全5件 (5件中 1-5件目)
1
前回の続き。http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201602180000/ ■いわゆる「別所毅彦引き抜き事件」に対し、日本野球連盟が巨人ビイキの裁定をしたのは昭和24年3月のことでした。そして、その直後にこの年のプロ野球は開幕。4月12日からは、当事者である巨人と南海が3連戦を後楽園球場で行いました(注・当時は1リーグ制でした)。世間は別所引き抜き事件の「遺恨試合」と呼び、連日大入り満員の盛況ぶりでした。最近で言えば、「巨人・江川vs阪神・小林」(最近と言っても、結構旧い話題ですが笑)、もしくは「近鉄・デービスvs西武・東尾」みたいなものだったでしょうか(あ、これは全然違うな)。■一戦目は、巨人が川上哲治の逆転満塁本塁打で勝利し、続く二戦目は1点差で南海が雪辱、そして三戦目に「三原ポカリ事件」が起きました。それは9回表、南海攻撃中のことです。この回に1点差に追い上げた南海は、なおも走者一塁の場面で代打・岡村の打球は痛烈な一ゴロ。川上が捕球後にすぐさま二塁に放り、ショート白石が二塁ベースに入って、続けざまに一塁へ転送。誰しもが3-6-3の併殺と思いましたが・・・、どうしたわけか、一塁走者筒井の左手と白石の右手が触れたようで、白石は球を投げられませんでした。一塁はセーフ。悪質な守備妨害とみた白石は「何をしとるんなら!」と広島弁で怒鳴ると、筒井も負けずに「何を!」と言い返したため口論となり、両軍の選手たちが大挙して二塁ベース付近に飛び出す始末。そして、巨人ベンチから真っ先に飛び出した三原脩監督が筒井に近づくなり、いきなり殴りかかりました。監督が相手チームの選手を殴るなど前代未聞の出来事でした。■南海監督だった鶴岡一人さんは、この時のことを振り返ります。「ベンチから見た限り、それは併殺を防ぐための当たり前のプレーだった。この時、(巨人の)三原監督がベンチから飛び出して二塁へ向かった。審判に抗議でもするのかなと思ったら、いきなり(南海の)筒井の頭をポカリとやった。(巨人の)白石君は日頃おとなしい人。それが怒るのだから、悪いのは筒井と決めてかかったとしか思えない。結局、三原さんは退場となり、その後の連盟裁定でシーズン終了まで出場停止となった。しかし、その処分もなぜか、百日間で終わった」。そして、「三原さんも当時は若くて、血の気も多かったのだろう。それにしても、エースを引き抜かれた側がポカリとやられたのだから、これは遺恨というには、あまりにも珍妙というほかない」。鶴岡さんにとっては、まさに泣きっ面に蜂。別所を引き抜かれ、さらに自軍の選手を叩かれたのだから、怒りで振りあげた拳をいったいどこに下すか、さぞ苦悶したことでしょう。■ここで余談ながら。別所引き抜き事件では巨人に有利な裁定があり、さらに三原ポカリ事件も三原の1シーズン出場停止処分だったはずが百日間だけに短縮されるなど、この当時はなぜか巨人ビイキの裁定が続きました。南海鶴岡さんにとっては、腹立たしい裁定ばかりだったはずですが、この時のコミッショナーは、実は初代コミッショナーの正力松太郎さんだったのですね。いえ、だから巨人ビイキの裁定ばかりだったと短絡的に言うつもりは毛頭ありませんが、当時日本野球連盟の会長だった鈴木龍二さん(後にセ・リーグ会長)が著書『鈴木龍二回顧録』(ベースボール・マガジン社)で当時のことを述懐しています。「当時プロ野球は、機構の統制機関としての社団法人日本野球連盟と、営業を担当する株式会社日本野球連盟に分かれていて、社団法人の会長が鈴木惣太郎さん、株式会社のほうの会長をぼく(鈴木龍二)がやっていた」。どちらも日本野球連盟という名称で(株)か(社)の違いしかなく、さらに会長の名前も鈴木惣太郎と鈴木龍二の同姓でややこしいことこの上ないのですが(笑)■で、本題へ。別所引き抜き問題が起きた時、当時選手の契約問題を担当していたのは(社)日本野球連盟の鈴木惣太郎会長でした。以下も『鈴木龍二回顧録』より。「そこで惣太郎さんが別所を呼んで話を聞くと、別所の意思は相当に強硬だ(つまり、別所の意思は、南海を離れて巨人に行きたい!と)。巨人の別所に対する要望も強いことがわかった。では(読売新聞社常務の)武藤氏を呼んで聞こう、ということになって(中略)ボクが立ち会って、惣太郎さんと武藤氏が会って事情を聞いた。会った結果、とにかく一応裁定を出しますよ、と(惣太郎さんが)言うので、正力松太郎さんの意向も打診した結果出したのが『別所選手を自由選手として、元いた南海に2日間の優先交渉権を与える』というものだった」。「(南海の)松浦代表は別所を呼んで話し合ったが、別所の気持ちは動かず、優先交渉の期限が切れたところで、別所は巨人へ入団ということになった。松浦代表と別所の話し合いは昭和24年3月18日、19日のことである。これで3月27日、正式に(別所は)巨人に入団したのであるが、その原因を作ったのは巨人にある、と言うので巨人に罰金10万円、別所には2か月間の出場停止のペナルティが課せられた。そして巨人から南海に21万円のトレード・マネーが支払われた」。これで一件落着のようですが、実は当時の鈴木惣太郎は読売に雇われていた身であり、正力松太郎との個人的なつながりもあったため、巨人の請託を受けて別所問題を裁定したとの批判が相次ぎました。このような批判に対し、鈴木龍二さんはこう言い切って鈴木惣太郎さんを援護します。「惣太郎さんは、大リーグ方式の理解者で、そういうことをやる男ではない。(中略)この問題が解決してからも、たびたび『オレは公正にやった。それなのに巨人にひいきしたと言われるのはかなわん』という発言をしばしば耳にしたが、2日間の優先交渉権を与えたことは、惣太郎さんの誠意であったと、ぼくは今でも思っている」。事前に別所の強硬な意思を知り、たった2日間の南海との交渉期間を与えたからと言って、その間に別所の意思が翻る可能性が僅かでもあったのでしょうか? その2日間がはたして会長としての誠意と呼べる代物だったのか、ボクは疑問に思うところでありますが。さらに鈴木龍二さんは、三原ポカリ事件についてもこう述べています。「昭和24年4月14日に起きた事件。この事件の裁定をしたのも、正力さんの意向を受けた惣太郎さんであったが、三原監督にシーズン中出場停止という、現在では考えられないような厳しいものであった。7月21日解除されたが、正力コミッショナーの、公式の任務を果たした、公正な裁定であったと思う」。そして、「別所の引き抜きに、三原君が黒幕として関与したようにいわれているが、ぼくは三原君はそれほど関与したとは思っていない。別所問題も、三原事件も、裁定を下したのはコミッショナーの正力さんだった(後略)」。はてさて、これら鈴木龍二さんの回顧録をどう読むか??? それは、このブログに来ていただいた皆さま各々の判断に委ねたいと思います。<関連記事>正力松太郎 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201601160000/鈴木龍二 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201203300000/(写真)南海・鶴岡一人監督と巨人・三原脩監督の、仲直りの握手?~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より~。この写真は昭和24年4月の「遺恨試合」といわれた南海vs巨人の一コマと推察します。表面的には仲直りした様子の2人ですが、この3か月後、この2人に不幸な出来事が同時に起きます。昭和24年7月、シベリアに抑留されていた水原茂が復員し、それがため後に三原は巨人監督を追われるきっかけとなりました。そして同じ7月(3日)、鶴岡にも不幸が訪れました。愛娘の長女・千鶴子が誤って南海電車の踏切に入り、電車にはねられて死亡する事故が起きました。この時、たまたま娘を連れていたのは鶴岡の実母でした。娘の死、そして自分が関わって孫を亡くした実母の無念は、察するに余りあります。
2016.02.23
コメント(0)
長い人生、なぜか不幸が続くときは続くようで。それは鶴岡一人さんであっても同様、球界の盟主・読売巨人軍にしてやられた不幸は数々。広岡達朗のケースもそうでしたが、今回取り上げるのは「別所引き抜き事件」と「三原ポカリ事件」。■まず、「別所引き抜き事件」。昭和21年、鶴岡さん率いる(選手兼任)近畿グレートリング(南海の前身)が巨人に1勝上回って初優勝しました。その立役者のひとりが、この年に19勝を挙げた別所毅彦投手です。以降も活躍を続けた別所は南海のエースの座を堅持し、投手王国・南海、南海に別所ありと呼ばれる時代が続きました。しかし、よき時代は長く続きません、悲しいかな、横やりが入りました。当時南海が別所に提供していた大阪の住宅があまりに貧相だったため、そこを衝き、南海とケタ違いの土地と住宅を提供すると云い、別所を誘惑する球団が現われたのです。その球団とは、言わずと知れた、三原脩率いる巨人軍、昭和23年のことでした。これは別所にとって魅力的なオファーでした。しかも別所には東京出身の婚約者がおり、なおさら東京の生活を望む事情がありました。そして紆余曲折があったものの、翌24年に別所の巨人入りが正式決定したことで決着を見ました。これがのちに語り継がれることになった「別所引き抜き事件」のあらましです。■鶴岡さんは言います。「昭和21年、23年と南海が優勝した時は各新聞とも、この南海の強さは当分続くと書いた。対戦するチームの人間とすれば、なんとかそれを崩したいと思うだろうが、その方法が問題だった。一部では南海も報復の引き抜きをやればいいという声があったが、よそを不幸にしてまで勝とうという気はなかった」。これは、鶴岡さんの将としての矜持というべきでしょうか。また、自著『御堂筋の凱歌』ではこんなことも言っています。「(南海の)別所と木塚を引き抜けば、巨人は強くなる一方、当面のライバルで あり、手のつけられないほど整備されていた南海は弱くなるのだから引き抜き は一石二鳥の効果をもっていたわけだ。俊敏な三原さんらしい狙いであった」。さらに、「別所の引き抜きは昭和24年度の勢力分野をいっきょに逆転した。26年以降の、いわゆる巨人の黄金時代は、これによって達せられたものであるといっても、いいすぎではないだろう。別所引き抜きに対して、南海が釈然たりえなかったのは当然であった」 ■さて、名指しで批判された、一方の巨人・三原脩監督は、この事件について、どのように考えていたのでしょうか。三原の愛弟子だった青田昇が、昭和24年当時に聞いた三原の発言を回想しています。以下、『三原脩と西鉄ライオンズ 魔術師』(立石泰則著、小学館)より。「べつに別所が出場できなくても、それはそれでいいんだ。たとえ、別所が今シー ズン、巨人で1勝もできなかったとしても、彼の(昨年の勝ち星の)26勝が南海から消えるだけで、ウチが優勝できるのだから・・・」。余談ながら、この『別所引き抜き事件』には諸説があって、三原が直接かかわって別所を引き抜いたという説と、三原はかかわっておらず当時読売新聞社常務だった武藤三徳が単独で別所に接触したという説があります。従い、本当のところ、三原がどの程度この事件にかかわっていたかは未だ判然としません。しかし、青田の証言や三原独特の合理的な思考、そして以下の三原自身の発言等を聞く限り、この件に三原が深く関わっていたと考えるのが自然だろうと、ボクは思っていますが・・・。以下、自著『私の新しい野球管理術』より。「一般ファンの職業野球に対する考え方は、いいプレーを見たいという事と面白い勝敗を見たいということにある。(中略)しかし巨人に対する一般ファンの考え方に関する限りはそうではないと思う。つまり巨人ならばどれ程勝ち越して一方的な試合になろうとも、ファンはそれで充分満足してくれるのである」つまり、巨人ファンはプロセスや手段などにはお構いなしであり、そんなことより結果として圧勝し続ければ喜ぶだから、 その期待に応えることが将としての務めであると。さすがに、この発言には巨人ファンが怒りだすかもしれませんが(笑)とまれ、「他者を不幸にしてまで勝利にこだわらない」とする発言が鶴岡さんの矜持とすれば、「ファンが喜ぶ勝利のために合理的な手段を尽くす」という考え方も三原の将としての矜持と言えます。どちらが正しいと言えるものではありませんが、そういった監督たちが戦う野球をリアルタイムで見たかったなと、今更ながらそんなことをボクは思っています。※今回、「三原ポカリ事件」も書く予定でしたが、次回に譲ることにします。<関連記事> 「別所引き抜き事件」 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/200912060000/ (写真)別所さんが若い!(^^)! 昭和30年のオールスターで語り合う鶴岡一人と別所毅彦。~『私の履歴書』(日経ビジネス人文庫)より~
2016.02.18
コメント(0)
2007年(平成19年)12月7日、東海道本線共和駅(愛知県大府市)で発生した事故。認知症男性(91歳、要介護度4)が徘徊中に電車にはねられ死亡した事故で、家族が鉄道会社(JR東海)への賠償責任を負うかが争われた訴訟の上告審弁論が去る2月2日、最高裁第3小法廷で開かれ、結審しました。判決は3月1日。■一審は男性の妻と長男、二審は妻が監督義務を果たさなかったとして、いずれも家族が損害賠償責任を負うとの判断が下されました(JR東海は無過失)。さて、約3週間後の最高裁判決はどういう判断がなされるのでしょうか? どんな結果であれ、この種において最高裁が示す初の判断になります。私は、ポイントは3つあると思います。(1)上記のとおり、家族の「監督責任」です。民法714条「監督義務者」として、男性の妻が賠償責任を負うのかということ。男性の妻は86歳、要介護度1。まさに老老介護の典型的な家庭であり、妻が一瞬も夫から目を離さずに監督することなど、絶対に無理だと私は思います。認知症の人と接した経験がないと分かりづらいでしょうが、実際のところ、次の行動がまったく読めません。わずかに目を離した隙に、奇想天外な行動をすることが多々あります。この家族の場合、夫が昼夜逆転の症状もあったようで、夜中に睡眠をとれない妻が日中にうたた寝している間に事故が起きたとか。そういった状況にあっても、最高裁は妻に責任を負わせるのか。(2)JR東海には本当に責任がないのか、ということ。一部報道によると、施錠すべき駅ホームのフェンスが施錠されず、そのフェンスから認知症男性は線路に入ったそうです。仮の話ですが、もしフェンスが適切に施錠されていたら、事故は未然に防げたのではないか。(3)しかし「家族vs.JR東海」の視点だけでは片手落ちの感があります。例えば、地域や行政など。いま福祉行政は施設から地域に転換がはかられて久しく、地域における見守りネットワーク等の重要性が唱えられています。それは財政難を理由に、家庭を特養の個室に見立てて、町全体を施設と見る考え方です。したがい、そういった地域の活動は正常に機能していたのかという視点も欠かせないはずです。 ■追記。上記(1)と重複しますが、もし最高裁判決も家族の賠償責任を示すのであれば、今後こういった事故の防止策は、認知症患者を拘束する(部屋に閉じ込める、手足を縛るなど)しかないのか?といった疑問が湧き出ます。これは、家族に限らず介護施設も同様です。憲法や介護保険法を紐解くまでもなく、どんな病を患ったとしても、その人にはその人なりの人生を歩む権利があるはずです。徒にその権利を奪っていいはずはありません。3月1日の最高裁判決では、妻(家族)への損害賠償責任が覆ることを期待したいと思います。
2016.02.12
コメント(0)
■清原某が覚せい剤を所持使用したカドで逮捕されました。この一件について様々な議論が起き、上下関係の厳しさや精神野球の強制など、学生野球の弊害だと指摘するものまで存在することを知り、ボクは明治時代の末期に突然勃発した『野球害毒論』を思い出しました。野球害毒論とは、明治44年、東京朝日新聞は当時人気が加熱気味だった野球に対し、ネガティブキャンペーンを展開し、「野球と其害毒」を全22回に亘り連載したもの。その内容は、野球という競技は学生の本分を忘れ精神を堕落させ、また、右手ばかりを使うため右手が肥大する病に侵されるなどなど。まったく支離滅裂な話ではありますが、いま清原某をめぐる議論の一部は、それと同じことに思えて仕方ありません。そういった理屈を明治時代に朝日が綴った『野球と其の害毒』(すなわち野球害毒論)風に書くと、こんな感じになるでしょうか。■「学生野球の弊害は第一に学生の大切な時間を浪費せしめる。第二に疲労の結果勉強を怠る。第三には上下の規律厳しく、先輩に対し否と言えず悪の道に入る契機となる。大切な時間を浪費し身体を疲労衰弱せしめるまでに至っている。野球選手が学科のできぬのはこの理由からである。そして学科不良になった後は、危険区域へ陥入しそうな恐れあり。否、むしろ堕落の道へ近づいてゆく。さらに学生の身分に過ぎぬのに一般学生とは隔離優遇され、一部の大人が甲子園を頂点とした大会を開催し、木戸銭を取り興行物的することはいかなる弁疏(べんそ。弁解と同義)を以てするも遊戯そのもの評価を第一に押し下げ、かつ遊戯者をいかにも賎劣に見えしむることは十目十指の定評の御座候。また、野球といふ競技は常に強い球を受けるために、その振動が腕より脳に伝わり学生の脳を刺激して、脳の作用を遅鈍ならしめ異状を呈しせるものである」。■と、まぁ、最後の一文は余計ですが(笑)。野球しか知らない選手を、俗に「野球バカ」と表現するムキもありますが、バカになれるくらい野球に徹することは決して弊害ばかりではないはず。将来にわたっての財産にもなるはずです、きっと。清原某事件の原因を探るのであれば、それは学生野球に求めるのではなく、プロ入り後の「清原某個人と環境の関わり合い」にこそ求めるべきでしょう。特に「環境」が重要です。ここには有象無象の組織や人物が蠢いているようで、その毒牙にかかれば抜け出すことが並大抵でない様子です。・・・と、ここまで書いて、先般の「野球賭博」に関わった巨人3選手を思い出しました。彼らも「環境」との絡みの中で人生の道を踏み外したのだと想像しますが、清原某の周辺にはもっともっと大きな黒い渦があるように思えます。とすれば、一見完了したはずの「野球賭博」はほんとに全面解決したのでしょうか。そんな疑問が湧いてきます。清原云々よりもそちらのほうが重要と思います。<関連記事>1)『野球害毒論』とは、http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201104030000/2)西鉄ライオンズの選手たちを襲った『黒い霧事件』http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201011200002/アマチュア時代は輝いていた! 永易将之投手と田中勉投手。~『激動の昭和スポーツ史 社会人野球』(ベースボール・マガジン社)
2016.02.08
コメント(0)
鶴岡一人さんの選手を見る眼力には定評がありました。他球団の新米スカウトには、鶴岡さんが訪ねた選手宅をあとから軒並み訪ね歩いたという逸話もあるほど。しかし、選別眼だけで選手を獲得できるほどプロ野球の世界は甘くない。昭和40年にドラフト制度が始まる以前は、現代よりさらに魑魅魍魎の世界であって、さすがの鶴岡さんでさえも、その競争に巻き込まれることが度々でした。■まず穴吹義雄の獲得。壮絶なスカウト合戦の様子を小説、映画化した『あなた買います』のモデルにして、のちに南海監督に上り詰める穴吹を最初に見出したのは、実は鶴岡さんでした。もともと東京農大の円子投手(後に南海入り)を見る用で神宮に行ったところ、そこで目についたのが中央大のサード穴吹。当時はまだ3年生でしたが、すぐに会う手はずを整え、以後も頻繁に接触を繰り返し、見事獲得に成功しました。この成功事例に、鶴岡さんは鼻高々に(笑)こう言いきります。「スカウト合戦の決め手として、その選手の進路決定に一番影響力をもつ人を探し当てるということがある。幸いわれわれは穴吹君の高松高、中大を通じて先輩の名を聞き出した。その人が大阪に住んでいたのもラッキーだった。私と富永マネージャーが頻繁に会って、いち早く入団を決めた。穴吹君が4年生になると、表面的には争奪戦が激化した形となり、各球団関係者が高松の親もとへ集まった。巨人は郷土の先輩の水原監督が出馬した。私もゼスチャーで高松へ乗り込んだが、実際は大阪で勝負がついていた」。■でも、良いことばかりではありません。次に、立教大・長嶋茂雄獲得にまつわる失敗談を。昭和30年秋、鶴岡さんは、大阪球場で行われた東京、関西六大学対抗戦で初めて長嶋を見ました。この時ももともと長嶋目的ではなく、立教大の2年先輩・大沢外野手がお目当てでしたが、長嶋の守備に惚れ、まだ2年生だったにもかかわらず、正式に南海入りを勧めるほどのスピード交渉でした。そして長嶋が4年生になると、長嶋からは「南海にお世話になります」という返事もあり、契約金の準備も済ませてこれで準備万端、と思ったのが大きな間違い。秋になると状況が一変。突然、長嶋の兄が「弟は南海へ行かないかもしれません」と言いだし、鶴岡さんは慌てて東京へ飛びました。「会ってみると、長嶋君は『すみません、すみません』と繰り返すばかりだった。なおも聞くと、長嶋君は涙を浮かべて『兄弟げんかはするな。二人でよく話し合えと、母が・・・』と言った。巨人が千葉の有力者や立大OBを動かして、長嶋家を揺さぶったらしいのだ。お父さんがいない家庭で、兄弟二人。その一人の身体が弱いとなれば、遠くに行くなということになるだろう。やむを得ないとあきらめた」。■そして、これも失敗談。早稲田大の広岡達朗。長嶋の獲得失敗に先立つ昭和28年のこと。鶴岡さんにとって広岡は、広島・呉の二河小学校の後輩にあたり(つまり出身地がご近所)、父君に挨拶に行くと海軍士官だった実直な人柄で、息子のことは本人まかせなので、どうぞよろしくと返事をいただいた。その勢いで東京に遠征に行くたびに会い、南海への入団を勧めました。本人の反応も良く、入団の内諾も得ました。ところが、これも途中から雲行きが怪しくなりました。広岡の婚約者が大阪行きを渋ったことが原因とか。『東京で育った女性は、どうして大阪へ行くのを嫌がるのだろうか』。鶴岡さん、巨人の攻勢が裏にあったことも匂わせましたが嘆くことしきり。これを痛恨の失敗だったと書きました。■最後に、別府緑ヶ丘高の稲尾和久のこと。「無名だった稲尾君を西鉄が発掘して育てたというのが定説になっている。しかし、本当は最初に目をつけたのは南海だった。当時、南海は肩や肘を痛めた投手を別府へ湯治に行かせていた。その一人が、いい捕手がいると知らせてきた。それが投手になる前の稲尾君だった」。鶴岡さん、急いで別府へ駆けつけ、神社の境内で稲尾のピッチングをテストしました。稀にみるほどの投手だったため、すぐに契約を試みるも、ここでも邪魔が入ります。「後援会と称する人たちがやってきて、暗に金を要求した。『あなたたちに差し上げるぐらいなら、稲尾君に上積みしてやる』とキッパリ断った。結局、そのあたりから情報が洩れ、稲尾君は西鉄入りした」。そして、鶴岡さんは、こう言います。「とかく批判のあるドラフト制だが、同制度実施以前には、この種の人間が群がって、我々を悩ませたものだった」。(写真)立教大時代の長嶋茂雄。~『永遠のミスター 長嶋茂雄の世界』(報知新聞社)より~
2016.02.02
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1