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1カ月ほどたった頃、隣の小学校の副校長から、
「おわびをしたいので学校に来てほしい」
と連絡がありました。
その学校には、特別支援学級が設置されていませんでした。
どうも、登校中、息子は通学路で一緒になる隣の学校の児童から、
体を突かれたり、罵倒されたりしていたらしいのです。
通学路沿いの家の人が見るに見かねて、
「隣の学校の特別支援学級の児童を、○○小学校の児童が毎日いじめている」
と通報したとのことでした。
思い返せば、私が息子を連れて歩いているとき、道で何度も
「変なやつがまた来たぜ!」
と指をさされたことがありました。
そのたびに、私は子どもたちを鬼のような形相で追い掛け、叱りました。
「怖い親」だと思われた方が被害に遭わなくなると考えたからです。
それなのに「きもい」という息子の言葉で気付かなかった私がばかでした。
私は隣の学校に出向きました。
応接室に入ると副校長が頭を下げ、
「息子さんに嫌な思いをさせて申し訳ありませんでした」
と謝りました。
そして、
「今度、息子さんを連れて遊びに来てください。お友達をつくりましょう」
と言ってくれたのです。
しかし、友達と関わることよりも国旗や数字と戯れていたい息子にとって、
知らない学校の友達と交わることはストレスになると思いました。
それに、相手は息子をいじめた子です。
正直、関わらせたくはありませんでした。
私は
「お気持ちだけありがたく頂戴いたします。
こちらの学校のお子さんにとっては、
障害のある子どもと交わることは
よい体験になると思いますが、
息子にとってはそうではないと思いますので、
せっかくですが伺うことはできかねます」
とお断りしました。
一つ救われたのは、知的障害の程度が軽くはないので、
息子本人にいじめられている意識がなかったことでした。
息子は“きもい”の意味が分からず、
「“きもい”いるかなあ?」
なんて言って、相手の子どもの名前だと勘違いしている様子でした。
しかし、知的障害が軽度で、
自分が他人とは違うことをはっきりと意識している子はこんな場合、
つらい思いをするでしょう。
どうしてかというと、自分がばかにされていることが分かるからです。
山田洋次監督の「学校2」という映画の中でも、
軽度の知的障害のある子どもが重度の知的障害のある子どもに対して、
「おまえはいいよな、自分がばかだってことが分からないから。
俺は自分がばかだってことが分かるからすごくつらいんだ」
というような言葉をつぶやいていた場面があったことを思い出しました。
息子が通っていた小学校では、休み時間などに毎日、
支援学級と通常学級の児童同士の交流があり、
通常学級の子どもたちが息子の手を引くなど気に掛けてくれていて、
むしろ、「手助けしてあげなければ」という気持ちが育っていました。
しかし、先述の学校の子のように、
特別支援学級が身近にない子どもたちは障害のある子のことを異質に感じ、
それが「きもい」という表現になったのだと思います。
「障害児と一緒の学校では足を引っ張られてしまう」と、
支援学級がある小学校を嫌がる親御さんも実際にいます。
けれども、社会はさまざまな人で構成されています。
机上の学習で
「思いやりの心を持ちなさい」「優しくしなさい」
と言葉だけを教えてもうまくはいきません。
時間や場所を共有し、
「共に育つ」経験がないと理解できないこともあるからです。
そうした意味で、人生の最初の段階で共に学ぶ環境があり、
違いを当たり前のように体験していることは、
少なくとも定型発達の子どもたちにとっては
教育の上で大切なことだと思います。
ただし、障害のある子にとっては、
本当によいことなのかどうかは分かりません。
自分が人よりできないということをひしひしと感じてしまうからです。
皆さんはどう思いますか。
(子育て本著者・講演家 立石美津子)
[大人んサー]
受け入れる器がないと、
やはり校長でもとんでもない提案をしてしまうものですね。
すべては学校の態勢に掛かっているのでしょうね。 ☄
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