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前回触れた鶴岡一人さんについて、もう少し掘り下げたいと思います。今回から数回に分けて。参考書籍は『私の履歴書ープロ野球伝説の名将』(日経ビジネス人文庫)。■鶴岡さんは『私の履歴書』に様々な思い出を語っています。中には野村克也さんのことも。そのタイトルは「野村克也とのことーハワイ遠征で合格」。(以下、敬称略)まだ海外キャンプが珍しかった昭和31年のオフ、鶴岡監督率いる南海の選手たちはハワイでキャンプを張りました。ケチ球団=南海のイメージを払拭する目的もあって、親会社は相当(財政的な)ムリしての敢行でしたが、親の心子知らずとでも言いましょうか、肝心の選手たちはまったくの観光気分。残念ながら目に見える成果はなし。ただ、たった一つ光明があったとすれば、それは野村克也捕手の成長でした。帰国後の記者会見で鶴岡は「野村がうまくなった。これは期待してくれ」と、これ、ばかりは胸を張ったのです。当時、南海には松井、小辻、筒井の3捕手がおり、この3人がハワイに帯同するはずでした。が、新たに誕生する高橋ユニオンズへの選手供出のため、南海から筒井を放出。その代役として参加したのが野村でした。入団後に肩を痛めブルペン捕手の傍ら、打撃を活かすために一塁を守っていた野村でしたが、ハワイの温暖な気候が幸いしてすっかり肩が治り、正捕手の座を奪うに至りました。鶴岡は言います。「野村の努力はもちろん大きかったが、人間の運というものについても考えざるを得ない。高橋ユニオンズの誕生、捕手放出、ハワイの暖かさ。どれ一つ欠けていても以後の野村の活躍はなかっただろう」と。■このように野村を高く評価した鶴岡も、その約20年後に野村に対して激昂する事件が起きます。それは昭和52年オフ、野村が南海監督を解任された時のこと。球団への不満が爆発した野村は、自分を解任した球団の指南役は鶴岡だ!と名指しで批判を始めたのです。これは鶴岡にとって青天の霹靂でした。「すでに球団を退いた私に監督人事の権限はない。球団オーナーや代表にもしばらくお目にかかっていない。野村発言の後、私はオーナーに直接会って厳重に抗議した。オーナーは私の言うことを理解して、謝罪してくれた。その後、野村も新聞紙上で『勘違いだった』と釈明していた。誰かに入れ知恵されて、私のことを誤解していたとしか思えない」。続けてこう記し、野村の章を締め括りました。「あれから野村とは会っていないが、元気で活躍しているようだ(※注・鶴岡の『私の履歴書』執筆は昭和59年)。 彼はあの時は解任のショックで、きっと寂しかったに違いない。京都峰山高校野球部(野村の母校)部長の手紙で野村を知り、その試合を西京極まで見に行ったのが、つい先日のような気がする」。
2016.01.28
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■この1961年(昭和36年)において、大和球士さんが特筆すべき選手として、3人の名前を挙げています。ひとりは、この年に42勝を挙げた西鉄・稲尾和久。そして、南海・野村克也と中日・権藤博。(稲尾については次回以降に譲るとして)野村と権藤についても手放しの誉めよう。まず野村。この年は、本塁打29本、打点89、打率.295で最高殊勲選手に推された。以下、『野球百年』(時事通信社)より。「監督鶴岡が、『体格がええから採っておけば何か使いものになるかも分からん』と採用した程度だったが、めきめき頭角を現し、この36年、ついに長距離打者としての才能が開花し、以後40年に至るまで5年間連続してホームラン王の座を占めた。プロ野球立志伝を綴じれば、ナンバーワンは野村であろう」。さらに、ご丁寧にも、大和さんは鶴岡一人監督のこんなコメントまで加えていますが、いかにも鶴岡さんが言いそうな話です。「心掛けのええ者は大成する、その見本が野村です。自分の才能を伸ばす機会を与えてくれているプロ野球に、野村は感謝しとります。この心掛けが尊いじゃないですか。努力もせんと、プロ野球に不平不満ばかり言うやつらにノム(野村)の爪の垢でもせんじて飲ましてやりたいですわ」。(写真)南海・野村克也のバッティング。~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より~■一方の権藤。ルーキーイヤーのこの年には35勝を挙げ(防御率1.70)、新人王を獲得しましたた。大和さん曰く、「惜しいことに権藤の快刀乱麻の快速球の切れ味は一年限りで、2年目から早くも衰えを見せ始めたが、36年度リーグ戦における1年間の投球にのみ限定して批評すれば、プロ野球を飾る大投手、沢村、スタルヒン、野口二、藤本、別所、杉下、金田、稲尾、杉浦らの最盛期と互角のピッチングであったと断言できる」。さらに、「なぜ、大投手として球史に名を残すべき豊かな素質に恵まれた権藤が短期間に没落したであろうか。残念でならぬ」とまでおっしゃっています。ま、後に権藤の名前は、監督としてもちゃんと球史に刻まれましたけど・・・。(写真)中日・権藤博のピッチング。~『スポーツ20世紀 プロ野球スーパーヒーロー伝説』(ベースボール・マガジン社)より~■さて、大和さんの記事はここまでにして、野村と権藤のその後に目を転じましょう。現役時代はリーグが違い、この2人に直接の接点はなかったと思います。が、後に各々監督になってから、血が燃え滾るほどの舌戦を繰り広げることになります。いつのことか分かりますか?はい、その通り。さすが、管理人よりも読者のほうが賢明な『あま野球日記』ならでは。皆さん簡単にお判りだったでしょう(笑)。それは1998年(平成10年)のことです。「奔放野球」を標榜する横浜監督の権藤と、「野球は監督の采配如何で勝敗が決する」という持論を展開するヤクルト野村監督の場外乱闘?が勃発しました。これはつとに有名ですね。「何よりも野球は選手がやるもの。監督は、選手個々の考え方や才能を自由に発揮できる環境を作るだけ」と言う権藤に対して、野村は黙っていませんでした。 「権藤の采配スタイルやマシンガン打線を、勝手無礼な行儀の悪い野球」と評し、権藤や横浜選手の人格に至るような部分まで公然と批判を展開しました。権藤も負けていません。「ID野球なんてクソくらえ」と選手にハッパをかけ、「グラウンド上で詰め将棋など見たくもないでしょう」とマスコミやファンに呼びかけ、暗に野村への挑発もしました。そして気になる結果ですが、ー言わずとも知れたー、この年に限って言えば、横浜がセ・リーグを制し、権藤に軍配が上がったのです~~~(^^)/(以上、参考はwikipedia)。
2016.01.26
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野球殿堂入りが18日、東京都内の野球殿堂博物館で発表された。アマチュア球界からは法大で東京6大学リーグ史上最多の48勝を挙げた山中正竹氏(68)が特別表彰で選ばれた。山中氏が殿堂入りしたのも何かの縁だろう。野球が東京五輪の正式種目に採用されるか決まるのは8月。初めて正式種目となったバルセロナ五輪で銅メダルを獲得し、その監督を務めたのが山中氏だった。五輪監督としては2人目だが、法大の恩師・松永氏はロサンゼルスの公開競技だった。「金は宿命。日本野球のため力になれれば」と4年後を見詰める。金字塔は投手として、東京6大学での通算48勝。同リーグの最多勝記録として今後も不滅だろう。「この数字のおかげで、卒業後もやれるんだという誇りを持つことができた」と言う。敗戦処理の1イニングに始まり、優勝胴上げ投手の1イニングが最後のマウンドだった。 1年春の明大戦、0-6の8回裏に初登板。大学では1試合でいいからマウンドに立ちたいというのが夢だった。感激の涙でかすむ視界の中で投げ、最後の打者がDeNA高田GMで無失点に抑えた。その後は1年秋から4年秋まで、カード初戦の先発を1度も譲らなかった。(日刊スポーツ) ■学生野球、アマチュア野球の指導者、そしてプロ野球DeNAの専務取締役も務めた山中正竹氏が野球殿堂入りしました。殿堂入りに際し、なぜ48勝できたのかと聞かれ、「当時は東京六大学も群雄割拠の時代であり、第3戦までもつれることが多く、自ずと勝ち星が増えた」とのコメントもありました。この金字塔の記録達成は昭和44年、以降、この数字を破られていません。現在も東京六大学野球連盟の通算最多勝利記録であり、今後もこの記録が破られることはあり得ないでしょう。ちなみに斎藤佑樹は31勝。山中氏が学生だった群雄割拠の時代、どんな選手がいたのか。そのことにボクは興味を持ちました。さっそく調べてみると、のちにプロでも大いに活躍した選手たちがゾロゾロ・・・。まず山中氏のいた法政大には田淵幸一、山本浩司(のち浩二)、富田勝のいわゆる「三羽烏」が、そして江本孟紀もいました。明治大には高田繁、星野仙一。早稲田大には荒川堯、矢沢健一、八木沢荘六、三輪田勝利。そして立教大には槌田誠、小川亨、谷木恭平。山中氏の言葉どおり、こういった選手たちが同時代にいたからこその48勝と、言えるでしょう。(写真1)昭和42年秋、法政が優勝を決めて田淵幸一が山中正竹を抱き上げる。~『大学野球熱闘史』(ベースボール・マガジン社)より。写真2も同じ。 (写真2)同じく昭和42年秋、優勝決定後の記念写真。神宮にて。前列左から2人目が山中正竹。後列右端が山本浩司(のち浩二)、隣が田淵幸一、そして富田勝。 ■ただ、これまで山中氏の記録を超える投手は本当にいなかったのか、そんな疑問が湧いてきます。なぜ「怪物」と呼ばれた江川卓は、山中氏の記録を破れなかったのか、なぜ47勝で止まったのか。結論を先に言うと、江川は本当は新記録、いやせめてタイ記録を達成できたはずです。ところが、自らその可能性を閉ざしてしまったのです。その理由をこちらに書いていますので、興味のある方はどうぞ。http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201401160000/(写真3)作新学院時代の江川卓。いま、朝日新聞の連載記事『あの夏』では、昭和48年の作新学院ー銚子商の戦いが紹介されています。~『高校野球 熱闘の世紀』(ベースボール・マガジン社)より。 <関連記事>打倒江川! 銚子商、勝利への執念http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201307020000/
2016.01.21
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前回の続き。http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201601070000/■「大正力」こと正力松太郎がなぜ、初代コミッショナーに就任後、わずかな期間で慌ただしく解任されたのか? 『鈴木龍二回顧録』(ベースボール・マガジン社)によれば、コミッショナー就任が昭和24年2月5日、解任が翌25年5月2日。その理由は、GHQによる圧力があったからなんですね。このことを説明するためには、多少の補足を要します。 ■正力は開戦時に大政翼賛会総務だったため、A級戦犯の第三次戦犯指名となり逮捕、巣鴨プリズンに収容されて、公職追放処分を受けました。そして22年9月1日に出所するも、公職追放処分が解除されたわけではなく、また、巣鴨に収容されるまで社長を務めていた読売新聞社は2度にわたる読売争議で鈴木東民ら共産党員一派が支配し、古巣の読売の、正力に対する扱いは厳しかった、いや、冷たかった。そんな正力の姿を憂えたのが、当時日本野球連盟の会長だった鈴木龍二でした。「プロ野球生みの親の正力をこのままに放っておくわけにはいかぬ!」とばかりに鈴木惣太郎、野口務らと画策、正力を初代コミッショナーに推すことを決め、24年2月23日、丸の内の工業倶楽部に、社団法人日本野球連盟の役員が出席、GHQのマーカット少将立会いのもとに、コミッショナー制度が発足し、正力の初代コミッショナーに就任しました。■まだ国内にGHQの影響力が残る中、鈴木らの根回しも万全でした。キャピー原田(当時、マーカット少将の副官)を通じて、GHQ上層部の了承も取り付けていました。ところが、GHQ内に混乱があったのでしょうか、「正力がコミッショナーという重要な公職につくのは追放令違反」だとして問題視されるに至りました。つまり、正力の就任は認めぬ、と。その後、鈴木らはあれこれとGHQの判断を覆すべく動くのですが、反応は芳しくありません。「正力さんにはまことに気の毒なことをしたことになったわけだが、正力さんから『あまりぐずぐず言うのもどうか。面倒くさいからやめよう』と言いだして、コミッショナーを辞任しました。これが24年5月2日のことでした」。(『鈴木龍二回顧録』より)※辞任と書いてありますが、これは事実上「解任」でしょう。<関連記事>鈴木惣太郎 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/20090705/キャピー原田 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201006270000/
2016.01.16
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本題に入る前に、まずは新年のご挨拶を申し上げます。お蔭様で昨年末に当ブログの総アクセス数が230万件を突破することができました。今年も不定期ながらコツコツ更新を続けて参りますので、何卒変わらぬご支援の程、宜しくお願い申し上げます。 ■さて、半年ぶりに【大和球士著『野球百年』(時事通信社)を後ろから読む】企画を再開し、このブログも新年をスタートさせたいと思います。従い、時計の針を1962年(昭和37年)に戻すことにします。この年、内村祐之氏がプロ野球コミッショナーに就任しました。氏は後半生をキリスト教の伝道に捧げ、『求安録』などの著書もある内村鑑三のご子息ですが、父の反対を退けて野球生活を貫徹し、一高(現・東京大)野球部のエースかつ主軸を打つバッターでもありました。のちに東大医学部を卒業、東大医学部長になり、現代精神医学の泰斗としても知られています。大和球士さんは内村氏のプロフィールをいつものように淡々と記すのですが、途中でふと疑問をもちます。内村氏ははたして3代目のコミッショナーなのか、いや4代目なのか? と。それは正力松太郎を初代とするか、福井盛太を初代とするかで変わります。もし正力ならば内村氏は4代目、福井ならば3代目。その理由は、本来初代であるはずの正力がコミッショナーに就任した後、米国進駐軍の指示により、慌ただしく解任された経緯があったから。そのため正力を初代と認めないと見るムキもありますが、いったん筆を止めた大和さんは、暫し黙考した後、こう断言します。「丸の内の工業クラブで、進駐軍のマッカート少将、八球団代表、選手代表若林忠志らが出席して、正式のコミッショナー認証式が行われた記録が残っている以上、正力を初代コミッショナーと認めるのが妥当であろう」と。即ち、初代は昭和24年に就任した正力、2代目が26年に就任した福井、3代目が31年に就任した井上登であり、そして4代目が内村ーーー。■まぁ、プロ野球コミッショナーなんつうものは、所詮「飾り」みたいなもの、別に何代目だって構わないじゃないか!という声が聞こえてきそうですが、上記の正力vs.GHQの経緯については書籍『鈴木龍二回顧録』(ベースボール・マガジン社)に詳しいので、次回もう少しだけ書きたいと思います。 (写真)4代目のプロ野球コミッショナーに就任した内村祐之氏。~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より
2016.01.07
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