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画《ゑ》の謝礼 寺崎広業、小堀|靹音《ともね》、川合玉堂、結城素明《ゆふきそめい》、鏑木清方、平福《ひらふく》百|穂《すい》などいふ東京の画家は、近頃呉服屋が画家《ゑかき》に対して、随分得手勝手な真似をするので、懲らしめの為に、高島屋の絵画展覧会には一切出品しない事に定《き》めたさうだ。 それには呉服屋が店の関係上、上方の栖鳳や春挙の作に比べると、東京側の作家のものを、幾らか値段を低くつける傾向《かたむき》があるにも依るらしいといふ事だ。 大分以前京都のある呉服屋が栖鳳、香矯、芳文、華香の四人に半截を一枚宛頼んだ事があつた。出来上つてから店の番頭が金子《きんす》一封を持つて華香氏の許《とこ》へお礼に往つたものだ。 猫のやうな京都画家のなかで、唯《たつた》一人|帆《ほ》える事を知つてゐる華香氏は、番頭の前でその封を押切つてみた。(むかしく大雅堂は謝礼を封の儘、畳の下へ投《ほ》り込んで置いたといふが、その頃には狡い呉服屋の封銀《ふうぎん》といふ物は無かつたらしい。)なかには五十円の小切手が一枚入つてゐた。 「五十円とは余りぢやないか。」と華香氏は番頭の顔を見た。番頭は小鳥のやうにひよつくり頭を下げた。 「でも香矯先生にも、芳文先生にもそれで御辛抱願ひましたんやさかい。」 華香氏は鼻毛を一本引つこ抜いて爪先で番頭の方へ弾《はじ》き飛ばした。 「ぢや栖鳳君には幾ら払つたね。」 番頭はさも困つたらしく頸窩《ぼんのくぼ》を抱へた。 「栖鳳さんは店と特別の関係がおすもんやさかい…:.」 「ぢや百円も払つたかな。」 華香氏は坐禅をした人だけに、蛙のやうに水を見ると飛ぴ込む事を知つてゐた。 「へ、ゝ……まあ、そんなもので。」と番頭は一寸お辞儀をした。 「ぢや、竹内君をも怒らせないで、後《あと》の私達三人をも喜ばせる法を教へようかな。」と華香氏は大真面目な顔をして胡坐《あぐら》を組んだ。 先刻《さつき》から大分痛めつけられた番頭は、「是非伺ひませう」と一膝前へ乗り出した。それを見て華香氏は静かに言つた。 「竹内君のを私達の並《なみ》に下げよとは言はないから、私達のを竹内君並に引き上げなさい。よしか、判つたね。」 呉服屋に教へる。東京画家のもこの秘伝で往つたら、大抵円く納まらうといふものだ。
2006年05月01日
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蓄音機 尾崎咢堂氏はまた政談の蓄音機吹込を始めたらしい。大隈内閣の総選挙当時にも、氏は今度と同じやうな事をやつた。そしてそれを方女に担ぎ込むで、自分の代りに喋舌《しやべ》らしたものだ。この方が汽車賃も要らねば、旅宿《はたご》賃・もかゝらないのだから、地方人に取つて、どれ丈《だ》け便利か判らなかつた。 その吹込蓄音機は、尾崎氏の徒党《みかた》に随分担ぎ出されたものだが、反対党で居て、それを選挙の道具に使つたのは国民党の高木益太郎氏|唯《たつた》一人きりだ。 高木氏は演説会の会場前へいつも高木尾崎立会演説と大きく触れ出したものだ。物好きな傍聴人が、軍鶏《しやも》の蹴合《けあ》ひを見るやうな気持で会揚へぎつしり詰《つま》ると、高木氏は例の尾崎氏の吹込蓄音機と一緒に演壇へぬつと出て来る。 で、先づ先輩からといふので、その蓄音機をかけると、尾崎氏の吹込演説は感冒《かぜ》を引いたやうな掠《かす》めた声で喇叭《ラツパ》から流れて出る。 いい加減な時分を計つて、高木氏が一寸指先を唇に当てると、蓄音機は礑《はた》と止つて、高木氏が一足前へ乗り出して来る。 「唯今尾崎君はあんな風な事を言つたが、吾々江戸つ子の立揚から見ると……」と、江戸ッ子自慢の聴衆《きゝて》が嬉しがりさうな事を言つて、小《こ》つ酷《びど》く尾崎氏の演説をきめつける。 で、幾度かこんな事を重ねて、高木氏の最後の駁論《ぱくろん》が済むと、氏はくるりと蓄音機の方へ向き直る。 「何《ど》うだ尾崎君、君の説は僕の駁論のために滅茶滅茶になつたが、異見があるなら、言つてみ給へ。こゝには公平なる江戸ッ子諸君が第三者として聴いてゐられるんだから。」と勝ち誇つた軍鶏《しやも》のやうに一寸気取つてみせる。弾機《ばね》の弛《ゆる》んだ吹込蓄音機は黙りこくつて、ぐうともす、つとも言はない。 高木氏は一足前へ進んで、 「どうだい、尾崎君、恐れ入つたかね。議論があるなら言つてみ給へ。参つたのだつたら何も言はなくともい丶。」と扇子の先で、蓄音機の喇叭を二つ三つ叩いてみせる。喇叭は悲しさうな顔をしてくるりと外方《そつぽ》を向く。 「どうです、皆様《みなさん》、尾崎君もあんなに恐れ入つて恥かしがつてゐますから、まあ今日はこれで許してやりませう。」といふが落《おち》で、演説会は閉会となる。かくて高木氏は高点を収めて安々《やす/\》当選した。
2006年05月01日
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脅《おど》かせ ビスマルクが或時|仲善《なかよ》しの友達と連立つて猟に出た事があつた。すると、何《ど》うした機《はづ》みか友達は足を踏み滑らして沼地《ぬまぢ》に陥《はま》つた。 友達は慌ててビスマルクを呼んだ。 「君お願ひだから遣《や》つて来て僕を捉《つか》まへて呉れ、さもないと僕は沼地《ぬまぢ》に吸ひ込まれてしまふ。」 ビスマルクは大変な事になつたなと思つたが、強ひて平気な顔をしてゐた。 「馬鹿を言ふない、僕が其処《そこ》へ飛ぴ込んで見ろ、一緒に吸ひ込まれてしまふばかりぢやないか。」とビスマルクは相手が狗《いぬ》のやうに腕《もが》いてゐるのを見た。「もうかうなつちや、迚《とて》も助かりつこは無い。君がいつ迄も苦しんでるのを見るのは僕も辛《つら》いから、一思ひに打ち殺してやらう。」 ビスマルクはかう言つて、平気な顔で身動きの出来ない友達に狙《ねら》ひをつけた。 「おい、じつとして居ないか、的《まと》が狂ふぢやないか。僕は寧《いっ》そ一思ひに遣《や》つ付けたいから、君の頭に狙ひを付けてるんだ。」 ビスマルクの残酷な言葉に、友達はもう泥淳《ぬかるみ》の事など思つてゐられなかつた。何でも相手の銃先《つゝさき》から遁《のが》れたい一心で、死物狂《しにものぐるひ》に腕いてゐるうち、古い柳の根を発見《めつ》けて、それに縋《すが》つてやつとこさで這《は》ひ上《あが》る事が出来た。 ビスマルクは笑ひく銃を胸から下した。その糞落付《くそおちつき》が自分を救つたのだなと気づいた友達は、 「君有難かつた/\」と溝鼠《どぶねずみ》のやうな身体《からだ》をして、両手を拡げて相手に抱きつかうとした。ビスマルクは慌てて逃げ出した。 「もう好《よ》い/\。そんな様《ざま》をしてお礼などには及ばんよ。」 神戸の船成金|勝田《かつだ》氏は国民党の立場を気の毒に思つて、三十万円もふり撒くといふ墫がある。それも一つの方法には相違ないが、もつと好《よ》いのは、ビスマルク流に落選でもしたら、犬養始め皆の首根つこを縊めると脅かす事だ。ーすると五十人は屹度当選する。
2006年05月01日
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有松英羲 今法制局長官の椅子に踏ん反りかへつてゐる有松英義氏が、まだ三重県知事をしてゐた頃、恰《ちやう》ど今時分月が瀬の梅を見に出掛けた事があつた。 その頃月が瀬には、俥《くるま》に狗《いぬ》の先曳《さきびき》がついて、阪路《さかみち》にかゝると襷《たすき》に首環《くびわ》をかけた狗が、汗みどろになつてせつせと悼の先を曳いたものだ。 有松氏はずつと前から、自分の管内にさういふ忠実《まめ》な狗が居る事を自慢にしてゐた。で、その日も出迎への律の先に鱇躍《かいつくぱ》つてゐる暹《たくまし》い狗を見ると、 「これだな、例の奴は。」と言つて、属官を振かへつて、一寸にやりとした。 だが、狗はその折華族の次男と同じやうに雌の事を考へて無中になつてゐたので、知事の愛矯に一向気がつかなかつた、よしんば気が注《つ》いた所で、相手を夢にも有難いお客とは思はなかつたに相違ない。 有松氏は俥の蹴込《けこみ》に片足をかけた。その瞬間俥のすぐ前を雌狗が一匹通りかゝつた。先曳の狗はそれを見ると、後藤内相のやうに猛然と起《た》ち上つた。 機《はずみ》に俸がずるくと引張られると、知事は後《あと》の片足を踏み外していきなり前へのめつた。属官は可笑《をか》しさを噛《か》み堪《こら》へるやうな顔をして飛んで側《そぱ》へ往つた。 知事は真紅《まつか》な顔をして起き上つた。属官は自分の疎忽《そこつ》のやうにお辞儀をしい/\フロツクコートの埃を払つた。フロツクコートは綺麗になつた。だが、肝腎の顔は何《ど》うする訳にも往《ゆ》かなかつた。有松氏の顔は名代の痘痕面《あばたつら》なので、その窪みに入り込んだ砂利は、おいそれと手《て》つ取早《とりばや》く穿《ほじ》くり出す事が出来なかつたのだ。 有松氏は月が瀬に着く迄何一つ喋舌《しやべ》らなかつた。花を見ても石のやうに黙りこくつてゐた。そして県庁に帰ると、属官を呼ぴ出して、月が瀬の狗は動物虐待だから、屹度差止めると厳しく言ひつけた。 月が瀬名物の狗の先曳はそれで御法度《ごはつと》になつた。それから幾年か経つた今日この頃、花は咲き、人は法制局長官になつて、どちらもにこ/\してゐる。
2006年05月01日
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侯爵夫人 東京市の政友会新侯補者|添田《そへだ》増男氏に対して、鳩山春子夫人が伜《せがれ》一郎氏のために躍起、運動を始めた。凡《すべ》て女の運動といふものは勝手口にも政治界にも利目《きゝめ》のあるもので、添田氏は手もなく頭を引込めた。お蔭で一郎氏の地盤は先づ保証される事になつた。 鳩山夫人のこの振舞を見て、甚《ひど》く癪《しやく》にさへたものが一人ある。それは当の相手の添田氏でも無ければ、添田氏の夫人でもない。この頃の寒さに早稲田の応接間で、口を歪めて縮《ちど》かまつてゐる大隈侯の夫人綾子|刀自《とじ》である。 侯爵夫人はもとから春子夫人のお喋舌《しやべり》とお凸額《でこ》とが気に入らなかつたが、鳩山和夫氏が旧友を捨てて政友会へ入つてから一層それが甚《ひど》くなつた。 侯爵夫人の考へでは、早稲田から神楽坂へかけて牛込一体は、自分の下着の蔭に、小さくなつてゐなければならぬ筈だのに、その中で春子夫人が羽を拡げて飛ぴ廻るのだから溜らない。 「添田など何だつてあんなに意気地が無いんだらう。鳩山の寡婦《ごけ》に口説き落されるなんて。」と侯爵夫人がやきもきしてゐる矢先へ、ひよつくり顔を出したのは早稲田の図書館長は市島《いちじま》謙吉氏だつた。侯爵夫人は有るだけの愛矯を振り撒いて迎へた。そして市島氏が椅子に腰を下すなり、もう口説《くどき》にか\つた。 「市島さん、今度の選挙に牛込から出なすつたら如《いか》何。私及ぶ限りの御尽力は致しますよ。」 市島氏はその折古本の事ばかり考へてゐたので、侯爵夫人の言葉が何《なに》の事だか一寸呑み込めなかつた。だが、こんな時|間《ま》に合せの笑ひを持合せてゐたので、 「へへへへ……」と顔を歪めて笑ひ出した。そして暫く経つてから漸《やつ》と返事をした。 「何だつて突如《だしぬけ》にそんな事を仰有るんです。」 侯爵夫人は側《そば》にゐる大隈侯の顔をちらりと見た。侯爵は鱈《たら》の乾物《ひもの》のやうな顔をして凝《じつ》と何か考へ込んでゐた。 「でも、私鳩山の寡婦《ごけ》が其辺《そこら》を走り廻つてるのを見ますとほんとに癪でね……」 「成程、御尤《ごもつとも》で……」と市島氏は型のやうに一寸頭を下げた。そしてその次ぎの瞬間には文求堂の店で見た古い唐本《たうほん》の値段の事を考へてゐた。
2006年04月01日
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竹越《たけごし》夫人 「阿母《おつか》さん、お金を下さい。」 竹越三|叉《さ》氏の、中学へ行つて居る息子さんは、上《あが》り端《はな》に編上げ靴の紐を解《ほど》くと、直ぐに追はれる様に駈け上つた。阿母《おつか》さんの竹代夫人は、その声にこの頃凝つて居る座禅を止《や》めて、パツチリと眼をあけた。 「お帰り、いくらです。突然に、何にするの。」 「え\、十円。」 十円11中学へ行く子の要求としては少し多過ぎた。つい、この頃まで、物の値段も知らなかつたその子が何にするのか。兎も角何か目論《もくろ》んで、その費用を要求するといふ事は、子供の次第に一人前の人間になつて行く事を裏書する様なもので、一方には言はう様のない頼もしさがあつた。 「十円、何を買ふの。」 「えゝ、万年筆を買ふんです。」 「ちと高過ぎはしなくて。」 阿母《おつか》さんの頭には、電車の車内広告の頭の禿げた男が、万年筆を捧《さし》げ銃《つゝ》の形にした絵が思ひ出された。それには二円八十銭より種々《いろ/\》とあつた。が息子の方が、一足お先に母親の胸算用を読んでしまつた。 「ね、二円七八十銭からも有るにはあるけれど駄目なんです。友達は誰一人そんな安いの持つてないんですもの。」 賢明を誇る阿母《おつか》さんは、手も無く十円の万年筆を買はされた。然《しか》し腹の底では、その学校の当局者が、そんな賛沢な万年筆を、学生|風情《ふぜい》に持たせてゐるといふ行《や》り方が気に喰《く》はなかつた。 「宅《うち》の人の二千五百年史なんか、二銭五厘の水筆《すいひつ》で書き上げたんぢやないか、真実《ほんと》に賛沢な学校だよ。」 で、ある時竹代夫人は、何かの用事で学校に出掛けて、校長に会つた時、それとなく皮肉を言つた。校長は眼を円くして聞いてゐた。(それに無理もない。校長は万年筆が欲しい/\と思ひながら、十年|以来《このかた》鉛筆で辛抱してゐたのだ。)夫人の帰るのを待つて、生徒の誰彼は呼ぴ出されたが誰一人万年筆は持つて居なかつた。そして最後にたつた一人あつた。その名は竹越某。
2006年04月01日
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中村不折 洋画家中村不折氏の玄関には銅鑼《どら》が吊《つる》してある。案内を頼む客は、主人の画家《ゑかき》の頭を叩く積りで、この銅鑼を鳴らさねばならぬ事になつてゐる。 ところが、来る客も来る客も誰一人銅鑼を叩かうとする者が無い。皆言ひ合せたやうに玄関に立つて、 「頼まう。」とか、または、 「御免やす。」とか言つて案内を通じる。 何事も他《ひと》の云ふ事には聾《つんぼ》で、加之《おまけ》に独断《ひとりぎめ》の好きな不折氏も、これだけは合点が往《ゆ》かなかつた。で、お客の顔さへ見ると、六朝《 りくりてう》文字のやうに肩を変な恰好に歪めて、 「宅《うち》の玄関には銅鑼が吊《つ》つてありますのに、何故お叩きになりません。まさか君のお目につかなかつた訳でもありますまい。」 幾らか嫌味交《いやみまじ》りに訊いてみる。 すると、誰も彼もが極《きま》つたやうに、 「いや、確かに拝見しましたが、あれを叩くのは何だか気が咎《とが》めましてね、恰《ちやう》どお寺にでも詣《まゐ》つたやうな変な音がするもんですから。」と言ふので、自分を雪舟のやうな画僧に、(残念な事には雪舟は不折氏のやうな聾《つんぼ》では無かつた)自宅《うち》を雲谷寺のやうな山寺と思つてゐる不折氏は、顔の何処かに不満足の色を見せずには置かなかつた。 だが大抵の客は用談が済んで帰りがけには、玄関まで見送つて出た不折氏の手前、 「成程結構な銅鑼だ。どれ一寸……」と言つて極《きま》つたやうに銅鑼の横《よこ》つ面《つら》を厭といふ程|叩《どや》し付ける。銅鑼は急に腹が減つたやうな声をして唸り出す。 「これはく雅致のある音《ね》が出ますね。」と客が賞《ま》め立てでもすると、不折氏は顔中を手布《ハンケチ》のやうに皺くちやにして、 「お気に入りましたか、ははは……」 台所で皿でも洗つてゐたらしい女中は、銅鑼の音を聴いて、あたふた玄関へ飛ぴ出して来ると、其処《そこ》には帰途《かへりがけ》の客と主人とが衝立《つゝた》つて、今鳴つたばかしの銅鑼の評判をしてゐる。 「まあ、帰りがけの悪戯《てんがう》なんだわ。」と女中は、腹立たしさうに余計者の銅鑼を睨《にら》まへる。 神よ、女中をして同じやうな聾《つんぼ》ならしめ給へ。
2006年04月01日
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お愛嬌 リンコルンと云へば、亜米利加中の人間の苦労と悲しみとを自分一人で背負《しよ》ひでもしてゐるやうな、気難かしい、悲しさうな顔をしてゐる大統領であつた。 日本でも内村鑑三氏などはリンコルンが大好きで、「君のお顔はどこかリンコルンに肖《に》てゐる。」と言はれるのが何よりも得意で、精《せい/\》々悲しさうな顔をしようとしてゐるが、内村氏には他人《ひと》の苦労まで背負《しよ》はうといふ親切気が無いので、顔がリンコルンよりも、リンコルンの写真版に肖てゐる。 将軍ウヰルソンが或《ある》時コネクチカツトの議員を仕《し》てゐる自分の義弟|某《それがし》と、リンコルン大統領を訪ねた事があつた。ウヰルソンの義弟といふのは、身《み》の丈《たけ》七尺もあらうといふ背高男《のつぽ》で、道を歩く時にはお天道様《てんとうさま》が頭に支《つか》へるやうに、心持|背《せな》を屈《かど》めてゐた。 リンコルンは応接室に入つて来たが、室《へや》の中央《まんなか》に突立つてゐる背高男《のつぽ》が目につくと、挨拶をする事も忘れて、材木でも見る様に履《くつ》の爪先《つまさき》から頭に掛けて幾度か見上げ見直してゐる。材木は大統領の頭の上で馬の様ににや/\笑つた。 「大統領閣下お初にお目に懸ります。」 「や、お初めて。」とリンコルンは初めて気が注《つ》いたやうに会釈をした。「早速で甚《はなは》だ無躾《ぶしつけ》なやうだが、一寸お訊《たづ》ねしたいと思つて……」 背高男《のつぽ》の議員は不思議さうな顔をして背を屈《かぜ》めた。 「何なりとむ。閣下。」 大統領は口許をにやりとした。 「貴方は随分お背が高いやうだが、何《ど》うです、爪先《つめさき》が冷えるのが感じますかな。」 「へゝ》…-御冗談を。」議員は頭を掻いて恐縮した。 リンコルンの愛矯と無駄口を利いたのは、一生にこれが唯《たつた》一度きりであつた。
2006年03月20日
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欠け皿 日本の遣英赤十字班が英国へ渡つた時、自惚《うぬぽれ》の強い英吉利人は、 「日本にも医者が居るのかい。」と甚《ひど》く珍しがるやうだつたが、決して歓迎はしなかつた。 一行の食事は一人前一ケ月百円以上も仕払つたが、料理はお粗末な物づくめであつた。外科医の一人は堅いビフテキの一|片《きれ》を肉叉《フオ ク》の尖端《さき》へ突きさして、その昔基督がしたやうに、 「お皿のなかのビフテキめ、羊の肉ならよかんべえ、もしか小猫の肉《み》だつたら、やつとこさで逃げ出しやれ。」と虫盤術《まじなひ》のやうな事を言つてみたが、ビフテキは別段猫に化《な》つて逃げ出さうともしなかつた。 ある時など態《わざ》と縁《ふち》の欠けた皿に肉を盛つて、卓子《テ ブル》に並べた事があつた。それを見た皆の者は絶《むき》になつて腹を立てたが、あいにく腹を立てた時の英語は掻いくれ習つてゐなかつたので、何と切り出したものか判らなかつた。 一行の通弁役に聖学院《しやうがくゐん》の大束《おほつか》直太郎氏が居た。氏は英語学者だけに腹の減つた時の英語と同じやうに、腹の立つた時の英語をも知つてゐた。氏は給仕長を呼んだ。給仕長は鵞鳥のやうに気取つて入つて来た。 「この皿を見なさい。こんなに壊れてゐるよ。」と大束氏は皿を取上げて贋造銀貨《にせのぎんくわ》のやうに給仕長の目の前につきつけた。「日本ではお客に対して、こんな毀《こは》れた皿は使はない事になつてゐる。で、余り珍しいから記念のため日本へ持つて帰りたいと思つてゐる。幾らで譲つて呉れるね。」 給仕長は棒立になつた儘、目を白黒させてゐた。大束氏は畳みかけて言つた。 「幾らで譲つて呉れるね、この皿を。」 給仕長はこの時|漸《やつ》と持前の愛矯を取《とり》かへした。そして二三度頭を掻いてお辞儀をした。 「この皿はお譲り出来ません。日本のお客様の前へ出た名誉の皿でがすもの。」と言つて、引手繰《ひつたく》るやうに皿を受取つた。そしてそれ以後、縁《ふち》の欠けない立派な皿を吟味して、二度ともう欠皿《かけざら》を出さうとしなかつた。
2006年03月20日
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洋服和服 下田歌子女史が最近大阪のある講演会で言つた所によると、最も理想的な衣服《きもの》は、日本服で、それも女房《かない》や娘の縫つたものに限るのださうな。女史が『明倫歌集』の講義をするのは惜し過ぎるやうな婀娜《あだ》つぽい口許で、 「女房《かない》や娘の縫つたものには、一針づつ情愛が籠つてゐますから。」と言ふと、その席に居合した多くの夫人令嬢達は吻《ほつ》と溜息を叶《つ》いて、 「ほんとにさうやつたわ、些《ちつ》とも気が注《つ》かなかつた。」と、それからは主人の着物を家庭《うち》で縫ふ代りに、女房《かない》や娘の物をそつくり仕立屋に廻す事に定《をこ》めたらしいといふ事だ。 悲惨《みじめ》なのは男で、これからは仕立屋の手で出来上つた、着心地《きこらち》の好《い》い着物はもう着られなくなつた。然《しか》し何事も辛抱《がまん》で、女の「不貞腐《ふてくされ》」をさへ辛抱《がまん》する勇気のある男が、女の「親切」が辛抱《がまん》出来ないといふ法は無い筈だ。 だが、下田女史の日本服推賞に対して、一人有力の反対者がある。それは広岡浅子|刀自《とじ》で、刀自は日本服などは賢い人間の着るべきものでないといふので、始終洋服ばかりつけてゐる。 この頃のやうな寒さには、刀自は護謨《こむ》製の懐中湯たんぽを背中に入れて、背筋を鼠のやうに円くして歩いてゐる。いつだつたか大阪教会で牧師宮川経輝氏のお説教を聴いてゐた事があつた。宮川氏が素晴しい雄弁で日本が明日にも滅ぴてしまひさうな事を言つて、大きな拳骨《げんこ》で卓子《テさブル》を一つどしんと叩くと、刀自は感心の余り椅子に凭《もた》れた身体《からだ》にぐつと力を入れた。その途端に背《せな》の湯たんぽの口が弾《はじ》けて飛んだ。 宮川氏のお説教を聴きながら、自分ひとり洋服のまま天国に登つた気持で居た刀自は、吃驚《びつくり》して立ち上つた。裾からは水鳥の尻尾のやうに熱い雫《しづく》がぽた/\落ちて来た。 刀自は宮川牧師を振り向いて言つた。 「でも洋服だからよかつたのです。これが和服だつたら身体中焼傷《からだぢゆうやけど》をするところでした。」
2006年03月20日
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平謝《ひらあやま》り 東京神田の駿河台に大きな病院を持つてゐる広川|和《わ》一氏といふ医学博士がある。芸者の噂でもすると、顔を真蒼《まつさを》にして怒り出すといふ、名代の堅蔵《かたざう》である。 広川氏は多くの医者がするやうに独逸へ留学をした。洋行といふものは色々の事を教へて呉れるもので、東大の姉崎〔正治《まさはる》〕博士など、日本に居る頃は芝居を外道《げだう》のやうに言つてゐたが、独逸から帰つて来ると、劇は宗教と同じく神聖なものだと言ひ出して来た。尤も姉崎博士の言ふのは劇の事で、芝居とはまた別の物らしい。 広川氏は独逸で芝居も見た。ミユンヘンの麦酒《ビ ル》も飲んだ。その上にまた劇場《しばゐ》よりも、居酒屋よりも、もつと面白いところへも往つた。そして大層賢くなつて日本に帰つて来た。 広川氏は停軍場《ステきシヨン》から一息に駿河台の自宅へ帰つて来た。そして窮届な洋服を襤袖《どてら》に脱ぎかへるなり、二階へ駆《か》け上《あが》つて、肘掛窓から下町辺をずつと見下《みおろ》した。 「かうしたところは、日本も満更悪くはないて。ーだが伯林《ベルリン》はよかつたなあ。」と、留学中の総決算をする積りで、腹の中《うち》で彼地《あつち》であつた色々の事を想ひ出してみた。そして烏のやうに独《ひと》りでにやく笑つてゐた。 すると、だしぬけに二階の階段を、二段づつ一息に駈け上るらしい足音がして、夫人が涙ぐんで其処《そこ》へ現はれた。 「貴方、これは何《ど》うなすつたの。」 夫人が畳の上へ投げつけた物を見て、広川氏は身体《からだ》を鼠のやうに小さくして恐れ入つた。 「謝る/\。もう何も言つて呉れるな。」 広川氏が平謝りに謝るのを見て、夫人は漸《やつ》と気色を直した。夫人は貞淑な日本婦人である。日木の婦人《をんな》は「貞淑」といふ文字の為には、どんな事をも辛抱《がまん》しなければならないのだ。 それにしても夫人が蛋の上に投げつけたのは何だらう。仕合せと神様と茶話記者とは其処《そこ》に居合はさなかつたので少しも知らない。
2006年03月20日
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道楽 郵便切手を集めるーといふと、何だか子供|染《じ》みた事のやうに思ふものが多い。また実際|欧羅巴《ヨさロツパ》の子供には切手を集めるに夢中になつて、日本人が偶《たま》に故国の郵便切手でも呉れてやると、 「親切な叔父さんね、だから私支那人が好きなんだよ。」と、お泄辞を振撒《ふりま》いて呉れるのがある。 だが、切手の蒐集《コレクシヨン》は決して子供染みた事ではない。堂々たる帝王の事業で、その証拠には英国のジヨォジ皇帝陛下が大の切手道楽である事を挙げたい。凡《およ》そ地球の上で発行せられた切手といふ切手は、残りなく陛下の手許に集まつてゐる。陛下が世界一の海軍と共に世界一の郵便切手の蒐集《コレクシヨソ》を誇られても、誰一人異議を申し上げるものはあるまい。 ジヨオジ陛下には今一つ道楽がある。それはタイプライタァを叩く事で、この道にかけての陛下の手際は、倫敦《ロソドン》で名うてのタイピストに比ぺても決して負《ひけ》は取られない。 だが、タイピストとしての陛下には唯《たつた》一人恐るべき敵手《あひて》がある。それは米国のウヰルソン大統領で、ウヰルソン氏がタイピストとしての手際は、大統領としての手腕よりも、学者としての見識よりも、際立つて傑《すぐ》れてゐる。 ウヰルソン氏は閑《ひま》さへあると、タイプライタアに向つてコツ/\指を動かしてゐる。ある忙しい会社の重役は、甚《ひど》く氏の手際に惚れ込んで、 「タイピストとしてうちの会社に来て呉れたら、七百弗までは出しても可い。」と言つたさうだ。してみると、氏が若い寡婦《ごけ》さんを、後妻に貰つたのは、経済の立揚から見ても間違つた事ではなかつた。
2006年03月19日
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納所《なつしよ》花婿 一|頻《しき》り世間を騒がせた結婚沙汰が取《と》り極《き》められて、愈々《いよ/\》名妓八千代が菅家《すがけ》へ輿入《こしいれ》のその当日、花婿の楯彦《たてひこ》氏は恥かしさうに一寸鏡を見ると、自分の頭髪《あたま》が栗の毬《いが》のやうに伸ぴ過ぎてゐるのに気が注《つ》いた。 「これではどむならん。何《なん》ぼ画家《ゑかぎ》やかて今日は花婿やよつてな。」と、楯彦氏は非常な決断で直ぐ理髪床《かみカひどこ》に往《ゆ》く事にきめた。 楯彦氏はいつも頭をくりくり坊主に剃る事に定《き》めてゐるが、婚礼の宵に納所のやうな頭をして出るのも幾らか興覚《きようざめ》がした。 「いつそ揉上《もみあげ》を短くして、ハイカラに分けてやらうか知ら。」と楯彦氏は理髪床《かみ ひどこ》へ往《ゆ》く途中、懐手《ふところで》のまゝで考へた。「そやけど、それも気恥かしいし、やつぱり五分刈にしとかう、五分刈やと誰も変に思はんやろからな。」 楯彦氏は腹のなかでさう決めて理髪床《かみゆひどこ》に入つて往つた。床屋は先客で手が一杯になつてゐた。楯彦氏はそこらの明いてゐた椅子に腰を下して美しい花嫁の笑顔など幻に描いてゐるうち、四辺《あたり》の温気《うんき》でついうと/\と居睡《ゐねむり》を始めた。 額に八千代の唇が触つたやうな気持がして楯彦氏は吃驚《びつくり》して目を覚ました。鏡を見ると、白い布片《きれ》に捲《くる》まつた毬粟《いがぐり》な自分の額が三|分一《ぶんの》ばかり剃り落されてゐる。 「あつ。」と言つて、楯彦氏は首を縊められた家鴨《あひる》のやうな声を出した。 「何《ど》ないしやはりましたんや。」 理髪床《かみゆひどこ》の爺《おやぢ》は剃刀《かみそり》を持つた手を宙に浮かせた儘、腑に落ちなささうに訊いた。 楯彦氏は白布《きれ》の下から手を出して、剃落《そりおと》された自分の頭にそつと触つてみた。頭は茶碗のやうに冷かつた。 「五分刈やがな、お前、今日は……」と言つた儘、泣き出しさうな顔をした。 理髪床《かみゆひどこ》の爺《 やぢ》は飛んだ粗忽《そさう》をした。だが、まあ堪忍してやるさ、十日も経てば頭は五分刈の長さに伸びようといふものだ。世の中には三年経つても髪の毛一本生えない頭もあるのだから。
2006年03月19日
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「勉強せよ」 逓信省内で比べ物にされてゐた下村宏氏は、遠く台湾くんだりへ往つてしまふし、その後《あと》はと言へば、弾力のありさうな者は誰一人無し、数へてみると、何といつても、 「俺だ。」 「俺だ/\。やつぱり俺だよ。」と、それ以来通信局長の田中次郎氏は、思ひなしか逓信省内が広々としたやうに思はれた。 逓信省内には、大学を出たての若い学士連が虫のやうに蠢々《うよ/\》してゐる。それを集めて咋年の秋から読書会といふものが起された。場所としては京橋の清新軒などが利用されてゐた。皿の物をかちかち突つきながら揚《あ》げ立《たて》のフライのやうな新しい書物の講釈から、時事問題などが話題に上《の 》されるのだ。つい先日《こなひだ》の晩にも例会が開かれて、通信局、管船局各課の高等官の卵共が、ずらりと田中局長の前に並んだ。 「勉強だね、勉強しないと直ぐに世間に忘れられてしまふし、第一物事に目端が利かなくなる。」 他人《ひと》の財布の中までも見通しさうな眼つきをして田中局長は言つた。局長のお言葉だけに、下役には、それが亜米利加発見このかたの真理のやうに聞えた。皆は脂肪肉《あぶらみ》のビフテキをかちく言はせながら、各自《てんで》に腹のなかで、 「局長のお言葉だ。大いに遣《や》るぞ。」と力んで居たやうだつた。田中氏は心持後に反りかヘつて、胸衣《チヨツキ》の胸釦《むなぼたん》を弄《いぢ》りながら「真理」を語つた後《あと》の愉快さといつたやうな顔をしてゐた。 その翌日、突然休職の辞令が田中局長の頭に降りかかつた。夕刊を眺めた下役共は夢ではなからうかと自分の鼻先を抓《つね》つてみたりした。その折省内の廊下でばつたり出会つた若い「通信局」と「管船局」とがあつた。 「驚いたね、昨夜《ゆうべ》だつたぢやないか。」 「さうよ、だからさ、勉強しないと目端が利かなくなるんさ。」
2006年03月19日
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顔と頭 パデレウスキイといへば波蘭《ポ ランド》の聞えた音楽家だが、最近米国に渡つた時、ある日|勃士敦《ボストン》の停車場《ていしやぢやう》で汽車を待ち合せてゐた事があつた。音楽家はモツアルトの楽譜でも踏むやうな足つきをして、歩廊《プラツトホ ム》をあちこち禰律《うろつ》いてゐた。 十二三のちんぴらな小僧が物蔭から飛ぴ出してこの音楽家の前に立つた。 「旦那磨かせて戴きませうか。」 パデレウスキイは立停つて黙つて小僧を見おろした。小僧は手に履刷毛《くつはけ》を提《さ》げてゐる。紛《まが》ふ方《かた》もない履磨きで、榿《だい/\》のやうに小さな顔は履墨《くつずみ》で真黒に汚れてゐる。 音楽家は洋袴《ズボン》の隠しから、銀貨を一つ取り出して掌面《てのひら》の上に載せた。 「履は磨かなくともいゝ、お前の顔を洗つておいでよ。さうするとこの銀貨をあげるから。」 その折音楽家の履はかなり汚れてゐたが、彼はその晩直ぐに天国の階段を上《あが》るのでも無かつたし、米国《アメリカ》の土を踏むのにはそれで十分だと思つてゐたのだ。 「はい/\。直ぐ洗つて来ますよ。」と小僧はさう言ふなり、直ぐ洗面所へ駈けつけて、土塗《つちまみ》れの玉葱《たまねぎ》でも洗ふやうに顔中を水に突込んで洗ひ出した。 小僧は洗《あら》ひ立《トて》の顔をしてパデレウスキイの前に帰つて来た。音楽家は「よし/\」と言つて銀貨を小僧の濡れた掌面《てのひら》に載つけてやつた。小僧は一寸それを頂いたが、直ぐまた音楽家の掌面にそれをかへした。 「旦那、銀貨はこの儘お前さんに上げるから、これで散髪をおしよ。」 パデレウスキイは驚いて額を撫でてみた。成程帽子の下から長い髪の毛が食《は》み出してはゐるが、それは音楽家がベエトオベンの頭を真似た自慢の髪の毛だつた。
2006年03月19日
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廂髪《ひさしがみ》 九州医科大学の大西克知博士が鉄瓶のやうな疳癪持《かんしやくもち》である事はいつだつたか茶話で書いた通りだ。実際博士の疳癪玉は、眼医者にしては惜しい持物で、あれを競馬馬にでも持たせる事が出来たら、騎手《のりて》は険呑《けんのん》な代りに屹度素晴しい勝を得る事が出来る。 先日《こなひだ》もこんな事があつた。その日は博士は朝から少し機嫌を損じてゐて、何家《どこ》かの若い夫人が診察室に入つて来た折は、恰《まる》で苦虫を噛み潰したやうな顔をしてゐた。 さうとも知らない若い夫人は、一寸|矯態《しな》をつくつて博士の前に立つた。博士は指先で充血した眼の上瞼《うはまぶた》を撮《つま》んで、酸漿《 ほづき》のやうに引《ひつ》くり返さうとしたが、直ぐ鼻先に邪魔物が飛び出してゐて、どうも思ふやうにならない。 邪魔物といふのは他でもない、若い夫人の廂髪なのだ。夫人はその朝病院に往《ゆ》くのだと思つて、心持廂髪を大きく取つてゐた。(女といふものは、亭主を貶《けな》されても、髪さへ賞めて貰へばそれで満足してゐるものだ。それ程髪は女にとつて大事なのだ。) 博士は邪魔物の廂髪を頻《しき》りに気にして、やきもきしてゐたが、とうと持前の疳癪玉を爆《はじ》けさせた。 「え\、この廂が邪魔になる。」と言つて、手の甲でぽんと跳ね上げた。廂髪は白い額の上で風呂敷のやうに顫《ふる》へた。 若い夫人は気を失はんばかりに吃驚《びつくり》した。夫人に取つては、自分の髪の代りに、亭主を蹴飛ばされた方が幾らか辛抱が仕善《しよ》かつたかも知れないのだ。 でも、仕合せと眼病は癒《なほ》つた。若い夫人は手土産を提《さ》げて博士の宅《うち》へ礼に往つた。博士は蒼蠅《うるさ》さうにお礼の口上を聴いてゐたが、 「私が癒したのぢやない、大学が癒したのだ。」と言つて、手土産を押し返した儘ついと立つて見えなくなつた。博士は何処へ往つたのだらう。若い夫人は自分の旒舳髪に隠れたのでは無からうかと思つた。その日の髪はそれ程痲が大きく結つてあつた。
2006年03月19日
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泣面《なきつら》大使 米独の国交断絶について、誰よりも一番困つてゐる者は独逸の駐米大使ベルンストロフ伯だらう。紐育《ニユ ヨーク》電報によると、大使は米国政府から旅券を交附するといふ報知《しらせ》を受取ると、叱られた狆《ちん》のやうに眼に涙を一杯溜めて、 「こんな事になるだらうとは思つてたが、一体|何《ど》うしたら帰国出来るんだらう。」と、べそを掻いたといふ事だ。 本国の独逸は今では天国よりも遠いところにある。実をいふと、ベルンストロフ伯の故郷は天国でも独逸でも無い、伯の生れ在所は霧の多い倫敦《ロンドン》だが、生れ在所だからと言つて、今更倫敦へ往《ゆ》く事も出来まい。 そんなだつたら、寧《いつ》そ女房《かない》の里に落付く事だ。一体|女房《かない》の里といふものは、落人《おちうど》の隠れ場所にとつて恰好なものだ。ベルンストロフ伯夫人は人も知つてるやうに米国生れの女である。 米国《アメリカ》で評判を取らうとすると、何を措《お》いても米国生れの女を女房《かない》にするのを忘れてはならない。 「女房《かない》がお国に居たいと言つて泣きますから。」と言つてみるがいい。米国人といふ米国人は、教会の神様を叩き出しても、ベルンストロフ伯夫婦を引留めずには置かない。(実際米国には神様など居なくともいいのだから。) 新渡戸稲造氏なども米国《アメリカ》の婦人《をんな》を夫人にしてゐるので、幾割か米国人に評判がよい。氏はまた米国製の時計を持つてゐて、客と談話《はなし》をする間《ま》も婦人問題を考へる時もいつも側《そは》を離さない。 だが、米国製の時計だけは同国人の評判を気にして持つてる訳ではない。時計は夫人の実家で出来たもので、夫人の実家は米国で聞えた時計商である。
2006年03月18日
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伍廷芳 支那の伍廷芳が全権公使として米国に駐《とどま》つてゐた頃、ある日|市俄古《シカゴ》に招待《せうだい》せられた事があつた。伍廷芳は尻尾のやうな弁髪《べんぱつ》を後に吊下《ぶらさ》げながら出掛けて往つた。 伍廷芳は逢ふ人|毎《ごと》に、とりわけ婦人《をんな》さへ見れば、支那人に持前のお愛嬌をふり撒いた。着飾つた婦人連は、九官鳥に挨拶されたやうな変な表情をして顔を見合はせた。 折柄《をりから》そこへ来合はせたのは一人の紳士で、伍廷芳とは初めての対面だつた。紳士は無遠慮に言つた。 「伍廷芳さん、近頃お国には貴方がしておいでの、尻尾のやうな弁髪を廃《や》めようつて運動が起きてるさうぢやありませんか、結構ですね。」と紳士は一寸弁髪の先に触つてみた。「それだのに何だつて貴方はこんな馬鹿げた物を下げてお居でになるんです。」 「さあ」と伍廷芳はじろりと相手の顔を見た。紳士は鼻の下にもじやもじやと口髭を伸ばしてゐた。「何だつて貴方はそんな馬鹿げた口髭なぞ生やしてお居でになります。」 「御挨拶ですね。」と紳士は苦笑《にがわらひ》した。これには理由《わけ》があるんです、私は口許《くちもと》が悪いもんですから、それで……」 「さうでせう。さうだらうと思つた。」と伍廷芳はにやりともせず畳みかけた。「貴方が仰有る事から察すると、何《ど》うも余りお口許が好《い》い方《かた》では無いやうだから ,:」
2006年03月18日
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高い塔 東京美術学校で西洋美術史を受持つてゐる森田亀之助といふ人がゐる。一体美術史の講義をする人に画《ゑ》の解る人は少いものだが、森田氏はそのなかで可なりよく解る方だ。 森田氏が美術学校の学生に口頭試驗をやつた事がある。その時一人の学生の順番になつた。その学生は級《クラス》のなかで画の上手として聞えてゐた男だつた。 森田氏は厳《しかつ》べらしい口をして訊いた。 「君はバビロンの塔を知つてますか。」 学生はそんな物はてんで頭にも置いてゐないらしく即座に返事をした。 「知りませんよ、バビロンの塔だなんて。」 「何かの本に無かつたですか。」 森田氏は自分の講義録にあつたのを思ひ出させようとして、態《わざ》と「本」といふ語《ことば》に力を入れて言つた。 「有つたかも知れませんが、覚えてゐません。」 学生はきつぱり答へた。 森田氏は少し狼狽気味《うろたへきみ》になつた。 「誰かに聴いた事はありませんか、学校の講堂か何処かで。」 「ありませんな。」と学生は蒼蝿《うるさ》さうに言つた。「先生、私は画家《ゑかき》ですが、バビロンの塔なんか知らなくても画は描けると思ひます。私はまた基督教信者ですが、そんな塔なぞ知らなくても天国へ往《ゆ》けると思ひます。」 森田氏は履刷毛《くつばけ》で鼻先を撫下《なで ろ》されたやうな顔をした。成程考へてみると、自分はバビロンの塔を知つてゐるが、それを知つてゐるからと言つて画は巧《うま》く描《か》けさうにも思へない。それに迹《とて》も天国へまで往《ゆ》けさうにも思へなかつた。森田氏は試験はこの儘で止《や》めようかとも思つたが、尋《つい》でに今一つ訊いてみた。 「だが、まあ考へてみたまへ、バビロンの塔だよ、塔といふからには……」 学生は漸《やつ》と思ひ出したらしく、急ににこ/\して、 「いや解りました。塔といふからには高い建築物です。恰《ちやう》ど浅草の十二階のやうな-・…」 「さうだ/\、よく覚えてゐたね。」 二人は寒山《かんざん》と拾得《じつとく》のやうに声を合せて笑つた。
2006年03月18日
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悪戯 英国のウインゾル王宮の皇室図書館に、毎月《まいげつ》の雑誌が取揃へてある雑誌棚がある。その雑誌棚の上に現代の名高い人達の写真帖が幾冊か載つかつてゐる。写真帖はその人達の職業によつてそれ人丶別になつてゐる。 今の英国皇太子がまだ稚《をさな》かつた頃、ある日その雑誌棚の前へ来て、多くの写真帖のなかから『各国民元首帖』といふのを引張り出してじつと見てゐた。 それには胸一杯ぴかぴかする勲章を下げてゐる人が多かつた。なかに唯一人|質素《じみ》なフロツクコートを着て、苦り切つた顔をしてゐる男があつた。皇太子はそれを見ると、後を振《ふり》かへつた。後には父君のジヨオジ陛下が立つてゐられた。 「阿父様《おとうさま》、これ誰方《どなた》なの。」 「それは米国《アメリカ》の大統領ルウズヴエルト氏だ。」 皇太子は可愛《かあい》らしい指先でルウズヴエルト氏の鼻の上を押へた。気難しやの大統領は嚔《くさみ》をしさうな顔になつた。 「阿父様《おとうさま》、この人|怜悧者《りこうもの》なの、それとも馬鹿?」 「さうだな。」とジヨオジ陛下はにこ/\笑つて「ルウズヴエルト氏はなかく偉い方《かた》だよ。まあ天才とでも言ふ方《ほう》だらうて。」 それから四五日経つて、ジヨオジ陛下が何か見たい事があつて、その『各国民元首帖』を開《あ》けてみると、ルウズヴエルト氏の写真だけ取り外されて見えない。 「訴《をか》しいな。」と言ひ言ひ、何気なく側《そば》にあつた『現代人物帖』を取り上げてみると、その第一頁目に失《な》くなつたルウズヴエルト氏の写真が挿《はさ》んであつた。 陛下は皇太子を召された。 「この写真を移したのは汝《おまへ》さんかい。」 「私よ。」 「何か理由《わけ》があつたのかい。」 「だつて阿父様《おとうさま》先日《こなひだ》お話しになつたぢやないの。」と皇太子は自慢さうに言つた。「ルウズヴエルトさんは天才だつて。だから私元首帖から引つこ抜いて人物帖の方へ入れたのよ。それが悪くつて。悪かつたら堪忍して頂戴……。」
2006年03月18日
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大隈侯より いつだつたか女成金の中村照子が大隈侯を訪問すると、侯は持合せのお世辞を灰の様に照子の頭から浴《あび》せかけた。内気者《うちきもの》の照子が酒にでも食べ酔つたやうな、吻《ほつ》とした気持で辞して帰らうとすると侯爵は、 「一寸待ちなさい。」と呼ぴとめた。 照子は美顔術師に習ひ覚えた表情をたつぷり見せて立ち停つた。 「お前、大阪で厄介になつてゐる家《うち》が幾軒程あるな。」 照子は変な事を訊かれるものだと思つたが、直ぐ考へて返事をした。 「はい世話になつてゐる家《うち》と申しますと、七軒も御座いませうか。」 「七軒か、よしよし。」と言つて侯爵は其処《そこ》にゐた小間使を見て一寸|頤《ちご》をしやくつた。すると、小間使は急いで次の室《ま》に入つたと思ふと、手畠《はんけち》の箱を七つ持つてまた出て来た侯爵はそれを照子の方へ押しやつて、 「これをその人達へ土産にしなさい。私に貰つたと言つて。」 照子がその手白巾《はんけち》を命令《いひつけ》通り方々へ配つたか、それともこつそり箪笥《たんす》の中に蔵《しま》つてゐるかは私の知つた事ではないが、親切な大隈侯は先日《こなひだ》養子の信常氏が九州へ往つた帰途《かへり》にも、態々《わざ/\》大阪へ寄途《よりみち》をしてまで照子を訪ねさせた。 信常氏はその時憲政会のある代議士と一緒だつたが、二人は照子のお世辞に好《い》い気になつて、一《いっ》ぱし画家《ゑかき》や詩人の積りで画《ゑ》を描《か》いたり賛をしたりした。二人はこんな事で若い寡婦《ごけ》を嬉しがらせる事なら、自分達の顔一杯|楽書《らくがき》をしても苦しくないと思つた。 一頻《ひとしき》り戯書《いたづらがき》が済むだ頃、信常氏は「さうだすつかり忘れてゐたつけ、親爺《おやぢ》から委託《ことづか》り物《もの》があつたんだ。」と言つて、鞄のなかから小さな包みを取り出して照子の前に置いた。それはイブセンの『ノラ』の飜訳であつた。 照子は『ノラ』の名前は聞いてゐたが、それは松井須磨子のお友達で、人形屋の女房《かみさん》で、借金で亭主と喧嘩《いさかひ》をして家《うち》を飛ぴ出した女だ位に覚えてゐるのに過ぎなかつた。だが、侯爵からの進物《しんもつ》だといふので、この頃は何処へ出掛けるにもそれを四季袋の中へ入れるのを忘れない。 大隈侯の考へではノラのやうな女になれとでも言ふのらしいが、照子は寡婦《ごけ》の成金で、喧嘩《いさかひ》をしようにも肝腎の亭主がない。そしてその上にも物足りない事は借金が無いといふ事だ。凡《およ》そ成金に取つて何よりも不満足なのは、借金の無いといふ事で、彼等はそれがあつたら、大喜ぴで七倍にして払ふ事を心掛けてゐる見得坊《みえばう》である。
2006年03月18日
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喫煙家 亜米利加の丸持長者《まるもちちやうじや》アンドリウ・カアネギイがこの頃ある宴会でした話によると、氏が昨年英吉利に旅をして、とある停車場《ていしやぢやう》から倫敦《ロンドン》行きの汽車に乗つた時の事、態女《わざく》喫煙禁止の客車《かくしや》を選んでそれに乗る事にした。 汽車が次の停車場に着くと、肥つた男が一人乗込んで、カアネギイの向ひに腰を据ゑるなり、汚れた煙管《パイプ》を取り出してぱつと火を点《つ》けた。 それを見たカアネギイは注意した。「この客車《 こ》では煙草は喫《の》めませんよ。」 「宜《よろ》しい、解つてます。」と肥つた男は言つた。「喫《す》ひさしを一服やつて了へばそれで可いんでさ。」 かう言つて肥つた男は、一服喫ひ尽してしまふと、また安煙草を撮《りま》み出してすぱすぱ吹かし出した。 「もし貴君《あなた》ーとカアネギイは少し声を高くした。「私は御注意しましたね、この客車《はこ》では煙草は喫《の》めないつて。それにも頓着なくそんなにすぱすぱお行《や》りになると、次の停車場で巡査にお引渡しするかも知れませんよ。私はかういふ者です。」と言つて、彼は自分の名刺を出して見せた。 肥つた男は、それを受取るなり、懐中《ポケツト》にしまひ込んだ。そして相変らずすぱすぱ煙《けぶり》を吹かしてゐた。 でも次の停車場へ来ると、肥つた男は煙管《パイプ》を啣《くは》へた儘|禄《ろく》に挨拶もせず他《ほか》の客車《はこ》へ移つて往つた。カアネギイは巡査を喚《よ》んで一部始終を話し、不都合な今の男の名前だけでも可い、知らせて欲しいと頼んだ。 「どうも怪《け》しからん話で。」と巡査は、その男の入つた客車《はこ》の方へあたふた駈けて往つたが、暫くすると、甚《ひど》く恐縮した顔をして帰つて来た。そして二度三度、カァネギイの前でお辞儀をした。 「いやはや、何と申上げたものか、実はその方を取調べようとすると、俺《わし》はかういふ者だと言つてこの名刺を下さいました。御覧下さい、亜米利加の丸持長者アンドリウ・カアネギイさんですよ。」 流石のカアネギイも開《あ》いた口が塞《ふさ》がらなかつた。名刺は先刻《さつき》自分が相手に渡した許《ばか》りのものであつた。 煙草は厭なものだが、それでも煙草喫ひには金持の知らない好《よ》い智慧《らゑ》が出る事がある。
2006年03月17日
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米の用意 新任の内田駐露大使は、この二十五日の朝、可愛《かあい》い夫人や令嬢と一緒に、関門を西へ郷里の熊本をさして発《た》つた。令嬢といふのは、阿父《おとう》さんそつくりの顔をした、基督降誕祭《クリスマス》の前夜、サンタ・クロオスの袋から転がり出したやうな罪のない罪のない女の子なのだ。 内田大使は途中で顔踞懇《かほなじみ》の男と色々世間話の末、 「今度熊本へ寄るのは表向き墓参といふ事になつてゐるが、実をいふとね、ー」と露西亜へ聞えないやうに態《わざ》と声を低めて「お米の仕入のためなんだよ。それから味噌も醤油もね……」と言つて、夫人と顔を見合せてにやりと笑つた。 「お米といクて何《ど》の位お持ちになるんです。」と相手の男が訊くと、大使は長い間お米を噛《かじ》つて来た鼠のやうな白い歯をちらと見せた。 「それは米にしても味噌にしても露西亜にも無い事はないが、値段が高い上に、本場物はなかく手に入らない。で、今度は飛切の上米を五|俵《へう》ばかり手荷物に加へようといふ寸法なんだが……」 露西亜の昔譚《むかしばなし》に、ある農夫《ムジク》が死にか丶つた時、火酒《ウオツカ》を一壜と鑞燭を五丁棺のなかへ入れて呉れと遺言したのがある。理由《わけ》を聞くと、 「天国ではお酒が高いに相違ない。獵燭は以前お寺で聖母《マリヤ》様の前にあつたのを盗んだから、返《か》へさなくつちや。」と言つたといふ事だ。 内田大使の任期は漸《やつ》と一年か一年半で済む事だらうから、白米は五俵もあつたら十分だらう。味噌は黴《かび》さへ我慢したら何時までも食べられる。だが、露西亜の農夫《ムジク》のやうに天国へでも旅立つ事があつたら、大使はお米を何俵位用意する積りだらうて。
2006年03月17日
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独帝の癖 独帝には妙な癖がある。それは何か困つた事に出会《でくは》すと直ぐ自分の耳朶を引張らずには居られないといふ事だ。 大分《だいぶん》以前の話だが、独帝《カイゼル》には伯母さんに当る英国のギクトリア女皇《ぢよわう》が崩《な》くなられて、葬儀の日取が電報で独帝《カイゼル》の許《もと》へ報《しら》されて来た事があつた。その折|独帝《カイゼル》は、六歳《むつつ》になる甥《をひ》を相手に何か罪のない無駄話に耽《ふけ》つてゐた。 独帝《カイゼル》は侍従の手から電報を受取つたが、なかに何か気に入らぬ事でも書いてあつたものか、(独帝《カイゼル》は英吉利と英吉利人とが大嫌ひである)直ぐいつもの癖を出して自分の耳朶《みゝたぶ》をいやといふ程引張つた。 それを見て小《こ》ましやくれた甥は言つた。 「伯父ちやん、何だつてそんなに耳を引張るの。」 「うむ、一寸困つた事が出来たでの。」 「いつも困ると、伯父ちやんは耳引張るの。」 甥は不思議さうに訊いた。 「さうぢやく。」独帝《カイゼル》は、じつと電報の文字に見惚《みと》れながら答へた。 「そんなら、もつと/\困る事があつたら、伯父ちやん何《ど》うするの。」 「その時はな、」と独帝《カイゼル》は電報を卓子《テ ブル》の上に投げ出して、その手でいきなり甥の耳を撮《つま》むだ。「その時はかうして他人《ひと》の耳を引張つてやるのぢや。」 講和問題で甚《ひど》く弱り切つてゐる独帝《カイゼル》は、今度は誰の耳を撮んだものかと、じろじろ四辺《あたり》を見胸《みまは》してゐるに相違ない。「正義」の大商人《おほあきんど》ウヰルソン氏なぞ、よく気を注《つ》けないと、兎のやうな耳朶《みゝたぶ》を拗《ちぎ》れる程引張られるかも知れないて。
2006年03月17日
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禿頭《とくとう》首相 衆議院が解散された二十五日の午後《ひるすぎ》、茶話記者は北浜のある理髪床《かみカひどこ》で髪を刈つてゐた。世間には三年|打捨《うつちや》つておいても、髪の毛一本伸ぴないやうな頭もあるが、記者の髪の毛は不思議によく伸ぴるので、始終《しよつちゆう》理髪床《かみゆひどこ》の厄介にならなければならぬ。 剪刀《はさみ》の刃音が頭の天辺《てつぺん》で小鳥のやうに囀《さへづ》つてゐるのを聞きながら、うとくとしてゐると、突如《だしぬけ》に窓の隙間から号外が一つ投げ込まれた。理髮床《かみゆひどこ》の主人《あるじ》は、一寸剪刀の手を止《や》めて、それに目を落したらしかつたが、 「とうと解散か、下らん事をしよるな。」と言つて、またちやきく剪刀を鳴らし出した。 床屋の主人《あるじ》は政治談《せいぢばなし》の好きな、金が溜つたら郷土《くに》へ帰つて、県会議員になるのを、唯一の希望に生きてゐる男だ。私は訊いてみた。,「政党は何方《どつち》が好きだね、汝《おまへ》は。政友会か、憲政会か、それとも国民党かな。」 床屋の主人《あるじ》は揉上《もみあげ》の辺《あたり》で二三度|剃刀《はさみ》を鳴らしてゐたが、 「別に好き嫌ひはおまへんな、政党には。でも寺内はんだけは嫌ひだんね。」ときつぱりと言つた。 「何故寺内だけがそんなに嫌ひなんだ。」 「さうかて見なはれ、あの人禿頭やおまへんか、あんな人床屋には無関係だすよつてな。」と主人《あるじ》は雲脂取《ふけとり》でごり/\私の頭を掻きながら「髪の毛があつたところで、あんな恰好の頭てんで刈り甲斐がおまへんわ。」 ナポレオンは色の白い掌面《てのひら》で女に好かれたといふ事だ。一国の首相にならうとするには、成るべく頭の禿げない方が好《い》い。少くとも床屋の主人《あるじ》には喜ばれる。
2006年03月17日
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老女史 女流教育家といふと、十人が十人、雀のやうに質素《じみ》な扮装《みなり》をして、そしてまた雀のやうにお喋舌《しやべり》をよくするものだとばかし思つてゐる向《むき》が多いやうだが、女流教育家といつた所で満更《まんざら》そんな人ばかしで無いのは、三輪田《みわだ》真佐子女史がよく証明してゐる。女史は齢《とし》にも似合はず、若々しい作りで、嫁入前の娘のやうに胸の辺《あたり》に金鎖《きんくさり》や金時計をちらちらさせてゐる。 だが、そんな身装《みなり》をしてゐる癖に、女史は五六年このかた小使銭といふものを持つた事が無い。小使銭はお附《つき》の三輪田《みわだ》女学校出身の女中が一切預つて、女史の後《あと》からてくてく蹤《つ》いて歩いてゐる。 女史は毎週、土曜日の午後《ひるすぎ》、定《きま》つたやうに鎌倉の別荘へ出掛けるが、そんな折にも鐚銭《びたせん》一つ持合さないのが何よりの自慢らしい。 「でも汽車賃にお困りでせう。」といふと女史は流行《はやり》の四季袋の中から汽車の回数券を取り出して相手の鼻の先で見せぴらかす。(四季袋のなかにはポケツト論語と毛染薬《けぞめくすり》と塩煎餅とが一緒くたになつてゐる。) [これさへ持ってゐると、いつでも汽車に乗れますでな。」 この回数券制度は子息《むすこ》の三輪田|元道氏《げんだう》の思《おも》ひ附《つき》らしく元道氏は老人《としより》のある家庭へ往《ゆ》くと、 「御老人《おとしより》にお小使はお止《よ》しなさい。小児《こども》と老人は兎角|無駄費《むだづかひ》をしたがるもんですから。」と言ひ言ひしてゐる。 流石は教育家で、善いところへ気が附いたものだ。お小使さへ持合はせてゐなかつたら、どんな婦人会へでも出掛けて往つて、大ぴらで慈善箱の前に立つ事が出来る。 「私はお小使は持たない主義だから。」と言つて……。 慈善箱の前に懐手《ふところで》の儘で立つ事の出来るものは、余程の勇者である。
2006年03月17日
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飲酒家《さけのみ》片山|国嘉《くにか》博士が名代の禁酒論者であるのは知らぬ者はない。博士の説によると、不良少年、白痴、巾着切…などいふ輩《てあひ》は、大抵酒飲みの子に生れるもので、世間に酒が無かつたら、天国はつい手の達《とど》きさうなところまで引張り寄せる事が出来るらしい。 尤も亡くなつた上田敏博士などは、酒が肉体《からだ》によくないのは判つてゐる。だが、素敵に精神の助けになるのは争はれない。自分は肉体と精神と執方《どちら》を愛するかといへば、言ふ迄もなく精神を愛するから酒は止《や》められないと口癖のやうに言つてゐた。 その禁酒論者の片山博士の子息《むすこ》に、医学士の国幸氏《くにゆき》がある。阿父《おとつ》さんとは打つて変つた酒飲みで、酒さへあれば、天国などは質に入れても可《い》いといふ性《たち》で毎日浴ぴる程酒を飲んでは太平楽を言つてゐた。 阿父《おとつ》さんの博士もこれには閉口したらしかつたが、それでも、 「俺は俺、忰《せがれ》は忰さ。忰が一人酒を飲んだところで、俺が禁酒会員を二人|栫《こさ》へたら填合《うめあは》せはつく筈だ。」と絶念《あきらめ》をつけて、せつせと禁酒の伝道を怠らなかつた。 ところがその国幸医学士がこの頃になつてばつたり酒を止《や》めて一向盃を手に取らうとしない。飲み友達が何《ど》うしたのだと訊くと、宣教師のやうな青い顔をして、 「第一酒は身体《からだ》によくないからね。それから……」と何だか言ひ渋るのを、 「それから……何《ど》うしたんだね。」と畳みかけると医学士は軒の鳩ぽつぽや「世間」に立聞きされない様に急に声を低めて、 「あゝして親爺《おやぢ》が禁酒論者なのに、伜の僕が飲んだくれぢや世間体が悪いからね。」と甚《ひど》く悄気《しよげ》てゐたさうだ。 禁酒論者へ報告する。まんざら捨てたものではない。酒飲みからも、国幸医学士のやうなかうした孝行者も出る世の中だ。
2006年03月16日
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三宅博士 福岡医科大学の眼科教授大西|克知《よしあきら》博士が、人並すぐれた疳癪持であるのは、医者仲間に聞えた事実で、少し気難《きむづか》しい日にでも出会《でつくは》すと相手が誰であらうと、よしんぱサンタ・クロースのやうなにこ/\爺さんであらうと、氏は委細構はずいきなり自分の診察室に引張り込んで、臉《まぶた》に一杯眼薬を注《さ》し込まずには置かない。 先日《こなひだ》も大学で教授会が開かれた。その折、医院長の三宅速博士が起《た》つて一|頻《しき》り何か喋舌《しやべ》つた。その言葉の端が大西氏の焦立《いらだ》つた神経に触つたものか、博士のお喋舌《しやべり》が済むか済まないうちに、大西氏はいきなり焼火箸《やけひばし》のやうな真赤な言葉を投げつけた。 「禿茶瓶、要らぬおせつかいをするない。」 それを聞くと、三宅博士は行《ゆ》き詰《つま》つたやうに黙つて大西氏の席を見た。そして検見《けんみ》でもするやうに自分の頭を頸窩《ぽんのくぼ》から前額《まへびたひ》へかけてつるりと撫で下してみた。成程大西氏の言ふ通り禿茶瓶には相違なかつた。 お人好しの博士は初めて自分の禿頭に気が注《つ》いたやうに一寸変な顔をしたが、直ぐ例《いつも》の静かな表情にかへつて、 「なんぼ禿茶瓶かて、言はんならん事は言ふわい。」と云つてその儘席に着いた。居合した人達は一度に吹き出して了つた。疳癪持の大西氏も毒気《どくき》をぬかれて一緒になつて笑ひ出した。 「なんぽ禿茶瓶かて、言はんならん事は言ふわい。」 大きにさうで、流石は三宅博士、言ふ事が真理に適《かな》つてゐる。頭の禿げてるのは、余り気持の好いものでもないが、さうかと言つて、言はねばならぬ事まで遠慮するには及ばない。世間には禿頭も多い事だから、呉々《くれ/゛\》も言つて置くが、決して遠慮には及ばない。唯心掛けたいのは、物を言ふ揚合に、成るべく禿頭に湯気を立てない事だ。
2006年03月16日
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結婚 文学者の長田秀雄、幹彦二氏の阿母《おっか》さんに妙な病気がある。妙な病気といふのは、洋食を食ふと、屹度赤痢になるといふのだ。 かういふと、そんぢよ其辺《そこら》の洋食屋は槌《むき》になつて憤《おこ》りだすかも知れないが、実際の事だから仕方が無い。尤も長田氏の阿母《おつか》さんは、そんな身体《からだ》だから滅多に洋食なぞ食べない。従来《これまで》義理に逼《せま》られて三度ばかし肉叉《フオ ク》を手にとつた事があるが、三度が三度とも赤痢になつた。 第一回は麹町《かうぢまち》の富士見軒、第二回は上野の精養軒、第三回は日本橋の東洋軒で食べたのだが、その後《あと》では何時《いつ》でも極《きま》つたやうに病気になつた。 「異人の食べるお料理は、どうも性《しやう》に合はないもんと見える。」 長田氏の阿母《おつか》さんは、こんな考へで、今では洋食屋の前を通る時は、袖で鼻を押へて小走りにあたふた駈けぬける事にしてゐる。 ところが、この頃《ごろ》長男の秀雄氏の結婚談が持上つてゐるので、阿母《おつか》さんはその披露の宴会を何処にしたものかと、今から頭痛に病んでゐる。 「花月《くわげつ》-…松本楼……伊勢虎-…魚十……何処に定《き》めたもんかな」と阿母《おつか》さんは知つてる限りの料理屋を記憶から喚《よ》び出して、見積りを立ててみるが、時間と酒量の制限からいふと、矢張西洋料理屋を選ぶに越した事はなかつた。 「やつぱり洋食屋にするかな。」と思ふと、阿母《おつか》さんはもう下《した》つ腹《ばら》がちくちく疼《いた》み出して来る。 阿母《おつか》さんに教へる。時間も費用も掛らねば、お腹も疼まず、加之《おまけ》に息子さんの秀雄氏も喜ぶといふ妙法が一つある。ーそれは日本料理屋でも、洋食屋でもない。当分結婚を延ばすといふ事だ。
2006年03月16日
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「突然」 大蔵大臣|勝田主計《しようだかずへ》氏が嚢《さき》に大臣に親任されて、螺旋仕掛《ぜんまいしかけ》の人形のやうな足取で、ひよこ/\宮中から退出して来ると、そこに待受けた新聞記者が一斉に、「おめでたう」と浴ぴせかけた。すると勝田氏は馬のやうに黄《きい》ろい歯を剥《む》き出して、 「どうも、寺内首相が是非にと言はれるので、断り切れないでね、ーいや突然だつたよ、全く突然でね。」といつて、にやく笑つた。 その日の夕刊が配達されると、木挽町《こびきちやう》の蔵相官邸の門衛は、恰《ちやう》どそこへ来合はせてゐた自分の話し相手に頓着なくいきなり夕刊を開《あ》けて、蔵相親任の条《くだり》を読下《よみくだ》した。そして、 「……いや突然だつたよ、全く突然でね。」といふ挨拶を読むと、「ふふん」と鼻の上に皺を寄せて笑つたが、直ぐ気が付いたやうに、其処《そこ》に手持不沙汰で坐つてゐる男をちらと窃《ぬす》み見《み》をして、今度はまた口許《くちもと》でにやつと笑つた。 実をいふと、勝田氏が朝鮮銀行の総裁から、寺内内閣の次官として帰つた時から、氏はずつと木挽町八丁冐の大蔵大臣官邸に神輿《みこし》を据ゑつ切りであつた。で、門衛にしても、その当時から朝夕の送り迎へに大臣としての待遇《もてなし》をすれば、勝田氏にしても矢張り黙つて大臣としての待遇《もてなし》を受けてゐたのだ。 「何が突然なもんか、ちつとも突然な事なんかありやしない。」 門衛はかうでも言ひたさうな顔をしてにやく笑つてゐる。 門衛の解釈によると、門衛の送り迎へを受けるのは、「大臣」で無くては出来ない事で、もしか勝田氏が文字通りに従来《これまで》次官の積りで居たのだつたら、門衛の送り迎へに対して、何とか挨拶が無くてはなるまいと言ふのらしい。 勝田氏の為に説明すると、挨拶といふのは、一寸顔を見て会釈をするとか、敷島《しきしま》一袋を掌面《てのひら》に載つけてやる事だ。
2006年03月16日
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横山大観 いつだつたか横山大観と山岡米華とが一緒になつて伯耆《はうき》に旅をした事があつた。何でも伯耆には美しい山と美しい女があるから、一度見に来ないかと、土地の物持から招待《せうだい》せられて往つたのだ。 一体芸術家といふものは、美しい山と美しい女とがあるとさへ言つたら、監獄のなかへでものこく蹤《つ》いて来るものなので、この二人の画家《ゑかき》がそれがために伯耆くんだりまで往つたところで、少しも咎《とが》める事はない。 往つてみると、伯耆にも色々山はあつたが、二人が平素描《ふだんか》き馴れてゐるやうな珍らしい山は一つも無かつた、二人は落胆《がつかり》して今一つの方へ出掛けた。 仕合せと女には美しいのが三四人居た。二人はそれを相手に酒を飲んだ。わけて大観は上機嫌で立続《たてつぼ》けに盃《さかづき》 を傾けてゐたが、座にゐる女達は何《ど》うしたものか米華の方にばかし集まつて大観の前には酒徳利《さかどくり》しか並んでゐなかつた。徳利はどれを振つてみても悲しさうな声を出して泣いた。 山にも失望し、女にも失望した大観は、翌《あくユ》る朝夙《あさはや》く宿を発《た》つて山越《やまごし》に、作州の方へ出た。そして四十四曲りの峠まで来ると、態《わざ》と峠へ立つて小便をした。(甚《はなは》だ汚い話で恐縮するが、小便をしたのは大観氏で、茶話記者でない事だけは覚えて置いて貰ひたい。) 「この水、伯耆の方へ流れたら伯耆人が後悔する。もしか作州の方へ落ちたら大観が後悔する。」 大観はかう言つて占つた。 そのむかし仏蘭西のルツソオは漂泊の旅に上《のぼ》つて、ある疑ひが心に起きた時、敦方《どちら》に定《き》めたものかと石を投げて占つたといふが、大観はルツソオと同じ気持で、じつと水の行方《カくへ》を見た。水は寺内首相のやうに公平で、作州へも落ちず伯老圉へも流れず、その儘土に沁《し》み込んでしまつた。 大観は宇宙の謎を解きかねた哲学者のやうな顔をして作州の町へ下りて来た。
2006年03月16日
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丸髷嫌い江戸堀の支部で開かれた愛国婦人会の新年会に、多くの夫人達は白襟紋服《しろえりもんぷく》で出たが、そのなかに、たつた一人広岡浅子女史のみは洋装で済ましてゐた。 浅子女子は洋服が好きだ。生れ落ちる時洋服を着てゐなかつたのが残念に思はれる程洋服が好きだ。だが、それ程まで洋服が好きなのは、深い理由《わけ》のある事なので、その理由《わけ》を聞いたなら、どんな人でも成程と合点《がてん》をせずには置かない。 理由《わけ》といふのは他でもない。洋服は西洋人の被《き》る着物だからだ。浅子夫人の解釈によると、西洋人の仕《し》てゐる事には、何一つ間違つた事はない。偶《たま》に時計が九時で留《とま》つてゐるとか、愛国婦人会の幹事の鼻がぺたんこであるとかすると、女史は直ぐ苦り切つた顔をして、 「西洋にはそんな事は無い。」と噛みつくやうにいふ。 九代目団十郎が、まだ河原崎権十郎といつた頃、ある和蘭《オランダ》医者のうちで珈琲《コーヒー》茶椀を見て、不思議さうに弄《ひね》くり廻してゐたが、暫くすると無気味さうにそつと下へ置いて、 「これがあの切支丹なんで御座いますか。」と訊いたといふ事だ。つまり団十郎には、自分の知らない世界は切支丹であつたのだ。 浅子夫人の「西洋」もそれに一寸似てゐる。一口に西洋といつても色々国がある事だし、夫人の指すのは何《ど》の国なのだらうかと、それとなく聞いたものがあつた。すると夫人は穴の明《あ》く程相手の顔を見つめて、 「西洋を知らない。ほんとに汝《おまへ》さんのやうな鈍間《のろま》なんざ、一人だつてありはしないよ、西洋には。」と言つて、その西洋の女のやうに、肩を揺《ゆす》つて笑つたといふ事だ。 浅子夫人はまた島田や丸髭《まるまげ》の日本髪が嫌ひだ。婦人会などで、若い夫人達の丸髷姿が目に入ると急に気難《きむづか》しくなつて、 「夫人《おくさん》、あなたの頭に載つかつてゐるのは何ですね。」とづけく嫌味《いやみ》を浴ぴせかけるので、気の弱い夫人達は、蝸牛《まひくつま》のやうに結《ゆ》ひ立《たて》の丸鬣を襟のなかに引つ込めてしまひたくなる。 オスカア・ワイルドだつたか、亜米利加の女は死んで天国へ往《ゆ》く代りに、巴里《パリ 》に生れ変りたいと思つてると言つたが、浅子夫人だつたら、そんな時に屹度《きつと》西洋に生れ変りたいと言ふだらう。それが出来なかつたら、辛棒して芸術座の舞台にでも生れ変る事だ。那処《あすこ》には島田も丸髭もない代りに安価《やすで》な「西洋」が幕ごとに転がつてゐる。
2006年03月15日
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成金|気質《かたぎ》 欧洲戦乱は誰も知つたやうに、其辺《そこら》ぢゆうに成金を拵《こしら》へて、成金|気質《かたぎ》といふ一種の気風さへ出来たが、その気質《かたぎ》にも東京と大阪とでは、大分色彩《だいぶんいろ》が異《ちが》ふところが面白い。 東京の成金は、資金《かね》が出来ると、誰に勧められたともなく、直ぐ茶器を集めにかゝる。そして文琳《ぶんりん》の茶入とか嫩古《のんこ》の黒茶碗とかに大金を投げ出して、それを手に入れる。 出入め骨董屋が焼鳥のやうに滑《すべ》つこい頭を前へ突出して、 「檀那、どうも素敵な物がお手に入りましたな。ところで文琳と嫩古とかう揃へてみますと、是非一つ一休の一|行物《ぎやうもの》が無くつちやなりませんな。」 「俺《わし》もさう思つてたんだよ。金は幾らでも出すから、一つ捜し出して貰ひたいもんだな。」と成金は顔を蟄《しか》めて薄茶を一服ぐつと煽飲《あふ》りながら「あの人の書いた君が代の歌つて無いもんか知ら。」 「さあ、無い事も御座いますまいて。」と骨董屋は物の五日も経たないうちに、一休禅師の書いた君が代の歌を担《かつ》ぎ込んで来る。 かういふ訳で、東京の成金といへば、茶人と言はれるのが何よりの自慢で、誰も彼もが流行のやうに大金を投じては、いか様《さま》な茶器を集めてゐるが、大阪の成金には、そんな道楽は薬にしたくも無い。 大阪の成金は咽喉の渇いた折には、番茶を飲む事を知つてゐる。文琳や嫩古を買ふ金があつたら、地所や株券を買ふ事を知つてゐる。偶《たま》には茶入や黒茶碗を購《か》はないとも限らないが、それは自分で薄茶を啜《すゝ》らうためではなくて、物好きな東京の成金に売りつけようとするからだ。 唯もうせつせと自《フちフ》分の仕事に精を出す。そして咽喉が渇いたら、有合せの安茶碗で番茶をぐつと煽飲《あふ》る。これが上方《かみがた》成金の心意気である。 往時直江《むかしなほえ》山城守〔兼続《かねつぐ》〕は坊さんの承兌《しようたい》に贈つた手紙に、 「其の兵器を鳩集《きうしふ》する所以《ゆゑん》のものは、恰《あたかじ》も上国孱士《やうこくせんし》の茶香古器を玩《もてあそ》ぶが如し。東陲《とうすい》の武夫《もののふ》皆弓槍刀銃を嗜《たしな》まざるなし、これ地理風質の異《ことな》るに依《よ》るのみ。」と言つて東国人が茶器を玩ばないのを、大層もなく吹聴したものだ。 山城め、江戸成金の茶道楽を聴いたら、銀行の監査役のやうに鼻を蟹《しか》めてぶつ/\呟《ぼや》くだらうて。
2006年03月15日
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金ぴか 実業家|馬越《まごし》恭平氏は、旧臘《きうらふ》大連《たいれん》へ往つたが、用事が済むと毎日のやうに骨董屋|猟《あさ》りを始めた。何か知ら、掘出し物をして、好者《すきしや》仲間の度胆を抜かうといふ考へなのだ。 植民地には人間の贋物《にせもの》が多いやうに、骨董物にもいかさまな物が少くない。そんな間《なか》を掻き捜すやうにして馬越氏は二つ三つの掘出し物をした。 「これでまあ大連まで来ただけの効《かひ》はあつたといふもんだ。それに値段が廉《やす》いや、矢張目が利くと損はしないよ。」 馬越氏は皺くちやな掌《て》の甲で、その大事な眼を摩《こす》って悦《よろこ》んだ。そして骨董屋の店前《みせさき》を出ようとして思はず立《た》ち停《どま》つた。 それは他でもない、薄暗い店の隅つこに、金ぴかの板のやうな物が目についたからだ。馬越氏はまた入つて来て亭主を呼んだ。 「一寸あの金ぴかを見せて呉れ。何だねあれは。」 「へへへ……とうとお目に留まりましたかな、今御覧に入れます。」と亭主は立つて往つてその金ぴかを取り出して来た。「何だか手前共にも一向見当がつかないんで御座いますが。」 見ると、羊の革を幾枚か貼重《はりかさ》ねて、裏一面に惜気《をしげ》もなく金箔を押したものなのだ。 馬越氏の頭は、それが何であるかを考へる前に、直ぐその利用法を工夫し出した。一体茶人といふものは(馬越氏は自分で茶人だと思つてゐる)大黒様の頭巾を拾つても、それを神様に返さうとはしないで、直ぐ茶巾に仕立直したがるもので、馬越氏もその例《ためし》に洩れず、この金ぴかな革を茶室一杯に敷いて茶でも立てたらなあと思つた。 「朝吹や益田めが嚥《さぞ》胆を潰すだらうて。」 馬越氏はそんな事を考へて、とうとその金ぴかな革をも買ひ取つた。 それを見たある物識《ものしり》の男が、 「それは喇嚇《ラマ》僧が使つてる威儀の物ぢやないか、こんな物の上に坐つたら、主人もお客も一緒に罰《ばち》が当らうて。」と言つて嚇《おど》すと、馬越氏はけろりとした顔で、 「喇嚇僧といふのは、何国《どこ》のお方だね。」と問ひ返したといふ事だ。 喇嚇僧はどこのお方でもよい。罰《ぱち》が当つたら、その罰《ぱち》をも薄茶に溶《と》いて飲んでしまふがよい。茶人は借金の証文をさへ、茶室の小掛物《こがけもの》にする事を知つてゐる筈だから。
2006年03月15日
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画《ゑ》の催促 流行《はやり》つ子《こ》の画家《ゑかき》が容易に絵を描《か》いて呉れないのは、昔も今も同じ事だが、竹内栖鳳氏などになると、頼み込んでから、十年近くなつて今だに描いて貰へないのがある。 さういふ向《むき》は、色々手を代へ品を更《か》へて時機《をり》さへあれば絵の催促をするのを忘れない。到来物《たうらいもの》の粕漬《かすづけ》を送つたり、掘立《ほりたて》の山の芋を寄こしたりして、その度《たんび》に一寸《ちよつと》絵の事をも書き添へておくが、画家《ゑかき》などいふものは忘れつぽいものと見えて、粕漬や山の芋を食べる時には、つい思ひ出しもするが、箸を下に置いてしまふと、今の好物も誰が送つて来たものか、すつかり忘れてゐる。 画家《ゑかき》の胃の腑が当てにならない事を知つた依頼者は、近頃では妙な事を考へ出した。それは画の催促に出掛ける折、妙齢《としごろ》の娘を一人連れ立つて往《カ》くといふ事だ。 「先生、画をお頼みしてから、もう十年になります。実は此娘《これ》が嫁人の引出物にといふ積りで、夙《はや》くからお願ひ致しましたのですが、娘《これ》も御覧の通りの妙齢《としごろ》になりました。就いてはこの暮にでも結婚させたいと思ひますが、何卒《どうぞ》そこの所をお掬《く》み下すつて・…:」 かう言つて勿体らしく頭を下げる。 どんな画家《ゑかき》でも、自分が物忘れをしてゐる間《うち》に、稚児輪《ちごわ》が高島田になつたと聞くと、流石に一寸変な気持もする。とりわけ襖越しにそれを聞いてゐる女房は、つい身に詰まされてほろりとする。女房の口添《くちぞへ》は粕潰や山の芋と違つて、画家《ゑかき》の忘れ物を直ぐ思ひ出させる効果《きしめ》がある。 「まあ、お気の毒どすえなあ。宅《うち》で忘れとる間《ま》に、あんな大きうおなりやしたのやさうどす。描いてお上げやすいな、早く。」 「さうだつてなあ、大急ぎで一つ描《か》くかな。」といふやうな訳で、絵は苦もなく出来上る。 その絵を引出物に、娘もめでたく輿入《こしいれ》を済ませたらうと思つてゐると、つい鼻の先の新画展覧会に、その絵が大層もない値段で売物に出てゐるのが少くない。なに、絵が無くとも娘は結婚出来る世の中だ。結婚は済まさなくとも、児《こ》を生む事の出来る世の中だ。 それを知つた栖鳳などは、近頃は娘を連れて来ても一向相手にならない。そして絵の具は高いが、箪笥《たんす》は廉《やす》いさうだから、結婚するなら今の間《うち》だと教へる。親といふものは、娘の結婚を「妙齢《としごろ》」よりも、箪笥の値段で定《き》めるものだといふ事をよく知つてゐるから。
2006年03月15日
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真野博士 九州帝国大学総長真野文二博士は、先年日比谷で電車に衝突《ぶつつか》つた事があつた。その折総長は小鰻《こえび》のやうに救助網の上で跳ね廻りながら、 「馬鹿な運転手めが……」と首を縊《し》められたやうな声をして我鳴つたが、運転手の方でも負けぬ気になつて、 「禿頭の間抜め!」と怒鳴り立てた。禿頭といふのは真野博士が色々の智識を蔵《をさ》めてゐる頭の事で、林伯や児玉伯や馬鈴薯《じやがいも》男爵などの頭と同じやうにてかてか光つてゐる。 それ以後真野博士は電車は怖いものに定《き》めてしまつて、どんな事があつても電車にだけは乗らうとしない。 その真野博士が去年の夏、樺太《かばふと》へ往つた事があつた。知合《しりあひ》の男に二頭立の馬車召周旋して呉れるものがあつたので、博士は大喜ぴでその馬車に乗つた。だが、電車の運転手に発見《みつけ》られた禿頭だけは樺太人《かばふとじん》に見せまいとして、大型の絹帽《きぬぼう》をすぽりと耳まで冠《かぶ》る事を忘れなかつた。 博士が乗つた馬車の馬は、二頭とも馬車馬としては何《なに》の訓練もない素人の、加之《おまけ》に気むづかしや揃《ぞろ》ひと来てゐるので、物《もの》の二|町《ちやう》も走つて、町の四つ角に来たと思ふと、一頭は右へ、一頭は左へ折れようとして喧嘩を始めた。万事に公平な真野博士は、敦方《どちら》の馬にも味方をし兼ねて、 「お、お、お……」と蒼くなつて狼狽《うろた》へてゐる。 馬車馬の喧嘩は樺太《かばふと》でも珍らしい事なので、さうかうする間《うち》に其辺《そこら》は見物人で一杯になつた。どちらを見ても知らぬ顔なので、博士は急に東京の宅《うち》が恋しくなつて泣き出しさうな顔を歪めてゐた。気短《きみじか》な馬はとうと噛合《かみあひ》を始めた。その拍子に馬車が大揺れに揺れたと思ふと、大型な絹帽がころくと博士の肩を滑り落ちた。無慈悲な見物人は滑《すべ》つこい博士の頭を見て声を立てて笑つた。 それ以来、博士は二度ともう馬車に乗らうと言はない。電車、馬車11敬愛すべき博士の交通機関の範囲は段々狭くなつて来るやうだ。
2006年03月15日
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山葵《わさぴ》 洋画家の岡野栄氏が学習院の同僚松木愛重博士などと一緒に房州に往つたことがあつた。亜米利加の女が巴里《パリー》を天国だと思つてゐるやうに、東京の画家《ゑかき》や文学者は、天国は房州にあるとでも思つてゐると見えて暇と金さへあれば直ぐに房州へ出かける。 岡野氏はその前房州へ往つた折、うまい松魚《かつを》を食はされたが、生憎《あひにく》山葵が無くて困つた事を思ひ出して、出がけに出入《でいり》の八百屋から山葵をしこたま取寄せる事を忘れなかつた。 「那地《あつち》へ着いたら松魚のうまいのを鱈腹《たらふく》食はせるぞ。」 岡野氏は山葵の風呂敷包を叩きくかう言つて自慢さうに笑つたものだ。 その日|勝浦《かつうら》に着くが早いか、亭主を呼ぴ出して直ぐ、 「松魚を。」と言つたが、亭主は閾際《しきゐぎは》にかいつくばつて、 「折角ですが、もう一週間ばかしも不漁続《しけつど》きだもんで。」と胡麻塩頭《ごまじほあたま》を掻いた。 岡野氏等は房州のやうな天国に松魚の捕《と》れない法はない筈だと、ぶつ/\呟《ぼや》きながら次の天津《あまづ》をさして発《た》つた。だが、悪い時には悪いもので、海は華族学校の先生達に当てつけたやうに、松魚といつては一|尾《ぴき》も網に上《のば》せなかつた。 「去年山村耕花がやつて来た時にも緇《まら》ばかし喰《く》はされたと聞いたつけが……」 岡野氏等はこんな事を話し合ひながら、馬鈴薯《じやがいも》の煮たの許《ばか》し頬張つた。言ふ迄もなく馬鈴薯《じやがいも》は畑に出来るものなのだ。 岡野氏は馬鈴薯《じやがいも》で一杯になつた腹を抱へて、 「だが、山葵を何《ど》うしたもんだらうて。」と皆の顔を見た。すると、一行の誰かが先年農科大学の池野成一郎博士が欧洲へ往《ゆ》く時、アルプス登山は草鞋《わらぢ》に限るといつて、五十足ばかり用意して往つたが、草鞋は一向役に立たず、色々持て余した末、諸方の博物館へ日本の履《くつ》だといつて一足づつ寄贈した事を話した。そして岡野氏の山葵もその儘《まゝ》宿屋に寄附したらよからうと附足《つけた》した。 お蔭で天津の宿屋の裏畑には近頃山葵が芽を出しかけてゐる。結構な事だが、房州のやうな画家《ゑかき》の天国には、少し辛過ぎるかも知れない。
2006年03月14日
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木堂《もくだう》と剣 犬養木堂の刀剣談は本紙に載つてゐる通り、なかなか通《つう》なものだが、その犬養氏を頭に戴いてゐる国民党が鈍刀揃《なまくらそろ》ひの、加之《おまけ》に人少《ひとすく》なであるのに比べて、犬養氏が秘蔵の刀剣は、いづれも名剣づくめで、数もなかなか少くなかつた。 そんな名剣も貧乏神だけは何《ど》うにも出来ないものと見えて、犬養氏は最近和田|維《つな》四|郎《らう》氏の取持《とりもち》で、所蔵の刀剣全部を根こそぎ久原《くはら》〔房之助〕家へ売渡す事に定《き》めた。それと聞いた犬養夫人が眼頭に涙を一杯溜めて、 「三十年もかゝつて漸《やつ》と溜めたんですもの、私には子供のやうにしか思へません。せめて一本でも残して置きたいもんですね。」と言ふと、犬養氏は狼のやうな頭を厳《きつ》く掉《ふ》つた。 「私《わし》が一本でも残してみなさい。世間の人達は、犬養め一番|好《い》いのだけ一本引つこ抜いて置いた。狡《ずる》い奴だと噂をするだらうて。」と、てんで相手にしなかつた。 刀剣《かたな》はその儘引《まゝひ》つ括《くる》めて久原家の土蔵に持込まれたが、流石に三十年の間朝夕手駲れたものだけに、犬養氏も時々は思ひ出してついほろりとする。国民党の脱会者だつたら、思ひ出す度《たび》に、持前の唐辛《からし》のやうな皮肉を浴ぴせ掛けるのだが、相手が刀剣《かたな》であつてはさうも出来ない。 それ以来犬養氏は、刀剣《かたな》が恋しくなると、手近の押形を取り出してそれを見る事に極《き》めてゐる。 「で、かうして毎日のやうに押形を取出してる始末なんだ。そこでこの頃は画剣斎と名乗つてゐるんだが、もしかこの押形まで手離さなくつちやならない時が来たら、その折はまあ夢剣庵とでも名乗るかな。」と、葱《ねぎ》のやうに寒い歯齦《はぐき》を出して笑つてゐる。画剣斎も、夢剣庵もまんざら悪くは無いが、もつと善《よ》いのは寧《いつ》そ剣の事なぞ忘れてしまふのだ。そして剣の代りに生きた人間を可愛《かあい》がる事を心掛けるのだ。
2006年03月14日
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狂人《きちがひ》の書《ほん》 先日《こなひだ》亡くなつた喜劇|俳優《やくしや》渋谷天外は、何処へ往《ゆ》くのにも、紫縮緬《むらさきちりめん》の小さな包みを懐中《ふところ》にねぢ込むで置くのを忘れなかつた。 「何をそんなに大切《だいじ》がつてるんだね。」と他人《ひと》が訊くと、 「これだつか、喜劇の酵母《もと》だつせ。」と言ひく、自慢さうに膨らむだ懐中《ふところ》を叩いたものだ。 吊紗包《ふくさづつ》みのなかに入つてゐるのは他でもない、小本《こほん》の『膝粟毛』の一冊で、この剽軽《へうきん》な喜劇|俳優《やくしや》は、借金取に出会《でくは》すか、救世軍を見るかして、気が真面目に鬱《ふさ》ぎ出すと、早速その紫縮緬の包みを解《ほど》いて、『膝栗毛』を読み出したものだ。 「すると、何時の間にかおもしろくなつて、つい俄師《にはかし》の気持になられまんがな。廉《やす》いもんだつせ、本は古本屋で五十銭だしたよつてな。」と言ひくしてゐた。 伊東胡蝶園の祖父伊東玄朴は蘭書の蒐集《しうしふ》家として聞えてゐたが、数多いその書物のなかで、唯《たつた》一つだけ風呂敷包みにして、その上に封印までして、何《ど》うしても他人《ひと》に見せなかつた。 仲よしの高野長英が、それを見つけて、 「どんな本だ、一寸でいゝから見せてくれ。」と強請《せが》むと、慌てて膝の下に押し隠して、 「可《い》けないく。これを読むと狂人《きちがひ》になる。」と顔色を違へて謝絶《ことわ》るので、 「へえ、狂人《ぎちがひ》になる。気味の悪い本だな。」と、長英はそんな本を読まない内から狂人《きちがひ》になりかけてゐた頭を掉《ふ》つて不思議がつたといふ事だ。 玄朴が封印をしてゐた本は外《ほか》でもない和蘭《オランダ》版の「民法」の本で、旧幕時代でこんな本を読まうものなら、さしづめ狂人《きちがひ》にでもならなければなるまいと、お医者だけに玄朴は考へたものらしい。尤もの事だ、日本には今だに狂人《きちがひ》になる本はどつさりある。
2006年03月14日
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馬の顔 東京市電気局が、まだ東京鉄道会社だつた頃の車掌運転手の制帽は、白い線を巻きつけて、技術が熟練して来ると、その線を一本二本と殖やしてゆくので、よく第一高等学校のそれと間違へられたものだ。 学習院の平素《ふだん》の制服といふのは、釦《またん》のない詰襟《つめゑり》のホツク留《どめ》だが、加之《おまけ》に帽子の徽章《きしやう》が桜の花になつてゐるので、どうかすると海軍士官に間違はれる。 その学習院に洋画の教師を勤めてゐる岡野|栄氏《 さかえリ》が、ある日の事青山三丁目から電車に乗り込んで吊り皮に垂下《ぷらさが》つてゐると、直前《すぐまへ》に腰を掛けてゐる海驢《あしか》のやうな顔をした海軍大尉が、急に挙手注目して席を譲つて呉れた。 岡野氏も画家《ゑかき》の事だから、画家《ゑかき》に無くてならない暢気《のんシご》さ加減は十分持合せてゐた。 「大尉め、どこか近くの停留場に下りるんで、婦人《をんな》の乗客《のりて》もあるのに態々《わさ/\》画家《ゑかき》の俺を見立てて譲つて呉れたんだな。若いのに似合《にあは》ぬ怜悧《りこう》な軍人だ、さういへばどこか見所がありさうな顔をしてるて。」 岡野氏はこんな事を思ひながら、一寸顎をしやくつて、その儘《まゝ》そこへ腰を下した。 だが、その軍人は次の停留場でも、そのまた次ぎの停留場でも下りなかつた。それを見た岡野氏は、やつと自分の服装に気が付いてはつと思つた。 「成程俺を海軍軍人に見立てたんだな。相手が大尉だから先づ中佐格かな。」 岡野氏はいつもの停留揚へ来ると、その中佐のやうな気持で、胸を反《そ》らしながら電車を下りて往つた。 それ以後お礼心の積りで、馬でも描く折には岡野氏はいつもその海軍士官の顔をモデルに取る事を忘れないやうにしてゐる。結構な心掛で、詩人ダンテがその傑作のなかで、因業《いんごふ》な家主を地獄に堕《おと》した事を考へると、岡野氏が馬の顔を士官に似せたのは思ひ切つた優遇である。何故といつて、馬は士官のやうに制服制帽で人を見分けるやうな愚《ぱか》な真似はしないから。
2006年03月14日
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大森博士 先日《こなひだ》東京の銀行集会所へ全国の重立《おもだ》つた銀行家が集まつて、地震学で名高い大森博士を招待《せうだい》して、講演を頼んだ事があつた。実業家が地震や天国の談話を聞いた所で仕方がないが、彼等は学者に勝手な事を喋舌《はなししやべ》らして於《お》いて、そして後《あと》から、 「どうも学者などいふものはあんな迂遠な事ばかし考へてゐて、よく生きて往かれるもんですな。」と笑ひ話にする事が好きなのだ。 それを見て取つた大森氏は講壇の上から銀行家の禿頭を見下《みおろ》して、 「諸君は朝から晩まで金を弄《いぢ》くり廻してゐられるが、一体一億円の金塊の大きさは何《ど》の位あると思ひます。」と変な事を言ひ出した。 銀行家は「さあ」と言つたきり顔を見合せて誰一人返事をするものが無かつた。大森氏はにやりと笑つて、 「お答へが無いのに無理もありません。銀行家だからといつて、まさか金塊を懐中《ポケツト》に入れてゐる訳でもありますまいから、一億円の金塊は恰度《ちやうど》三尺立方の嵩《かさ》があります。序《つい》でに今一つ訊きますが、富士山の高さ程一円紙幣を積むと幾干《いくら》になるとお思ひですか。」と全《まる》で小学校の生徙にでも訊くやうな事を言ひ出した。 銀行家は今度もまた「さうさ、なあ」と言つたきり誰一人返事をする者が無かつた。大森氏は小学教員のやうな安手な勿体振をつけて、 「三千七百万円になります。」と言つて聞かせた。 先刻《さつき》からこんな問答に業《ごふ》を煮やしてゐた森村市左衛門氏は、「大森さん」と言つて衝立《つゝた》ち上りながら、 「一寸伺ひますが・做蹴一ポのうちに琵琶湖とか富士山とか出来たと言ひますが、富士山を取崩したら、見事琵琶湖が埋まるでせうかな。」と切り出した。居合せた銀行家は、「森村のお爺さん、巧《うま》くやつたな。」とにやにや笑つて大森氏の顔を見た。 大森氏は「さやう」と言つて、森村氏の禿頭を見た。頭はニツケルのやうに光つてゐた。「御殿揚を標準《めやす》にして富士山を横断すると、それだけでもつて琵琶湖が十七程埋め立てられる事になります。」 森村氏は「なる程な。」と言つて、そのニツケルのやうな頭を両手に抱へて笑ひ出した。頭のなかでは「耶蘇教」と「貯金」と「長生術」とが混雑《ごつちや》になつて揺《ゆす》ぶれてゐた。
2006年03月14日
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増田|義《ぎ》一 自動車に乗る人は多いが、実業の日本社の増田義一氏ほどそれを上手に使ひこなす人も少い。増田氏は西洋へ往つて、頭のなかに何も入れて来なかつた代りに、新型の自動車を一台買ひ込んで来た。 増田氏は朝早く自宅《うち》を出る時には、いつも背広に中折帽《なかをれぼう》といふ身軽な扮装《いでたち》で、すつと自動車のなかに乗込む。そして南紺屋町の社へ駈けつけると、蹊蛛《ばつた》のやうに車を飛び出し、二つ三つ指図をして、やがてまたゆつたりと自動車の人となる。 増田氏は雑誌社を経営してゐる他に、色々な会社へ頭を突込んでゐる。自慢の自動車が獣《けもの》のやうな声を立てて、関係会社の前へ来て止まると、増田氏は扉《ドア》のなかから、山高《やまだか》にモーニングといふ扮装《いでたち》ですつと出て来る。 居心地のいゝ会社の椅子に暫くモーニングの背《せな》を凭《もた》らせて、こくりくお定《きま》りの居睡《ゐねむり》をすると、増田氏は大きな欠伸《あくび》をしい/\のつそりと立ち上る。そして一《いつ》ぱし立派な仕事を遣《や》つてのけた積りで、上機嫌で受附のぽんく時計にまで会釈をしながら、のつそり自動車に乗り込む。 それから二十分経つて、増田氏の自動車がある宴会の式場へ横づけになると、氏はいつの間にか婦人雑誌の口絵から抜け出して来たやうな絹帽《シルクハット》にフロツクコートといふ、りうとした身装《みなり》で、履音《くつおと》軽く扉《ドァ》のなかから出て来る。 「まるで活動役者のやうな早業《はやわざ》ぢやないか。」とそれを見た或人が不思議がつて訊くと、増田氏はその男を態々《わざ/\》自動車へ引張り込んで、衣裳箱《スウツケよ》から料紙インキ壷の特別装置まで、自慢さうに説明して聞かせたさうだ。 結構な自動車さ。こんな自動車に乗つて、一度天国へでも往つたらどんなものだらうて。
2006年03月13日
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大発見 近頃その筋の手で、大和唐招提寺にある国宝の修繕をするに就いて、偶然にもそこの金堂《こんだう》で素晴しい大発見をした。発見といふのは、寺の敷地が伝説通り新田部《にたべ》親王の邸跡《やしきあと》に相違なかつたとか、開基の鑑真《がんじん》和尚が胃病患者だつたとかいふ、そんな無益な問題では無い。 問題はずつと大きい。それは外《ほか》でもない、あの堂に安置してある等身大の梵天《 んてん》の立像に手を入れる時、台座を外《はづ》してみると、その箝《は》め合《あは》せの所に、男子の局部が二つ描いてあつたといふ事だ。 その横に同じ墨色で二三の文字が楽書《らくがき》してある、その文字の字体から見ると、この可笑《をか》しな楽書は、徳川時代に幾度か行はれたらしい修繕当時の悪戯《いたづら》では無く、全くこの木像を刻んだ最初の仏師の楽書に相違ないといふ事が判る。 してみると、楽書としては随分古いもので、何《なに》によらず古いものでさへあれば珍重がる京都大学などでは、この剽軽《へうきん》な楽書の研究に、一生を棒に振つても悔《く》いないだけの学者が出なければならぬ筈だ。 往時《むかし》から仏像の創作には、一|刀《とう》一|礼《らい》とか、精進潔斎とか喧《やかま》しく言ひ伝へられてゐるが、まんざらさうばかりでもないのはこの楽書がよく証拠立ててゐる。ーと言つたところで、仏様を漬《けが》す積りではさら/\ない。仏様は何事も御存じで、知らないのは坊さんと学者ばかりである。
2006年03月13日
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広岡浅子 先日《こなひだ》ある婦人会で大阪府知事の夫人栄子氏と広岡浅子氏とが一緒になつた。この婦人会は大阪市の有力な夫人が集まつて、姉《あね》さんごつこのやうな事をして遊ぶ為に持《こしら》へてあるのだが、広岡のお婆さんが、何ぞといふと我鳴り立てるので、近頃出席者がぽつぽつ減り出した。 その日も思つた程|顔触《かほぶれ》が集まらないので、お婆さんは徐々《そろ/\》|雌《むく》れ出した。 「何《ど》うしてこんなに顔触が少いんでせうね。今のお若い方はどうも因循で困る。」と当て附けがましく言ふので、誰よりも若い積りの大久保夫人は一寸|調弄気味《からかひぎみ》になつた。 「広岡さん、貴方が何ぞといつてはお叱りになるもんですから、つい皆さんの足が遠退《とほの》くんでせうよ。」 お婆さんは大きな膝を夫人の方へ振ぢ向けた。椅子はその重みに溜らぬやうに、お婆さんの腰の下で蛙《かはづ》のやうに泣き声を立てた。 「何ですつて、夫人《おくさん》。私の叱言《こごと》が過ぎるから、会員が減るんですつて。ぢや、もうこれからは一切この会へ寄りつきませんからね。」と顔を歪めて喚《わめ》くやうに我鳴り立てたが、隅つこに小さくなつてゐた何家《どこ》かの未亡人《ごけ》さんが覚えずくすりと笑《フちち》つたので、今度はその方へ振ぢ向いた。「今のお若い婦人方は大抵男子の玩弄物《おもちや》になつて満足してゐるんだから困る。」 「さうかも知れませんが、少くとも私はさうぢやありません。」と大久保夫人は笑ひく言つた。「私は母として子供を立派に育て上げるといふ真面目な仕事を持つてますから。」 「子供を?」と広岡のお婆さんは吃驚《びつくり》した顔をした。お婆さんは女が子供を生むといふ事は少しも知らなかつた。少くともすつかり忘れてゐたのだ。「成程|貴女《あんた》はたんと子供さんをお持ちだ。さうして皆《みんな》男の子供さんだと聞いてゐる。どんなに立派におなりか、今から目をあいて見て居《を》らう。」と言つて婆さんは起《た》ち上つた。 大久保の子供達は皆|稚《をさな》い。それがすつかり大人になるまで婆さんは生き伸びる積りでゐるらしい。大変な事を約束したものだ。
2006年03月13日
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米大統領 米国の大統領ウヰルソン氏は、二度目の今の夫人を迎へてからは、日曜日日曜日に一度だつて教会へお参りするのを忘れたことが無い。-実際あの齢《とし》でゐて、あのやうに若い美しい後添《のちぞひ》を貰ふ事の出来たのは、外《ほか》ならぬ神様のお蔭で、幾度お礼を言つたつて、言ひ過ぎるといふ訳のものではない。 先日《こなひだ》独逸の潜航艇問題が起きた時、ウヰルソン氏は色々心配の余り、幾日か夜徹《よどほし》をして仕事に精を出した。で、その問題も先づ無事に片がつくと、大統領は久し振で可愛《かあい》い夫人の腕《かひな》に凭《よ》りかかつて教会に往つた。 教会にはあいにく神様がお不在《るす》だつたので、若い牧師が留守番をしてゐた。(事によつたら、その牧師が居た故《せゐ》で、神様の方が逃出されたのかも知れない。)その牧師はいつも判り切つた事を長つたらしく喋舌《しやべ》り続けるので名高い男だつた。 その日も牧師はフライ鍋の底を掻くやうな声をして、神様の吹聴を長々と述べ出した。何でもその説によると、地面《ぢべた》に起きる事も、海の上で持上る事も何一つ神様の摂理で無いものはない。近頃米国の近海で起きた独逸の潜航艇間題の如きも、みんな基督が心あつて行《や》つた事だといふのだ。 「さうか知ら。ぢや、基督はちやんと潜航艇の事まで御存じなんだな。」とウヰルソン氏は睡《ねむ》さうな眼で牧師の顔を見ながら凝《じつ》と考へてゐたが、そつと夫人の方を振向いて「私にはどうもあの人の言ふ事がさつぱり判らん。」と呟《ぼや》いた。 夫人は気の毒さうに、三毛猫でもあやすやうに大統領の頭を撫でて言つた。 「ぢや、帰つてゆつくりお寝《やす》みなさい、すると少しは善《よ》くなつてよ。」 この言葉は日本でもその儘《まゝ》真理で、実際牧師のお説教を聴くよりも、一寝入《ひとねいり》寝ておきた方がずつと利益《ため》になる事が多い。だが唯一つ感心なのは、ウヰルソン氏に解り兼ねた牧師のお説教が、何《ど》うやら夫人には了解《のみこ》めたらしい事だ。猫の声、あかんぽの声ーすべて男に解らないものを読みわけるのが女の能力である。
2006年03月13日
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高浜虚子 先日《こなひだ》横山大観氏が席上揮毫《せきじやうきがう》で、画絹《ゑきぬ》の書損《かきそこな》ひをどつさり栫《こしら》へて、神戸の富豪《ものもち》の胆を潰させた事を書いたが、人間の胆といふものは、大地震《おほぢしん》や大海嘯《おほつなみ》の前には平気でゐて、却《かへ》つて女の一寸した嘘《くさみ》や、紙片《かみきれ》の書潰しなどで、潰れる事があるものなのだ。 高浜虚子民が以前|何《なん》かの用事で大阪に遊ぴに来た事があつた。その頃|船揚《せんは》辺の商人《あきうど》の坊子連《ぼんちれん》で、新しい俳句に夢中になつてる連中は、ぞろぞろ一|団《かたま》りになつて高浜氏をその旅宿《やどや》に訪問した。 愽労《ばくらう》が馬の話をするやうに、俳人といふものは寝ても覚めても俳句の話で持ち切ってゐるものだ。坊子連は俳句が十七字で出来上つてゐるのは、離縁状が三行半《ばんちれんくだりはん》なのと同じやうに定《ぎま》つた型である事、その離縁状が偶《たま》に四|行《くだり》になつても構はないやうに、俳句にも字余りがある事、その字余りは成るべく三十字迄にしておき度い、何故といつて三十一文字になると、和歌に差支《さしつか》へるからといふやうな事を話し合つて、鼻を鳴らして喜んだ。 そのうち一人の坊子《ぼんち》が懐中《ふところ》から短冊《たんざく》を一束取り出した。そして、 「先生、何でもよろしおますよつて、御近作を一つ::」といつて、大阪人に附物《つきもの》の茶かすやうな笑ひ方をした。 高浜氏は黙つてその短冊を取り上げて太いぶつきら棒な字で何だか五文字程|認《したゝ》めたと思ふと、急に厭な顔をして、 「拙《まづ》いな、何《ど》うしたんだらう……」と言つて、さつとその短冊を引裂いた。 かうして高浜氏は続《つど》け様《ざま》に五六枚ばかし暴《やけ》に引裂いた。短冊は本金《ほんぎん》を使つた相応《かなり》上等な物だつたので、勘定高い坊子《ぼんち》は、その度《たび》に五十銭が程づつ顔を歪めてゐたが、やつと高浜氏が最後の一枚に何か認《したゝ》めて投出して呉れた時にはとうと泣出しさうな顔になつてゐた。 そこに居並んでゐた連中はみんな懐中《ふところ》にそれく\短冊を忍ばせてゐたが、何《なに》も彼《か》も引裂かないでは承知し兼ねまじき高浜氏の顔色《がんしよく》を見て、誰一人それを取出さうとはしないで、匆女《そこく》に座を立つて帰つて来た。 その連中も今ではもう一|廉《かど》の俳人気取りで、田舎者の前などで、矢鱈《やたら》に短冊の書損ねを行つてゐる。何事も進化の世の中である。ダアヰンもさう言つてゐた。
2006年03月13日
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落書無用 むかし王献之《わうけんし》の書が世間に評判が出るに連れて、何とかして無償《たゞ》でそれを手に入れようといふ、虫の善《い》い事を考へる向《むき》が多く出来て来た。 さういふ狡い輩《てあひ》のなかに、一人頓智のいゝ若者が居た。この若者もそれだけの才覚があつたら、美しい女を手に入れる方法でも考へたが良かつたらうに、世間並に王献之の書を手に入れようと夢中になつた。 で、白い切り立ての紗《しや》で特別仕立の上《うは》つ張《ばり》のやうなものを栫《こしら》へ、それを着込んでにこにこもので王献之の許《とこ》へ着て往つた。王献之は熟々《つく/゛\》それを見てゐたが、 「良《い》い紗だな。こんな奴へ一つ腕を揮《ふる》つて書いてみたら面白からうな。」と独語《ひとりごと》のやうに言つた。 若者はきさくに上つ張を脱いで、書家の前に投出した。 「無けなしの銭《ぜに》で拵《こさ》へたんですが、貴方の事ならよござんす、一つ思ひ切り腕を揮ってみて下さい。」 王献之は大喜びで、いきなり筆を取つて、草書楷書と手当り次第に好きな字を書き散らした。そして、 「や、近頃になく良く出来た。お蔭で思ふ存分腕が揮へたよ。」と言つて、そつと筆をさし置いた。側《そば》にゐた弟子の誰彼は舌打しながら凝《じつ》と見惚《みと》れてゐた。 若者は手を出してその上《うは》つ被《ばり》をさつと掻《か》つ俊《さら》つたと思ふと、いきなり駆けだした。だが少し遅かつた。門を出る頃には、もう弟子の誰彼に追ひつかれて、上《うは》つ被《ばり》は滅茶々々に引《ひ》つ奪《たく》られ、若者の手には片袖一つしか残つてゐなかつた。若者がその片袖を売つて酒を飲んだか、何《ど》うかといふ事は私の知つた事ではない。 今、仙台の第二高等学校にゐる登張《とばり》竹風は、酒に酔ふと丶筆を執つて其辺《そこら》へ落書をする。障子であらうと、金屏風《きんぴやうぶ》であらうと一向|厭《いと》はないが、とりわけ女の長襦袢《ながじゆばん》へ書くのが好きらしい。昵懇《なじみ》芸者のなかには、偶《たま》には竹風の書いた長襦拌を、呉服屋の書出しなどと一緒に叮嚀に蔵《しま》ひ込んでるのもあると聞いてゐる。 そんな事になつてはもう仕方が無い。国家は法律によつても、女の長襦袢を拙《まづ》い書画の酔興から保護しなければならぬ。
2006年03月12日
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手錠の音 殺人狂入江三郎を護送した巡査に聞くと、三郎の両手を縛るのに革製の手錠を穿《は》めると、彼は手首を前後に振つてみて、革の裏表がきゆつくと擦れて鳴る音にじつと耳を引立《ひつた》ててゐる。そして、 「これは好い音がする、やつぱり手錠は革に限りますな。」と、その手錠を娯む色が見える。 革製の手錠を試しに金属製のに取換へてやると、矢張同じやうに手首をかちく鳴らせてみて、 「うむ、これも好い音がする。なか/\好い手錠だ。」と、骨董好きが古渡《こわた》りの茶盤《ちやわん》でも見るやうな、うつとりした眼つきで自分の手首に穿《はま》つた手錠に見惚《みと》れてゐる。 今度はその手錠を解《ほど》いて麻縄で縛つてみると、三郎は以前と同じやうに手首を振つてゐたが、急に険《けは》しい眼附《めつき》になつて、 「何《なん》にも音がしない、こんな手錠は厭だ。」と、そこいら一杯に唾を吐き出した。その手錠から、巡査の面附《つらつき》から、署長の小鼻から、まるで汚い物づくめなやうに顔を蟹《しか》めながら。 手錠といふと、数年前|西伯利亜《シベリア》の監獄にゐる或る囚徒が本国の文豪ゴリキイに手錠を一つ送つて寄《よこ》した。自分が牢屋で持《こさ》へた記念品だから、遠慮なく納めて呉れと言つた。 牢屋で持《こさ》へる物にも色々ある。そのなかで手錠は少し気味が悪かつたし、加之《おまけ》に銀貨や女の鼻先と同じやうに手触《てさはり》が冷た過ぎた。だが、旋毛《つむじ》曲りのゴリキイは顔を蟹めてそれを受取つた。そして新聞紙でそのお礼状を発表した。 お礼状の文句に「露西亜は詰らぬ凡人を西伯利へ送るが、西伯利亜からはドストイエフスキイ、コロレンコ、メルシンなどいふ偉い男が帰つて来た。多分将来もそんな事だらう。」といふ一節があつた。
2006年03月12日
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旅銭代用 書家細井広沢がまだ壮《わか》かつた頃、ある日|僧侶《ばうダ》が一人訪ねて来て、 「私は房州|某寺《なにがしでら》の住職でござるが、先生の御作《ごさく》を戴いて、永く寺宝として後《のち》に伝へたいものだと存じますので。」と所禿《ところはげ》のある頭を鄭寧《ていねい》に下げた。「甚《はなは》だ勝手がましいお願《ねがひ》では御座るが、百|幅《ふく》程御寄進が願へますまいか。」といふ挨拶なのだ。 広沢は自分の書いた物で、仏様に結縁《けちえん》が出来る事なら、こんな結構な事は無からうと思つて、安受合《やすうけあひ》に引請《ひきう》けた。そして僧侶《ばうず》を待たせておいて直ぐその揚で書き出した。 三十幅四十幅と書いてゐるうちに、広沢は徐々《そろ/\》厭になり出した。仏様のお引立で極楽に往つたところで、そこで好きな書が書けるか何《ど》うか疑はしいし、それに仏様が書を奉納したからといつて、贔眞冐《ひいきめ》に見てくれるか何《ど》うかむ判らなかつた。僧侶《ばうず》の話では、仏様はそんな物よりもお鳥目《てうもく》の方が好きらしかつたから。 広沢は五十幅目を書《か》き畢《をは》ると、草臥《くたび》れたやうに筆を投げ出した。 「これで止《やめ》にしときませう。もう厭になりましたから。」 僧侶《ばうず》が驚いて、うろ覚えの華厳経の言語《ことば》など引張り出して色々頼んでみたが、広沢は二度と筆を執り上げようとしなかつた。僧侶《ばうず》はぶつ/\呟《ぼや》きながらも、流石に三つ四つお辞儀をして帰つた。 後《のち》になつて聞くと、広沢がその折寄進した書が、房州路のあちこちの宿屋に一枚|宛散《づつちら》ばつてゐる。理由《わけ》を質《たゞ》してみると、あの僧侶《ばうず》が道筋の宿屋々女で、旅籠銭《はたごせん》の代りに、その書を置いて往つたといふ事が判つた。 広沢は善い事をした。お慈悲深い仏様さへ手の届かなかつた売僧《まいす》を一人助けた上に、自分の書が田舎の房州路でさへ旅籠銭の代りになるといふ事を知つたのだから。
2006年03月12日
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抱月氏 島村抱月氏はよく欠伸《あくび》をするので友達仲間に聞えた男だ。会つて談話《はなし》をしてゐると、物の二分間も経たないうちに狗《いぬ》のやうにあんぐり口を開《あ》いて大きな欠伸をする。まるで霊魂《たましひ》でも吐出《はきだ》しさうな欠伸だ。 五六年前島村氏が神経衰弱とやらで暫く京都に遊んでゐた事があつた。ある日ひよつくり思ひ立つて岡崎にゐる上田敏博士を訪ねた。相手が上田敏氏と島村抱月氏の事だから、羅旬《ラテン》語|交《まじ》りで詩人ホラチウスの話でもしたに相違ないと思ふ人があるかも知れないが、実際は二人とも調子の低い日本語で、 「京都は寒いですね、すつかり風邪を引いちやつて:・」 「それは可《い》けませんね、私も二三日|前《ぜん》から少し風邪気味なんですが……」と、土地で引いた鼻風邪の話をしたに過ぎなかつた。 だが、二言三言そんな談話《はなし》をしてゐるうち、島村氏はお定《きま》りの大きな欠伸を出した。そしてそれを手始めに、一時間足らずの談話《はなし》に三十七の欠仲をしたので流石に上田氏も吃驚《びつくり》した。そして島村氏の帰つた後《あと》で、夫人と顔を見合せて言つた。 「よく欠伸をするとは聞いてゐたが、それにしても余り甚《ひど》い。余程|身体《からだ》が何《ど》うかしてゐると見える。」 さう言つて島村氏の健康を気遣つた上田氏は、不図《ふと》した病気から脆《もろ》くも倒れてしまひ、草臥《くたび》れて欠伸ばかり続けてゐた抱月氏は、その後《ご》ずつと健康を恢復《とりかへ》してぴちくしてゐる。そして近頃ではその名代の欠伸も滅多に見られなくなつた。 何でも墫によると、須磨子が欠伸が嫌ひだから自然癖が直つたのだともいふが、事によるとさうかも知れない。一に武士道、二に小猫の尻つ尾、三に竈《へつゝひ》の油虫…-すべて女の嫌ひなものは滅びてゆく世の中である。
2006年03月12日
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