2002年10月23日
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昨日の日記では、
口頭ベースの会議では、
本来ならそれぞれの意図を交換し合うコミュニケーションの場が、
単に相手の口にした言葉に反応するだけの連想ゲームの場になってしまう

といったようなことから、図を描くことの必要性について書いた。
相手の意図ではなく、単に言葉尻や使われた単語に反応してしまい、
そこから連想して反論や別の発想を口にすることで、
会議の内容はどんどん脱線していってしまう。
ホワイトボードに重要なことを文字や図として残すことで、
この脱線=連想ゲームはある程度は食い止めることができる。
しかし、完全にそれを起こらなくさせることは基本的には不可能だ。

そもそも「言葉」というものを使うコミュニケーションに内在しているからだ。

美しい花がある。
「花」の美しさという様なものはない。

これは文芸評論家である小林秀雄の言葉である。
これを分解してみよう。
 ・美しい花はある
 ・美しさというものはない
そして、
 ・「花」という一般的なものもない
美しいは形容詞であり、これは具体的な花にかかることで、現実をともなう。
だが、しかし「美しさ」という名詞はあくまで「美しさ」という形容詞をもつ様々なものから
特徴をとりだして抽象化する試みの後、生まれるあくまでモデル的なものでしかない。
同様に「花」一般はあくまで個々の現実にある花の抽象的な一般化である。

そんな存在しない「花」一般の美しさなどは存在しようがない。
可能なのは、あくまでモデル化であり、
モデルとは、ある限られ、共有された文脈の上でのみ有効になるものだ。

小林秀雄は次のようにも言っている。


人間の言葉というようなものと比べたら、凡そ比較を絶して豊富且つ微妙なものだ。
そういう言語に絶する現実を前にして、言葉というものの貧弱さを痛感するからこそ、
そこに文体というものについていろいろと工夫せざるを得ないのである。
工夫せざるを得ないのであって、要もないのにわざわざ工夫するのではない。


とうぜんながら言葉は現実にあるものに1対1の対応はしない。

すべての存在するものを固有名詞で呼ばなくてはならない。それは不可能だ。
小林秀雄は「貧弱さ」と言っているが、それは単に便宜性によるものでしかない。
すべてのものに名前をつけて、それを全部覚えられるわけがない。
それは言葉の便宜性を無効にする。
そもそも伝達の便宜性、思考の便宜性のためにあるのであろう言葉から
それを奪うのは本末転倒である。
言葉はいささかも「貧弱」などではない。
ただ、そこには「工夫」が必要なだけだ。
工夫をしなければ、言葉はなにも伝えない。
便宜的であるがゆえに、伝達という目的をもった意思がなければ役立たずなのだ。
言葉を使うには「工夫」が必要である。
そこにおいては、バンビも小林秀雄の意見に同意する。
工夫がなければ、それは単なる連想ゲームのためのおもちゃでしかない。


さて、おなじようなことをもっと哲学的に詳細に考えた人に
ヴィトゲンシュタインという人がいる。

ヴイトゲンシュタインは、まず、
自分と他人(ある人と別のある人)の心のあいだに、交換可能性、互換性をまったく認めない。
自分と他人のあいだに何らかの心的な交換を擬似的に行なおうとすれば、
言葉が必要だとした上で、言葉の限界について考察を行なっている。

たとえば、自分と誰かがおなじものを食べておなじように「おいしい」と言ったとする。
だが、自分の口にした「おいしい」ともうひとりが口にした「おいしい」には
いっさいの互換性はない。
そこにあるのは、自分の世界にも「おいしい」という言葉が存在し、
またもうひとりの世界の中にも「おいしい」という言葉が存在するということだけだ。
自分の側にも「おいしい」と他の言葉の関係があり、
もうひとりの側にも「おいしい」とそれをとりまく別の言葉のネットワークがある。
バンビは以前の日記で「わかる」とは「共有」ではないかと書きました。
でも、厳密には「おいしい」という言葉さえ2人の異なる人間のあいだでは共有できない。
それはおなじ言葉を用いるだけで、2人にはそれぞれ別の言葉のネットワークがあり、
それはいっさいの互換性をもたない。
それゆえ、「おいしい」という言葉は必然的2人の異なる人間のあいだで、ズレを生じる。
おなじ言葉も異なる人、異なる文脈のあいだでは異なる意味を必然的にもつ。
ヴィトゲンシュタインはおよそ上記のようなことを「言語ゲーム」という言葉で説明している。

 ・言葉とモノ(感情などの形而上的なものも含む)は1対1の対応ではない。
 ・しかも、言葉とモノ(感情などの形而上的なものも含む)の対応は個々人で異なる。
 ・ただし、言葉とモノ(感情などの形而上的なものも含む)の関係は
  個人のなかではほぼ確立されている。

自分と他人のあいだには一切の心の互換性はない。
そして、それを助けるほとんど唯一の媒体ともいえる言葉は、
なんら万人の共通項たる要素をもちえない。
だとすれば、本質的な伝達は不可能だということになる。
ここではもはや「連想ゲーム」は単に伝達者、被伝達者の意思の問題ではなくなる。
言葉を使ったコミュニケーションである以上、
伝達は必ず、相手の言葉のネットワークと自分の言葉のネットワークのズレを
意識しながら行なう、究極の「連想ゲーム」でしかありえない。

だが、しかし、それだからこそ「工夫」が必要なのだと言えるのではないか。
常にズレを生じる相手と自分の言葉の、気持ちのネットワークのあいだにある
相違を意識する以外に、そもそも誰かとコミュニケーションとる必要がありえるだろうか?
「わかりあう」ということは確かに「連想ゲーム」の域を越えるものではない。
問題は、では何を「連想」するかである。
おなじ「連想」するなら、相手にも自分にも有意義な「連想」であるほうがいいとバンビは思う。

ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」は要約すれば、次の2点を主張する概念である。

①言語を使うということは、「規則」に従うという行為である。
②言語を使うということは、生活の形式の中に埋め込まれた行為である。


ようするに、ヴィトゲンシュタインは言語の使用という行為を文字通り、
「実践」という中に置いているのだ。
言語の規則は「実践」の中にしかない。その「実践」が生活の形式そのものを規定する。
「実践」という日々の生活の中の行為が言語を「使用可能」なものにするのだ。
ヴィトゲンシュタインのいう「実践」こそが、小林秀雄がいう「工夫」に値するとバンビは思う。
「実践」、「工夫」こそが言語を「使用可能」なものにし、
伝達不可能な2者間の心の伝達を実践的に可能にする。
逆にこうも言えるだろう「実践」、「工夫」がなされなければ、
言語はまったく無用の長物でしかない。
そこに待っているのは、暗いディスコミュニケーションの闇の世界だ。





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最終更新日  2002年10月23日 12時14分47秒
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