先日、 『大学野球復活を一番願った人』
(2009.8.4)という記事の中で、
「早稲田大野球部は戦時中もバットなどの道具をキッチリ守り、戦後の
野球復活に備えていた」
と書いた。
■『1943年晩秋 最後の早慶戦』(教育評論社刊)より。
当時、早稲田大野球部のマネージャーだった 相田暢一
もついに1943年
12月10日、横須賀第二海兵団に入団した。
「その直前、相田はすでに入手困難になっていたボール300ダース、バット
300本、ノックバット10数本を準備した。これらの用具は東京大学野球連盟
(現・東京六大学野球連盟)の残務整理に伴い、各大学への配分金で購入
されたもので、たとえ部員が一人になっても練習を続けるという、 飛田穂洲
の意を受けた相田の機転によるものだった。
その後、新たに主将になった 吉江一行
にバットやボールの管理を託された。
吉江は福島県立磐城中学の出身で、「最後の早慶戦」には5番ライトで出場
した。飛田穂洲は吉江の人となりを、心から愛した」
■『球道半世紀』(飛田穂洲著)より。
「(吉江)一行は五尺八寸五分といふ巨漢であった。ベーブ田中を思わせる
やうな好中堅手であり、強打者でもあったが、それよりもなほ忘れかねるのは、
彼の人物であった。堂々たるその偉容とはまるで正反対の温厚寡黙、篤実一途
の性格、何ともいへぬ床しさだった」
◇ 「ボクにとっての日本野球史」
(2009.7.1)、 INDEXは こちら
へ。
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