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第一次世界大戦では西欧の列強は国力を消耗し、それに対して自らの 国土は無傷で大いなる武器などの輸出国として潤ったアメリカは、世界の中で の発言力が増した。この力を背景に自国の利益を優先させるよう国際世論をコ ントロールし、日本が孤立するように導いていった。その最たるものが大正1 0年(1921年)のワシントン会議であった。この会議においてアメリカは自国が中国に進出することを容易にするために、かねてから主張していた中国 の主権尊重、領土保全、門戸開放、機会均等、関税率の拡大などを認めさせた。 そしてそれ以降の日本の大陸進出を事あるごとに条約違反と批判するようにな った。また同時にアメリカにとってやっかいな存在だった日英同盟を破棄させた。アメリカとしては、早い時期から直接日本と戦うことも想定し仮想敵国としての研究を重ねつつ、日本との戦争も辞さずという姿勢で、その利己主義の権化たる国際正義を持ち出し挑発しつづけた。
2026年07月31日
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日本に大陸進出の好機が訪れます。大正3(1914)年に勃発した第一 次大戦により、西欧諸国は支那からの一時的後退を余儀なくされ、日本は日英同盟を名目に連合国の一員として参戦、山東半島と南洋群島のドイツ権益を手中に収め、さらに、大正4(1915)年「対華二十一カ条要求」などで支那に対する支配を強めようとした。しかし、大戦で疲弊した西欧諸国に代わって世界の主導権を握ったのはアメリカです。主動的立場になったアメリカは、大正10(1921)年に日本、イギリス、フランス、イタリア、支那、 オランダ、ポルトガル、ベルギー、アメリカの9カ国が参加したワシントン会議で九カ国条約を採択、日本は山東半島など、第一次大戦で得た権益の殆どを失うことにな る。この会議ではまた海軍軍縮条約が結ばれるとともに、日英同盟も廃棄され、日本 は列強とは独立した路線を進むことを余儀なくされることとなった。
2026年07月30日
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ボリシェヴィキ革命の成功は第一次世界大戦の欧州戦況を一変させた。1918年7月連合国(米・英など)にチェコ軍救援を要請された日本は、8月に約7万の軍勢をウラジオストクに上陸(最終的に10万規模へ拡大)させました。表向きは「チェコ軍救援」だが、実際には、反ボルシェビキ勢力の支援、沿海州での勢力拡大、共産主義の拡大阻止が目的です。日本軍はウラジオストク周辺だけでなく、シベリア内陸部(ハバロフスク・チタ方面)へ進出し、反ボルシェビキ政権(コルチャック政権)を支援しますが、コルチャック政権は崩壊し、日本の支援は成果を失い、目的が曖昧になり、撤兵のタイミングを失いました。1920年4月尼港事件(日本人多数が殺害される)が発生し軍部は「治安維持」を理由にさらに駐留を正当化しました。ソビエト政権は日本軍の撤退を強く要求しましたが日本政府は軍部の反対や国際関係の複雑化で決断できず1922年国内財政の悪化により撤兵に踏み切りました。
2026年07月27日
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皇帝の専制政治を打倒し、人民が支配する共産主義社会を目指した革命です。19世紀初頭に英国で産業革命が進みましたが、工業関係の法律は制定されておらず、資本家は低賃金で労働者を長時間酷使していました。そこで労働者を擁護するためにマルクスとエンゲルスが共産主義を提案しました。この思想を受けてロシアで、世界で初めての共産主義国家、ソビエト社会主義共和国連合が誕生しました。広義には1905年の「第一革命」と、1917年の二月革命および十月革命の「第二革命」を指し、狭義にはレーニンらボリシェヴィキが権力を奪取した十月革命(ボリシェヴィキ革命)を指します。
2026年07月24日
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初代朝鮮統監となった伊藤博文が1909年に満州ハルビンの駅で朝鮮人の安重根に暗殺されてしまうと、日本は激怒した。大国ロシアを倒した日本の元勲を暗殺してしまった朝鮮は震えあがって併合を申し出た。日本にとって朝鮮の近代化は巨額の予算が必要であったが1910年8月23日京城において統監寺内正毅と韓国首相李完用との間に併合条約が調印されました。日本はインフラの整備や教育に巨額の予算を注ぎ込みました。
2026年07月23日
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イタリアムッソリーニは「日本に加え、眠れる獅子と称されたアジアの大国中国が、日本化されて協力したらどうなるか。日本が眠れる隣人を目覚めさせ、手を携えたとき、だれがこの2国が世界のヘゲモニー(主導権)を取らないと言い切れるか」と憂慮した。日露戦争勝利は、小国(白人)や植民地や有色人の虐げられし人類の星となると同時に、白人(大国、宗主国)の標的となった。1904年8月23日第一次日韓(大韓帝国)協約を結ぶが、1905年7月大韓帝国の高宗の、ロシア帝国への密使が発覚する。1905年11月17日第二次日韓(大韓帝国)協約を結ぶ。外交権を失い、日本の保護国となる。同じころの1905年ハリマン満鉄買収計画(アメリカの鉄道王ハリマンと首相桂太郎が)で、満鉄共同経営の予備調印をしたが、外相小村寿太郎の反対で、中止となった。1905年7月29日桂・タフト協定で韓国には日本が、フィリピンにはアメリカ合衆国が影響力を持つと、相互に認め合う。
2026年07月22日
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1902年に日本は、ロシアのアジア進出を牽制する目的で締結された軍事同盟、日英同盟を締結し日露戦争に備えました。ドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、日本の日露戦争勝利にたいして「世界に人類の運命を決する大きな危機が近づいている。その第一回の戦争は、我ら白色人種のロシア人と有色人種日本人との間で戦われ白色人種は、不幸にして破れ日本人は、白人を憎んでいる白人が悪魔を憎むように憎んでいる。しかし我等にとって日本そのものが危険な訳ではない。統一されたアジアのリーダーに日本がなることが危険なのである。日本による中国の統一、それが世界に脅威を与える最も不吉なことである」と述べました。日露戦争開戦直後の1904(明治三十七)年、アメリカでは「カラープラン」といって、ドイツは黒、イギリスは赤、日本はオレンジというように、国ごとの戦略が作られた。そして排日移民法が成立した1924年、日本を仮想敵国とする対日戦略「オレンジ計画」が確定しました。大統領政権(1901―09年)の元で対日戦争計画が作られ、それ以後入念に作られてきた対日戦争計画オレンジ・プランに従って戦争を遂行し、1945年の最終的な勝利を得た。
2026年07月21日
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1898年アメリカは、スペイン戦争(米西戦争)の結果ハワイ、グアム島、プエルトリコをアメリカ領に併合。さらに、1899年、フィリピン、サモア、ウエークを併合した。1900年にベバレッヂ上院議員は米国会で演説しました。「我々は東洋における我々の機会を放棄しない。我々は神によって世界の文明を託されたわが民族の使命を遂行するにあたってわれわれの役目を放棄しない。・・・今後我が国最大の貿易はアジアと行われるにちがいない。太平洋は我々の大洋である。・・・支那はわが国本来の消費者である。」
2026年07月17日
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1881年(明治14年)、アメリカによって独立を脅かされていたハワイ王国のカラカウワ王は、日本を訪れ、姪のカイウラニ姫の婿として山階宮定麿王をお迎えし、日本の力でハワイの独立を守ってもらいたい、と明治天皇に申し入れをした。明治天皇はアメリカとの摩擦をおもんばかって、丁重にお断りした。1894年、入植していたアメリカ人は武力でハワイ王国の支配権を奪取し、アメリカ人宣教師の息子ドールを大統領とするハワイ共和国を作った。アメリカ合衆国はこれを4年後に併合する。
2026年07月16日
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かつてテキサスはメキシコの領土であった。そこに入植したアメリカ人は1835年に独立運動を起こし、翌年、155人の守備隊がアラモ砦に立てこもったが、メキシコ軍の攻撃により全滅した。 アメリカ人達は"Remember Alamo"を合い言葉に戦いを続け、翌年、独立を勝ち取った。アメリカはこれを46年に併合し、さらにカリフォルニアを狙って、メキシコに宣戦布告、勝利を得た。 この戦争の結果、アメリカは現在のアリゾナ、カリフォルニア、コロラド、ニュー・メキシコ、ネバダ、ユタ、ワイオミング各州にあたる地域をメキシコから奪取した。この結果、メキシコは領土の半分以上を失った。
2026年07月15日
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支那は辛亥革命(1911年)によって共和国が誕生していましたが、非常に不安定な政権で混乱が続いており、大総統の袁世凱は「皇帝」になりたくてしょうがなかったので1915年12月には立憲君主制が議会で可決されると、袁は皇帝の宗教儀式を復活させるなど行って中華帝国皇帝についています。明治四十五年(1912年)、孫文が大統領となり、清朝は滅んだ。孫文は日本で覚えたらしい「革命」という言葉を使い、自分たちのやったことを辛亥革命と称した。しかし、本来は革命でなく独立である。二十一カ条は袁が皇帝、あるいは外国と交渉できる国家元首として認めてもらいたかったための譲歩であり、面子をたてるために日本に強要され仕方なかった、ということにしたのでしょう。日本の加藤高明外相は「条約の最後通牒は、譲歩する際に支那国民に対して袁の顔を立てるために、袁に懇願されたものである」と公然と認めています。さらに、アメリカ公使ポール・ラインシュの国務省への報告書には、「支那側は、譲歩すると約束したよりも要求がはるかに少なかったので、最後通牒の寛大さに驚いた」とあります。
2026年07月14日
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ハクスリー(1825-1895)は、イギリスの生物学者、科学啓蒙家で、ダーウィンの進化論を擁護した生物学者にして啓蒙主義者です。ハクスリーの影響を受けたウェルズの特徴は、初期のSF作品から、『世界史大観』に至るまで、進化論的社会主義ともいうべきユニークな思想が貫かれていたことである。イギリス生まれの社会進化論は、社会ダーウィニズムに結びつけて語られることが多い。この社会ダーウィニズムは、イギリスのゴルトンの「優生学」に結びついて、さらにドイツのプレッツらによってナチスの人種政策に利用された。また、自由競争を弱肉強食・適者生存に結びつけて、「優等人種」による帝国主義的支配を正当化するイデオロギーとして機能してきた。しかし社会進化論そのものは、帝国主義的・ナチ的であったわけではない。ダーウィンに先立って、「社会進化論」を唱えていたのがスペンサーである。スペンサーの考えた「人間社会の適者生存の法則」とは、「軍事型の社会から産業型の社会への移行」であり、そうした必然性を自由放任に任せるというものだった。クロポトキンのように、アナキズム思想に社会進化論を採用した人物もいる。進化の法則は生存競争でなく「相互扶助」にこそもとづくものであり、国家はその自然な原理に逆らう敵対物であった。
2026年07月13日
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HerbartSpencer(1820~1930)は英国の哲学者です。進化論に基づいて、星雲の生成から人間生活にいたるまで、すべてを総合的に説明しようとしました。主著「総合哲学体系」は第一原理を基礎とし、生物学、心理学、倫理学の全般にわたり、すべてを進化の原理に基づいて組織的に説明しました。それは当時の自然科学万能の思想を背景とするものでした。しかし、認識論的には不可知論に属するものでした。彼の哲学はダーウィンの進化論の普及に結びつき、国際的に大きな影響を与え、明治前半期の日本への影響も著しかった。
2026年07月10日
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1914年、第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦を布告し東アジア・西太平洋におけるドイツの軍事拠点である支那の青島や南洋群島を占領しました。この時日本は「適者生存」の理論を植民地支配の正当化に使い、ことさらに「自然淘汰」を人間の手で行おうと考えていました。日本の内部には有色人種と白色人種のはざまにあり、国際的孤立に危機を覚える人もおりました。1919年、第一次世界戦争の対独平和会議がパリで開かれた際、日本の三大要求は第一に山東省のドイツ利権の継承、第二にドイツ領南洋群島の領有、第三に人種差別の撤廃です。第三の要求は米英の反対で受け入れられませんでした。
2026年07月08日
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国内を開拓しつくしたアメリカは、新たなフロンテアを求め支那大陸に進出を求めました。しかし、支那大陸にはロシアの戦いに勝利した日本が勢力を伸ばしてきていました。1906年4月サンフランシスコを襲った地震と火事の大災難の際、彼らは東洋人を血祭りにあげ略奪と暴行を加えました。米国人は、ダーウィンの学説を自分たちの都合のいいように、もじって利用したのです。彼らは、生存競争で最適者として生き残ったのであり、こうしてかれらは「自然の選択作用」によって頂点に位置し、支配階級となったのであった。これが、あるひとつの階級がほかの階級を、またあるひとつの人種がほかの人種を支配することを根拠づける理由になり、帝国主義と白色人種の優劣の究極の証明となった。それによって、西洋の多くの人びとは、かれらが圧制をほしいままにし、乱暴で、暴力を発揮すればするほど、それだけ人間としての価値の基準からいっても、高いものであるかのように思いこんだ。
2026年07月07日
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十九世紀に入っては、西欧という一つの歴史的世界に於てドイツとフランスとが対立しましたが、更に進んで、全世界的空間に於て、ドイツとイギリスとの二大勢力が対立するに至りました。これが第一次世界大戦の原因です。十九世紀は国家的自覚の時代、所謂帝国主義の時代であった。各国家が何処までも他を従えることによって、自己自身を強大にすることが歴史的使命と考えました。そこには未だ国家の世界史的使命の自覚というものには至りませんでした。国家に世界史的使命の自覚なく、単なる帝国主義の立場に立つかぎり、階級闘争と云うものを免れません。
2026年07月06日
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1916年に政治学者の吉野作造が論文「民本主義」を発表し、学問・芸術の世界に多大な影響を及ぼしました。これを契機に日本の学問・芸術は質的に大きな発展を遂げ、国家や政府から独立し、自由と個性を追求する雰囲気が全分野にみなぎりました。この「民衆文化」の開花がいわゆる「大正デモクラシー」であり第一次世界大戦による産業の拡大と相まって本格的な労働運動・社会主義運動が展開されました。
2026年07月03日
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1912年7月30日から1926年12月24日までの14年5か月の大正時代の日本経済の発展は著しかった。人口も国家予算も世界に類例のない拡大を見せました。この発展の契機は第一次世界大戦にありまた。日本はこの大戦に英・米・仏・伊・露などの連合国の側に立って参戦しました。ほとんど出兵することもなく「戦争景気」を享受し、支那における権益も手に入れたのです。1919年のベルサイユ講和会議に戦勝国の一員として参加し、1920年に設立された国際連盟には英・米・仏・伊とともに常任理事国となって「世界の五大強国の一つになったのです。
2026年07月02日
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明治時代にできた大日本帝国憲法は「天皇に絶対的な権力」をもたせていましたが、大正時代にはいると、多くの学者やジャーナリストがこのような専制的体制を批判し、より民主的な政治を要求する声が高まりノました。この民主化運動の先頭にたったのが美濃部達吉と吉野作造で、『中央公論』『文明評論』などの雑誌や『朝日新聞』『毎日新聞』などがこれを支持しました。具体的には、天皇権限の制限と国会権限の強化の必要をとき、これを政府に要請しました。また、経済界では、新興資本家が自由な経済活動をもとめ、農村から都市へ流入した労働者も、政治の改善を要求するようになりました。このような民主主義運動の高まりは、当時の日本の産業の発展とも関連しており、大正デモクラシーといいます。
2026年06月11日
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英語の文献では日朝併合には「アネクセーション」という言葉を使っています。イギリスのスコットランドとイングランドがアネクセーションであるのと同じですね。朝鮮について「植民地」という言葉を使うのは反対でね、「コロナイゼーション(colonization)」というのは植民地から収奪することです。日本は逆に朝鮮に資金を出して支援した。だから「合邦」、つまり「アネクセーション(annexation)」なんです。歴史というのはなるべく異なった見解から多数書かれるべきで、自分はどこの国の人間で宗教はこうだから、こういう立場から書くと明確にしなければならない。日本人もそろそろ、「われかくのごとくに世界を見たり」という世界史を書いたほうがいい。西欧は現在の生態系や自然環境の破壊を生み出した。それにかわって日本文明を世界の基準とすべきだということですね。いわば西欧の「キリスト教的世界観」から、日本の「アニミズム的で汎神論的な世界観」への転換を提案すべきです。
2026年06月10日
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黄禍論(おうかろん/こうかろん、独:GelbeGefahr、英語:YellowPeril)とは、19世紀半ばから20世紀前半にかけてヨーロッパ・北アメリカ・オーストラリアなどの白人国家において現れた、黄色人種脅威論。人種差別の一種である。フランスでは1896年の時点でこの言葉の使用が確認されており、ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世が広めた寓意画『ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な宝を守れ(ドイツ語版)』によって世界に流布した。日清戦争に勝利した日本に対して、ロシア・ドイツ・フランスが自らの三国干渉を正当化するために浴びせた人種差別政策で、続く日露戦争の日本勝利で欧州全体に広まった。黄禍論で対象とされる民族は、主に中国人、日本人である。とくにアメリカ合衆国では1882年に制定された排華移民法、1924年に制定された排日移民法など露骨に反中、反日的な立法に顕われ、影響が論じられる。
2026年06月08日
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「明治後期は武士と封建制を発見した第一段階といえる。『西欧の発見』のなかに世界との同居を確認したところから、第二段階は特殊日本的な側面への評価がなされる時期である。大正―昭和前期に及ぶこの段階は『日本の発見』に焦点がすえられた。これらの議論から、「武士」「貴族」「中世」「封建制」など、「武士道」にまつわるさまざまな概念は「国家主義」対「世界主義」、「国粋保存」対「脱亜入欧」といった対立軸を基調とする明治日本という特定の時代と場所においてまさに「創出」された、決して自明の概念ではないということが明らかとなろう。「武士道とは、即ち士林の輩の必ずや実践すべくして、又た絶えず此れが遵法を誨へられたる倫理の綱領なり。」「武士道とは日本社会の倫理だったのです。一言で言うなら、日本の倫理の理想が、それと起源を共にする武士階級の人々の手から、一般の人民たちに広まって、武士道を形作ったのです。
2026年06月04日
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東郷平八郎(1848年1月27日〈弘化4年12月22日〉- 1934年〈昭和9年〉5月30日)元帥がロシアのバルチック艦隊を打ち破ったことが西洋主導の植民地主義の風向きを変えた。日清戦争では初戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(高陞号事件を含む)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍する。威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となるが、戦時編成のため実際には連合艦隊第一遊撃隊司令官として澎湖島攻略戦に参加。日清戦争後に一時病床に伏すも、明治32年(1899年)に佐世保鎮守府司令長官となり、同34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任した。日露戦争では連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、その名を広く知られることとなった。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、国民の尊敬を集めた。
2026年06月03日
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多くの日本人はセオドア・ルーズベルトを親日家だと信じている。ホワイトハウスに畳を入れて柔道をやったとか、日露戦争では継戦能力のない日本のために講和の労を取ってくれたとか。しかし彼の本音はまったく違い、日本を叩き潰すことにあったのです。ロシアから一銭の賠償も取れない講和を押し付けるルーズベルトを本気で恩人と思ったりする。しかしルーズベルトの思いは一つ。米国にとって脅威の日本が賠償獲得でより強力にならないようにすることでした。反日という彼の衣鉢を継いだウッドロー・ウイルソンは日本を弱体化するために国際社会からも締め出そうとしました。彼は第一次大戦のパリ会議で五大国十人委員会を解散し、日本を追い出して英米仏伊の四か国委員会にして日本の発言力を弱め、さらにワシントン会議で日英同盟を破棄させ、日本を孤立に追い込んだのです。
2026年05月29日
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旧軍においては明石元二郎大佐の工作活動に百万円の国家予算を充当して、自由に使わせた。明石大佐は地下組織のボスであるコンヤ・シリヤクスなどと連携し、豊富な資金を反ロシア勢力にばら撒き、反帝勢力を扇動し、日露戦争の勝利に貢献しようとした。当時の国家予算が2億5000万であったことから、渡された工作資金は単純計算では現在の2000億円を越える額であった。明石の活動に国家的支持が与えられていたことがうかがえる。
2026年05月28日
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日本海海戦における日本の圧倒的勝利は、世界中を驚かせました。戦争遂行に自信を無くしたロシア軍は国内の革命運動もありアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の斡旋の講和会議を受け入れ、1905年9月にポーツマス条約を締結した。条約により日本は朝鮮の支配権をえました。ヴィルヘルム2世はアメリカ合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領に対し、日露戦争が黄白人種間の人種戦争であることを訴えた。1905年9月5日に日露戦争の講和条約であるポーツマス条約が締結された際には、翌9月6日の『ニューヨーク・タイムズ』紙のインタビューにてヴィルヘルム2世はドイツ外交当局の意図を超えて黄禍を訴え、日露戦争の勝利によって列強間の門戸開放政策を崩しかねない日本をアメリカ合衆国の力で対抗させようと試みている。
2026年05月27日
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一九〇二年一月三〇日、日英条約は調印された。アジアでの単独の戦いに一締約国が介入させられたとき、各締約国は中立を守る。ただし、どちらかが二国との戦争に巻き込まれたら双方はお互いの支援を行う。英国との条約が、ロシアの同盟国フランスの手足を縛ることを信頼して、一九〇四年、日本はロシアの海軍基地、旅順港に奇襲をかけた。怒りに燃えたツァーリは、報復のためバルティック艦隊を回航させた。バルト海から北海、大西洋を南下して喜望峰をまわり、インド洋に出た艦隊は、朝鮮と日本を分かつ対馬海峡で東郷平八郎提督の待ち伏せに会い、壊滅した。ロシア側でウラジオストックに到着できたのは、一隻の小さな巡洋艦と二隻の駆逐艦だけだった。日本は二隻の水雷艇を失った。日本にとって、スペインの無敵艦隊(アルマダ)沈没に匹敵する大勝利であったが、西欧列強としてはアジア人から蒙った史上最悪の打撃となった。
2026年05月26日
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しかし、ほかの歴史家たちは、一世紀にわたる英米の確執の解消に英国が主導権をとったことを歓迎し、「偉大なる和解」と呼んだ。ベルリン生れのエール大学の歴史学者、ヘイジョ・ホルポーンは、緊密な英米関係の構築を、多分「世界史の観点からみて、英国外交の一大成果」と評している。アメリカが平穏になると、英国はアジアに向かった。朝鮮を脅かす在満洲のロシア陸軍、及び旅順とウラジオストックにいるツァーリの海軍を目の前に、日本は、ロシアの同盟国、フランスとバランスを保つ同盟関係を必要とした。ドイツは適切ではない。皇帝ウィルヘルムは東洋人を嫌い、徹底的に「黄禍(イエロー-ペリル)」を叫んでいたからだ。米国を見ると、ロシアが満洲で動いたとき、その門戸開放政策は災厄と脅威をもたらすことが証明された。英国が残った。日本人は英国人を、島国の国民でありながら世界の最大の帝国を築いた戦士の国民として賛美していた。
2026年05月25日
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十九世紀が終わりに近づくにつれ、英国は古いライバルたちのご機嫌をうかがい始めた。最初に接近したのは米国である。欧州列強のなかでイギリスだけが、一八九八年の米西戦争で合衆国を支援した。次にロンドンは、アラスカの国境問題をアメリカ側が有利になるよう解決した。五十年前に調印されたクレイトン=バルワ一条約の見直し交渉を始め、パナマ横断の運河の建設、運営、防衛の排他的権利をアメリカに譲った。その上で英国はカリブ海から艦隊を撤退させた。英国の歴史家、コレルリ・バーネットは書いている。「大西洋から太平洋への英国艦隊の経路は、今や合衆国の好意に委ねられている」、そしてアメリカのスペインに対する勝利で、「アメリカの植民地となったフィリピン、キューバ、プエルトリコは、アメリカ側に立つライバルたちのための保護関税で、徐々にイギリスの商人を閉めだす方向に向かっている」。
2026年05月22日
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日本は日清戦争には勝ったものの三国干渉を受けて、単独で自国を防衛することは難しいと考えた。政府としては英国と同盟するかロシアと同盟するかの選択をせまられた。ロシアと同盟しても、いずれロシアは満州を占領し、南下して朝鮮をも獲得するだろう。他方、英国はすでに香港を根城に清の南方に商圏を獲得しているのでそれ以上の領土的野心はないと読んで日英同盟に踏み切りました。英国も、ボーア戦争で疲弊しており東アジアにおけるロシアの南下を牽制するために日本の力を利用したいという思惑がありました。
2026年05月21日
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日本が徳川の215年にわたる鎖国を経て、開国に踏み切った時、眼前にあった外国は米、英、露、仏の四か国でした。ロシアは西欧列強と異なり、海洋でなく陸路東進して領地を拡大しました。ロシヤがこの植民政策で最初に直面した巨大国家は清国です。清国に敗れ、支配したアムール川流域の支配権を放棄したのは1689年の「メルチンスク条約」です。しかし18世紀に入るとピヨートル大帝の下でロシアの近代化が促進され海運力も強化され対日通商の必要性も拡大しました。
2026年05月20日
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下瀬火薬(しもせかやく)は、大日本帝国海軍技師の下瀬雅允が実用化した火薬(砲弾の炸薬)で、日露戦争当時の帝国海軍が使用し、日露戦争における大戦果の一因です。成分は純粋ピクリン酸ですが、砲弾への充填方法に特徴があります。具体的には、金属と反応するピクリン酸を、腔発が発生しないように、かつ大量に砲弾に充填する技術を確立しました。火薬は1888年(明治21年)に実用化され、1899年(明治32年)には大量生産が開始され、日露戦争(1904年〈明治37年〉― 1905年〈明治38年〉)で大きな役割を果たしました(当時、他国海軍の用いていた炸薬は黒色火薬や綿火薬(ニトロセルロース)ですが(ロシア帝国海軍は綿火薬を用いていました)、下瀬火薬は、それらより爆発力が強くピクリン酸は、鉄と接触すると、ピクリン酸塩を生成して爆発し爆発の際には摂氏3千度の高熱を発します。日露戦争当時の世界で最大の爆発力を持つ炸薬であった下瀬火薬は、いわば帝国海軍の秘密兵器でした。大日本帝国海軍が砲弾に下瀬火薬を14%充填していたのに対し、ロシア帝国海軍は綿火薬を2.5%しか充填していません。
2026年05月12日
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日本は列強の帝国主義からの自衛上、やむなく日清・日露戦争を行なったのです。ロシアは露清の撤兵条約にもかかわらず満州からの撤兵を渋ります。列強環視の中、日英同盟に対して露仏同盟をもって対抗したのです。日本の戦運は予想以上によく正確な戦略的判断により、陸の奉天大会戦、海の日本海海戦の勝利によって日露の戦は終りました。日露戦争の真の意義は唯単に日本が勝利したことにあるのではありません。日本史的に言えば、この戦によって日本は独立国家としてのゆるぎない地歩を世界に認めさせた。アジア史的に言えば、欧米支配下にあったアジアの被圧迫民族に独立解放への自信と勇気を与えたのです。更に世界史的に言えば、近代に於て有色人種が白色人種に自己主張を行い、見事にこれを貫徹した最初のケースであった。人類史的に言えば、人種の色による差別撤廃への第一歩でした。この歴史的な大きなうねりは、日本の若者の鮮血によってあがなわれたのです。露満国境を画する黒竜江の線に於て、支那が断乎ロシヤの南下を拒否しませんでした。鴨線江の線に於て朝鮮民族がロシヤの南下拒否に決然身を挺することもありません。残念ながら彼等は一歩も動かなかった。流されたのは日本の若者の血であり、日本の若者の死を決した営為は歴史を動かす大きなうねりとなったのです。
2026年04月24日
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北清事変における北京の籠城戦での芝中佐の防御計画、戦闘指導によって南城壁、イギリス公使館、ドイツ公使館は危急を救われ全籠城軍の最も頼りとする守りの主柱でした。柴五郎は日本だけでなくイギリス、ロシア、フランス、オーストリア、ドイツ、イタリア、ベルギー、スペインなど多くの国の政府から勲章の授与があいつぎました。これを機会に、駐日公使のマグドナルドは日英同盟の原案を示しました。
2026年04月22日
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一九〇九年四月、米国は英独仏による湖広鉄道借款計画を知りました。タフト政権はこれを重視し英国と清国に計画への参画を要求しましたが、一九〇九年六月英国がこれを拒否し、清国も無視しました。日本もこの計画に関心を強めました。北清事変後にロシアの南下に直面した日本は、日露共商か日英同盟かのいずれかを選ばねばなりません。孤立を誇った英国もロシアの南下を防ぐのに日本と結ぶ必要に駆られて日本と同盟を結ぶに至ります。同盟締結には北清事変における柴中佐の活躍も大きな影響を与えました。
2026年04月21日
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北清事変の危機にあたって北京にあった各国外交団は、義和団の包囲の危機に対し連合軍を組織し、日本もこれに出兵し北京を陥れました。清国は翌年、議定書を結び1・責任者の処罰、2・賠償金の支払い、3・各国公使館への守備兵の常置、4・通商航海条約の改訂を約束しました。これにより支那の植民地化は決定的になりました。
2026年04月20日
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五月末になると、形勢いよいよ急迫したので、列国は天津に停泊中の軍艦から、居留民保護のためそれぞれ水兵を北京に送りました。その数は各国合わせて士官・水兵四百数十名です。六月に入ると北京・天津間の鉄道が破壊され、北京の外国人は包囲のなかに孤立した。日英露独などの連合海兵二千は、英国司令官シーモアを指揮官として太沽を発し、北京救援に向かったが、義和団は銃弾の雨の中をものともせず、弾があたっても死なないと信じて猛進し、大胆な突撃をおこなって陸戦隊を立往生させました。この間に天津居留民も義和団の包囲にあいました。北京でも各国の護衛兵と義和団との衝突が見られるようになるが、清国官兵はこれを傍観しているだけでした。ところが六月中旬、業をにやした外国軍艦が天津の清国砲台を砲撃し、日本兵が先頭にたってこれを占髄すると、清朝の態度は急速に硬化しました。義和団を積極的に利用し、国民を鼓舞し、国を挙げて侵略諸外国と戦う決意を固め、突然、開戦の詔を発したのです。
2026年04月10日
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義和団がいよいよ北京に迫った五月の末、北京公使団は大括沖合に停泊中の各国艦隊に救援軍の派遣を求めました。五月三十一日、各国艦隊は第一回援軍約四百名を北京に送りこんだ。続いて、第二回増援軍二千五十五名を、英国極東艦隊司令長官E・シーモア中将の指揮下に編成し、六月十一日、天津から列車で北京に向けて出発させることにしました。その報告に接した各国公使館は、増援軍は途中、鉄道破壊の個所だけは歩いてくるのだろうとの見込みをつけ、十一日早朝、北京城外の馬家舗駅に出迎えを出しました。しかし、四時間待っても着かなかったので、一同は諦めて引き揚げました。日本からは軍艦・笠置の陸戦兵が四百名乗る予定になっていました。この日の午後三時、西は再び杉山を迎えに出したが、他の公使館は二度目の迎えはもう出さなかった。杉山は清国人のお伴を一人つれて馬車で出かけ、途中、永定門を出たところで、百名くらいの清国騎馬兵がたむろしているのに出会った。不運な出会いでした。通り過ぎて行く杉山を馬で追いかけてきた清国兵数名が彼を馬車から引きずり下し、引き立てていって斬り殺したのです。
2026年04月09日
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一九〇〇年北京の空気は異様に熟していた。山東省の一画で蜂起した義和団が、北京に刻々と迫っていたからです。六月十一日(月)モリソンは北京外人クラブにいた。ロシア公使館のクルペンスキーが興奮して入って来て……「日本人が殺された」といった……急いで外にとび出した私は、ジャン・ルノードにぶつかった。ルノードは「外国人が一人、永定門で首を半分切り落されて倒れている」といった。モリソンはアメリ公使館に急いだ。そこへ杉山に同行した馬丁が、息を切らせて駆けこんできた。西門から命からがら逃げ戻ってきたという。永定門は閉ざされたとのこと。このニュースは楢原(陳政二等書記官)が確認した。殺されたのは杉山彬。四十歳の日本公使館員で、通訳をするため使いに出されていたのだ。私は今朝、彼が出て行くところを見た。山高帽に燕尾服というまるでパリを訪問する時のようないでたちだったので、からかってやったことが頭をかすめる。日本の公使(西徳二郎)は遺体収容をしなかった。先ほどの報告によると、遺体は切断され、心臓はえぐり出されて董福祥のもとに送られたとのこと。私の清国人ボーイは「死体が半分むき出しになっていて、子供たちが棒でつついているのを見た」といった。
2026年04月08日
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アメリカは立ちおくれてではあったが、一八九九(明治三二)年太平洋の拠点となるハワイを合併し、翌年九月には国務長官ジョン=ヘイが清国の領土保全・門戸開放・機会均等主義の名のもとに門戸開放主義を各国に宣言してアメリカ独自の立場をたてた。かくて三国干渉の後わずか三年足らずの問に清国の要所は事実上列強に分割されてしまったのである。この列強の侵略に対して清国の民族的な反抗が急激に高まって、同年山東省の一角に起った義和拳(義和団)の暴発は「扶持城洋」のスローガンのもとに熱狂的な排外運動を起して、翌年春には直隷から天津・北京附近に迫り、ついに北清事変の勃発となったのです。
2026年04月07日
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すでにイギリスは幕末以来清国の一角に根拠地を獲得し、またロシアは北方から南下しつつあった。日清戦争後の三国干渉を契機に列強の清国分割に対する活動は熾烈化して、ロシアは一八九六(明治二九)年日本と議定書を交わしながら(この年山縣有朋がロシアにおもむいてロシア外相ロバノフと朝鮮問題について協商を遂げた)、一方、清国に迫って霹清密約を結んで、東シ鉄道の南満支線敷設権を得たが、これは要するに日本に対する攻守同盟であった。ついで日本に代って旅順-大連を租借している。ドイツは、膠州湾の租借権その他を、フランスは広州湾の租借権その他を、またイギリスはロシアの南下を防ぐ名目で威海衛・九竜の租借権を得ました。
2026年04月06日
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桂内閣の出現は藩閥政府の更生であった(明治三四年六月成立)。しかしその翌年には、日英同盟を締結して外交上の功績をたて、議会対策には、政友会と妥協を策して海軍拡張のために第二次山縣内閣の五カ年期限付の地租増徴の延期をはかった。これは桂内閣の死命を制する問題であったが、はたして伊藤は大隈と共同戦線を張って政友・憲政本党両党が反対の旗色を明らかにしたので、政府は窮地におちいり、桂は解散を行ったが、結局伊藤との妥協がなって、地租増徴継続案を撤回して、海軍拡張の財源は行政整理と公債政策にもとめることに変更し、かろうじて議会を切りぬけた。しかし桂は、伊藤が元老と党首の両刀を用いたことに苦しんでついに辞表を提出し、そのあげく伊藤は政友会総裁を西園寺公望にゆずって枢密院議長となった。政友会はこの更迭によって陣容を改めたが、各政党も多年の政争に疲労していたところに日露戦争が勃発して、一時政治的休戦の時期に入った。
2026年04月03日
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多くの支那人の目には、外国に対して利権を譲渡する政府の行為は国益を裏切るものとうつった。こうして満州王朝清の転覆と、純粋に支那人からなる愛国的な政府の樹立をめざした秘密結社が、ことに学生やその他の青年グループのあいだで急速に拡がりはじめた。一八九八年に皇帝が短期間ながら試みた急進的な改革が、みずからの特権的地位を失うことを恐れた満人廷臣らの妨害によって失敗におわったとき、この革命的なナショナリズムの理念は新たなはずみをつけた。支那という国の無力さに対して、もうひとつ別の形での激しい対応が生まれた。それは極端に排外主義的な半秘密結社義和団による暴動という形をとった。そのメンバーは西側の人々から「ボクサー」と呼ばれたが、理由は彼らが拳法を修得し、それを武器にしていたからであった。義和団が宣教師をはじめとする憎むべき外国人たちをつぎつぎと襲撃するに及んで、西欧列強諸国は連合軍を組織して北京を占領し(一九〇〇年)、くわえられた損害に対する賠償金の支払いを支那側に認めさせました。
2026年04月02日
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一八九六年以降、朝鮮はロシアと日本の出先機関のあいだの争点となり、ともに帝国主義的進出をめざしていたこの二国は激しく対立して、一九〇四年には戦争が勃発しました。ここでも日本がロシアを巧みに打ち破ったことは、世界中を驚かせました。講和条約が締結され、朝鮮に対する日本の独占的優越権が認められました。朝鮮の民族主義的運動がさかんになると、日本はその鎮圧を口実にして最後の朝鮮王を廃位し、朝鮮半島を併合しました(一九一〇年)。日本がわずか一世代のあいだに、支那やロシアの軍事力とは段ちがいな陸海軍を装備できたという事実をみせつけられて、いかに保守的な清朝の役人といえども激しいショックを受けました。しかし、国の弱さに取り組もうとする努力も、効果をあげることはできなかった。その理由のひとつは、競い合うヨーロッパ列強諸国と日本の出先機関が支那政府に群がり、特別利権の譲渡をはじめとするさまざまな利益を要求しはじめたからでした。
2026年03月31日
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西欧列強によって味わわされた屈辱よりも、この清国の誇りを大きく傷つけたのは、朝鮮で日本軍に敗れたこと(一八九四-九五年)でした。支那にとって属国のひとつであった朝鮮は、地理的に支那の首都に近いため、とくに重要な地域とみなされていました。だが一八七〇年代に日本が朝鮮に関心を抱きはじめ、ついには日本の傀儡政権を成立させたため、これに支那が介入しょうとして、結局は日本軍によって壊滅的敗北をこうむりました。勝った日本の陸海軍にしても、最新の西欧の兵器や軍隊組織に適応する時間的余裕があまりなかったのは、支那と同じでした。平和条約によって、支那は朝鮮からの完全撤退を余儀なくされ、台湾のほか、支那沿岸沖のいくつかの島を日本に割譲することになりました。さらに日本は支那本土にも領土(遼東半島)を確保したほか、賠償金も手に入れました。こうして日本は、ヨーロッパの帝国主義列強とならんで支那を苦しめる立場に立ったが、それとともに太平洋地域で独自の帝国主義的進出をはじめました。
2026年03月30日
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日露戦争は「それまで二百年の長きにわたってアジア・アフリカを統治してきた西洋人は、無敵で神のような存在と信じられてきたが、実際はそうではないことを日本人は全人類の面前で証明してしまった」とトインビーに言わせました。それはまさに歴史的業績でした。大東亜戦争後、日本経済は驚異的な成長を遂げ先進国としての地位を獲得しました。日本の近代化は終焉を迎え、貧しさによる悲しみは少なくなりました。反面、国民が一丸となって一つの目標に向かうというイデオロギー信奉の楽しみも去りました。不幸の質が変わりました。貧しさによる悲しみの代わりに豊かさによる楽しさを得た半面、国民的な国家目標の実現という楽しさを失い、目標の喪失という寂しさに変わったのです。先進国の悲哀を味わっているのです。成熟社会では従来の「国家権力対反権力」という単純な図式は成り立ちません。かわりの「パン(利益)とサーカス(楽しみ)」を先進国の人々は求めています。
2026年03月27日
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この時代の発端は、帝国主義のイギリスとロシアの戦いで、戦争の時代だったのです。イギリスが支那にアヘン戦争をしかけ、香港を植民地にしました。それ以後、イギリスは北に向かってアジアでの侵攻を進めたのです。一方、ロシアは南に不凍港を求めて侵略しようとしていたのです。一八九一年、シベリア鉄道建設に着手したのも、その一環であったといえます。接している国は中国ばかりでなく、朝鮮や日本だったのです。それに対抗するため、明治二十七(一八九四)年、日英通商条約を結んだのです。支那の支配力が強かった朝鮮は、しばしば日本と対立し、場合によっては日本が危うい立場にならないとも限りませんでした。朝鮮にも親支那と親日本の勢力があり、お互いに争っていました。それが一八八一年と八四年に朝鮮で起きた事変で、清が支配権を強め、日本を脅かす存在となりました。朝鮮王朝は一八九四年に南部で農民が戦争(甲午農民戦争、東学党の乱)を起こしたときに、その鎮圧のために清に出兵を求めました。日本はそれを危険と判断して、朝鮮に出兵し、日清戦争がはじまったのです。
2026年03月24日
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遼束半島は三国干渉で支那にかえされたが、朝鮮は独立国となり、支那はもはや宗主権を主張できなくなりました。「眠れる獅子」の威力を秘めているかにみえた支那もとくに日清戦争でその弱体をさらけ出した。列強はこれまで支那を商品市場・原料供給地としてみてきたが、いまや資本投下地として注目し、鉄道鉱山などの利権獲得に狂奔した。さらにあらそって支那沿岸の要衝に軍事的経済的基地を租借して自国の勢力範囲ときめた。アメリカは一八九九年支那の領土保全・門戸開放・機会均等の原則を列強に提議し、アメリカなりに列強の独占を打披して支那進出の途を見い出そうとしていました。
2026年03月23日
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この大反乱の指導者太平天国の天王、洪秀全(こうしゆうぜん)は南京城内で自殺し、西欧諸国は支那周辺を蚕食(さんしょく)します。まずロシアは一八五八年塁里江以北の地を、六〇年ウスリー江以東の地を奪いました。ついで中央アジアに進出し、ポハラ(六八年)、ヒヴァ(七三年)コーカンド(七六年)の三国をあわせました。イギリスは八六年にビルマをあわせてインドの一州にしました。これらの地はもと支那の属領または朝貢国だったところですが支那はあまり意に介しませんでした。ところが安南や朝鮮となると話は別です。ここはずっと忠実な朝寅国であったし、より重要な国防上の要衝です。だからフランスや日本がこれをとろうとすると、支那も黙っていません。清仏戦争(一八八四~五年)日清戦争(一八九四~五年)がおこりました。清仏戦争の結果、安南はフランスの植民地となりました。日清戦争の結果、台湾・澎湖島・遼東半島は日本に割譲しました。
2026年03月19日
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清朝による支那支配は、康熙・乾隆の絢爛豪華を誇った盛時をさかいに急速におとろえました。一九世紀をつうじて、内憂外患こもごもいたり、中華の誇りもその実をともなわなくなりました。アヘン戦争・アロー号事件・太平天国の乱がそれです。アヘン戦争に勝ったイギリスは南京条約をむすんで(一八四二年)、香港を獲得し、広州・上海などの五港を開かせました。またアロー号事件で遠征軍を送ったイギリスとフランスはロシアの調停で北京条約をむすび(一八六〇年)、対等の国交と貿易の自由を確認させるとともに、公使の北京駐在、開港場の増加、キリスト教布教の自由を承認させ、イギリスは別に香港対岸の九竜を割譲させました。アヘン戦争による多額の出費と賠償は銀価の高騰となって支那の一般人民を苦しめ、さらに当時あいついでおこった天災によって民衆はいっそう窮乏しました。その結果流民、匪賊となるものがふえ、地方の治安は乱れたが、こうした状態はやがて太平天国の乱となって爆発しました。太平天国の乱は事をおこして三年、ようやく一八六四年に終わったのです。
2026年03月18日
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