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講演会場は穏やかなムードに包まれていた。仰々しい勿体のある演出などというものはまったくなく、かざりっけのない雰囲気だった。安藤は主催者数名と正面左の長机に座っている。特徴のある声が聞こえてくる。会場を見回すとA2版の青焼きコピーの図面が張られていた。図面を見て衝撃が走った。今まで目にした設計図とはおよそ違っていた。すべての図面に透視図が描かれている。透視図と断面図が併記してある。それも重なって書かれている部分もある。1枚1枚の図面がすべて絵画のようだった。講演の最後の質疑応答の中で安藤は、「図面はそのものが商品だ。もちろん実際に建つであろう建物が重要であることは当然として、図面そのものをいいかげんにするとよいことはない。図面こそ設計者の商品!という意識で書かないと価値は出てこない。」図面を見て言いようのない感動に包まれた。現在、私は木造住宅の設計を行なう場合でも実施設計図面の枚数が30枚以上になり図面の多いことで有名(自分でいうのもおかしいが)だが、これはこのときから始まった。安藤は、「設計者の意図は図面でしか伝えられない。それをいいかげんにすると伝わらない。だから、1次元で描くだけでなく、2次元、さらに3次元で示さなければプロでもすぐには伝わらない。」スライドを示しながら講演は進んでいった。学生時代に見た安藤の作品とはおよそ趣が変わり、洗練されたデザインに酔いしれた。雑誌には発表されていないものだった。(後に発表された)これは翌日安藤とともに過ごす中で聞いたことだが、作品を発表するにしても、少なくとも完成後2年建ってから発表するという。できたての初々しさもよいが、植えた植栽もなじんで、添え木も必要なくなってきて、芝生の緑が一体となったときにオンエアとなる、と聞いたときには、すでにナショナリズム的建築家を目指していることが分かった。 このとき安藤は35歳だった。スライドの最後に見せられたのは、後に日本建築学会賞の受賞作となる「住吉の長屋」だった。とてつもない作品だった。 信じられなかった。間口3.3m 奥行14.1m のこの小さな建物の中は、得もいえぬ哲学的空間が広がっていた。大阪のど真ん中で自然を感じながら暮らしたい。これがクライアント(施主)からの要望だった。長屋の真中に位置するこの住まいは、元木造の建物を取り去り、コンクリート打放しの建物を挿入されていた。奥行き14.1は、4.7mで3つに分けられていた。真中の4.7mが吹き抜けになっており屋根がない。巾3.3の真中に、0.9mのコンクリートのブリッジが2階の部屋どうしをつないでいる。吹き抜けに階段がありブリッジ(2階)へと上がる。この吹き抜け空間の床は玄昌石が張られている。周りはぐるり、2階分のコンクリート打ち放しの壁が取り囲み外部の視線を遮断している。緑は一つもない。しかし真っ青な青空がスカイラインに広がっていた。大阪の大型建築の姿はまったく存在しない。安藤は言った。「大阪の空も軽井沢の空も一緒や。風景が違うだけや。だから、空だけ切り取れば大阪でもしっかり自然は満喫できる。」この哲学的善問答のような回答をクライアントはとても喜んだという。夜中トイレに行くときには一端外へ出ることとなる。雨の時には傘をささなければならない。これこそ自然を満喫することになるのだ。(現在も尚クライアントは住みつづけ、感動の毎日を過ごしているという)講演会はあっという間に最後の時を迎えた。質疑応答。誰かが質問したが、ほとんどそれには答えず、自分の世界の話をした。私は、「どうしたらそんなに美しいコンクリート打ち放し」ができるのか」と質問したら、「なぜコンクリートは美しくないといけないか、ということか?」と質問をすり替え、そこから30分話は続いた。だんだん分かってきたが、この人は絶えず広がりを持って考えている。質問さえも部品の一つとして吸収し、それを包括するもの、そのものの重要な部分を話そうとしていた。だから、様々な質問に対してきちんと答えている。ただ、思考の狭い者には理解不能となってしまうのだ。私はここまで理屈っぽく、しかも理想と現実を一致させるパワーを持ってブルドーザーのごとく進む人間は会ったことがなかった。このとき勝手に、「私の人生の師はこの人だ!」と思った。講演会の後の懇親会に参加した。ほとんどの者が参加したため、なかなか直接話ができなかった。しかし最後に主催者から、安藤が明日も当地へとどまるので、みんな来ないか、と呼び掛けた。参加者はみんなで来ることを約束し、会場を後にした。その夜は興奮してほとんど眠れなかった。翌朝、安藤が宿泊している場所へ訪ねた。すでに安藤は主催者側の1名とともにホールにいた。雑談をしながら他の参加者を待った。 誰もこなかった。安藤との思い出に残る長い1日が始まった。 続く
2003/12/31
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私が勤めていた設計事務所は比較的大きな物件(公共施設)を手がけることが多かった。私はどちらかというと住宅系をやりたかった。最近はかなり見直されてきたが、当時、計画するなかで語られていたことは、人間の動線が交わらないように、つまり効率的な機能に重点を置かれることが多かった。住宅は、逆に、動線を交わらせなければならないものだと私は思っている。住まう者同士がコミュニケーションを図るような環境をつくることが建築家の仕事ではないかと。そういうものを手がけたいと思っていたから、いかに大型の公共施設でも、ダイナミズムは感じてもちっとも面白くなかった。私は、すべての建築の原点は「住宅」だと思っている。建築は、なにもどこにいるかわからない宇宙人のためにつくるのではない。私たち人間のための器だ。だから、どのような目的の建築も生身の人間が心地よいと思うものをつくることが原点でなければならない。無味乾燥な建築の中からはなにも生まれてこない。効率は非効率を生むだけだ。 (仕事場がきれいだと創造力が低下するのは私だけ?)建築は感動を与えるものでないといけない。(と思っている)このような話を当時の周りの者に語りかけても、しらけた返答しか返ってこなかった。挙句の果ては、「君は青いな。もっと現実をみたら!」などと説教を食らう始末だった。とても孤独だった。だから旅にでた。そこに語りかけてくる建築があった。「やはり間違いない!」仕事は忙しかった。どんどん任かされた。やりがいがあった。でもどこか悶々と過ごしていた。ある日、友人から電話があった。安藤忠雄の講演会の情報だった。安藤が町にやってくる!会いたい! 強烈に会いたかった。講演会場に入った。会場を見回すと、裕に50人は入れる会場に主催者を入れて15人くらいしかいなかった。(ほとんど無名だからしょうがないか)はじめて安藤を見た。驚いたことに知っていた。なぜだろう?そもそも建築誌に載っている建物の写真は建物しか写っていない。通りすがりの人が写ることはある。当時の安藤作品の写真には安藤が写っていた!ヒッチコックのように、よく見ると大胆に写っていた。だみ声の大阪弁から繰り出される安藤の話はとても現しようのない真実の声だった。建築に対する思いはすさまじかった。毎日が戦闘だと言った。妥協は簡単。真実を貫くことほど大変なことはない、と言った。施主とさえ格闘し、途中で断ることもあるという。私は強烈に、今までに感じたことのない感情に襲われていた。喰らいついていきたい心境だった。この時、まさか翌日、1日を一緒に過ごせることなど想像もしていなかった。 続く
2003/12/30
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話は飛ぶ。当時の学生で建築文化を読んでいる者はそうそう多くなかった。他にも、新建築・GA・SD・A+U(エーアンドユー)などなど、ステータスとなる本は一杯あった。片っ端から見て読んだ。安藤の話をしても、本を読まない連中が多いから「なにそれ?」という感じで結構孤独だった。学生時代というものは、方向性が定まらない連中のほうが元気?なのは今でもそのようだ。(多分)目的を見出せたものは自分の世界に埋没する。一見何かに取り付かれたように思われるかもしれない。私がそうだった。今をハッピーに生きる周りの連中が、徒党を組んで善良な市民(私)を変人扱いしたものだ。私に言わせれば、「お前ら建築を志しているんと違うんかい!」といいたいところだが、無駄なエネルギーの消費は避けて、ひたすら建築家の世界を探求していった。国内・国外を問わず、ライト・ミース・コルビジェなどの第1世代(現在は第4世代~第5世代)から現在にいたるまでの潮流が見えてきた。話のわかるヤツがいなかったので、一人建築の海を泳いでいた。設計事務所に勤めてからも状況は変わらなかった。(驚いた)設計の世界というものはもっと先進的な思考回路によって構成されている世界かと思いきや、センスのなさ、思考の貧困など、空間の創造ができない者が多いことには正直驚いた。さらにさかのぼる。私が建築の世界と出会ったのは中学2年のときだった。家業が建設業であったためか、なぜかアメリカの建築家 故フランロイドライトの設計したカウフマン邸(別名 落水荘)http://www.mitsuihome.co.jp/FLWRIGHT/MUSEUM/LIBRARY/CATALOG/kaufmann.htm の写真集があった。これは子供心にしびれまくった。多分、そのときに建築家になることを決めたと思う。このカウフマン邸の写真集の後ろに付いていた図面を、誰に教わるでもなく、トレーシングペーパーでトレース(上から絵取る)した。多分数十回は書き移したことだろう。だから中学生のくせして図面が書けた。(これ以外は書けない - 当然)と、こういう建築おたくだったのだから、なんとなく建築でもやろうかなと思ってきた連中とは熱意が違って(自分でいうのはおかしいが)当然だった。建築が見たくて結構旅もした。全国の著名な建築を見てまわった。一度だけ海も渡った。なぜか本物を見てがっかりすることも多かったのだが、私だけ?)今でも旅ぐせが抜けず、小カネと小ヒマができると、すぐ夜行列車に飛び乗り、翌朝は見知らぬ町の下町でその町の住民のような顔して歩いている。そんな先に目指す名建築は待っている。よい建築に出会うと涙がでてくる。東京渋谷の建築家 東 孝光の自邸(塔の家)や池袋にある旧自由学園(フランクロイドライト設計)を目にしたときには感動した。時空を越えて思いが伝わってくる。地域の原風景としてひっそりと確かに佇む姿は、とても感動的だった。最近のものでは、安藤忠雄設計の大阪茨木市の「光の教会」。クリスチャンでない私が、神は光でありいつでも照らしつづけてくれていることを感じた。感動的空間がそこにあった。話を戻す。設計の世界に入って数年後、いよいよ安藤氏との運命(!)の出会いのときがやってきた。 続く
2003/12/29
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(これから書こうとしていることは、果たして日記なのか?)(ま~いいか。本能のおもむくままにイザ出発!)私が学校を卒業し、社会に出て(設計事務所勤務)最初にあった大きな出来事は、ある建築家との出会いだった。その出会いはおよそ20余年前の出来事だが、その強烈な電光石火は現在でも鮮明に覚えている。この出会いは、その後の数奇と言える(笑 でも真面目な意味で)私の人生を精神的に支えつづけてくれている。この出会いがなければ、今ここにいることはできなかっただろう。その建築家の名は安藤忠雄。私は安藤氏を学生の頃から知っていた。もちろん面識などないし、氏もほとんど無名に近かった。建築専門誌「建築文化」に安藤氏の作品が載っていたのを見た。今の作品と違い、荒削りで強引さが現れている作品だった。その作品の横に設計者のコメントが載るのだが、今までの設計者のコメントとは大きく異なっていた。というより、このコメントは、強烈なインパクトで私を襲った。 (襲われた)建築家 故 西沢文隆氏(坂倉建築設計事務所)もこの安藤作品にコメントを寄せていた。。安藤氏のコメントは、その作品とどのような整合性があるか不明(現在は意志がそのまま作品となっている)であったが、氏のおよそ広大な思考の世界を創造させた。自称 都市ゲリラと名乗っていた。(何者なんだ! と思った)西沢氏のコメントは、 こいつはタダモノではないぞ~ という内容に読み取れた。 続く
2003/12/28
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ふり返れば、今までにあまりにもたくさんの出来事があり、どこから手を付けてよいか分からない。何から書きはじめようか。過去も振り返ってみたい。これからの夢も綴りたい。今格闘していることも書きたい。・・・何だかわくわくしてきたな。よい機会を得たと思う。多分この日記は永久に残る自分史となるであろうし、これからの建築家コムースという人間の足跡を記録する唯一のものとなるように思う。この5年間は、自分の人生で一番辛かった時期だったな。しかし、今までの人生で一番充実している5年間だったかもしれない。それにしてもよく頑張ってきたな。 (オマエハエライ! と言ってやりたい)自分自身の人生の真の目的ってこんなに辛い思いをしなければ見えないものだったのか。(イヤ~マイッタワ)人生って辛くて、面白くて、やりがいがあるものだったんだな。 開き直ったのはいつごろだったかな~?どん底から逃げ出したくてたまらなかった。臆病だったな。でもほんとに怖かったんだ。逃げれば逃げるほど追っかけてきた。いいかげん参ったよな。背中みせたらすぐに攻撃してくる。いよいよ追い詰められて、 チキショー! よ~し! 勝負したろ~じゃないか!と正面向いたら・・・・・やっと気づいたのか、という顔して、やさしく抱きしめてくれたんだ。(そんな感じだった)それからだよ、人生の流れが変わったと感じたのは。初めて自分自身を見つめることができた。正直な自分が見えてきた。何もかも(見得・体裁もあったものじゃない)失ってみて、裸の自分で勝負するしかないことが分かった。絶対壊れないと思いこんで、核シェルターの中でぬくぬくと過ごしてきた。甘かったな~。一文なしになって、何もかも無くしてしまったと思った。そばに身を寄せてくる家族がいた。 おれは何をしているんだ!! 自分に腹が立った。いいも悪いもないことが分かった。正直に素直に生きることしかないことが分かった。自分は所詮自分。他人のようには生きれない。自分の思いを素直に感じ取ろう! そう思った。はじめて素直になれた。そしたら、人が話を聞いてくれだした。応援してくれだした。何?どうしたんだろう?なぜ振り向いてくれるの?建築家の道がここから始まった。
2003/12/27
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初めての公の場での日記を少し緊張気味に書きはじめた。この時期は何かと気ぜわしいが、何で年末までにしなければならないのかと不思議に思いながら何かに追われる。まるで脅迫観念に捕らわれがごとく動き廻る・・・私。この一年を振り返ってみる。ふと、去年の今日が思い出される。そのときの思いを振り返ると、今年一年がいかに幸せな1年であったことか。この一年は、間違いなくこれからの人生においてのかけがえのない大切なものを手に入れることができた年だった。大事なのは踏みしめることのできる自分自身の大地をつくること。その大地は人との出会いの中で創り上げられるもののようだ。私は欲していた。私は夢見ていた。真の出会いを・・。そんな夢をず~と持ちつづけていた。 だから叶った。この歳になり、友と一緒にこんなに素直に正直に生きれる自分を幸せに思う。20世紀は海千山千でないと生きていけない。お前みたいな青いことをことを言っていたら生きていけない。お前の知らない世界がある。と言われてきた。それが何かは未だに分からない。21世紀は正直ものでないと生きていけない時代だと言われる。(お人よしには相変わらずきびしい時代が続いているのだが)きっと正直者の私が堂々と生きていける時代がやってきたのだろう。(苦笑)つくづくこの一年は今まで生きてきた中で一番ドラマチックな年だったな。月並みかもしれない。でも、これから始まる建築家日記を、多くの友への感謝の言葉から始めよう。ほんとうにありがとう。
2003/12/26
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