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千菊丸2151さんコメント新着
珠子の隣で、正樹も楽しそうに笑って言った。
「じゃあ昇一さんは、これから奥さんと2人の娘さんと一緒にずっとこの店の二階に住むわけだ。 オレも兄貴が帰ってくれて嬉しいよ。 ・・・でも、あの部屋ってずいぶん長い間空室だったよね? 大丈夫? 雨漏りとか、しない? 妙に風通しが悪いとか、妙に寒いとか」
おばさんが、ネギを刻む手を休め、顔をしかめてうなずいた。
「そりゃあもう、畳も壁もぼろぼろだよ。 手入れしようしようと思いながら、店も休みたくないし、なかなか暇がなくて、ずっとほったらかしてあったからね。 あのままじゃとても住めないさ。 それでね、今度思い切って店ごと・・・」
話し続けようとするおばさんに、急に菜箸を押し付けて、大鍋から離れた昇一さんが、カウンター越しに正樹のほうに身を乗り出した。
「二階といえば、妙なことがあったんだ。 ウチの下の娘が、まだ2歳なんだけど、最初あの部屋に入るのを嫌がってね。 中におばけがいるって言うんだよ。 おばけの部屋に猫ちゃんがひとりで入って行っちゃった、猫ちゃんおばけに食べられちゃう、って、大声で泣くんだ。 親の俺が言うのもなんだけど、あの子は、同じ年頃の子と比べてうんとしっかりした子だと思ってたんだけどねえ。 ・・・まあ、なんとか娘をなだめて、少し時間を置いてから部屋に行ってみたら、驚いたよ、ほんとに猫が倒れてる。 しかも、よく見たらそれは珠子ちゃんちのミケ・・・」
昇一さんが顔を曇らせて珠子を見、つと口ごもり、気の毒そうに目を伏せた。
――― ミケは、珠子の代わりに、クロを連れて天国へ旅立ってしまった。
そのショックで気を失った珠子は、その後起きたことを何も覚えていない。
が、正樹の話では、あの後すぐにノロ猫の呪いは解けて、三人はその場で人間の姿に戻り、前後不覚の珠子を、正樹がおぶって家まで送り届けてくれたそうだ。
気がついたときには、珠子はもとの人間の姿で、自分の部屋のベッドに寝ていた。
まるで何事もなかったみたいに。
ママのお使いで『龍王』にみかんを届けに行って、普通にお使いをすませて、普通に家に戻って、そのまま寝ちゃった、みたいに。
でも、いつも傍らに寝ていたミケの姿がどこにもないことに気がついたとき、珠子は、あれが悪夢なんかではなく確かに現実に起こったことだったとはっきりと理解した。
そして、同時に、あの深く悲しい眠りの中でミケが、最後のお別れを言いに、珠子に会いに来てくれたことも、ありありと思い出した。
夢の中でミケは、神々しい明るい光に包まれ、生きているときと少しも変わらない、優しい、幸せそうな笑顔を浮かべて、珠子にこう言ったのだった。 『珠子お嬢さま、悲しんではいけませんよ。 お二人のお嬢さまに愛されて、わたくしの一生は幸せでございました。 とりわけ、最後に珠子お嬢さまと親しく言葉を交わすことができ、この命を捧げることができたことは、わたくしにとりまして至上の喜びだったのでございますから、お嬢さまも、どうかわたくしと一緒に喜んでくださいまし』と。
――― 悲しむな、と言われても無理だ。
ミケのおかげで、珠子も正樹も虎雄も、たぶんその他のノロ猫たちも全員人間に戻ることができて、以前の平穏な日々を取り戻したというのに、たった一人、犠牲になってしまったと思うとミケが哀れで、珠子はいつまでも涙が止まらない。 みんながそんなに簡単にミケを忘れて、めでたしめでたしと言ってしまったら、ミケがかわいそうすぎる。
