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2017.12.31
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カテゴリ: 探訪 [再録]
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ 上徳寺
2013年8月に 、京都国立博物舘の特別展観「遊び」を鑑賞した後、ウォーキングを兼ねて、一度訪れてみたいと思っていた 上徳寺 (じょうとくじ) を訪ねてみました。
このころたまたま中古書で入手したセット本に、探訪の主目的である堀内雲鼓の墓のことも記載されていたことが一つの動機でもあります。 この時の探訪記を一部修正の上、再録しご紹介します。
(再録理由は付記にて)

違う位置から山門付近を撮ると、 「よつぎ地蔵 上徳寺」の標識 が出ています

山門の左手に「上徳院殿 雲光院殿 阿茶の局墓所」、右手に「冠翁堀内雲鼓墓所」の石標 があり、寺号 表札の上部には「世継地蔵」と 記されています。
塩竈山 (えんそうざん) という山号で、浄土宗のお寺

この上徳寺は、 京都市下京区の富小路通五条下ル にあります。 本塩竈町 (もとしおがまちょう) です。

この町名から連想して見てください。
このあたりはかつて平安時代、源氏物語のモデルにもなったと言われる 源融の河原院があった敷地の一部 だったのです。
源融の河原院跡の碑は現在、五条通下がる高瀬川沿いに建てられています。
こちらは既に拙ブログでご紹介しています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。
        (探訪 [再録] 京都・下京 史跡めぐり -4 京都大神宮、天野屋利兵衛、五条大橋、河原院跡 )

この句碑がまず探訪第一目的でした。


     日のめぐみ うれしからずや 夏木立

山門を入ってすぐ右手の塀際に 「堀内雲鼓 (うんこ) の句碑」

冠句は「元禄6年、京都五条坂・迎光庵に住む貞門俳諧師、堀内雲皷の興した新詩型の作句法」 (資料1) を源流とする文芸なのです。そのため、 堀内雲鼓は冠句の唱道者とされています。

冠句って? という疑問がまあすぐに浮かぶことでしょう。
実は私も数年前までこの文芸の存在を知りませんでした。友人のブログを読み始め、その彼の知人のブログにもお邪魔するようになって、その人が冠句をブログに掲載されていることから、冠句なるものを知りました。そこで多少関心を抱き始めたのです。
ネット検索していて、この句碑のことを知ったという次第です。

句碑は、1927年(昭和2)に冠句研究普及をめざし機関誌「文芸塔」を創刊して、文芸塔社の主幹となった太田久佐太郎氏の筆によるもの
当日裏面の「句碑誌」を写真に撮りませんでした。文芸塔社のホームページに掲載の写真で頴原退蔵博士撰による文をご紹介しましょう。 (資料2)

「冠句は俳諧の大衆性を最も要約せる文芸たり。之を世に汎くせるは雲鼓翁の力による。其の編せる夏木立は実に冠句集の嚆矢とす。今や冠句が大衆文芸として新生面を拓かんとするに際し、久佐太郎氏等相謀って該集巻頭の一句を石に勒し、以て翁の業績を顕揚せんとす。寔 (まこと) に機宜の挙たりと言うべし。茲 (ここ) に其の由を誌して云爾 (いわんのみ)
 (付記:ひらがな表記にし、句読点とルビは私が付したものです。 間違いがあるかもしれません。)

冠句については一鑑賞者にしか過ぎません。お邪魔しているブログで教えていただいたことと、多少調べたことから、理解したことを記しておきましょう。

冠句は、俳句と同じで五・七・五の17文字で構成される短詩型です。
ただし、上5の後に一文字の空白を置き、七・五を続けるという形です。
つまり、 
 日のめぐみ うれしからずや夏木立
という形式での表記にするそうです。
この一文字の空白を置くこと、季語という概念をルールにしていない句作法です。 そういう点では、かなり自由に作句できそうです。上五と七・五の照応が生み出す詩想の世界を大切にする文芸なのだと一鑑賞者として解釈しています。
五・七・五の短詩型ですが、俳句とも川柳とも異なる17文字の文芸領域なのです。

一歩深く知りたいと思ったのですが、大手の本屋さんには市販図書として棚に出ている出版物を見かけたことがありません。そういう意味では、短歌、俳句、川柳と比べると、一般的には未だ知られざる文芸領域と言えるのかもしれません。
私が知る限りでは、京都新聞の文化欄だけが、俳句、川柳と併列に「冠壇」のスペースを設けています。当新聞では毎週、3つの文芸壇ごとに入選作や佳作が紹介され、寸評が付されています。
話が、脇道にそれました。元に戻しましょう。



山門から入った正面に本堂があります。 この寺も、天明・元治の兵火で類焼の憂き目に遭っています。
現在の本堂は、明治44年に、永観堂の祖師堂を移築したもの だとか。本堂の左手に手水舎があります。その奥、つまり西側に墓地への格子戸が見えます。
お寺の方にお尋ねし、墓地に入ることができました。

目についたお墓などを見て、ちょっと右往左往したのですが、コピーしていったページを見直すと、探訪のお墓は墓地中央にあるとか。


これが堀内雲鼓のお墓でした。 墓碑の側面に「雲鼓親族達」 と印刻されています。
お墓の傍には、「冠翁提唱 正風冠句二百五十年祭記念」の石標が建てられていました。
お墓は南面して建てられています。墓石の表面には「南無阿弥陀仏」の号だけです。何の変哲もない、凡凡たる墓碑です。 仰々しさは一切なくどこにでもありそうな墓。嵯峨の落柿舎の背後にある「去来墓」、去来の文字が印刻されただけの小さな墓を思い浮かべました 。飾りっ気無しの素っ気ない、凡たる墓碑。 それがかえっていいなあ・・・と感じた次第です。

雲鼓は大和吉野の人だったとか。享保13年(1728)5月2日没。年64。 (資料1)
元禄から享保にかけて京都で活躍していた雑俳点者で、冠句 (かんく、かむりく) (笠付け、冠付けとも呼ばれる雑俳の一つ。点者が出す上五文字を課題として、中七、下五をつけて一句とする言葉あそび)を提唱して大いに流行させたと言われています。 (資料3)


墓地に入って、最初に目についたのがこの一角。



「上徳院殿 雲光院 阿茶局之墓」と記した駒札が傍に建てられています。

「寺伝によれば、德川氏が家康の息女泰誉院とその生母上徳院の菩提を弔うため、伝誉蘇生上人を開山として創建したと伝えられる」とのこと (資料1) 。また、「寺伝では德川家康創建というが、その年月は不明である。僧伝誉一阿が開創し、初め、霊光院といったが、家康の娘泰誉院が生母於古知の菩提を弔うために、土地を寄進し、寺域を拡張して堂宇を整備した。この時、於古知の号により寺名も上徳寺とされた」とも言います (資料3)
隣に安置された六地蔵石仏像の覆屋の柱に、「才知の局 阿茶様」としての説明が額入りで懸けられていました。家康の側室となった後、その才知により家康の懐刀として信任を得た女性なのです 。大坂冬の陣、夏の陣で和睦の使者として活躍したのがこの阿茶局だったとか。家康死後も出家を許されず、三代の将軍に仕え、江戸幕府と京都の寺社、朝廷との間で手腕を発揮した人物のようです。 寛永14年に83歳で京都にて逝去し、この上徳寺が京都での菩提寺となった のです。 江戸では雲光院が菩提寺 となっていて、こちらにはお墓として宝篋印塔が建てられているようです。
阿茶の局の戒名はウィキペディアによると雲光院殿正誉周栄大姉です。



六地蔵石仏像の前、つまり西側には 大きな宝篋印塔 が建てられています。
特に説明板らしきものはありません。 家康の息女・泰誉院のための石塔のようです

この墓地、境内から格子戸を開けて入ると階段で少し下りた窪地になっています。 「生薑畠」 というそうですが、 河原院の池の跡だといわれている のです (資料3) 。なんとなく納得できる説です。河原院のイメージが湧きやすくなりますね。

『都名所図会』を見ると、巻之二・平安城尾に「 塩竃社」という見出し 項目があります。ここに、「塩竃社は本覚寺の西、上徳寺の鎮守なり。祭る所融大臣にして、即ち塩竈山 (えんそうざん) と号す。本尊阿弥陀仏は八幡の作。開基は伝誉上人なり。」と記されています。江戸時代には「塩竈社」の方が注目されていたということでしょう。 この「塩竃社」は、現在は近くに所在する本覚寺の境内に移転している のです。 (資料5)


墓地から境内に戻って、境内の探訪をしました。といっても、こじんまりした敷地のお寺。
東面する本堂の南側に 「世継地蔵」のお堂 があります。ここには 「高さ2m余りの石の地蔵尊」 (資料3) が祀られているそうです。
「子なき人によき世継を授けるといわれ、参拝者が絶えない」 (資料1) お地蔵様です。
私が訪れた時は、その時間が遅かったせいか、境内はひっそりしていました。

この地蔵堂の西側と南側にはたくさんのお地蔵様がいらっしゃいます。
ご紹介しましょう。反時計回りに巡ってみました。


身代り地蔵尊


その小さなお堂の側面に、 「歓喜地蔵」  童顔作りのお顔が何ともいえずカワイイ!



南側には小堂(延命地蔵尊)が並び、水子地蔵立像も建てられています。南側の東端には「はがため地蔵尊」の小堂があります。





世継地蔵堂の近くの建物の側壁に、いくつもの新聞記事の切り抜きが貼付されています。
「世継地蔵」庶民信仰のお寺として結構新聞などで紹介されているようです。
知らなかったのは私だけ・・・・ということでしょうか。

貼付の新聞記事によれば、 立春後初めて迎える2月の功徳日に合わせて地蔵尊大祭が厳修され (2011年の記事)、 11月の上旬に世継地蔵と阿弥陀如来が特別公開される (2010年の記事)のだとか。関心を抱かれたかたはお寺にご確認を。

雲鼓の句碑の実物を見てみたいという思いから、思わぬ出会いが広がりました。
機会を見つけて、今度は、太田久佐太郎の句碑を探訪してみたいと思っています。

さて、ちょっと付録を・・・・。
博物館を出て、七条通から鴨川横の川端通を北、五条に向かう途中での発見史跡など

七条通の北には東西に通る「正面通」があります。
もともとは秀吉が作った大仏殿(方広寺)の正面に向かう通りという意味だったと思います。確か、 秀吉の時代には今の西本願寺のところから大仏殿まで、正面通が通っていた とか。それを断ち切ったのが德川家康で、今の東本願寺の建立を許したことの結果、そうなったのだとか。そんな話をどこかで読んだ記憶があります。
それはさておき、


この正面通の鴨川に架かる橋 (正面橋)を通り過ぎたところで、この石碑を発見!
「元和キリシタン殉教の地」 というもの。
この川端通、何度か歩いているはずなのに、今回初めて気づいた次第。

もう一つ、 何の説明もない円柱断片のモニュメントに五条通手前で気づきました。

円柱の一つに「天正・・・」という文字の印刻が。それが目にとまったのです。
何の説明も付されていませんが、 鴨川に架けられた橋に当時使われていた石部材の一部かな・・・と思った次第です 。京都国立博物舘の庭にも橋に使われていた石部材の遺物が置かれています。そこからの連想です。

探訪の足を伸ばせば、知らなかったことをいくつも発見します。
それがまた、好奇心を広げるきっかけに・・・・。

ご一読ありがとうございます。

付記 
現時点で私には未だ明瞭に理解できたとは言えない部分-解けない謎(?)-があります。本文が煩雑にならないように、付記とします。

上記の通り、雲光院に葬られた阿茶の局の戒名は雲光院殿正誉周栄大姉とのこと。
一方、上徳寺の石塔に供えられた塔婆に記された戒名は上徳院殿一位正誉周栄大清女です。石塔に印刻された文字が読みづらいのですが、写真の色調補正をして見ると、私には「上徳院殿正誉一位尼公法**」のように読めます。大姉と大清女は敬称として同じ意味合いでしょう。
阿茶の局は家康の子を懐妊しますが、流産してしまい、子供が産めない体になったそうです。とすれば、家康の息女(娘)泰誉院というのは水子の戒名としての院号という事になります。
雲光院の沿革を読むと、阿茶の局が生前に自らの菩提寺として江戸にお寺を開創(1611年)していたのです。それも家康の存命中(1616年家康没)であり、かつ、自ら生前に法号「雲光院」を受けていたことになります。出家を許されていなかった阿茶の局は、生前に戒名を受けていたということでしょうか。阿茶の局自身は、京都の金戒光明寺に葬られ、江戸と京都に菩提寺が作られたという結果になります。そう理解することが適切なのでしょうか。
現時点での入手資料には、そのあたりを関連づけて明確に述べたものがありません。上徳院殿=雲光院=泰誉院の母・於知古ということなのでしょうか?
ウィキペディアの「雲光院」によると、阿茶局の名は須和とのみ記されています。
課題、謎が残りました

参照資料
1)『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著  駸々堂 p357
2) 文芸塔のホームページより 
   ​ 文芸塔の沿革 ​  
   ​ 冠翁 堀内雲鼓句碑 ​ 
3)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社  p143-144
4)浄土宗龍徳山雲光院ホームページ 
    ​ 雲光院由来・沿革 ​  
    ​ 阿茶局開基 ​  
5)『都名所図会』上巻 竹村俊則校注 角川文庫  p140

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
上徳寺 ​ :「京都通(京都観光・京都検定)百科事典」 
上徳寺 世継地蔵尊大祭 ​ :YouTube
2011.2.8上徳寺 世継地蔵尊大祭4/5 ​ :YouTube
2011.2.8上徳寺 世継地蔵尊大祭5/5 ​  :YouTube

文芸塔 ​ ホームページ
冠句関連でネット検索していて知った結社のサイト
 ​ 冠句 神戸港
  このサイトの冒頭に「冠句の発祥を簡単に説明しています」のページが。
 ​ 冠句の仲間 安富冠句会 ​ 
 ​ 冠句の仲間 姫路冠句会 ​  
 ​ 冠句なごや ​ 
冠句とは ​ :「維摩と語る」

雲光院 ​ :ウィキペディア
阿茶の局  将軍の信頼度NO1側室 ​ :「三河姫」
阿茶の局の墓  雲光院 ​ :「深川めし・丼学会」
正面通 ​ :ウィキペディア
正面通 ​ :「京都観光Navi」

元和の大殉教 :ウィキペディア
隠れ京都案内 元和キリシタン殉教の地 京のキリシタン  :「甘春堂」
隠れ京都案内 元和キリシタン殉教の地 橋本テクラと5人の子どもたち :「甘春堂」



   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
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Last updated  2017.12.31 08:00:09
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