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さいたま新都心のけやきひろばで開催されたFM NACK5のイベントに出掛ける。ラジオで耳にする“聲”の人を生で見てみたいがため、そのひとつがすでに何度かライヴに足を運んでゐるさくまひできさん(ただし今回は『吹上“モンブラン”HIDEKI』名義)の生歌に逢ふこと、やはり年季の入った苦勞人なだけに大御所歌手の若いお弟子たちとは會場の盛り上げ方も含めて一枚どころではない上手(うはて)ぶり、もうひとつがナマエだけは耳にしたことのある“藝人”たちの、その本業を初めて眺めることにて、トウキョウ圏のヒトたちはアレで笑へるのか、と摩訶不思議なモノに遭った氣分も何事も經験經験、知らないより知ってゐたはうが、今後の抗体になってよろしかろ。
2026.08.02
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東京ビッグサイトTFTホールで開催中の、「安倍晋三回顧展」へ行く。(※會場内撮影可)昨年のクラウドファンディングに協力して以来、開催を樂しみにしてゐたもので、一國を牽引するための政治力、權力、均衡感覺、それらすべてについて深く考へるきっかけを作ってくれた首相であり、その敬意を胸に、遺品や資料の數々を拝見する。ちょっと思ひ返しただけでも、平成から令和と云ふミカドの生前贈與による交代劇、ホッとしたのも束の間で蔓延猖獗を極めた支那由来の細菌事件下における舵取り、何よりも消費税を10%へ上げた代はりに食品は8%に据ゑ置いた政治感覺は、「上手いなァ……」と心底感心したものだ。母方の祖父でやはり首相にも就いた岸信介は、とかく毀誉褒貶の激しかった政治家と聞くが、安倍晋三元首相もそのDNAを受け繼いだのか、國葬については大勢の日本國民が手前勝手なことを叫んでの大騒動、本當に無關心ならば話題にもしないはずが「ワタシは無關心」とわざわざSNSで公言する隠れ關心派も入り亂れての百花繚亂ぶりは、ウラでさうなるやうけしかけた者がゐる氣がしないでもないが、ヒトから叩かれるのも仕事の政治家としては、ある意味で面目躍如な総仕上げだったやうに思へる。あの七月八日からそろそろ四年、あの日がすでに遠くに感じられるほど、あれからの日本はいろいろな事が起き、しかしそれらはすべて、“未来(あす)への前進”となり得る要素では、全く無い……。
2026.07.06
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映画「トロフィー」を觀る。朝鮮人學校に通ひ、部活で朝鮮舞踊に打ち込みながらもほとんど日本人の感覺で生活してゐる在日四世の少女が、祖國愛の強い父と日々ぶつかり合ふなかで父が大切にする“勲章”をネットで賣ってしまったことから、それを取り戻さうと仲良くなった日本人の友人とあれこれ考へ悩んだ末に──思春期と云ふ、子どもでも大人でもない微妙な狭間に生きる少女が、現状精一杯のところで問題を解決しやうとする姿を實際に朝鮮人の血を引くと云ふ新人が素直な等身大で演じ、氣負ひのないその演技はもはや大人からでは窺ひ知れぬこの年代のコたちの心理を覗くやうでもあり、“少女”がやがて“女性”へと成長していくひとつの過程を見る面白さがあった。タイトル「トロフィー」の意味が最後に明かされてああ……、と感心させる在日朝鮮人家族の物語ながら、出演者はみな日本人で、“朝鮮人ごっこ”を見てゐる氣がしなくもなかったが、そのあたりは世代を重ねて異國に住んでゐるとその國の風土に染まっていく例、として見ればいいのかもしれない。
2026.07.21
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四條河原と顔見世私が初めて京都南座の「吉例顔見世興行」に出演したのは平成十ニ年(2000年)、この興行の出演中に、師匠・七代目嵐徳三郎は亡くなった。十ニ月五日午前十時──自宅で朝食を済ませ、台所で食器を洗っていると、兄弟子から電話がかかってきた。「ええか、驚かんと聞いてな」「はい」「師匠が亡くなった」「……」「おい、聞こえとんのか?」「……はい」頭の中が真っ白になる、とはあのことだろう。どう返事をしたらよいのか、全くわからなくなった。今朝早く、病院の屋上から転落したそうや、と続ける兄弟子の言葉を、ほとんど空(くう)に聞いていたことは、記憶している。(※当時の新聞記事の一部)その夜、顔見世興行の出演を終えた私は、千里ニュータウンから近い斎場にいた。そして、師匠の枕許に端座していた。師匠は、安らかな表情で眠っていた。しかし師匠はもう、目を覚ますことはない。「……」私は師匠の顔を、じっと見つめた。師匠は、亡くなった──心で自分に何度言い聞かせても、私はこの現実が受け止められなかった。むしろ、嘘なのではないかと、本気で疑っていた。あとでいきなり、「バア、驚いた?」と、おどけて起き上がるつもりなのではないかと、期待や希望ではなく、本気で思っていた。十ニ月五日の早朝、いつものように病院の屋上で朝の空気を胸いっぱいに吸って発声練習をしようとしていた師匠は、にわかの立ちくらみに体勢を崩し、誤って転落した、と古くより師匠と親しかった人から聞いた。予想以上に回復が早く、舞台復帰の目処も立ち、意気揚々としていた師匠である。その実現に向かって、着実に準備を重ねてきた師匠である。それがなぜ……!「これは何かの間違いではないか……?」ただ、師匠がたまに目眩や立ち眩みに襲われていた様子は、私も病院で実際に見て知っている。一体なにがあったのですか……!師匠の訃報を載せた新聞は翌日に、「病院関係者の話し」として、嵐徳三郎の死因は自殺によるもの、と断定的な続報を載せた。私たちは怒り心頭だった。もちろん、そんな事実はない。そもそも、師匠が転落する瞬間を目撃した者は皆無なのである。この「病院関係者」なる者が憶測でものを言ったことは、明らかであった。ほぼ崩壊状態にあった関西歌舞伎を守ろと、学士俳優の仲間たちが次々に脱落していくなか、劇界の魑魅魍魎を相手に孤軍奮闘してきた、芯の強い、おそろしく強い師匠である、加賀見山の中老尾上ではあるまいし、自分の命を自分であやめるような、そんな脆弱な人間などではない。その後、この新聞は自殺は誤報であったことを明記した訂正記事を載せたが、もちろんそこにお詫びの言葉はなかった。やや筆が走ったので、話しをお通夜の日に戻そう。私は手にした数珠を見つめた。前年の夏、にわかに或る仏事に参列することになった私は、不心得にも数珠を持っていなかったため、翌日に京都の東本願寺ちかくの仏具店で袱紗と共に買い求めた数珠が、いま手にしているものである。まさか、自分の師匠の葬式が、その使い初めになろうとは……。しかも、出演中の顔見世興行で私は良弁大僧正の同行僧の役をつとめており、衣裳とはいえ僧衣姿で舞台に立っていたのである。偶然だったのだろうが、なんて皮肉な巡り合わせだろうと、私は天のなせることを恨まずにはいられない気持ちだった。翌朝の告別式は、二人の兄弟子は舞台の都合で途中で失礼することになり、出棺は末弟子の私が見届けることになった。たくさんの献花に囲まれた師匠の胸には、「小笠原騒動」の南座上演時の台本、師匠が出演する第三幕目のページを広げて、添えられてあった。師匠が復帰の第一歩をしるすべく、毎日準備を重ねてきた芝居の台本である。病室における師匠の、そんな姿を想像するだけで、胸が締め付けられる。蓋をした棺には、師匠が愛用していた楽屋暖簾が、ふわりと掛けられた。(※師匠と愛用の楽屋暖簾)やがて師匠をのせた車は、「葉村屋!」とさかんに大向うがかかるなか、ゆっくりと斎場をあとにした。私も、そろそろ南座へ向かわねばならない。「王子メディア」でいつも師匠のアシスタントをつとめてくれた二人の若手俳優にあとを託して、私も斎場をあとにした。師匠を載せた車は、道頓堀の旧中座、そして松竹座と回り、ご両親の待つ天国の玄関口まで、無事に送り届けてくれたとのことだった。この日は一日快晴だった。師匠が旅立つ日としては相応しいのかもしれない。が、私には世の無情を当てつけてがましく見せつけられているようで、南座に着いてから、そんな青空を睨まずにはいられなかった。楽屋では私たちに対して愁傷そうな空気ではあったが、舞台と客席では初日以来の歌舞伎の祭典が繰り広げられ、私の現実とはしょせん私だけの現実であり、世の中の大勢には何ら関係がない、そんな断絶と孤独を感じたことを、憶えている。師匠の亡きあと、私は自分の進退を本気で考えなければならなかった。しかし、なんといっても突然の出来事であり、当然心の準備などできていようもなく、私はただただ悩み続けるばかりで、師匠の急逝から一年が過ぎた。よその一門への移籍──?東京へ帰る──?私は南座のそばを流れる鴨川の、四條大橋と三條大橋との間の河原を、毎日往ったり来たりして考え続けた。いろいろな考えが頭に浮かぶものの、すべて名案からは程遠く、妥協点すら見出せず、私の心はどんどん暗く塞ぎ込み、このまま鬱になるのではないかとすら思った。実際、その一歩手前まで来ていたように思う。この年も出演していた南座顔見世興行の何日目であったか、この日も重く暗い気持ちで阪急電車の河原町駅の階段を地上へ上がる瞬間、「そうだ、これからも、七代目嵐徳三郎の弟子という立場で、やっていこう!」と、ひらめいたように思ったのである。そして鴨川の河原に下りると、いつものように往復しながら、この考えを整理した。(※四条河原より三条大橋方面を望む 令和7年6月撮影)私の師匠は、七代目嵐徳三郎ただひとりである、その憧れである師匠を目標に、これからも関西で頑張っていこう。師匠あっての、いまのこの私ではないか。師匠は亡くなったのではない、ただ人の目には見えなくなっただけ、師匠はいまもそこにいるのだ。もう寂しくはない。私には常に師匠がついてくれている。私には心強い味方ではないか。私はせっかく、憧れの師匠がいる大阪に来たのだ、自分の力で出来る限り、このまま関西で頑張ってやっていこう!──そう気持ちが固まった途端、それまで私の心を重く塞いでいたものがいっぺんに消えて晴やかになり、体も軽くなったものだ。それが歌舞伎発祥の地とされる京都の四條河原であったのも、なにかの因縁だろうか。(※四条河原から南座を望む 令和7年6月撮影)もしかしたら、これは師匠からの応援メッセージだったのかもしれない。最後まで挫けなかった師匠の生き方を、私は弟子として受け継いでいくのだ。負けないぞ!私はようやく四條河原で、師匠と、そして自分に、はっきりとそう誓った。平成十五年十二月五日、師匠三回目の命日の夜、大阪の自宅にて追想す師匠・七代目嵐徳三郎令和八年のあとがき私がこれまで生きてきたなかでただひとりの師匠である歌舞伎役者・七代目嵐徳三郎の思い出を、弟子の目線で全十七篇に綴った「三橘(みつたちばな)」は、作中にもある通り平成十五年の夏の終り頃より思い出すまま筆を進め、翌十六年に当時関西歌舞伎の若手を応援していた方のご好意で、ご自身のHP上に毎月連載させていただき、のちにその方が開設してくれた私のブログ上に、再掲載したものであります。その後、私を取り巻く環境の大きな変化などから掲載の非公開を余儀なくされ、長らくそのままになっていましたが、令和八年(2026年)五月をもってかつての私の活動拠点であった大阪道頓堀の松竹座が閉館、また興行元の関西松竹も消滅し、ついに道頓堀から歌舞伎の灯が消えるとの驚報に接し、関西に歌舞伎があった時代にそこで生きた役者の姿を知る、ひとつのよすがになればと、もとの原稿に加筆修正、私が所有する写真もいくつか加えた上、今回新たに掲載したものであります。師匠に憧れてせっかく来た大阪で、自分の力で出来る限りやって行こうと固く決心した私は、それから五年後にいよいよその限界がきたことを感じて東京へ戻り、さらにその二年後、この業界には自分の追い求めるものが絶無であることを見極めて訣別、東京である人に騙されて取り上げられた“嵐徳江”の名を、読みはそのまま“嵐悳江”と改めて取り戻し、現在の手猿樂師としての私につながっております。師匠の急逝、かつて十年在籍した業界との訣別など、想定外の出来事に遭遇しても挫けずにここまで生きて来られたのは、すべて師匠の弟子という誇り、私の師匠は七代目嵐徳三郎ただひとりであるという誇りが、私の心の拠り所であり続けているおかげに他なりません。師匠が二十一世紀と誕生日を目前にして急逝してから早くも二十五年以上がたち、この「三橘」もふた昔前の作品となりましたが、今回の新掲載にあたり久しぶりに原稿を読み返したところ、いまではすっかり仕舞われていた記憶が次々と蘇り、それが久しぶりに師匠本人に会えたように思えて、そうした懐かしいひとときも楽しむことが出来ました。その人が亡くなったあとも、記録が殘る限り、その人の魂は生き續けると言います。拙文ながらこの十七篇をいつでも誰でも讀めるようにしっかり殘していくことが、不肖者ながら殘った弟子としてのつとめと、心得ているつもりです。令和八年五月かつての嵐徳江いまの嵐悳江
2026.05.10
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大阪四天王寺の師匠と嵐家ご先祖へ、四月の聖靈會いらいの挨拶に伺ふ。そこまで鳴くんか、と呆れるほどに大合唱の蟬たちに迎へられ、新盆と旧盆の間の真っ白な太陽も歡迎ゆゑと考へて、盛夏の挨拶。かうして訪ねることが叶ふのも、御縁のあるゆゑ。つくづく思ふに、第二のふるさとである大阪とのつながりが現在の私にそのままつながっており、人生における出逢ひの視點をどこに定めるかでしあわせの度合ひも大きく變はってくるもの、私はただただ、感謝しかない。
2026.07.28
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○昭和21年(1946年) 64歳1月 南座(1日~25日)『明朗新日本再建第一春を飾る初春興行・東西合同大歌舞伎』「松平長七郎」松平長七郎「弁天娘女男白浪」早瀬の娘お浪実は弁天小僧菊之助「壇浦兜軍記 阿古屋三曲」遊君阿古屋「名工柿右衛門」酒井田柿右衛門※3月16日、渋谷区千駄ヶ谷町3-496 (現在の同区千駄ヶ谷3丁目12番地あたり)の自宅にて妻子、使用人二名と共に遺体で発見される。(仁左衛門宅跡の現景 令和8年1月)〈新聞記事より〉『仁左衛門一家殺さる』「俳優片岡仁左衛門こと片岡東吉氏(六五)方で仁左衛門丈をはじめ妻登志子さん─元日活女優小町とし子─(二六)三男三郎ちゃん(三つ)ばあやの榊田はるさん(六九)子守岸本まき子さん(一二)の五名が薪割様のもので顔、頭などを滅多打にされ惨殺されてゐるのを十六日午前十一時登志子さんの実母がカヨさんが訪問して発見、原宿署に届出た。警視庁では特別捜査本部を原宿署におき捜査を開始した。犯人は戸締りのない四畳半から侵入、犯行は十五日深夜に行われたものらしく物品を物色した形跡があり、二日前に引出した現金六百円も見当たらぬが一方もと同居人飯田利明(二〇)が目下行方不明のため、怨恨による同人の仕業も一応は考慮に入れて捜査を進めている、なお次女照江さん(五つ)は神田の祖母宅に行っていたため難を逃れた。」(朝日新聞 昭和21年3月17日付 ※原文ママ、一部省略)『食と妹の財産の恨み “仁左”殺し犯人捕わる』「“仁左殺し”の有力な容疑者として警視庁捜査一課が全国に指名手配している同居人片岡一座座付作者森田こと飯田利明(二二)は二十日午後宮城県玉造郡川渡村温泉旅館で岩出山署員に逮捕された、二十一日朝晩身柄引取のため捜査一課と原宿署から現地に急行した、同所は殺された実妹岸本まき子さん(一二)が在学していた山谷堀国民校の疎開先だった所である。二十三日午後同人の着京をまって本格的取調べが行われる。【仙台発】川渡温泉で逮捕された飯田利明は岩出山署で警視庁から出張の係官から一応取調べを受けた結果犯行の一切を自白した、それによると飯田は兇行後一旦自殺を決意したが思い返し、十五日午前六時すぎ兇行を演じたもので、その原因は前夜妹の財産一万五千円のことで仁左衛門夫婦嫌味をいわれカッとなり妹が子守ばかりさせられ、学校にもやられず、配給のメリケン粉ばかりで米の飯も喰わせないではないかと喰ってかかり、これらを恨みに思ってやったと言っている。兇行後一旦自殺を決意したが思い返し、混雑にまぎれて常磐線に乗込み高飛びしたもの」(朝日新聞 昭和21年3月23日付)〈飯田利明の自白などによる事件経過〉3月15日 23:30頃─仁左衛門より馘首を言い渡され、日頃の食事のことなどの鬱憤から二時間ほど口論となる。また四月興行の客引原稿を書くが没にされる。3月16日 6:00頃─トイレに行く途中、廊下に立てかけてあった薪割り斧に躓く。それを凶器に就寝中の仁左衛門(65)、及び妻登志子(26)、四男三郎(2)を殺害し、逃げる使用人も殺害。そのまま自殺、もしくは逃走しようとしたが寒さに引き返し、飯とザラメを頬張り、都電で上野へ出て常磐線に乗り換え高萩下車、宮城県鳴子の川渡温泉に隠れる。9:00頃─仁左衛門宅の隣人が回覧板を届けに来たが、戸が閉まっていたため、引き返す。11:00頃─仁左衛門夫人の実母が訪ねて来たが応答なし。不審に思い、近所の人の立ち会いの上、裏手の雨戸より入り、遺体を発見する。「(前略) これで見ると、ともあれ食糧問題が重大な原因となっていることは明かだ。劇壇の名家、女形の随一仁左衛門が、その犠牲になったのは情ないことである。併しジャーナリズムでは仁左衛門を、まるで三荘太夫のような扱い方をしているのは、如何になんでも気の毒だ。飯田という男も、相当悪質なところがあったらしい。猿之助君(※二代目)にきいてみると、その前日に同一座へ、米を売りに来たそうだ。金に困っての仕業だろうが、恐らくクスねたものと思われる。仁左衛門という人も、一部には御贔屓を持っていたが、あれだけの美貌と芸の所有者としては、それほど見物に騒がれなかった。劇場人には不思議なほど嫌われて、これという友達すら持っていなかったのである。舞台を見ても想像される通り、あの冷たい性格が主として禍いしたのだが、東京で生まれながら、修行時代を上方で過し、しかも厳格な一座に長く居たというのでもなく、時に新派と合同したりして、自由に振舞う年限が多かった為か、芸風も他優と合わなかった。東京俳優ばかりでなく、上方俳優とも反りが合わず、いつも敬遠されがちであった。大正十年、横浜座で『太功記』十段目が出た(※該当興行確認出来ず)。中車(※七代目)の光秀に仁左衛門の十次郎であった。中車の光秀は例により、一時一句を粗末にしない手堅いやり方なのだが、仁左衛門の芸はまるでそれとマッチしない。中車は非常に怒って、それぎり仁左衛門とつき合はなくなり、自然外の役者とも疎遠となって、仁左衛門は孤立してしまった。それで仁左衛門もひどく困って、大谷社長(※松竹社長 大谷竹次郎)に執政し方を頼んだ。大谷さんも上方から東京へ来て、随分辛い目に遭ったこともあるから同情し、一緒に中車の内へ出向いて詫を入れ、再び芝居へ出られるようになったこともある位で、どうも他の俳優とは気質が合わなかったのであるが、昭和十年十一月の歌舞伎座で、羽左衛門の与三郎にお富をつとめて以来、女房役者となっていつも一緒に出ていた。羽左衛門の死と戦争との為に、その後は動静も一定せず、壽美蔵(※三代目壽海)と一緒になったり、我當(※十三代目仁左衛門)と一緒になったりしていた。東京でのお名残は、昨年十二月の東劇に、阿古屋と、二月堂の良弁、『佐々木高綱』のおみのとであった。二月には京都の南座へ出て、松平長七郎、弁天小僧、阿古屋、柿右衛門などを勤めたが、この柿右衛門がなかなかの出来で、芝居も大入であった。四月は大阪で延若梅玉と一座し、弁天小僧と『いもり酒』の夕秀とを勤める約束になっていた。(後略)」(「演劇界」昭和21年5月号 “仁左衛門事件” 筆者不明)〈判決〉昭和22年(1947年)10月22日─「精神鑑定の結果、心神耗弱がみられたため」、飯田利明に無期懲役の判決。→栄養失調による極限状態から、精神に支障をきたしたか?※飯田利明は出所後に自殺したとする資料もあり。〈遺族の証言〉「(前略) 仁左衛門には、それまでに我童(平成5年死去)、市村吉五郎、芦燕の男三人の子があったが、一緒に殺された登志子さん(当時二六)との結婚ですでによそに住んでいた。わずか二歳の三郎ちゃんも犠牲になったが、生活をともにしていた照江さん(当時三つ)だけが、たまたまその夜、神田の照江さんの祖母・吉田香代さんの家に泊まりにいっていて難を逃れた。そして、この香代さんが事件の第一発見者となった。照江さんを連れて千駄ヶ谷の仁左衛門宅に戻ったのだが、もう午前十一時というのに雨戸が閉まったまま。いつもはきちんと水も打ってあるのにと、戸を一枚だけ開けて真っ暗な廊下に入ると、妙に滑る。足袋がびっちょり。真っ赤に染まっていた……。『焼いてふくれたモチの頭にショウユを塗ってくれた』という優しい父の記憶はあるが、ほとんどは、この祖母から事件を聞いて育った。犯人は四日後、宮城県で逮捕されたが、凶器となった薪割は片岡家のものではなく、隣家のものだった。 (中略) その後、なぜか第一発見者の証言は求められなかったという。しかし、やはり最大の問題は“食べ物の恨み”で済まされてしまったことだった。食べ物の理由が世間の同情を受けやすいということもあったろうか。六百円がとられている。当時とすれば大金だ。『地方のひいきから送られてきたお米がいっぱいあったし、面倒見のいい父がそんな差別をするような人ではなかった』と、照江さん。照江さんによると、犯人の弁護士から『食べ物の恨みにしてもらえないか。そうでないと死刑になってしまう』と頼まれ、祖母がそれを受け入れたという。それが功を奏したか、犯人は無期懲役 (後に出所) になった。『実は犯人が獄中から祖母にあてた“礼状”があったのですが、紛失してしまった。唯一の証拠だったのに残念でなりません』これまでも“間違い”の訂正を試みたこともあったが、なにをいっても最後は『食べ物の恨みは怖い』になってしまい、あきらめていた。 (中略)『よくしてくれた父だった』と芦燕。何事も親身なのは父親譲りか。『だれもが忘れてしまっていること』という気持ちが強いようで『ああいう時代だったから』とあまり語らない。事件に隠れ、俳優としての評価が忘れ去られている。立役も女形もこなしたが、十五代目羽左衛門の相手役を務めた。現在(※当時)の十七代目羽左衛門は『仁左衛門さんの“義賢最期”の印象はいまも鮮明。名優の一人だった。』という。」(東京新聞 平成6年11月1日 「遺族が語る“50年目の真実”」)「世間はかれを梅幸の代替品として見ていたが、お富だの、三千歳だの、そういった役柄において梅幸に要求したのと同じものを、かれに要求することは見当違いだったように思える。狷介で、気取り屋で、気位の高い彼れ、そして冷たくけれども気品ある容貌の彼れには、市井の莫蓮女、例えばお富のような心中仕そこねのお妾風情には心からなり切れなかったのかも知れない。純情な悲恋の女──別して朝顔日記の深雪や安達ヶ原の袖萩、そういった“たとえ落ちぶれても、もとこれ“歴乎とした武家の娘”といった気位の高い悲劇美の女性を演ずる時においてこそ、彼れのよさはいみじくも光るのである。所詮彼は悲劇の、そして悲劇の美しさを最もよく表現し得る役者の一人だった。しかしその最期のあまりに残酷だったこと、これこそ彼に取っての悲劇である。」(「アサヒグラフ」昭和21年4月25日号 『“仁左”殺人事件』 小倉敬二 述)墓所は身延山久遠寺 覺林坊にあり、戒名「大乗院仁優日東居士」十二代目 片岡仁左衛門 明治15年(1882)9月9日~昭和21(1946年)年3月16日
2026.01.30
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橫須賀市立青少年會館ホールで、橫須賀シニア劇團「よっしゃ!」公演『エレファント号出発進行!』を觀る。キナ臭い時世下の昭和十二年、名古屋で興行してゐた木下サーカスは東山動物園々長の北王英一の求めに應じて四頭の象を動物園に譲渡、すでに始まってゐた食糧難により痩せ初めてゐた象も動物園にゐれば食ふに困らないだらう、との木下團長の判斷だったが──しかし戰争は激化し、「もし動物園が爆撃されて動物たちが逃げ出したら人間を襲ふかもしれない」と云ふ軍部の推測だけで全國の動物園の動物たちが強權的に殺され、北王英一園長の命を張った拒絶も虚しく東山動物園の動物たちも同じ運命をたどるなか、エルガーとマカニーの二頭の象だけは、園長はじめ象使ひの少女や飼育員たちの“愛情”によってなんとか生き延び、戰後の昭和二十四年六月には北王園長の發案によって東京の子どもたちに本物の象を見せるべく、特別列車「エレファント號」が仕立てられる──四人のシニア役者が耳と鼻を象徴的にかたどった扮装で四頭の象を演じ、臺詞はなく大きく体を揺らしての表現も印象に殘ったが、もっとも強く印象付けられたのは東山動物園々長の北王英一と云ふ、憲兵の高圧な態度に一歩も退かぬ見事な硬骨漢ぶり、史實もその通りだったと云ふその人物像には、男として強く教へられるものがあった。この北王英一園長なくしては、終戰二年後に映画「象を喰った連中」でエルガーとマカニーが“シロウちゃん”役で初出演を果たすこともなく、その映画を七十九年後に觀た私といふ人物が、たまたま今回の芝居を知って觀に出掛けて感心することもなく、かくして北王英一園長の強い想ひは、令和現在を生きてゐる人に、しっかりと傳はってゐる。
2026.07.11
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JR線の櫻木町驛を降りて紅葉坂に向かって歩いてゐると、橫濱驛方向に巨大な青い十字架状の物が聳へてゐるのが見えて、ギョッとなる。耶蘇教かなにかの建物でも出来るのかと思ったが、橫濱驛西口のNTT電波塔をブルーシートで覆ったものにて、近日解体云々。 突然奇妙なモニュメントが出来ても何ら奇妙でないのが令和現在にて、いちいち驚いてゐるはうが野暮なのだらうが、一方でさうした浮世の速度がすっかり面倒に思へてゐるおのれにも、ギョッとなる。
2026.07.01
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川崎浮世繪ギャラリーで「神奈川の浮世絵 意外と知らないディープな魅力」展を觀る。川崎の名士で所有者の斎藤文夫氏が浮世繪を蒐集するきっかけとなったと云ふ地元神奈川を描いた浮世繪の數々のうち、作品そのものよりも“二代歌川豊國”の名に、ふと目に留まる。(※二代目歌川豊國「名所八景 玉川秋月 玉川鮎汲の圖」 記念絵葉書より)實家の菩提寺に、二代目歌川豊國の墓があったな……。門前に石碑が建ってゐるので大昔から知ってはゐたが、それまで興味もなかったので墓苑のどのあたりにあるのかまでは知らず、今回名が目に留まったのもなにかの縁と、改めて東京都江東區亀戸のわが菩提寺を訪ねる。當寺では“二世歌川豊國”となってゐるが、實は三代目豊國の墓であることを、このたび調べて初めて知る。初代豊國の弟子で、のちに養子となった歌川國重がすでに二代目を襲名してゐたにも拘ず、なぜかその弟弟子も二代目として豊國を名乗る事態となり、それが當寺に眠る豊國なのだが、そのために後發を當然ながら三代目とし、住んでゐる場所をとって“亀戸豊國”、本家二代目を“本郷豊國”と呼んで區別云々。(境内に奉納された“二代目”實は三代目豊國の石碑)歌舞伎界でもかつて、“中村福助”が東京と上方で二人存在したり、現在では尾上菊五郎が七代目と八代目と、父子で並立してゐる。尾上菊五郎はともかく、二人豊國は現代のやうに情報の傳達や交換が充分ではなかった時代の産物、と云ふことなのか、やはり歌川派の内部でさらに“派”があったからなのか……?(亀戸天神境内に明治に入ってから建てられた、二代三代豊國の顕彰碑)では本家二代目“本郷豊國”の墓所はどこなのかと調べたら、中野區落合の功運寺にあるとのことで訪ねて行く。(※三代目歌川豊國「東海道五拾三次之内 京 石川五右衞門 同)吉良上野介や水野重郎左衞門など、江戸の有名人が多く眠るこの寺は境内における無斷撮影とSNS投稿は禁止云々、初代二代三代の歌川豊國の墓へお参りしたあと、門前の案内板だけを冩眞に撮り、熱中症警戒アラートが發令されるほど蒸し蒸しした暑さのなか、こんな天候で我ながらよくやるナ、と自画自賛して涼しい場所へと急ぐ。
2026.07.22
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大阪日本橋の國立文樂劇場で、チャップリンの名作映画「街の灯」を新作の人形浄瑠璃劇に脚色した「まちの灯」を觀る。チャップリン研究の權威が脚本をつくり、文樂太夫が字句に手直しを加え、洋樂の心得もある若手の三味線方が作曲、たしかに原版の名曲の旋律を一部取り込んだところに遊び心が窺へ、時代を幕末から明治にかけての大坂に設定して時間の流れを効果的に表はし、浄瑠璃劇の傳統的な役柄もしっかり活かすなど原版から適度に離れた筋立ては、1931年の映画「街の灯」を觀たことのない人でも充分樂しめる現代浄瑠璃「まちの灯」ではあった。ただ、原版はサイレント映画で、チャップリンの放浪者もヴァージニア・チェリル扮する盲目の花賣り娘も、劇中では當然ながら一言も“こゑ”を發してゐない。こちら文樂脚色版では、當然ながら太夫が“与次郎”と“お花”の聲を發してゐる。人物を觀てゐてそこはかとなく違和感を覺えたのは、「街の灯」がサイレント映画の傑作と云ふ印象があまりに強いからかもしれない。令和の現在進行形に生きる傳統藝能の挑戰を樂しみたい人にはオススメだが、あくまで映画の印象を大切にしたい人には、さうしておいたはうが無難かナ……。
2026.07.29
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