を食べてみようと、これまた意見一致!伊藤久右衛門の個人的なお薦めは、「抹茶ぜんざい」「ワラビ餅」「抹茶パフェ」です。抹茶系がお好きな方は、お薦めでございます。(^_^)甘いモノ大好きなMixでした。ネットでも入手可能です
October 2, 2005
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運動会は、町はずれの小学校のだった。道を教えてもらいつつ走ったので、どの辺まで来たのか良くわからなかった。会話することじたい精一杯。訛った英語と、不慣れな土地、そしてさっきの全速疾走、学校に到着したときには、ぐったりしていた。ところが運動会が、何だかカッコいいんだ。当然のことなのだけれどアナウンスは全て英語で、またその声が渋い! 小学校の運動会とは思えない。中学の時、はじめて短波放送で聞いたFENのカッコ良さに似ていた。耳で聞く運動会と目で見る運動会のギャップが、面白かった。そして、外人(ココで外人と呼ぶのはオカシイ)の子供って、異常にカワイイのだ。見に来ている大人とのコントラストが、ユーモラスに思えるほどだった。カフェ老夫婦の娘さんにも合うことが出来た。がっちりした体型で圧倒されたが、その笑顔は老夫婦のそれと全く同じだった。京都に行ったときの話を喋ってくれたのだけれど、早口すぎてその半分も聞き取ることが出来なかった。しかし、その旅行が彼女にとって、とても楽しいモノだった事は、ボクにも十分伝わってきた。帰りは、娘さん達と帰ると言うことで、駐車場でカフェの老夫婦に丁寧にお礼を言い、お別れした。長かった半日のだった。そうそう、おじいさんが作ってくれたタコスは、凄く美味しかったのも忘れちゃいけないな。ボクにとっては、旅の一こまなのだけれど、そこには紛れもない日常がある。そしてそれらは世界中で同時に存在するのだ。そのことはタイムトリップする事よりも、ワクワクすることの様に感じた。昼からは、一応研修という名目で各地のショッピングセンターや同業のお店を見て回ったりした。そのころの日本では、まだまだそう言う大型店が無かった時代だったので、その集客性と店舗つくりに感動したのを覚えている。しかし、それから日本で続々と作られた大型ショッピングセンターを見るたびに、何処かで見たような作りになっていて、そのまままねたのが丸わかりなのだ。それを寂しく感じるのはボクだけじゃないと思う。そのことは、改めて書くとして、この旅行では珍しくその日の夕食は、みんなで食べることになり、ショッピングセンター街のはずれの、メキシコ系のレストランに入った。原色の壁と壁画がいかにもメキシコ系の雰囲気を醸し出していた。その時何を注文したのかは思い出せないのだけれど、またまた忘れられない出来事が起こる。一通り注文が終わって、飲み物を頼むと、身分証明書を見せてくれといわれた。頼んだのはビールだ。アルコールの販売に対して州の条例で厳しいところが有るのは知っているが、それは青少年に対する事のはずだ。なんで証明書を見せなきゃ行けないのかと、ウェイトレスの女の子にたずねた。「決まりなので、見せて貰えないとお酒は出せません」「ボクは、31歳ですよ」「確認できる、証明書のようなものはお持ちじゃないですか、パスポートとか・・・」「ホテルに置いてきたので、今はもってないんです」ー20歳前後ならわかるけど、なんでこんな若い子にそんなこといわれなきゃいけないのか・・・押し問答を続けても仕方がないので、ソフトドリンクを頼んでその場は終わった。日本ででも若く見られる方なので、外国では子供扱いなのだろう。そんな体験はそれが初めてだったので、さすがに不満だった。何を食べたのか思い出せない。その後、ホテルに帰る途中、ビバリーセンターにあるハードロックカフェに立ち寄った。入口にプロレスラーの様な大男が黒い肌に黒いタンクトップ姿で立っていた。いきなり肩を掴まれて、「身分証明書を」そう言って、睨み付けられた。「持ってない」こちらもぞんざいに答えた。「これじゃダメか?」そういって、日本の免許書を見せた。怪訝な顔で免許書を見た後、「だめだめ」舌打ちをしながらそう言った。無視して、入店しようと動き出したボクの頭を、大きな手が掴んだ。頭がバスケットボールの様に軽々と持ち上げられそうな、そんな力強いつかみかただった。振り払おうとしたが、ボクの手はその男に届かなかった。ーくそ~、お前より年上なんだぞ~失礼だぞ~すごすごと引き下がらなければならなかった。アメリカで大人扱いされるためには、200歳ぐらいまで生きなきゃならないようだ。明くる日、パスポートを持ってもう一度その店に訪れたことは言うまでもない、前日と同じガードマンを捜し、「ほらパスポートだよ」生年月日の書いた場所を指さしてそう言ってやった。信じられないと言うような顔をして、仕方なさそうに「どうぞ」と言った。店に入りながら、振り返って彼をみた。苦笑いの彼にさわやかに笑い返した。早く大人になりたい!(^_^)
October 1, 2005
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