あま野球日記@大学野球

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2013.08.04
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カテゴリ: 近鉄バファローズ

(前回の続き)



昭和32年のシーズン開始に当たり、パ・リーグは高橋ユニオンズを解散させて、選手を東映、大映、近鉄などへ分配させた。可哀そうなのは、プロ球界のために私財を投げ打って尽くしてきた前通産大臣の 高橋龍太郎 である。 大和球士 は著書『改定新版 野球百年』の中で、パ・リーグは「定見なし」であると批判している。殊に批判の矛先は当時のパ・リーグ総裁、 永田雅一 に向いていた。

「昭和29年春、パ・リーグ総裁に就任した永田雅一が爆弾動議を出し、当時セ・リーグは6球団制になっていたのに、一気にパ・リーグの8球団制に踏み切ったものであった。その8球団目の高橋球団は3年の寿命しか保つこと事ができず、石もて追われるごとく、パ・リーグから追放されてしまった。ここにパ・リーグの無定見ぶりが露呈されたと言える。8球団にするとき、大リーグなみの8球団制にすることが正道だと称した舌の根の乾かぬうちに、8球団は多すぎるとして7球団制に戻してしまった。その場の思いつきで大切なことを行うことが多いことが、パ・リーグの固定した人気を招くことができない原因と思われる。憐れをとどめたのは、高橋龍太郎であった」。


■先日、昭和20年代野球倶楽部に参加した際、高橋龍太郎さんの孫・秋山民夫さんのお話を聞いた。秋山さんによれば、祖父・龍太郎さんはそんな苦い経験をしながらも、決してその後も野球を嫌いにはならなかったという。早稲田大の野球をラジオで聞くことがよくあったらしい。なんだか救われる思いだ。

そして、秋山さんは「龍太郎さんは無口だった」ともおっしゃっていた。この当時のオーナーというと、ボクには永田雅一オーナーのイメージが強すぎて、「ラッパ」の印象を勝手にもっていたが、そうでない人もいたのだ。


■あ、そうそう。大和球士は、 佐々木信也 についても触れていた。

「ついでに後の事にまで触れておくと、7球団制をとったパ・リーグはこれも一年限りでおさらば、33年度には毎日と大映を合併して大毎球団を作って6球団制をとるようになる。そのたびに迷惑をこうむったのは高橋球団に加入した選手たちである。たとえば、戦後は慶大からプロ球界へ直接参加した選手の一人もなかった時、敢然慶大から高橋へ加入した二塁手佐々木信也のごときは、高橋‐大映‐大毎と転々とするたびに、変わったチームカラーにぶつかり、チームにとけこむことに神経をすり減らして、伸び悩んだ」。

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Last updated  2013.08.04 23:30:52
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