以下、ディリースポーツより。
中日で4番打者を務め、全国野球振興会の理事長を務める森徹(もり・とおる)さんが6日午前8時52分、肝細胞がんのため東京都文京区の日本医大病院で死去した。78歳だった。
森さんは昭和30年代の中日を支えたスター選手だった。早大から入団した1958年、新人王はライバル長嶋茂雄に譲ったが23本塁打をマーク。翌59年には二冠王となった。
プロレスのスター、力道山との親交も人気に拍車をかけた。森さんは旧満州生まれ。幼いころ大相撲の巡業があり、森さんの母・のぶさんが当時新弟子だった力道山の面倒を見た関係で兄弟のような付き合いになったという。入団発表では後見役として同席したほどだった。
■大和球士著『野球百年』(時事通信社)に、 森徹
さんについて記述した箇所を見つけました。それは、昭和33年(1958年)の「未来の未来の担い手たち」と題した文章の中にありました。
「時代の要求するものは、未来の担い手である。川上、藤村らのあとを受けて立った中西、豊田らの次ぎの旗手は・・・
西鉄の稲尾投手、巨人の長嶋三塁手、中日の森外野手などの超大物に期待するところが大であった。プロ野球がつねに求めているのは英雄である。ようやく水準に達した程度の選手が何百人いたところで、プロ野球は繁栄しない。つねに英雄を必要とする」。
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(写真)早稲田大時代の森徹。最近の早稲田打線では見かけない「ごつい」身体、そして打撃フォームです。
■この年は、森さんのルーキーイヤーでした。さっそく中日で22本の本塁打を放つ活躍を見せ、大和さんの期待もよほど大きかったのでしょう。また学生時代は長嶋茂雄さんと並び賞されるほどの打者でしたから、神宮でいったいどんな活躍を見せたのか。そのことを知りたくなり、遅まきながら、森さんの学生時代を雑誌『大学野球 熱闘史』(ベースボール・マガジン社、写真も)で調べることにしました。
森さんについて記述があったのは、1955年(昭和30年)秋季リーグ戦でした。森さんが早稲田大2年生の時です。
雑誌の記事は、こんな一文から始まります。
「55年度は明大・秋山登、慶大・藤田元司、早大・木村保のビッグ3が実力を発揮ーーー」。
秋山登、藤田元司、懐かしい名前が並びます。続けて、
「早稲田は最終週の早慶戦で勝ち点を挙げれば完全優勝の天皇杯が決まる。そして1勝1敗で迎えた第3戦は延長11回までもつれ、11回表、早大の宮崎義郎が安打で出塁すると、北崎健二が手堅く送って一死二塁で森を打席に迎えた。慶大ベンチは森を敬遠して松岡雅俊との勝負も考えたが、藤田元司は勝負。ボールが2球先行した後の高めのカーブを森は左中間の慶大応援席まで運んだ。
『ファーストストライクを狙うのが僕のスタイルですが、ツーボールだったので今度こそ好球が来ると思って食らいつきました』と森。真ん中高めのカーブには、『ウィークポイントと紙一重。低めだったら打てなかった』と森は冷静に振り返った」。
先週のTV番組『サンデーモーニング』でも紹介していましたが、森さんの活躍を最も示す場面は、どうやらこの本塁打だったようです。
■雑誌『大学野球 熱闘史』には、ほかに早慶戦第2戦のエピソードも紹介していました。
「藤田が序盤に3点を失い、慶大の阪井盛一監督が投手交代を決断したが、佐々木信也主将らが強固に反対して続投になると、ここから藤田は立ち直る・・・」。
監督の決断を選手が覆すなんて本当にあるのか? と不思議ですが、実際にそれをやったのは、後に高橋ユニオンズに入団する佐々木信也さんでした。この名前も、とても懐かしい!
■さて、この55年秋季リーグ戦のベストナインは、森さんが外野手部門で、二塁手は佐々木信也、三塁手は長嶋茂雄がそれぞれ選出されました。そして外野手には立教・大沢昌芳(啓二)の名前もありました。これは「大沢親分」ですね。
ちなみに同年春季リーグ戦も森さんは外野手として選出されていますが、ほかには明大選手の名前がずらりと並びます。投手・秋山登、捕手・土井淳、一塁手・近藤和彦。近藤はまだ2年生でしたが、後にこの3人は大洋の主力選手として活躍することになります。![]()
(写真)早稲田大が森徹の一発で優勝を決め、森茂雄監督を胴上げ。この後に森徹も胴上げされた。
※森茂雄監督は後に大洋の球団社長に転じ、三原脩を大洋監督に招へいする。またドラフトでは荒川尭を指名し、荒川の勧誘に追われることになる・・・。
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