2002年10月24日
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なんだか最近、バンビの掲示板が盛り上がってきた。
いろんな人がいろんな意見を言ってくれるのがおもしろい。
特に、昨日の日記では、ヴィトゲンシュタインなんて難解なものまで登場させたのに
意外な反響があって、バンビとしては嬉しい限り。
心の交換不可能性、互換性のなさに対し、
「孤独」( 豆ざむらい さん)という言葉が出たり、
「違うかもしれないと思いながら、『だから人間って面白い』」( パンチパー さん)という

それはバンビの言う「連想」とは違うけど、
いい感じで「連想ゲーム」を派生させる、こういった言葉の捉え方のズレは
むしろ歓迎すべきだとバンビは思う。
きっと「伝える」ということの中には実は、
そういったいい意味での「誤解」「誤謬」が含まれているのがいいのかもしれない。

さて、心の相互交換不可能性によって、「孤独」を強いられる一方で、
逆に、人間には「個性」というものが必要だろう。
だが、実は「孤独」を強いられる交換可能性の危機は、
一方で「個性」の危機でもあるはずだとバンビは考える。

昨日、 パンチパー さんへの掲示板への返信として、バンビは以下のように書いた。


>同じじゃないかもしれない。私が緑色と思ってる
>ものをあの人は赤色と言っているかもしれない。』

実はそもそも、これと同じようなことはルソーが『色彩論』で論じています。
その意味では、そのこと自体、共有が可能だということかもしれない。
ヴィトゲンシュタインが言ってるのは、
あくまで心の交換不可能性であって、
決して、共有の不可能性ではないんですよね。
ここに「孤独」を匂わせる印象はあるとバンビも思いますが、
逆に「人間の差異」をなくす可能性もまたあると考えます。
なぜなら、「差異」こそ「同一」という概念あってのものだから。
人間同士の差異は、「違う」ではなく、
パンチパーさんの言うように、
>違うかもしれない
ですよね。



それゆえ、あくまで人が認識していると考える「差異」とは、
「違う」ではなく、「違うかもしれない」でしかない。
以前の日記にバンビは、
個性とは、すなわち他の人との差異、自分と他の人とのあいだに存在するもの
だというようなことを書いた。

<「他の人との差異」かもしれない>ものだし、
<「自分と他の人とのあいだに存在する」かもしれない>ものだ。
認識が交換不可能である以上、認識された差異は共有不可能だし、
また、実際に2者のあいだにある差異は、そもそもにおいて正確に認識することが不可能である。



①「私」と「あなた」のあいだではいっさいの認識の交換・互換は不可能
  ⇒ 他人の意識の正確な認識は不可能
            ↓
   「同一」、「差異」も両者間では共有されえない

②「私」も「あなた」も現実にあるものを、自分の言葉、意識としてしか認識できない
  ⇒ 正確な「現実」の認識は不可能
            ↓
   2者が「同一」であるか「差異」があるかは、
   現実がいずれであったにせよ、両者には認識できない

よって、 
「同一」、「差異」は決定的に、認識することが不可能である。



「同一」と「差異」は、異なる2者間では決定的に認識する道を絶たれている。
では、「個性とは、すなわち他の人との差異、自分と他の人とのあいだに存在するもの」という
バンビの考えもそもそも無効になってしまうのだろうか?
そうではない、とバンビは考える。
ここで絶たれていることは、
それぞれの「同一」or「差異」を両者のあいだで共有するという道であり、
決して個々が自分と相手の同一性や差異を認識できないということではない。
自分が相手とのあいだに「差異」を認識し、
また、相手も自分とのあいだに「差異」を認識する。
単にその両者が認識した「差異」の同一性そのものが「違うかもしれない」だけであり、
決して、人が相手との差異を認識できないという話ではない。
差異が個性であるなら、自分は相手との差異により、自分の個性および相手の個性を知り、
また、相手もおなじように両者の個性を知ることができる。
ただ、その場合、自分が感じた個性と相手の感じた個性が「違うかもしれない」だけだ。
だが、それは大した問題ではない。

わかりやすく例えてみよう。
(そう。最近、わかりにくい、むずかしい話が多いが、
 そもそも、この日記は「わかりやすさ」について、なのだから)



 ある会社にAさんという男性がいるとする。
 彼はその会社でシステムを担当するチームに属していたとする。
 彼はシステム担当として、システムに関する開発、運用のタスクを行なっている。
 だが、そこで実際には、同僚たちは彼のリーダーシップに期待していたとしよう。
 単なるシステム開発の担当であると同時に、
 そのシステムを必要とするプロジェクト全体のリーダーとしての彼の動きこそ、
 同僚たちが彼に期待するものだったとする。
 その場合、彼には2つの自己認識が可能だ。
・システム開発担当者としての自分
・プロジェクトリーダーとしての自分
 いずれを自分の仕事上の個性と認識するかは彼の自由である。
 同様に、彼の同僚たちの側でもおなじく2つの認識が可能だが、
 実際、同僚たちはすでに「プロジェクトリーダー」としての彼に期待している。
 この場合、彼が自分を「システム開発担当者」として認識すれば、
 彼自身と同僚たちのあいだで、認識のズレは生じる。
 だが、その場合でも彼が意識しないまま、リーダーシップを発揮していれば、
 大した問題は生じないはずだ。
 そこでは彼は単に、同僚たちが期待する彼の個性を自分で認識していないという話でしかない。
 問題があるとすれば、単に彼が「自分の個性を活かす術を知らない」というだけだ。



このように個性は、自分で認識する個性と他人によって認識される個性があるのだ、
とバンビは思う。
とうぜん、その意味で論理的には、自分の個性はそれを認識してくれる相手の人の数だけ
存在することになる。
それぞれの認識する個性は「違うかもしれない」が、それは大して問題ではなく、
自分が相手が意識している「自分の個性」をどう活かすかだけが問題なのだ。

以上のような意味で、バンビは、個性とは確固として存在するものというより、
相対的に現われるものだと考えている。
いわゆる 「キャラ立ち」 という言葉はそれを指しているのだと思う。
個々人は、自分が関わる相手に対して、自分の個性を認識してもらい、
その個性が活きるよう実践的な活動をすることで「キャラ立ち」する。
ただ、その場合、意識するべきは、心の互換性がない他人に対して、
「キャラ立ち」を行なおうとすれば、
自分と相手のあいだになにかしら相対的な共有感を生じさせる第3者的な存在が必要だ
ということだ。
もちろん、それは自分と相手以外の第3者でもいいし、共通で知っているモノでもいい。
例えば、相手が「○○さんは、□□さんに似ている」と言えば、それはキャラ立ち成功の
第一歩かもしれない。
おそらく、わかりやすい「キャラ立ち」のヒントはそこにある。
異なる2者のあいだでは交換不可能性がある。
だが、そのディスコミュニケーションな状況を打破するには、
実践的な第3者の要請が必要なのだ。
繰り返すが、「個性」とは決して括弧したものではなく、あくまで相対的なものであり、
実践的に相手と関わることでしか、その個性を保つことはできない。
それをバンビは「キャラ立ち」すると言いたい。

さて、この「わかりやすさ」について、の日記もとうとう10回を数えた。
もともとビジネス的な話の多かったこの日記だが、
ここ数回は、哲学的、思想寄りの話題になっていた。
だが、このあたりで軌道を元に戻そうと思う。
その意味で「キャラ立ち」は重要だとバンビは思っている。
相手に対して自分の個性を実践的に立たせ、活かす「キャラ立ち」は、
そのまま、企業と顧客のあいだでの
顧客ニーズの把握と、それに対応した顧客満足の提供という関係と
そのまま対象関係であると考えるからだ。
明日の日記はそのあたりを考えてみたいと思っている。

ところで、こんな日記を書いているバンビは、
これを読んでくれている人に対して、どんな風に「キャラ立ち」しているのだろうか?
それはそれで興味があるところだ。





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最終更新日  2002年10月24日 12時38分24秒
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