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2017.05.20
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カテゴリ: 探訪

三条通から新京極通に入り、少し下がると東側にMOVIX京都という建物が通りを挟んで南北に並んでいます。この建物の間の通りに左折しそのまま東に歩むと、突き当たりに冒頭の石標 「山脇東洋解剖碑所在墓地」 が門の右手前に立っています。 ここが誓願寺墓地のあるところです。


参拝、見学して見たいと思った動機は、既にご紹介していますが、「六角獄舎跡」の所在地を訪れたとき、「日本近代医学発祥之地」石標と、石標の後の塀の内側に建立されている「日本近代医学のあけぼの 山脇東洋観臓之地」という顕彰碑に出会ったのがきっかけです。

墓地入口の門は閉じられていました。そこで、前回ご紹介した手続きを経て、墓地内に入り、参拝できたのです。
     (誓願寺の檀家以外の方で参拝・見学を希望される方は誓願寺寺務所で手続きをして許可が必要ですので、ご注意ください。)

そして、ここに安楽庵策伝上人その他の墓もあることを知った次第です。ここにご紹介します。

門を入ると目の前に家があります。墓守をされている管理の人に場所を尋ねました。墓域は左折して進んだところにあります。墓地の門に近く、家の北側のところに誓願寺住職の墓碑が集合している場所があり、その少し北方向に参拝目的のお墓がありました。


墓碑のある一画はこんな景色です。

山脇東洋墓には覆屋が設けられ、南面に案内板が掲げてあります。

         墓石には 「法眼東洋山脇先生墓」 と刻されています。

山脇東洋(1705~1762)は丹波国亀山の生まれで、宮中の医官山脇玄修に学び、その養子となったのです。後藤艮山 (こんざん) に古医方を学んだそうです。漢方医学では、中国元・明時代の医学を重んじるのが当時の流れであったのに対し、古医方は臨床実験を重視する漢代の医術に戻ろうとする考え方だったとか。山脇東洋は実証主義的な立場をとる医師となり、宝暦4年(1754)閏1月7日に、当時の六角獄舎の地で、官許を得て日本で初めて人体解剖(人体解屍観臓)を行ったそうです。江戸で杉田玄白・前野良沢らが1771年に死刑囚の解剖見学(観臓)をする17年前になります。杉田玄白・前野良沢はその結果、西洋医学の解剖書『ターヘル=アナトミア』の翻訳を行い、1774年に『解体新書』を出版します。
山脇東洋は、その後も人体解剖を重ねて、5年後に『臓志』として、日本最初の解剖図録を刊行したのです。 (資料1,2,3,4,説明版、顕彰碑)


山脇東洋墓の南東に、山脇家が人体解剖を重ねた際の 遺体14柱の供養碑 も建立されています。日本の近代医学の曙に貢献することに連なった人々の供養碑と言えます。戒名の末尾に信士、信女とありますので、男女の両方の死刑囚が人体解剖されたようです。


山脇家の系譜並びに門流と推測できる人々の墓碑 も建立されています。

家の北側に、擬宝珠の付いた欄干で囲われた基壇の上に、この墓域では一番大きい無縫塔が建立されています。





東側が正面 「安楽庵策伝上人」の墓 です。

一隅に、 「安楽庵策伝上人略記」の説明板 が設置されてあります。

かつて『醒睡笑』を知った時、安楽庵策伝上人が誓願寺の住職だったということは知っていたのですが、その墓がどこに建立されているのか、考えたことがなかったのです。お陰で策伝上人のお墓も参拝し合掌することができました。

略記に記されていないことをいくつか補足します。
*竿の部分に刻されている「日快」は策伝の諱です。
*天正年間には山陽地方で活躍し、7カ寺を次々に建立、再建されたそうです。文禄3年(1594)、堺の正法寺に入り、次いで美濃の浄音寺(立政寺の末寺)の住職となるという経過を経られているとか。慶長14年(1609)56歳で美濃の西山禅林寺派檀林立政寺を数カ月預かるということも。 (資料5,6)
*策伝は古田織部門下であり、茶人、文人としても著名だったそうです。狂歌、発句なども行ったといいます。松永貞德、小堀遠州、松花堂昭乗らと親交を深めたそうです。 (資料5,6)
*広島県にある誓願寺には、安楽庵好みの八窓の茶室が再現されているといいます。  (資料6)



策伝上人墓である無縫塔の傍の一画は、様々なスタイルの墓が並んでいます。この一画は誓願寺の歴代住職などのお墓が建立されているようです。お寺によっては、歴代住職が無縫塔(卵塔)形式で統一されて整然と並んでいます。多様な形式と大きさで並んでいるのも興味深いところです。ここにご紹介する墓碑名は
 補山善慶上人、及山善以上人
 教山誉公上人、(不詳)末尾に大姉   
と判別できそうです。私の判読ミスがあるかもしれません。



墓地内の表示に導かれて、もう一つ参拝したのが、 「お半・長右衞門」の墓 です。
(かつらがわれんりのしがらみ) 」のモデルとなったことで名を残す人たち だそうです。

墓の前の円柱石に「乕 (とら) 石町」と刻され、側面の石銘板の端に「乕石町有志者」という文字も見えます。調べて見ると、これは現在の 京都市中京区柳馬場押小路下がる虎石町 のことだとか。ここに住んでいた『帯屋』という呉服関連の店の主である長右衛門と、親子ほど年の差が離れたお半の二人が、江戸中期の1761年に桂川で死体となって発見されたという事実があるそうです。長右衛門がお半を大坂に奉公に連れていく道中で何者かに襲われて不遇の死を迎えたのではないかと推測されているそうですが、事件は迷宮入りとなったようです。 (資料7)

この事件をヒントに狂言作家たちが様々に脚色して話を作ったのです。 歌舞伎の「桂川連理柵」は、安永5年(1776)菅専助作の世話物浄瑠璃が原作で、さらに主人公たちの設定を修正したものといいます。分別盛りの四十男である長右衞門と十代の娘お半が恋に陥るという話 。お半は柳馬場の信濃屋の娘。長右衛門はお絹という妻のいる隣家帯屋の養子。義父繁斉は好人物だが後妻のおとせとその連れ子は悪賢い輩。お半は乳母と丁稚長吉を供に伊勢参りをします。その帰路、石部の宿で帯屋長右衛門と出会い、同宿となるのです。お半に惚れている長吉は、この機会にと深夜にお半の部屋に忍び入るのです。お半はなんとか逃れて、長右衛門の部屋にかくまってくれと頼み込みます。ところが、それが縁でその夜、はからずも二人は結ばれてます。だが、その結果、お半は妊娠してしまいます。一方、長吉は長右衛門がお屋敷から預かっている刀を自分の道中差しとすり替えるという意趣返しをします。お半は妊娠を恥じて一人で死ぬ覚悟を決めます。長右衛門は預り物の刀を紛失した咎めもあり、 お半の覚悟を知ると、長右衛門はお半の後を追い、二人は桂川で心中して果てる・・・・というストーリー展開に (資料8)

浄瑠璃、歌舞伎の世話物、心中噺 (ばなし) のモデルになって、後世までも語り継がれている二人は、どんな思いでいることでしょう。世代間ギャップでしょうか。歌舞伎に多少の関心を持っていても、この「桂川連理柵」は知らなかった演目です。誓願寺墓地を参拝見学して知った歌舞伎知識の副産物です。

後日、入手資料を読んでいて、 ここ誓願寺墓地には、次の人々も眠っておられるそうです 。私は知らなかった人々ばかりです。歴史に関わった人々は幅広く、限りないですね。
  渡邊勘兵衛:   戦国時代の武将
  小笠原監物忠重: 松平忠吉(徳川家康四男)の家臣
  堀 元厚:    鍼灸医学の基礎理論を研究した医師。本居宣長の師
  服部中庸:    江戸後期の国学者。平田篤胤の師
  穂井田忠友:   江戸後期の考古・古典学者。正倉院文書整理の先駆者

さて、最後にもう一つ、私は予期しなかった副産物を拝見できました。

それが「 六地蔵石幢 (せきどう) 」です。覆屋が設けられていて、傍に説明板が掲示してあります。この形式の六地蔵を拝見するのは初めてです。
六面体の角柱の上部に蓮華座に立ち、舟形光背を彫り込んだ地蔵菩薩が浮彫に彫刻されているのです。




上部が欠損しているのでよく見えますが、幡身部上部のこの穴部分に納経し、その上に笠石を置いたと考えられているそうです。 (説明板より)
これは、誓願寺墓地にある最古の石仏 だと言います。この六地蔵石幡は室町初期、永享11年(1439)の造立だそうです。

この石幢を拝見して、墓地を出ました。

ご一読ありがとうございます。

参照資料
1) 『新選 日本史図表』 監修 坂本賞三・福田豊彦 第一学習社
2) 『詳説 日本史研究』 五味・高埜・鳥海 編  山川出版社 p298-299
3)  山脇東洋  :ウィキペディア
4)  山脇東洋  :「コトバンク」
5)  『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p20
6) 落語の祖 策伝上人   :「総本山 誓願寺」
7) (214)お半長右衛門(京都市中京区)  ふるさと昔語り :「京都新聞」
8) 『歌舞伎鑑賞辞典』 水落 潔著 東京堂出版 p53

補遺
山脇東洋解剖碑所在墓地(駒札)  :「京都観光Navi」
山脇東洋 日本で初めて人体解剖を行った実験医学の先駆者の一人  :「歴史くらぶ」
蔵志. 乾,坤之巻 / 山脇尚徳 著 ; [山脇]侃 校
    :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)
[閲覧注意]江戸時代に書かれた日本画調の人体の解剖図や骨格図いろいろ
    :「DNA デイリィ・ニュウス・エイジェンシィ」
江戸時代に描かれた人体解剖イラスト(画像45枚) :「mirojoan's Blog」
杉田玄白の解体新書   動画  :「NHK」
解体新書   :「国立国会図書館デジタルコレクション」

策伝庵  茶室の復元 :「紫雲山光照院誓願寺」
安楽庵策伝      :「紫雲山光照院誓願寺」

国宝 六面石幢について   :「普濟寺」
多宝千仏石幢    :「e國寶」
石幢(せきどう)  :「石仏と石塔」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


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Last updated  2017.05.20 17:41:22
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