いまプロ野球界は、野球賭博の話題で持ち切りであります。が、しかし、当ブログはそれをスルーさせていただき、【大和球士著『野球百年』を後ろから読む】シリーズを続け、どんどん時代を遡っていきたいと思います。前回が1961年でしたので、今回は1960年(昭和35)のことです。
■この当時、世の中では「安保(反対)闘争」が吹き荒れました。東大生の樺美智子さんが警察隊と衝突して亡くなったのもこの年です。時の岸信介首相はデモを矮小化するため「野球場や映画館は満員」(つまり、国民の大多数はデモ隊とは関係なしに野球等に興じている)と発言、さらにNHKに対して「偏向報道」と警告して物議を醸しました。なんだか昨今の権力者の言動と酷似していますね。
また、朝日訴訟について東京地裁による違憲判決があったのもこの年ですし、カラーテレビの本放送が開始され、歌謡界では西田佐知子の『アカシアの雨がやむ時』がヒットしました。♬アカシアの 雨に打たれて このまま 死んでしまいたい~♪ 西田佐知子はなぜ死にたかったのか、その歌詞までは覚えていませんが。
■そんな混沌とした様相は、プロ野球界においても同様でした。昨年まで西鉄ライオンズを率いて数々の実績を作った 三原脩
が、万年最下位だった大洋の監督に就任するや、いきなりリーグ優勝、日本一を果たし、それまであった球界の序列をたった一年で覆してしまったのですから。
大和球士さんは、尊敬の念を込めて三原さんを「教祖」と呼びます。そして、日本一に導いた勝因として2つの点を挙げます。ひとつは、実績十分の三原に対して選手たちは無条件心服であったこと。二つ目は、三原はその選手心理を利用して、教祖的な態度を貫いたこと。
たとえば、大和さんは、こんな例を挙げています。以下、『野球百年』(時事通信社)より引用。
「監督就任直後のキャンプの第一声は、
『・・・こんなに優秀な選手が多くいるチームとはキャンプインまで知りませんでした。優勝する実力のあるチームです』。
前年度までビリ専門だったチームを知っている記者たちは、当然疑問を抱く。ところが、三原教祖のご託宣はこう続く。
『優勝チーム・・・と私が言うと諸君(記者)は疑うが、疑うほうがどうかしている。形は違うが秋山は稲尾級の勝星を挙げられる投手だし、近藤和、桑田の打力は豊田、中西に匹敵します。捕手土井に至っては西鉄に見当たらぬ好捕手ですよ・・・』。
ま、それはさておき、活字になった三原談は、選手たちの長年の劣等感を吹き飛ばし、自信を植え付ける。マスコミを利用する技術では三原は抜群である。と同時に、三原は選手に催眠術をかけたのだ。
■まさに三原魔術とでも言いましょうか。でも、大和さんの挙げる上記2点だけで日本一になれるはずもありません。大洋の改革には、まだまだ他の要素も、あちこちに散りばめられていました。
球団常務という肩書をつけて大洋に乗り込み、まず三原の野球観を土井淳捕手を利用して他選手に徹底的に教え込んだことが挙げられます。そしてマスコミの関心を集める目的で、意図的に春季キャンプをどのチームよりも早く開始したこと(つまり、記者にとってネタ枯れの時期ゆえ、皆、大洋のキャンプを訪れる!)や、成績が伴わずに腐っていた投手を再生させる(権藤正利)、他球団で燻ぶっている選手を引き抜く(近鉄・鈴木武)などの戦術も見逃せません。
ちなみに、優勝した昭和35年のベストオーダーは、下記のとおりです。
1(8)渡辺清
2(7)岩本堯
3(3)近藤和彦
4(5)桑田武
5(9)黒木基康
6(4)近藤昭仁
7(6)鈴木武
8(2)土井淳
そしエースは、もちろん秋山登でした。
(写真)日本一のチャンピオンフラッグを背に、三原脩監督(右)と中部謙吉オーナー。~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より。
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