前回の続き。 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201603100000/
■かくして 三原脩
率いる大洋がセ・リーグを制しましたが、開幕当初は6連敗を喫する不運に見舞われました。なぜか? その理由は「牧野バット放り投げ事件」と「秋山昏倒事件」にありました。
それは開幕当日に起きました。試合前、大洋と対戦する中日のノッカー・牧野茂コーチが、大洋の選手たちにからかわれ、ふざけ半分に大洋ベンチへ放り投げたバットがクルクルと回転して、ベンチの最前列に腰かけていた秋山登の頭部を直撃したのです。(なんと!)ちょっと信じられない話ですが、これは本当の話。決して他意のない冗談(あそび)のはずでしたが、秋山は昏倒したまま救急車で病院に運ばれる憂き目に。 診断結果は「一週間の安静」でした。
つまり大洋6連敗の原因はエース・秋山の不在であり、それだけ秋山は大黒柱的な存在でした。振り返れば三原さんは名将であったものの、エースの酷使で勝ち星を稼ぐタイプと言うこともできそうです。西鉄時代の稲尾和久もしかり。三原采配には、絶対的なエースの存在が欠かせません。
西本幸雄
監督の大毎でした。西本さんもこの年就任した新人監督。自慢の「ミサイル打線」が炸裂しての優勝ではありますが、他球団の弱体化という点も見逃せません。大和さんは言います。以下、『野球百年』(時事通信社)より。
「(2年前の)昭和33年に優勝した西鉄は前半で脱落した。三原の後に川崎が監督として座ったが、三原の大洋行きの気持ちが一年前から球団内外に漏れていただけに、ナインの結束をはばんだようであり、34年度と同じように故障者が続出した。(前年の)34年優勝の南海は、阿修羅の活躍をして優勝をもたらした杉浦が二年続けて勇投したが孤立無援、杉浦をカバーする投手の台頭がなかった」。
■セは大洋、パは大毎が制して、両チームによる日本シリーズが行われました。打撃に優れる大毎が有利と下馬評はありましたが、西本さんに悲劇が襲い、結果、大洋に軍配が上がりました。西本さんの悲劇、それは昭和54年の「石渡のスクイズ失敗」と重なる、西本さんにとって苦い経験でした。
<関連記事>
近鉄・石渡茂のスクイズ失敗
http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201304160000/
(写真)大毎オリオンズのミサイル打線。左から葛城隆雄、榎本喜八、田宮謙次郎、山内和弘、柳田利夫、矢頭高雄、八田正。~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より。
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