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監督に選手時代の実績は関係ないいかにリーダーシップを取れるかだトレイ・ヒルマンヒルマンは、メジャーでの現役経験は無かったが、マイナーリーグで長年監督を務め、03年日本ハムの監督となり、06年44年ぶりに日本ハムを日本一に導いた。スポーツの世界では「名選手必ずしも名監督ならず」という言葉があるが、それは名選手になるための条件と、名監督になるための条件が大きく違うからです。フィリップス元経営者で大学教授のジョセフ・バジールは上に立つ人間の三つの条件として、1.知識(スキル)は必要だが25%の比重でよい。2.リーダーはただ行動するだけではダメで、創意と工夫がないと人を動かすことはできないが、これも25%の比重でよい。3.残りの50%は、感性のダイナリズム(人の痛みを自分の痛みにできる人間、自分の喜びを人に感じとらすことのできる人間、即ち人を感じ取り、人に感じさせる力)で、これがリーダーとして最も求められる条件だと言う。
2011.01.31
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教育の本質は一人ひとりが内に秘める可能性を引き出すことにある。 プラトン教育というものを「人間改造」のように思ってしまい、国家に有為な人材、社会で成功する人間、期待される人間、模範人間、優等生を作り出すことが教育の目的だと考えてしまいがちだが、そんな考えでは子供たちを真に幸せにしてやることはできません。本来、教育は、生きていくことがもっとずっと楽しく、素晴らしいものに思えてくるようなもの、つまり子供たち一人ひとりに、人間としての価値に目覚めさせ、生きる自信を持たせるものであるべきです。そのために、生きていく上での知恵と能力、そして何よりも自分自身に対する信頼感を植えつけることではないでしょうか。一人ひとりの子供たちをあるがままに受け入れて、頭の良い子は良いなりに、頭の悪い子もそれなりに、身体の不自由な子は不自由なままに、幸せに生きていけるようにしてやること、それが真の教育であると思います。◆昨日は名古屋で飲み過ぎ泊まってしまい今帰りました。新幹線よりもローカル列車で雪景色を楽しみながら行こうと、米原・大垣で乗り着いて名古屋まで行きました。在来線は目線が低いので、彦根の手前から関ヶ原を過ぎるまでは一面の雪で楽しい旅でした。
2011.01.30
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明日を目指して自分を創るには毎日の汗や努力が大切。でも、疲れたら歩けばいい。休憩してもいい。ただ、夢を見つけたら負けずに進むこと。誰もが夢や希望を持つが、「なんとしてでも」と行動に移す人は少ない。夢や希望を描き、それに向かって「いま、自分」ができる一歩を踏み出すことが大切です。「節度があり、礼儀を知り、怖さを知る人が真の勇気を身につけたとき、偉大なことが成し遂げられる。志を高く持って努力することである。努力には限度がない。限度のない努力は、本人が驚くような偉大なことを達成させる。偉大なことは、最初からできるものではない。地道な努力の一歩一歩の積み重ねからできるものだ。一歩進めば、次の一歩が見えてくる。そのようにして偉大なことが達成される」と稲盛和夫さんは語る。大きなことを為し遂げるには【能力×努力×運】が必要で、運が9割とも言われるが、努力と勇気がなければ何事も成し遂げられないのは事実です。時には速度をゆるめながらも、汗をかき前進し続ける努力が大切です。
2011.01.29
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カレンダーを日めくりに替え人生に終わりがあることを意識すると一日一日が貴重になるガンになったお陰 ガンを克服した人若かろうと歳を取っていようと、明日命があるかどうか分からないのが人生です。でも、私たちは永遠に命があるように日々のんべんだらりと生きています。白隠禅師の師、正受老師は「一日暮らしという工夫をしてから、精神はすこやかで、健康増進のコツを得た。一日は千年万歳の初めだから、一日を良く暮らすように努力すれば、その日がうまくすぎていく。それを、翌日はどうしてこうしてとか、あてもないことを苦にして、しかも翌日のことに呑まれて、その日のことを怠りがちである。(中略)どんなに苦しいことでも、一日と思えばこらえやすい。楽しみもまた、一日と思えば溺れることもない。愚かな者が親を孝行しないのは、先は長いと思うからである。一日一日のことだけを思っていたら、退屈なこともない。一日一日つとめたら百年、千年もつとめやすい。何とぞ一生、と思うから大層である」と諭す。
2011.01.28
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故人を偲ぶ場として墓が有効な存在となる。語りかけ答えるのは、常に私の心の内側に存在する。それは空想であり幻影かも知れないが、姿形を伴っている。墓は遺骸や遺骨を葬った葬地であり、その霊魂を祀るための祭地でもありました。ところが、「自分の次は、誰が墓を守るのか」と、不安を抱く人が増えています。とくに地方の墓地では空洞化が進み、墓地を維持する人も高齢化し、草が生い茂り、長年誰も訪れた形跡のない墓や、地震などで倒れたままの墓石も増えてきました。「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません」と歌う「千の風になって」が流行る時代だが、今でもお彼岸などには沢山の人が墓参りをされます。私は故人を偲ぶと言うよりも、何か悩みが生じたとき、両親の墓に語りかけることで解消することがあります。お墓参りは、命日などに関係なく、懐かしい思いが起こったり、苦しい胸のうちが打明けたくなったり、嬉しいことを報告したいなどという思いが起こったときに、いつでもお参りすればいいのではないでしょうか?◆昨日は私と同年齢の現代のマタギとも言うべき人が獲った熊・イノシシ・鹿肉とブリ尽くし料理にフグ酒での宴会でした。熊の肉は初めてでしたが、甘くて美味しいが、筋が硬くて噛みきれませんでした。
2011.01.27
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AIDMAからAISUSへサーチしてアクションをお越し、他人とシェアーする。つまり、人に聞いて購入し、その結果をまた発信する。ネット社会における購買行動の一面を現しています。かつては、テレビを中心にしたマス広告で消費者の目を惹きつけて興味・関心を持たせ、立地のよい店に呼び込んで商品を触らせ、購買に結びつけるのが一般的なマーケティングでした。いわゆる、AIDMAの法則です。今、その購買行動が、ネット時代になって大きく変わってきています。ネットで興味を喚起されるだけでなく、ネットで価格を調べ、ネットで購入する人が増えてきています。そして購入した商品の感想を、今度は情報発信者としてネットで発信し、その情報からまた人が興味を喚起されるというサイクルが生まれます。この購買行動を、AIDMAに対してAISUSと呼びます。出版1ヶ月ほど前に芸能界を引退した水島ヒロの処女作が、ネットで評判が評判を呼び、内容も分からぬままに64万部の予約が殺到したというのが良い例です。
2011.01.26
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皆さんに支えられて暗闇の中でも夢を持てました。今悩んでいる人も、1日だけの目標でも持つことで、一歩一歩充実すると思います。 高橋尚子凍えるような寒い朝でも、その日、心弾むものへの期待があれば、暖かいベッドから起き出すことも苦ではありません。逆に、その日、対処しなければならない難しい問題があるときや、苦手な人に会わなければならない時など、心おののき起きたくない朝もあります。今日への期待も不安も初めからこの世に存在するのではなく、すべては自分の心の問題です。「嫌だな」と逃げる心から、不安な気持ちがわいてきます。一度きりの短い人生、どうせ生きるのなら、今日1日だけの夢や期待でもいいから見つけて、前向きに生きたいものです。赤ちゃんは、右の掌には夢を、左の掌には希望を握り締めて生まれてくるという。少年の日の夢というものは、荒唐無稽で他愛のないものだが、それが少年というもの。分別がつくにつれて夢も自然と縮んでくるが、いつまでも少年の日のあの気持ちを忘れたくないものです。
2011.01.25
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仕事で失敗したり、苦しかったとしても、とにかく「ありがとう」と言っておく。そうすると怒る人はいない。何とかなる。まず「ありがとう」ということだ。どこに勤めても長続きしない少し知恵遅れの子を見かねたお坊さんが、「何の役にも立たんでいいから、『ありがとうございます』と言って頭を下げてみい。皆が喜んでくれるはずや。そうしたら、必ず自分も光るようになるはずや」と諭しました。早速実行すると、最初は「何を突然言い出すんや、こいつは」と周りの人たちの反応は冷たかった。それでも阿呆の一徹で朝夕玄関に立って「ありがとうございます」を続けるうちに、社長も一緒になって「ありがとうございます」とやりだした。社員にも一人二人と浸透していき、段々と社内が明るくなってきた。喜んだ社長は、「お前は会社の宝や。『ありがとう』だけでいいから、心配せずに働けよ。お前を一生食べさせてやるからな」と約束したということです。何事にも「ありがとう」と報恩感謝の心で生きていけば、人と争うこともなく、心安らかに生きていけます。
2011.01.24
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人の心を感動させるのは人の心だけ自動車が油や電池が切れたときに止まるように、人間は内なる情熱が枯れ果てたとき、生きながらミイラとなり生きた屍となります。感激とか感動というのは、その人の魂が死んでいないことの何よりの証拠です。従って、感激や感動のできる間は、まだその人は進歩する可能性を持っているということです。感動は、何かに感激したり感動することによってかき立てられます。感心と感動を持って物事に取り組み、絶えず感謝の気持ちさえ忘れなければ道は開けてきます。だから、人間が生きていく上で感動はとても大切なことです。心のありよう一つで、いつも新鮮な感動ができる人間にもなれるし、できない人間にもなってしまいます。そんな熱い心の持ち主だけが、人の心をも感度させます。人生の楽しさも日々感動する中にあり、関心、感動、感謝の三つを持ち続けた者だけが人生に満足できます。
2011.01.23
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兎角に人の世は住みにくい。住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人といふ天職が出来て、ここに画家といふ使命が降る。 草枕この世は四苦八苦というが、そんな世に生まれてきたくて生まれてきた人もいなければ、いくら生きたいと思っても叶った人もいません。しかし、たった一人しかいない自分の、たった一回しかない人生を、本当に生きていかなかったら、人間に生まれてきた甲斐がありません。それには、まず自分に備わった天分を見出すことです。文才ある人は文才を、画才ある人は画才を、商才のある人は商才をいかす。人に美味しい料理を食べさせることによって喜びを感じ、そこに天分を見いだすのもいい。自分の持っている天分を発見し、それを伸ばすべくひたすらに歩むことのできる人は幸せです。私だけの利得はなく、あなただけの利得はないこの世。自分に備わった天分をひたすら磨いて、自利利他の精神でお互いに助け合い人を喜ばせる。それが、住みにくい人の世を、住みやすくするコツではないでしょうか?
2011.01.22
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今朝は4時に目が覚め、原稿の見直しをしていました。ブログ掲載中の原稿も、250話が完成し見直しをしています。面白いもので、時々数ページにわたってしっくりしない原稿が続きます。ということは、ある特定の日に書いたということです。原稿は、その日の体調や精神状態を端的に表しています。面白いですね。意外と受けているようで、読者も5割り増しです。一段落してカキ鍋で昼酒を楽しんでいたら、東京の友からホヤの塩辛が送られてきました。いままで、仙台に仕事で行ったときに生のホヤを食べたり、我が家に遊びに来る宮城出身の学生が持ってきてくれたホヤの燻製は食べたことがあるが、塩辛は初めてです。癖もなく、酒の肴に最高です。昼からお酒が進みそうです。友に感謝!!
2011.01.21
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人の価値はどれだけ金を稼いだとか、どれほど蓄えたかではなく、感動や笑いでどれほどの量の涙を流させたか、その涙の量で自分の人生を量りたい。倉本聡「人生に喜びを見いだすかどうかは、その身の上話(境遇)にあるのではなく、心の持ち方で決まる」とモンテーニュは言いました。財産や地位だけを得ても、人は真の幸せを手に入れることはできません。人生に張りを持たせるためには、自分なりの生きる意味を見出し、その実現に向かってひたすら精進し続ければいいのです。「何のために生まれてきたのか、人はそれを考えるために生まれてきたのだと思う」と宮沢賢治は言ったが、人生とは自分は何者で、どうすれば幸せになれるのか、それを見つけ出す終わりなき自己発見の旅でもあろうと思います。「自分の人生には生きる価値がある」と自ら思える最大のものとは何かを突き止め、後は、蓮如が「幸せとは、実際に財産や名誉を獲得することではなく、実現を夢見ることにある」言ったように、自己実現を夢みて楽しく歩き続ければいいのではないでしょうか?
2011.01.21
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感動は人を変え、笑いは人を潤す。夢は人を豊かにする。感動し、笑い、夢を抱くことができるのは人間だけだ。天から授かったこのかけがえのない資質を育み、更に磨いていくところに、前向きの人生は拓ける。人間は、感動したときに一番命が輝きます。感動は、人との出会いの中でおきます。出会いを感動的なものにするのも、嫌な思い出にするのも、コミュニケーション次第です。愛語は天子をも動かすと言うが、愛をもって話し、愛をもって聞き、愛をもって結果を受け入れるとき、その瞬間から感動を味わうことができるはずです。悲しい時には笑いなさい。恐いときも笑いなさい。そうすれば、悲しいことも、恐いこともどこかへ飛んでいってしまいます。人間は心の動物だから、辛いときや悲しいときに泣いたり嘆いたりしていると、益々辛さや悲しみが倍加してきます。そんなときほど、無理にでも笑顔をつくりなさい。すると、心まで明るくなってきます。人は夢や理想、希望ある限り若く、それを失った時、年齢に関係なく老いがやってきます。夢に向かって歩く過程で感じる希望、それこそが幸せの実態だと思います。
2011.01.20
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中国の娘さんと結婚した若者から、北京でも私の本が売られていたと写真を送ってきました。95年に出した「おすそわけ」シリーズの第1冊目「いい話のおすそわけ」でした。私は、時代に左右されない不易なものを追究してきたつもりなので、未だに読まれているのは嬉しいかぎりです。でも、日本語だから、誰が読むのでしょうかね?中国の人、日本からの赴任者?今年からブログで掲載しているのも、この30年くらいにメモした言葉を整理しています。時代に左右されない普遍的なものと思いますので、長く読まれることを期待しています。この頃は整理整頓が流行りのようですが、形ある物の整理は一段落したので、最後に私の書きためてきた情報の整理をしているところです。いま、3分の2程度整理し終わったので、出来上がったら出版したいと思っています。
2011.01.19
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私から年齢を奪わないで下さい。これは、私が年月をかけて作った財産なのですから。命とは時間で、時間の使い方そのものが命の使い方であり、その積み重ねがあなたの人生です。「時は金なり」というようにお金を生み出す時間もあれば、お金には換算できない心豊かな時間もあります。そんな大切な時間も、確かな時間は「いま」という一瞬でしかありません。「いま」という一瞬に何をなし、何をなさないか、幸せと思うか否か、楽しいと思うか否か、そんな時間の積み重ねが年齢を重ねるということです。だから、「いま」という一瞬を大切に過ごすことなしには、素晴らしい財産と言える年月を蓄えることは不可能です。また、年齢を否定すると言うことは、自分の命を疎かにすることと同じです。自分の生きた命には意味があり、いつも楽しかったと言える歳の重ね方をしたいものです。そうやって積み重ねた真に「私の財産」と呼ぶことのできる時間は、自分の魂を豊かにしてくれます。
2011.01.19
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「生きるべき何故」を知る者は 殆ど総ての「いかに生きるか」に耐えうる ニーチェ自分なりの生きる意味に気付いた人には生き甲斐が生まれ、その意味を喪失したとき人は生きる希望と勇気を失います。生きる目的は人それぞれだが、トインビーは「愛すること・英知を働かせること・創造すること」、この三つの目的の全てを追求するために全能力と全精力を捧げるべきであると言っています。彼の言う愛とは、利己的なloveではなく、己を捨てて他の人々や生命へ、宇宙へ、そして宇宙の背後にあるものに自分自身を捧げようとする欲望のことです。第一に仲間たる人間を愛し、次に生命という根が同じ総ての動物や植物を愛し、さらに生命のない自然もまた人類が住んでいる宇宙の一部だから愛する。最後にあるということを証明できないが、宇宙の背後にある精神的な存在(信仰・神)を愛する。この宇宙を動かし続けているのは、この精神的な存在ではないでしょうか?
2011.01.18
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生きる勇気を与えるモノ・・・それは意味「なぜ生まれてきたのだろう」、「自分の存在意義って何だろう」などと、ふと思ったことはありませんか?人間には、どんなに豊かになっても、物質では満たされないものがあります。自分の役割=存在価値を認識したとき、初めて心が満たされ生きる勇気も湧いてきます。ヴィクター・フランクル博士がナチ収容所での生活をつづった『夜と霧』の中に、「生きる目的がある人には、ほとんどいかなる生き方も可能である」とあります。自分を必要とする人が現れたり、交わす言葉の端々や微笑み返す眼差しに「あなたのおかげで励まされています」という感謝の気持が感じられたとき、人は勇気づけられます。恋をした人が、生き生きするのも同じです。どんなにちっぽけな存在であろうと、「この人無しには」と言われる、自分の役割意識が感じられる仕事を見つけて、イキイキと毎日を過ごしていきたいものです。
2011.01.17
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5分間のスピーチなら1週間1時間なら3日間時間が区切られないなら今からでも大丈夫だ演説の名手だったリンカーンアメリカ第十六代大統領リンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉は、いまだに不滅の光彩を放っています。この歴史的な演説は、南北戦争中に激戦の地ゲティスバーグでなされた。主賓はアメリカで最大の雄弁家とされたエドワード・エベレットで、2時間にも及ぶ大演説に、立ちっぱなしの約3万人の聴衆は耐えきれずに帰ってしまった人もいたそうです。リンカーンのスピーチ”はその後で行われ、件の言葉はわずか2分ほどの短いスピーチの結びの一言で、まことに簡潔でありながら、後世に語り継がれています。短い時間に伝えたいことを過不足無く盛り込み、しかも印象に残さないといけないスピーチほど難しいものはありません。だから、短いスピーチほど推敲が必要になります。リンカーンがこの演説の依頼を受けたのは2週間前であったが、多忙ななか推敲を重ねたそうです。
2011.01.16
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我らはこの世に何物ももたらさず何物も遺すことなく去っていく 新約聖書裸で生まれてきて、死ねば無一物で、あの世には何も持っていけないのに、沢山のものを持ち過ぎるから苦しくなります。身分や地位、権威、財産、傲慢・・・、こんな持ち物を持って天国に行くことはできません。私たちは、現世におけるそのような持ち物にとらわれて、毎日汲々としています。そんな荷物を一度下ろしてみると、苦しみを喜びに変えることができるはずです。武者小路実篤『人間らしさを失わず』の一節より百貫目のものをかつごうとしたって/それは無理だ/君がかついでも 倒れずにすむだけを かつぎたまえ/それで沢山なんだよ/(中略)それもあまり重いものはかつがなくてもいいのだよ/人間らしい心を失わず/ 人間らしい喜びを失わない程度の荷物をかつげば/それでいいのだよ/あとはどうにかしてくれるよ/心配しないでいいのだ(後略)
2011.01.15
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明日への希望と今日の充実感が生き甲斐を生む。共に生きる人がある限り自殺はしない。高度な知識を得た代償として、人間だけが自ら命を絶てる。平成3年に2万1千人だった自殺者の数は、平成11年以降ずっと3万人を上回っています。25歳~29歳までの人の死因のトップは自殺で、29%にもなります。『キング・リア』(シェークスピア)の一節に、「人は泣きながら生まれてきた」というリア王の台詞があるが、お釈迦様も「人生は苦なり」と言ったように、この世は楽しいことばかりではなく、自分の思い通りにならない苦しいことの方が多いものです。だからといって、人生を投げだしてしまうほど酷いものでもないと思います。冷静になってほんの少し目を周りに巡らして、見たくない現実、認めたくない事実を勇気を持って直視し確認してみれば、微かではあっても明るい出口もみえてきて、死ぬほどのこともないと気づくはずです。「生きていて良かった」と思うときが、きっと貴方にもくるはずです。明日を信じ、今日という1日を頑張って生きて下さい。
2011.01.14
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結婚することになった娘から、仏滅の日しか空いていないが良いかと電話があった。そんなの気にする必要はないよと答えたが、六曜のいわれをご存じですか?そもそも大安とか仏滅とは何だろうか?中国古代の天気に対する名称で、大安は晴天で、仏滅は物滅と書き台風のことです。友引は天候が並ぶことで、晴天や雨天が二,三日続く状態を言います。先負は午前中が雨で午後が晴、先勝は午前が晴で午後から雨という具合です。だから、古代の中国では、「いいお天気ですね」とか「雨が降ってうっとおしいですね」というのと同じだったのです。 それを応神天皇の頃に日本に持ち込んだとき、何をどう間違えたのか、暮れの内から一年中の天気に割り振ってしまいました。(幕末頃に民間暦にひっそりと掲載され始め、第二次大戦のときにブームに)科学万能の現代でも、未だに天候を順番に予め決めてカレンダーにまで刷り込んでしまい、それに振り回されているのですから笑えてきます。家を建てるときに、「そこにトイレを作るのは鬼門に当たるからまずい」などと言われることもあります。この鬼門も、中国の長安の都は北東の方角からいつも騎馬民族である蒙古などに攻め入られていて、彼らが鬼のような顔に見えたので北東を鬼門とつけたのです。大したこともないことは流行に従えとも言うように、世間一般の価値観にわざわざ逆らって目くじらを立てることもないが、振り回されるのも問題です。本位を分かった上でうまく対応することが大切だと思います。◆若い人送ってくれた甕焼酎
2011.01.13
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60歳になっても、平均余命は20年以上ある。振り返れば40歳からの20年は、物凄く働いた。同じ時間が、またこれからあると考えると、余生なんて思えない。ユングは50歳を人生の正午と言ったが、石垣綾子さんも「50歳は第二の人生に突入する旅立ちの時。自分の経験からも、人間として納得できる生き方ができるのは60歳からだと思います」と語ります。50歳、60歳を「歳をとった」と考えるか、「さあこれからだ」と考えるかで、その後の人生に大きな開きが出てきます。定年後にしても余生とみるのではなく、パワーに溢れた現役の年月と考えることです。今まで好きなこともできなかった人も、これからは自分だけのために命を燃え立たせる素晴らしい日々が待っていると思ってください。90歳を過ぎてから詩を作りだし、99歳で初詩集「くじけないで」を出した柴田トヨさんを見習い、何歳になっても「もう、今さらこの歳で」などと向上意欲を失わず、たえず人生に夢と希望を抱いて、命の限りを歩み続けていきたいものです。
2011.01.13
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雨垂れ石を穿つ 投げ出さず信念を持って自分の道を貫けばいい昔、奈良の寺に修行に来ていた若者は、生来愚鈍なためにいくら努力を重ねても僧になるための学識を身につけられず、ついに志を捨てて寺を出る決心をしました。その前に大仏を見て帰ろうと東大寺へと足を向けたが、激しい雨で本堂の庇の下で雨宿りをしながら、目の前の敷石に雨だれがポツリ、ポツリと落ちるのを見ていると、敷石には大きな凹みができているのに気がつきました。その瞬間、「こんな小さく柔らかい雨の滴でも、一滴一滴と落ちているうちに、長い間には堅い石をも穿つことができる。私も、如何に遅い歩みとはいえ、終始一貫修行に励むなら、どうして目的を達せられないということがあろうか」と悟り、再び修行の道に励みます。「時間がない、才能がない」などと他に原因を求めて逃げることなく、毎日きちんと心に決めたことをじっくりとやり続ければ成果は自然とついていきます。
2011.01.12
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上農は、草を見ずして草を取り、中農は、草を見てから草を刈り、下農は、草を見て草を取らず。優秀な農家は、「そろそろ草が芽吹いてくるな」と草の芽が出ないうちに畑の手入れをして草を抑えます。「おっ草が出てきたな、退治しなければ」と草取りを始めるのは普通の農家で、伸び放題の草を見て「これは大変だ、弱ったな」と思うのはダメな農家という意味です。草取りを例に、常に先手を打つことによって仕事が何倍も効率よくできるということを教えている言葉だが、これは農業に限らずあらゆる場面に通用します。仕事でも同じで、ミスが発覚する前に手を打てば効率的に仕事が進むだけでなく、お客様の信頼も得られます。ところが、ミスが出てからリコールしたり、ミスが出ても隠したりして傷口を大きくする例が後を絶ちません。勉強やテスト、スポーツにしても、後になって「あの時にもっとやっておけば」と嘆きがちです。何事も前もって万全を期していれば、後悔することもありません。
2011.01.11
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今年の新成人は124万人(平成6年207万人ポーク)で、初めて人口の1%を切りました。この頃の就活状況を見ていると、これだけの人口も吸収できない産業界や政治が情けなくなりますね。「僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない」(ポール・ニザン) そんな人生であって欲しいと願っています。青春とは、来たるべき船出へ向けて準備を整える修行の時代だと思います。空海は、18歳の時に讃岐の国から京の都に出てきて大学に入ったが、24歳の時にドロップアウトして私度僧(自分勝手に頭を丸めた僧侶)となり、ボロをまとって各地を回る修行僧となった。やがて、31歳のとき無名の僧として遣唐使船に乗り込むまで、どこで何をしていたかは明らかでありません。だが、唐に滞在すること1年余、わずか2カ月前に密教の本山青竜寺に現れた日本の留学僧空海に密教の最高の地位にあった第七祖恵果大阿闍梨は、永い間修行している千人余の中国人門弟を差し置いて密教のすべてを伝授した。それによって、空海は当代随一の高僧となった。それは、青春の空白時代における修行の賜物だったと思います。「中途半端にやってもダメ。必死に全力疾走で勉強する。吸収できる年齢は35歳くらいまでと考えて自分を追い込んでいかないと本物の力にならない」と言う建築家の安藤忠雄さんは、19歳の1年間は朝9時から翌朝の4時まで机に向い、建築はもちろんインテリアデザイン、グラフィックデザインも含めて造形に関する総てに取り組んだそうです。君たちの20代も、明日に希望を開く、そんな修行の時代であって欲しいと願います。
2011.01.10
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敵はあまたあれども夢はみのり少なくとも顔に笑みをたたえ我は歩みつづけんあの遠き大空の星を求めて 「ラ・マンチャの男」より成功者と失敗者の違いはなんでしょうか?どんなことを成し遂げるにしても、一つ一つの積み重ねなくしては不可能です。人生には過去も未来もなく「いま、ここ」しかないのだと思って、今をどれだけ本気に生きてきたかの違いだけだと思います。ともすれば、その努力を怠って、自分には運がないとか、自分には能力がない、金がない、権限がないなどと、逃げがちになるのが私たち凡人です。毎日一つでも、毎日10分でも、これと思ったことを積み重ねれば道は自ずと開けます。タライ一杯に張った水を箸でかき回すと、最初のうちは変化がないが、根気よく続けていると段々と周りの水が少しずつ回り始めます。さらに根気よく続けていると、タライ一杯に張った水全部が回り出します。どんなに小さな力であっても、継続すれば必ず大きなものを生み出したり、全体を動かすことができるようになるものです。
2011.01.10
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知識の豊富な人は多い。だが、自分を知っている人はいない。自分を知った人が如来である。「たった一つのこと=善(人間が本当に腹の底から求め、それを得てはじめて満足できるもの、つまり幸福になれるもの)も知らずに、どうでもいい知識を沢山仕入れて持っている単なる物知りにすぎないくせに、真の知識を備えていると思い上がっている人は無知だ」とソクラテスは決めつけました。物知りを賢い人だと思ってきたが、最も大切な自分自身を知らない人は不幸ですね。昔の禅僧が「富士を知らない人にとって、富士は存在しないのと同じである」と言ったが、自分を知らない人にとっては、自分が存在しないのと同じですものね。だが、自分を知ることほど難しいことはありません。釈迦は無明なるがゆえに人は迷い、実態が見えないと言います。如来(釈迦如来など)とはサンスクリット語で「真実から来た者」と言う意味の言葉で、最高の境地に達した存在を指します。それほど難しいということです。
2011.01.09
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知識の豊富な人は多い。だが、自分を知っている人はいない。自分を知った人が如来である。「たった一つのこと=善(人間が本当に腹の底から求め、それを得てはじめて満足できるもの、つまり幸福になれるもの)も知らずに、どうでもいい知識を沢山仕入れて持っている単なる物知りにすぎないくせに、真の知識を備えていると思い上がっている人は無知だ」とソクラテスは決めつけました。物知りを賢い人だと思ってきたが、最も大切な自分自身を知らない人は不幸ですね。昔の禅僧が「富士を知らない人にとって、富士は存在しないのと同じである」と言ったが、自分を知らない人にとっては、自分が存在しないのと同じですものね。だが、自分を知ることほど難しいことはありません。釈迦は無明なるがゆえに人は迷い、実態が見えないと言います。如来(釈迦如来など)とはサンスクリット語で「真実から来た者」と言う意味の言葉で、最高の境地に達した存在を指します。それほど難しいということです。
2011.01.08
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最智はいつも常識である。新しい智恵も、またすぐに常識になる。常識は特定の社会の成員が共有し、誰もが当たり前のものとしている認識(価値観、知識、判断力)のことだから、特定の社会に限定されない普遍性を条件とする真理とは時として相違することがあります。また、ある認識が真理として認識されれば、最終的にはその認識は常識のなかに組み込まれることになります。ところで、創造性や独創性を発揮するためには、「常識を疑え」とか、「常識からの脱皮」ということがよく言われます。そこで言われる常識とは、特定の分野における「決まり切ったやり方や形」=手段のことです。何かを考えるときに、手段の常識を打破することは大切だが、その一段上の真理(儲けたいなら、「儲けよう、儲けよう」と自分本位に考えずにお客様第一で対応する)を視点として考えることを忘れてはなりません。それが、最智はいつも常識であるという意味です。
2011.01.08
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随時随所楽(随時・随所に楽しむ)人を楽しませることは同時に自分も楽しむことだしかし、自分だけが楽しむことは人を楽しませるとは限らない。とかく私たちは、「今、ここ」を楽しむことをせずに、楽しみは後に残しておいて、今を我慢しがちです。でも、一寸先は闇。人生は今の積み重ね。「今、ここ」という一瞬を楽しむことを考えずに、いつ楽しむのですか。明日に備えることも大切だが、その置かれた状況の中で、いまを最高に楽しむ工夫をすることです。あの世には財産も名誉も何も持っていけないのだから、形あるものを残す人生よりも、人生の最後に「楽しかった」と心から言える人生でありたいものです。ところで、自分が楽しい目をするためだけに一生懸命になりすぎると、それは周りの人にとっては面白くないことが多く、結局嫌な目にあうことが多いものです。視点を変えて、周りの人を楽しませることを考えてみると、不思議と自分まで楽しくなってきます。そして、楽しくさせた人の数だけ何倍も楽しくなるものです。◆愛宕山が真っ白です 年中素足に雪駄がトレードマークだが、この2,3年足の指に霜焼けができ痒いです。 年賀状もそろそろ打ち止め 70歳の今年からアドレスが分かっている人にはメールにしたが、慣習でのやりとりを打ち止めにする良い機会?
2011.01.07
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「かがみ(鏡)」を磨いて「が(我)」を取ると「かみ(神)」になるこの世に自分ほど可愛い者はなく、まず自分が幸せになりたい、それが人間の本性です。だから、「自分が」「自分の」「なぜ私が」などという我がつい先に立ちます。ところが、相手も同じ気持ちだから、我と我がぶつかり合って気まずくなり、ときには戦争まで起きます。我を取るのは難しいが、出会いの挨拶と「はい」という素直な返事から始めましょう。挨拶は「仲良くやりましょう」という平和宣言、「ハイ」という素直な返事で自分を開くと和を生みます。何かを頼まれたら「ハイ、承知しました」と素直に返事をし、何かを言われたら「はい、わかりました」と素直に受け入れ、何かをしてもらったら「ありがとう」と感謝の意を表してみませんか?それは簡単なようで意外と難しく、なかなか素直になれないのが人間です。我を抑えて、「あなたからどうぞ」と言えるようになれば、もはや神や仏の世界です。◆新年会も盛り上がりすっかり飲み過ぎました。 京都金杯も完勝 こいつは春から縁起が良いな! でも、今年から競馬を止めるつもりが当分止められませんね。 50年もやってきたのだから、そうは問屋がおろさねえか?
2011.01.06
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心暗きときは、すなわち遭うところ、悉く禍なり。眼(まなこ)明らかなれば、途に触れて皆宝なり。 空海この世はなかなか自分の思うようには行かず、つい愚痴や不平不満が口に出ます。そんなときは自分の心が欲望やエゴで暗く沈んでいるときで、外界のもの総てが悪く感じられ、みんな悪い結果をもたらします。心の眼が清らかで、しっかりと明るいところに向けられていたら、見るもの聞くものすべてが宝となり、何をしてもすべていい方向に進み、人生も明るくなります。失うものがあれば、その裏で得るものもあります。どんなにわずかな光でも、明かりは足元を照らしてくれます。暗い中にも暁光を見つけ、明るい方向を見据えて進んでいくことです。マイナス志向を捨てて、プラス志向で希望を持ってイキイキと暮らせば運命も拓けてきます。人生は諸行無常(続くことはない)、「いつかはよくなる」と信じて、「いま」を受け入れて過ごしていれば、心を覆っていた雲も晴れて明るい日差しも見えてきます。◆そろそろ会社はじめの人も多いことでしょうね。子の正月は如何でしたか?私は嬉しいニュースがいっぱいありました。・今年は、「昨年結婚しました」という若い人からの便りが5人もあったこと。・私の同棲していた次女も、5,6月には下鴨神社で式を挙げたいと報告に来ました。・中国人の女性と結婚した夫婦が年賀に来てくれ、中国でも私の本が売られていたと言う。・ブログを毎朝読んで元気をもらっているという、若い人からの賀状が何枚もあったこと。・春から、美味しいお酒を皆が持ってきてくれたこと。(私には命の水ですから)・断食のお陰で調子も快調で、最初の酒を口にしたときの甘さといったらもう最高。さあ、今日も5時から新年会。東京から友も来て初泊まり。有馬記念で獲ったお金を、今日の金杯に全部投資しよう。金杯で乾杯といきますか?皆様にも今年がよい年であることを、新年会の前に八坂神社でお祈りしてきます。
2011.01.05
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二つの道があって迷うときは難しい道を選ぶ上になるほど、一つの決断が及ぼす影響は大きく難しいものです。それを断ち切るには勇気が要ります。両案の間に大きな差があれば迷わないはずだから、迷うというのは僅差しかないということです。そんなときは、両案が49対51の±1ポイントの差と思い、自分の好きな方を選び、捨てた方を頭からすっかり忘れ去って、選択した案の方に確信を持って執念深く取り組めばいいのです。捨てた方に未練があると、「あちらの方が良かったかな」と迷って集中できずに失敗しがちです。人の行かぬ困難な道にこそ、美しい花も咲き実もなります。・決断を急げ。何もせずに逡巡しているのが一番悪い。・大事な局面では長考しない。集中力が大切。・3割の賛成があれば着手すべきだ(5割ではもう遅い)・リスクのない決定は決定とは言わない。勇気を持て。・反対された案の、反対理由を克服すれば一番安全だ。
2011.01.04
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チャンスは逃したら二度と来ない運に恵まれるというのには努力が必要である誰にも、一生に三度はチャンスが巡ってくるそうです。でも、そのチャンスの女神は、アッと言う間に貴方の横を走り抜けていきます。しかも女神は、前髪はフサフサしているのに、後ろ髪はなくてツルツルしています。そのために、前髪をつかみ損ねて「しまった!」と後ろ髪をつかもうとしても、ツルッと滑ってつかむことができず、チャンスを見逃してしまうというわけです。大きな成功には「能力×努力×運」が必要で、運が9割方左右します。運とは出会いで、誰かと出会い「これやってみない」と偶然提示されたり、実験中などに偶然の結果に遭遇しても、それを確実にものにできる実力がなければ逃げていきます。出会いは突然にやって来るので、その偶然のチャンスを確実にものにするには、絶え間なく能力を磨ける努力が不可欠です。その意味では、努力を続けられるということが能力だともいえます。
2011.01.03
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「何々になろう」とする者は多いが「何々をしよう」とする者は少ない「何々になろう」と大志を立てること自体はいいことだが、かけ声だけで行動が伴わないことが多いものです。「何々をしよう」と言った決意には決意と行動が伴い、成功へと導くことが多いものです。『トイレの神様』に出てくるオバーチャンの言う、「夢は見るものじゃない。叶えるものだ」という言葉にも通じますね。「チャンスは、決して向こうからやってきてドアをノックするものではない。それは自分の心の中にあるからだ。チャンスとは、周りの誰もが否定的な考え方をしていても、そんなことに囚われず前向きに考える方法を見つけることである」と世界的な能力開発研究家ウェイトリーは言う。後になって「あの時に○○しておけば」などと言う人が多いが、「思う」ことと、実際に行動するというのは全く別の問題です。そこには、決断という心理的要素が働きます。なかなか決断できないのが人間です。
2011.01.02
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京都に来て四半世紀。大晦日に雪が降り、正月に10センチも積もったのは初めてです。自分は今年からアドレスの分かっている人にはマールにしたにもかかわらず、年賀状を読むのは楽しいですね。・18年も前に皇后様の実家が経営される日清製粉で話したことがあるが、当時の担当者から、講演テレビを使って社内キャンペーンを展開しているとの便りもありました。時代に左右されない話をしているつもりだが、実際に18年前のビデオが今でも使えると言うことに我ながら満足。・20代の終わり、まだ海外旅行が一般的でない頃、ご一緒した経営者から未だに年賀状を戴き感激です。・自殺を思いとどまってくれた娘さんからも、「生きる希望の言葉をありがとうございました」という言葉とともに、立ち直って国家試験を受験するようで、終わったら京都に来るとの便りもありました。・京大院を卒業して外資に勤め、学生時代から付き合っていた中国の女性と結婚した若者からは、送った詩を額に入れて飾ってありますとありました。3日には来てくれるそうです。・昨年、電通のディレクターを辞めた次女は、同棲している彼と3日に来てくれるそうです。大人の絵本シリーズが何時出せるかは彼女に掛かっているので少し気合いを入れなければとも思っています。息子も今日1日に来るとか。・本を読んだという便りも多く、好評で嬉しいかぎりです。そんなこんなで励まされ、今年も「明るく、楽しく」イキイキとやっていけそうです。◆今朝の鳥居(お盆の山焼きの)です
2011.01.01
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久しぶりの雪のお正月です。自然も真っ白、年も明け、心身も(断食明け・第3期余命5年)全てをリセットして、新しい年を迎えることになりました。今年は、1日から来客予約が詰まっていて楽しみにしています。皆様にも良い年であることを心より祈念いたします。さて、今年のブログは「あなたの心によりそう1日1話」とさせていただきます。人生は出会いである。ヒト・モノ・コトとの出会いによって、さまざまな人生が形作られていきます。人間一人の出会いには限界があるが、時空を越えて紡がれた先哲の一言によって、私たちは励まされ、さまざまなヒントを得ることがあります。生きる智慧が凝縮された一言は、ときには想像をかきたて万語を費やするよりも雄弁なこともあります。また、忙しい現在人には、ツイッターのように短い言葉こそ似つかわしくもあります。私は、コンサルタントになった38歳の時から、記憶力が悪いので、自分の興味のある情報は様式を決めて書き残してきました。そんなコンテンツが1万件近くストックされていて、それらがコンサルティングのオリエンテーションやセミナー、講演で話すときだけでなく、本を書くときのネタとして役立ってきました。同時に、心に響いた短い言葉もメモしてきました。この度は、それらの短い言葉に、自分なりの解説をつけてみました。ある日、どんな言葉に出会うか、それもまた運命と思い、あえてカテゴリー毎に分類することを止めました。その日出会った1言が、あなたの心に届けば嬉しいかぎりです。1月1日 嵯峨野の夢前案内人 太田典生
2011.01.01
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