前回の続き。
三原脩
は、初めて優勝を狙えるチームに導くように見えた。それまで万年最下位だった近鉄が、その年は4位に躍進。そして翌69年は阪急と最後まで優勝争いを展開するまでになった。しかし、三原の3年目、最終年の70年は打撃陣の不振が響き、結局3位に終わった。
70年は、前年に発覚した「黒い霧」が球界を覆った。同年3位だった近鉄も例外でなかった。球団広報課長が八百長事件に仕組んだ疑いで永久追放処分になり、主力打者の土井正博も(黒い霧事件とは無関係だが)常習賭博の容疑で大阪府警に取調べを受けるなど、近鉄も不祥事が続いていた。本気で初優勝を賭けて臨んだシーズンは不本意な成績で終わり、シーズン終了とともに、三原は近鉄の監督を辞した。
しかし、三原は退団の理由を誰にも語らなかった。東京の自宅に帰り、家族には「もう二度と、東京を離れるつもりはない」とだけ話し、自叙伝『風雲の軌跡』には、「私としては、不本意なやめ方であり、その理由については、いいたくない」とだけ書かれていた。
■三原が退団した理由について、作家・立石泰則さんは著書『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』(小学館文庫)にこう書いている。
「契約更改の度に生じた(三原の)退団騒動、トラブル等々。近鉄本社・球団首脳と三原との軋轢は深まりこそすれ、解消へ向かうようなことはなかった。そこには、西鉄および大洋時代と違って監督業だけに専念してきた3年の間に、三原が近鉄を見限る深刻な問題があったはずである。それは同時に、三原が西鉄でも大洋でも経験してきた親会社と球団の関係に象徴される古い体質とも無関係ではなかっただろう」。
それは、常にビジネスライクな考え方をする三原と、所詮球団は本社の広告塔に過ぎないと考える経営者層との、埋めようもない溝とでも言おうか。実績に見合った収入を要求する三原に対し、「近鉄の天皇」と呼ばれた佐伯勇球団オーナーは頑として首を縦に振らなかった。
お互いの溝は深まるばかりだった。
■後に近鉄の監督を経験した関口清治が近鉄の「タニマチ体質」を述懐し、三原が近鉄を見限った理由を推測する。以下も『魔術師‐‐‐』より。
「近鉄には月1回、朝飯会というのがあって、傍系会社の社長や重役が集まるんです。佐伯会長のあいさつがありますから。近鉄の監督も大阪におるときは、そこに出ていくんですよ。重役たちは鶴岡さんや川上さんの解説を聞いて、私に『なんで、あのときにあの選手を使わなかったんや』と詰問されることが度々でした。いろいろ事情があるのですが、そんなことは解説者は知りませんわな。だから、全然違うんですよ。ところが、お偉いさんたちは、解説者の話を聞いて、もう目茶苦茶言うとりますわ。近鉄は、本当に周囲がうるさかったですよ」。
ある日、関口は佐伯に試合中の作戦について質問されたことがあった。
「エンドランやバント、あるいは盗塁をさせるでしょう。あるとき、佐伯会長が『それは監督の独断でやるのか』と聞かれるので、『えぇ、独断です』と答えたんです。すると、『それは駄目だ。コーチとかみんな集めて、相談してやりなさい』と言われるんですよ。それでは試合がどんどん流れていきよるし、間に合わないと説明すると、『独断でやるのも結構だが、それは間違えがあるぞ』といわれる。こんなんばっかりですよ」。
■三原の監督在任中も同様だったことは想像に難くない。お金の問題と球団の体質と。ただ、それが退任の本当の理由だったかは分からないが・・・。
そしてもうひとつ、当時の三原を悩ませていたことがある。前年1969年(昭和44年)秋に発覚した「黒い霧」が古巣西鉄ライオンズを直撃したことだ。
「なぜ、西鉄がこんなことになってしまったのか・・・」
三原の嘆きの声である。
そして、この時、西鉄の監督が娘婿の中西太だったことが、一層に三原の悩みを深くした。
※続きは、いずれ。
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