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1964−2020/10止
日本知的障害者スポーツ連盟・生駒三男副理事長(67)に聞く /千葉
「東京パラ」は集大成 社会の支援、世界にアピール
1964年東京大会で、
初めてパラリンピックという名称が用いられてから半世紀。
障害者スポーツは大きな発展を遂げたが、2020年に向けた課題もある。
知的障害を持つアスリートの育成に力を注ぐ日本パラリンピック委員会運営委員で、
日本知的障害者スポーツ連盟の生駒三男副理事長(67)=芝山町=に、
これまでの歩みや課題を聞いた。
−−知的障害者スポーツに関わり始めたのはいつですか。
富里町の知的障害者授産施設「富里福葉苑」に勤め始めた約35年前です。当時は新聞も知的障害者を「精神薄弱者」と表記していた時代。社会の理解も進んでいませんでした。知的障害者がスポーツをするのは「危険だし無理だ」と思われていて、大会や競技団体もありませんでした。
−−なぜ競技に取り組み始めたのですか。
苑を卒業して就職しても、1年以内に離職する子が多かった。8時間集中して働く体力がなく、そのせいで対人関係がうまくいかないことが原因でした。楽しく運動させようと、ソフトボールや四輪自転車で体力づくりに取り組みました。
−−苦労したことは。
例えば、ソフトボールは硬いので体に当たると痛い。そうすると子供たちはソフトボールは怖いものだと思い込み、やらなくなってしまう。そのため、プラスチック製のバットと空気を抜いたゴムまりで始めました。しかし、繰り返し練習すると上達し、普通のボールでできるようになった。知的障害者には、少しずつ進む「漸進性」と「反復」が欠かせないんです。
89年には、苑に通う鈴木博巳選手がカナダのバンクーバーマラソンに参加し、42・195キロを3時間8分27秒で完走して、当時の知的障害者の世界記録を樹立しました。マスコミも取り上げ、障害者スポーツが広がるきっかけにもなりました。今では競技をしていると周囲から「感動した」と言ってもらえる。障害者への理解が進んできたと感じます。
−−多くの日本代表選手も育てました。
教え子22人が日の丸を着けて世界に羽ばたきました。92年に知的障害者のためのパラリンピックが本大会と別にスペインで初めて開かれた際は、陸上の監督を務めました。知的障害者の世界大会・スペシャルオリンピックスも含め、監督などの立場で赴いたのは約20カ国。95年には全国で初めて知的障害を持つ選手を国体に県代表として送り込みました。選手が金メダルを取れば、その両親は「世界一の親」になれる。活躍した時の選手や家族の笑顔が最高の報酬です。
−−東京パラリンピック開催が決まりました。
64年は戦後復興を象徴する大会でした。現代では、国の偉大さは軍事力ではなく、社会的弱者への配慮をどれだけできるかで決まると思っています。次の東京パラは我々の集大成。障害者アスリートの努力を見せるとともに、行政や社会の支援態勢も世界にアピールしたいと思っています。
そうとはいえ、まだ障害者スポーツに関わる人員、労力、資金の全てが貧弱です。選手の自己負担も多く、競技団体の運営もボランティア。団体の事務所を構える資金がなく、関係者が自宅や勤務先を事務所としていることがほとんどです。組織作りなどを行政が支援すべきです。=おわり
【毎日新聞 http://mainichi.jp/articles/20160119/ddl/k12/050/166000c 】

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