私の人生論 (思考が運命になる)

私の人生論 (思考が運命になる)

2024年04月11日
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カテゴリ: 認識の歩み



幕府の天皇に対する瞥或は厳重になり、
皇太子邦艮親王薨去後は、
天皇の皇子を皇太子に立てることを拒否し、
量仁親王を皇太子とします。

これで幕府を倒さない限り、
天皇が皇子に位を譲って、
その理想を実現する望みは全く失われました。

正中の変の失敗にもこりず、


諸社寺の勢力を利用するため、
法勝寺の円観・醍醐寺文観に働きかけ
叡山には第一皇子尊雲法親王(護良:もりなが)
・第三皇子尊澄親王(宗良)を相ついで座主とし、
天皇みずからも日吉社.延暦寺
あるいは春日社・東大寺・興福寺に行幸して、
僧徒の心を得ようとしました。

また近畿の諸荘園の悪党とも連絡をとり、
組絨的に動員することも考えました。

しかし、この計画も、
武力討幕を反対する吉田定房の密告により、

またもや未然に発覚しました。

幕府は文観・俊基を捕えて、
ついで天皇をも捕えようとしたが、
天皇は京都を出て山城の笠置寺に逃れられた。

河内の楠木正成は召に応じて立ち、

赤坂・笠置ともにおち、天皇は補えられて
六波羅に押しこめられました。

幕府は、量仁親王を立てて光厳天皇とし、
後醍醐天皇の在位を認めず、
承久の例にならって天皇を隠岐に遷し、
尊雲・尊澄両法親王を土佐・讃岐に移すこととし、
関係の公家.僧侶は多く遠流に処し、
資朝・俊基を斬りました。

これが元弘の変です。





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最終更新日  2024年04月11日 05時10分06秒
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