2002年10月29日
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トップページにもあるように、
いま、バンビは村上春樹の『海辺のカフカ』を読んでいるところだ。
下巻の半分を超えたところだから、
今日の夜か、遅くとも明日中には読み終わるだろうと思う。
ちゃんとした感想は、読後に譲るとして、
今日のところは、いま、とりあえず抱いている印象について書いてみたいと思う。

バンビは『海辺のカフカ』を読み始めた時から、
この本は、 丁寧に一般化されたエヴァンゲリオンだ という印象をもった。

エヴァンゲリオンは深夜遅い時間に放送されたこともあり、
最初、熱心なオタクから火がついた。
その後、2度、映画化され、それにともなう再放送などで、
オタク以外の、ちょっと高感度な層のあいだでも話題を呼んだ。

バンビが考えるに、エヴァンゲリオンがオタクと非オタクのその両方で
支持された理由は、そのオタク的世界-非オタク的世界のあいだの微妙な世界観
またはその両方を巧妙に溶け込ませた世界観の提示にあったと思う。

エヴァンゲリオンの世界観は、
オタク-非オタクに対して、それぞれ興味をひくような様々な要素を各所に無数にちりばめ、
しかも、意図的な説明不足により謎を残す形でストーリーを覆うことにより、構造化されている。
それは先行し、比較対象となることもあるガンダムのように

エヴァンゲリオンの世界観は
ただ無数の魅惑的で謎めいた表面的なパーツにより構成された世界であり、
ガンダム的なしっかりしたバックヤードの上に成り立っているのではない。
ガンダムのように、歴史観やマシンスペックを伴なう、
きちんとした物語の上で物語られるのではなく、

きわめて主観的な意識の中で物語られる物語だ。
当時も話題を呼んだが、TV版のエヴァンゲリオンにはいわゆる通常の意味での終わりはない。
映画化により、その後を語られはしたが、それもまた1度目の終わりと、2度目の終わりでは、
異なる世界を描いているといえる。
TV版の普通でない終わり、1作目の映画版の終わり、そして、2作目の映画版の終わりと、
エヴァンゲリオンはすくなくとも3つの矛盾する終わりを抱えている。
そして、また、その3つが無数にあるはずの終わりの、単に表面にあらわれた3つでしかないことを
エヴァンゲリオン・ファンなら容易に想像することができる。
その物語はきわめて主観的であるがゆえに、
観るもの、語るものの観方により、原理的にはその終わりも無数に存在可能となる。
エヴァンゲリオンの世界はそういう世界だ。
歴史的、スペック的に、一元的に規定された世界観と、その世界は決定的に違っている。

だが、その世界観もまたなんでもありの世界というわけではない。
<語り得ぬものについては、沈黙せねばならない>、
これはヴィトゲンシュタインの言葉だが、実際、語ることができないものを語ることはできない。
主観的であるがゆえに主観を超えた世界はそこにはない。
言い換えれば、主観の外に、外の世界はない。
すべては主観の中だけにある。
エヴァンゲリオンの世界はそういう世界である。
ただ、それは見たもの、記憶されているものをデータベースから取り出すように観て、
それを思うがままに語るようにして、世界そのものが構築される。
エヴァンゲリオンには聖書や、古典的文学からの引用などが数々見つけられるが、
そのことと、普通に主人公たちによって語られる彼ら自身の言葉のあいだに差異はない。
すべてデータベースに等しく保存されたデータであり、それがある主観により、
引き出され、語られているにすぎないからだ。
その語り口は、歴史やマシンスペックなど、固定化され、常識化された観念で語る言葉とは
明らかに異質なものである。
時間や空間により階層化され、固定化されたプライオリティとは無縁で、
ホームページのリンクをたどるように、あるいは検索から意識的に世界の垣間見るように、
時間や空間とは無縁の移動が可能となる世界だ。

エヴァンゲリオンが提示したのはそういう世界、そういう語り口のあり方だったと
バンビは考えている。
そして、『海辺のカフカ』を読みながら、
バンビはこれは 丁寧に一般化されたエヴァンゲリオンだ と思う。
もちろん、村上春樹がエヴァンゲリオン的なものを意識して書いたなどとはまったく考えていない。
だが、この小説が、あきらかにエヴァンゲリオン以降の小説だと思う。
それはエヴァンゲリオンを通過した後の、という意味ではなく、
エヴァンゲリオン的な意識のありかたが一般化した、現在において書かれた小説という意味で。
エヴァンゲリオンがターゲットにしていたのは、オタクと高感度な一般人でしかなかったが、
村上春樹がターゲットにするのはもうすこし広い範囲なのかもしれない。
『海辺のカフカ』には、もちろん、時間軸にそったストーリーも存在する。
だが、そのストーリーはこれまでの小説とおなじようには時間軸に従順にはすすまない。
それは時間軸に抵抗するというよりも、
時間軸そのものが他のデータとおなじく単なるデータの1つでしかないというように、
それをほとんど重視していない。
等しく、よどみなく流れる時間よりも、カオスティックに存在している無数のデータの存在により、
その語りは、ネットワークのリンクをたどるように、あっちへこっちへ移動していく。
バンビが関心するのは、村上春樹のその語り口が非常に丁寧であるということだ。
世界の時間軸が絶対的存在ではなくなったように、
おなじく主人公たち個々人の感情もまた絶対性を失っている。
だが、しかし、絶対性はそれを前提にしなければ何もその喪失、無効化を嘆くようなものではない。


そして、決して外を見ることが不可能な主観の限界と
その主観に与えられたメタファーというテクニックを、
決して悲観的にではなく、丁寧に肯定し、書ききっている。

バンビは、村上春樹の『海辺のカフカ』という小説を、
いまはそんな風に読んでいる。

それはバンビにとってとても楽しく、わかりやすい小説だ。





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最終更新日  2002年10月29日 16時18分59秒
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