2002年11月04日
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佐藤友哉『クリスマス・テロル』 (講談社ノベルス) を読んだ。
ネタばらしになってしまうので、詳しくは書けないが、
それはある種のディスコミュニケーションを扱った小説だ。
佐藤友哉の小説は前に『水没ピアノ』を読んだだけだが、
その前作にしても、ディスコミュニケーションは主題のひとつとしてあった。
彼が扱うディスコミュニケーションは、
コミュニケーションの否定としてのそれではない。
むしろ、より深くコミュニケーションを求めたが故のディスコミュニケーション
だったりする。

とりたてて大袈裟に書き記すわけではない。
むしろ、とても淡々とした記述により、
異なる2者間のコミュニケーションの不通状態を書き記す。
それが痛々しく、かつ、とてもリアルに感じられるのだ。
バンビが佐藤友哉の小説に興味を惹かれるのはそんなところだ。
『水没ピアノ』も愛するが故に起こるディスコミュニケーションの悲劇を
描いた作品だった。
それは流行語としてのストーカーなどという言葉とはまったく無縁のものとして
バンビの心のなかに残っている。

さて、そんな『水没ピアノ』との出会いもあり、
今回の『クリスマス・テロル』を読んだのだった。

それはとても 後味の悪い ものだといえる。
ディスコミュニケーションに関する佐藤友哉の思考がほとんど極限にまで
達してしまっているからだ。

そこには、すべてを忘れてしまう少女が登場する。

それは一回性の記憶喪失ではなく、何度記憶しても忘れてしまうのだ。
もちろん、それは本人だけの問題としては終わらない。
本人が忘れても、彼女に関わった相手のほうは忘れないからだ。
一方の側には確かな記憶があり、他方にはいっさいの記憶がない。
そこで記憶の一方通行が起きる。
そして、忘れてしまうことが前提にあるにしても、
生きていて誰かと関わる限り、そこには繰り返し記憶が生じる。
そして、一方はそれを覚えていて、他方はまたしても忘れてしまう。
その繰り返し、繰り返し。
それはとても痛々しいものだとバンビは思う。

だが、『クリスマス・テロル』の後味の悪さはそこからは派生しない。
それが派生するのは、
作者である佐藤友哉と読者である我々のディスコミュニケーションにおいてである。
バンビには今、それをディスコミュニケーションと呼んでいいかさえ、
確信がもてない。
ただ、そこにある不気味なほどの後味の悪さだけはここに書き残しておきたい気分だ。
いずれにせよ、コミュニケーションの輪が閉じた時、
そこにはディスコミュニケーションさえ存在しない。





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最終更新日  2002年11月05日 10時45分00秒
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