長嶋茂雄
の引退で他のすべてのことが消し去られた。金田正一率いるロッテが日本一になったことも、ウォーリー与那嶺が川上哲治に14年越しのリベンジを果たしたことも。そして王貞治が二年連続三冠王を獲ったことも。
ドラフトでは、夏の甲子園の優勝投手、銚子商・土屋正勝、鹿児島実・定岡正二、横浜高・永川英植、土浦日大高・工藤一彦の4投手が「高校ビッグ4」と呼ばれ注目を浴びた。そして、それ以上に話題を集めたのは松下電器・ 山口高志
の去就だった。
■なぜか一番クジだった近鉄は山口を指名せず、二番クジの阪急に奪われた。この山口が1年目から快投を見せつけ、翌75年に阪急を初優勝に導いたのだから皮肉なものである。しかし、それでも近鉄にはドラフトの成果があった。
まず2位で村田辰美(三菱自動車川崎)を獲得したこと。「江夏の21球」も「10・19」も主戦で経験する息の長いサウスポーだった。
4位に吹石徳一(日本新薬)。「10・19」第2試合で本塁打を放った。以前、吹石がスカウトしている頃、神宮(東京六大学リーグ)のネット裏でよく見かけた。そして5位で谷宏明(熊本一工高)を指名した。
同年の近鉄は、阪急を5度リーグ優勝に導いた 西本幸雄
を監督に迎えて1年目だったが、残念ながら前期5位、後期4位でシーズンを終えた。体質の甘さを痛感した西本は、そのオフ、不動の4番・ 土井正博
を放出し、選手たちに危機感を芽生えさせた。
なおこの年、羽田耕一が4打席連続本塁打、鈴木啓示が150勝を記録。そして土井が300本塁打をマークするも、このシーズンを最後に近鉄を去った。
江川卓
(作新学院高)、中林千年(松江商高)、佃正樹(広島商高)、袴田英利(静岡自動車工高)、金光興二(広島商高)、島本啓次郎(箕島高)、植松精一(静岡高)等。
秋季リーグ戦では、江川が6勝、中林が4勝して、法政があっさりと優勝した。最後の明治大2回戦は出場12選手中、1年生がなんと6名も出場していた。江川の女房役・袴田は大学卒業後、ロッテに入団した。先日放送されたTVでは、村田兆治の剛速球と鋭く落ちるフォークを「ノーサインで捕球した捕手」として紹介されていた。
また、この当時の江川のことが『東京六大学野球80年史』(ベースボール・マガジン社)に、こう記されている。
慶大を熱望したが不合格でやむなく法大へ。このコースをたどった選手が何人かいて当時の法大には微妙な空気が流れていた。しかし、江川はその右腕で強い法大を作り上げ、その空気を吹き飛ばした。
※ちなみに同年春季リーグ戦でベストナイン<外野手部門>には、後に「10・19」で活躍した近鉄・新井宏昌がいる。
■甲子園は、センバツを制したのは報徳学園高。池田高を3-1で破った。夏はエース・土屋正勝を擁する銚子商高が、防府商高を7-0で零封して優勝した。
夏の大会で忘れられないのは、定岡正二のいた鹿児島実業高。準々決勝で原辰徳のいる東海大相模高と対戦、延長15回の激闘の末に勝利。定岡は18三振を奪った。そして迎えた準決勝(防府商高戦)も定岡が先発したが、3回に負傷し降板。9回裏に外野手のエラーでサヨナラ負けを喫し、泣きじゃくるその外野手の肩に腕をまわして懸命に慰めていた。
■同年の社会・世相。
田中角栄首相が退陣を表明し、三木武夫内閣が誕生した。月刊文藝春秋の「田中角栄研究--その金脈と人脈」(立花隆)によって金権実像を暴露されたことが田中首相退陣のきっかけになった。また、小野田寛郎がフィリピン・ルパング島で30年ぶりに救出されたのも、この年。
『カモメのジョナサン』『ノストラダムスの大予言』がベストセラーになり、『GORO』が創刊された。昨日、セブンイレブンでは『週刊プレイボーイ』が成人誌の棚に置かれていると聞いて驚いたが、今も『GORO』があったなら、間違いなく成人誌扱いなんだろうなぁ。
芸能界では、ドリフターズの荒井注が脱退し、代わりに志村けんがメンバー入りした。歌謡曲・フォークは、『赤ちょうちん』『精霊流し』『結婚するって本当ですか』等が流行った。
同年、生まれた野球選手には 松井秀喜
がいる。長嶋茂雄が現役引退した年に松井が生まれたのは、別趣の興味をそそる。今年、2人揃って国民栄誉賞を受賞した。写真は5月5日、東京ドームの風景。打者は長嶋、捕手は原辰徳、主審は安倍晋三。この写真に写っていないが、投手は松井。~『長嶋茂雄・松井秀喜の絆』展にて撮影~
【1890(明治23)年】インブリ―事件が生ん… 2025.02.08
【1903年】早慶の初顔合わせの日。 2025.02.06
【1901年】東京専門学校(後の早大)に野… 2025.01.29
PR
Keyword Search
Calendar
Comments