2006年03月13日
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高浜虚子
 先日《こなひだ》横山大観氏が席上揮毫《せきじやうきがう》で、画絹《ゑきぬ》の書損《かきそこな》ひをどつさり栫《こしら》へて、神戸の富豪《ものもち》の胆を潰させた事を書いたが、人間の胆といふものは、大地震《おほぢしん》や大海嘯《おほつなみ》の前には平気でゐて、却《かへ》つて女の一寸した嘘《くさみ》や、紙片《かみきれ》の書潰しなどで、潰れる事があるものなのだ。
 高浜虚子民が以前|何《なん》かの用事で大阪に遊ぴに来た事があつた。その頃|船揚《せんは》辺の商人《あきうど》の坊子連《ぼんちれん》で、新しい俳句に夢中になつてる連中は、ぞろぞろ一|団《かたま》りになつて高浜氏をその旅宿《やどや》に訪問した。
 愽労《ばくらう》が馬の話をするやうに、俳人といふものは寝ても覚めても俳句の話で持ち切ってゐるものだ。坊子連は俳句が十七字で出来上つてゐるのは、離縁状が三行半《ばんちれんくだりはん》なのと同じやうに定《ぎま》つた型である事、その離縁状が偶《たま》に四|行《くだり》になつても構はないやうに、俳句にも字余りがある事、その字余りは成るべく三十字迄にしておき度い、何故といつて三十一文字になると、和歌に差支《さしつか》へるからといふやうな事を話し合つて、鼻を鳴らして喜んだ。
 そのうち一人の坊子《ぼんち》が懐中《ふところ》から短冊《たんざく》を一束取り出した。そして、
 「先生、何でもよろしおますよつて、御近作を一つ::」
といつて、大阪人に附物《つきもの》の茶かすやうな笑ひ方をした。
 高浜氏は黙つてその短冊を取り上げて太いぶつきら棒な字で何だか五文字程|認《したゝ》めたと思ふと、急に厭な顔をして、
 「拙《まづ》いな、何《ど》うしたんだらう……」

 かうして高浜氏は続《つど》け様《ざま》に五六枚ばかし暴《やけ》に引裂いた。短冊は本金《ほんぎん》を使つた相応《かなり》上等な物だつたので、勘定高い坊子《ぼんち》は、その度《たび》に五十銭が程づつ顔を歪めてゐたが、やつと高浜氏が最後の一枚に何か認《したゝ》めて投出して呉れた時にはとうと泣出しさうな顔になつてゐた。
 そこに居並んでゐた連中はみんな懐中《ふところ》にそれく\短冊を忍ばせてゐたが、何《なに》も彼《か》も引裂かないでは承知し兼ねまじき高浜氏の顔色《がんしよく》を見て、誰一人それを取出さうとはしないで、匆女《そこく》に座を立つて帰つて来た。
 その連中も今ではもう一|廉《かど》の俳人気取りで、田舎者の前などで、矢鱈《やたら》に短冊の書損ねを行つてゐる。何事も進化の世の中である。ダアヰンもさう言つてゐた。





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最終更新日  2006年04月16日 21時16分08秒
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