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彼らは革新者というよりも、むしろ仲間の考えについていく方でした。文字は読めますが、決してインテリではありません。その見解には昔流儀のところがあったが、反啓蒙主義ではなかったのです。当時の君侯や制度に対し忠誠でしたが、熱狂的ではなかったのです。勉学時代に注入された尊王思想や神道思想の多くを認めてはいましたが、学究とかインテリとかいうものではなく、神道とも儒学とも深い結びつきはありません。西洋の学問や価値については、なおさらでした。彼らは表向きには従う義務のある支配階級が当時直面した経済的難局について、初めはほとんど気づくところがなく、それを深く知るようになったのは、ずっと後年です。彼らの受けた教育が、その地方特有の問題によって制約されていた点は重要ですが、彼らがそれに示した反応は概して同世代に通有のものでした。
2025年11月28日
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以上の一般的叙述を具体化するために、目を全国的な情景から土佐地方に転じ、坂本龍馬や中岡慎太郎が知っていた当時の社会経済事情を見ることにします。土佐でも他の藩と同様、深刻な経済問題から、藩政府は収入を増加するために大胆な改革を企図せざるをえませんでした。この改革は伝統的な利害関係や集団と衝突し、不信と恐怖の状況をうみ出すことになりました。維新の指導者たちが、まず頭角を表わしたのは、この状況のなかからです。西洋に関する知識はまだひろまっておらず、日本の弱体さが曝露されたことは、青年武士たちに強力な刺激として働きました。こうした青年武士の多くは、田舎の指導者群から立ち現われたもので、彼らは上級武士が不在のため、農村地方で支配権を握っていました。勤王党が結成されると、その指導者は神道研究と儒教的忠義観の一種の混合の中で教育されたものたちです。外国からの危険に対し彼らがまず示した反応は、外人排斥でし。これらの点で、坂本と中岡は当時の代表的人物でした。
2025年11月27日
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それは、すでに支那におけるイギリスのやり方に先例の現われている現象です。それはまた、オランダ人が長崎の貿易所からかねて通報していた問題であり、彼らは迫りつつある事態にまじめな警告を発していたのです。この危険の詳細とその諸結果は、いやしくも文字を解するすべてのひとの目に、まもなく明らかとなりました。というのは、〃蘭学者〃が用心しながら事態の重大さを考えていただけでなく、支那で書かれたものも種々流布されて、それは教養ある日本人には和訳の必要がなかったからです。同時にこうした報道はすべて、日本の著述家や解説者の手で適度に単純化され屈折されて、文字の読める広範な日本人大衆の間に急速に伝播したのです。
2025年11月26日
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福沢の場合といえども、その有名な自伝は古い昔の記憶をつづったもので、彼が青年時代の反抗を誇張して書いたのでしょう。福沢の場合には、個人的にも、その成長期をおさえつけていた階級、身分制度を憎むようになるだけのいくつかの理由がありました。いいかえれば、言葉になるのを待っていたあらゆる潜在不満がはっきり表面化するには、何か新しい、並はずれた問題が外部から現われることが必要だったのです。この挑戦となったのが西洋人の到来です。それは、ロシア人に対し北辺諸島の防衛を憂慮した人々が早くから予見していた問題でした。
2025年11月25日
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学者の知的探求心は決して破壊的になどなるものではありませんでした。学者たちは藩や幕府の指令に従順に従っていましたし、思想的にも当時は彼らが自分で儒学の「事物探求」のごく普通の応用と考える範囲内を進んでいました。徳川末期から明治の初期にかけて、「原理探求」を意味する窮理という術語が内容的に変化をきたし、朱子の新儒学的な一般物の研究から、西洋の「科学」を意味するようになりました。冷徹な論理性をそなえていたならば、これは儒学の全体系に疑問をいだかせることになります。福沢の場合がそうです。しかし他の多くのものは、知的経験の区分けをするのがやっとでしたが、西洋の科学より立ちおくれていて理論や方法論などを諭ずる仕事がなかっただけに、比較的容易だったのです。
2025年11月20日
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個々の学者は西洋の事物を研究していても、その根は伝統的な儒教思想や封建的な価値判断にしっかり立脚しているのが普通で、その洋学に志した動機も、反乱と挫折の鬱積した感情のはけ口を求めるなどといったものではなく、むしろ新時代の技術家として興味ある仕事を約束してくれそうな分野に、生活の道を求めただけのことでした。当時の時代の本質は、彼らには明らかではありませんでしたが、はっきりしていたのは、医術や軍事における西洋応用科学の知識を身につけておけば、国が人材を求めているときに競争上有利な立場に立てるような、そういう時代が来つつあるということでした。大方の書生の場合、こうした実際上の利益から出発して、それがやがて真の知的探求心に導いたのです。
2025年11月19日
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どんな後援者といえども、幕府以上に大きな利益を引き出せるものはなかったし、他地域の学者を惹きつけ報酬を与える能力の点でも、幕府の右に出るものはありませんでした。大阪の緒方洪庵塾(福沢諭吉はここで学んだ)でさえ、有名な後援者をもたないために、一層慎重に用心深くしなければなりませんでしたし、蔵書や資料類も後生大事にかかえこんでいました。それにしても、幕府の研究センターの便益は彼らにも閉ざされてはいませんでした。福沢は後年の回想のなかで、彼が成長期をすごした徳川体制に対し軽侮のありったけを示していますが、その彼も、幕府の研究施設の図書を利用できたし、そのうえ幕府の仕事についてもいたのです。
2025年11月18日
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一八五三年の第一回ペリー来航から、一八五八年のハリスとの通商条約交渉、一八六七年の徳川軍事政府の倒壊までの知的なまた政治的な激動が明治維新を醸成したのです。維新は日本を民族的な統一国家に導き、国際的平等とアジアの指導権獲得に努力させることになりました。日本の指導者たちの成功は、アジアの隣接諸国に対し、ちょうどフランスの革命が西欧諸国に及ぼしたのと同じくらい刺激的な影響を与えました。孫逸仙、煉有為、金玉均、エミリオ・アギナルド、スバス・チャンドラ・ボースその他の人々は、西欧の力と才能に対しアジア人として初めて対等の立場を日本にうちたてることを可能ならしめた、あの推進力と統一を、彼らの国にもつくりだしたいと願った。これらの人々は日本の成功を、維新を指導した多彩な献身的な民族主義者に帰していました。その結果、維新の志士たちは、その行動に追随しようと熱望するアジアの人々にとって英雄です。日本国内では、明治推新指導者は新時代の政治家の理想的タイプの範例ともなりました。尊王の大義のためにすべてを捧げた理想主義的な、個人主義的な、勇敢な愛国者-その名は志士です。
2025年11月17日
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この条約は、日清両国がおたがいに治外法権制度をみとめ、たがいに同一の関税をもうけようという対等なものでした。日清両国はたがいにたすけあい、なかよくすべきだと明示してあり、アジアは連帯して西洋列強のアジア進出に対抗しようとした意図がくみとれます。明治の新政府は、まず、それまで大名によって分割統治されていた藩の制度を廃止し、天皇を中心とした統一国家をうちたてることに全力をつくしました。そして、その新政府の政治体制については、明治元年(一八六八年)の「政体書」で、立法・行政・司法の三権を分立させた近代的な議会政治をめざすことがのべられています。その根本にあるのは、国民が国家の主人公であるという民主主義の思想だったのです。
2025年11月14日
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佐久間象山は、安政五年(一八五八)の四月、日米通商条約の折衝が大詰に達したときに、罰せられて幽閉中の身であるにもかかわらずどうにかして自分の意見を幕府にとどかせようと努力しました。その意見の要旨は、彼自身はこのときすでに開国主義者であるにもかかわらず、アメリカはじめヨーロッパ諸国の非道をとがめて条約を拒絶せよというのです。アメリカは天地公共の道理によって日本の開国を求めるといいながら、般初の来航のときから数々の無礼非道の行為をおこなっている。特に、同じ西欧近代の原理に立っているイギリスが支那の国禁を犯してアヘンを押しっけているのを黙ってみているのは許せない。「英国においてこのような無道がおこなわれているとすれば、西洋諸国が天地公共の道理に従って行動しているとは決して言えない。また逆に、もし西洋諸国が天地公共の道理に従って行動しているのであれば英国があのような無道なおこないをするはずがない」と問いつめろというのです。この基本原則で相手を黙らせておいて、なお他の非礼.不都合を責め、改めてこちらから本国へ使節を派退するからと通告して交渉を打ち切れというのです。西欧諸国との交渉においてこの原則を押し通すことは象山の一貫した主張であって、このかぎりでは、今日からみてもきわめて正しいものです。
2025年11月13日
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佐久間象山(1811年〜1864年)は信州松代藩の兵学者・洋学者・思想家で、勝海舟や吉田松陰など多くの志士に影響を与えました。東アジアの文化世界の東端にあった我が日本では、明治維新後の「明治改革」の初期において、「文明」こそ良きものとされ、近代西欧をモデルとする改革の進行は「文明開化」としてとらえられた。「ちょんまげ頭をたたいてみれば、旧弊固陋(きゆうへいころう)の音がする、ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」などというざれ歌まで流行し、手放しで「文明」が礼賛されました。もっとも、佐久間象山の「東洋道徳、西洋芸術」に始まり、「和魂洋才」にいたる、いわば近代西欧の技術と固有の精神を対比する論もあります。そしてその後、欧米列強との競争が職烈化し、様々な面での遅れと比較劣位が自覚されてくると、今度は欧米の浮薄な文明に対し固有の精神文化が鼓吹(こすい)されるようになり、ついには第二次世界大戦末期の「竹槍精神主義」にまで堕するにいたったのです。
2025年11月12日
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肥後の学者横井小楠(一八〇九-一八六九)は、百五十石どりの肥後藩士の二男坊です。名は時存、通称を平四郎といいました。秀才の平四郎青年は、現実の政治と無関係な官学にあきたらず、当然、知行合一をとく陽明学を独習しました。したがってその学問的なながれからいえば、中江藤樹、熊沢蕃山、佐藤一斎、大塩平八郎(中斎)、佐久間象山、高井鴻山などの人材水脈につながります。彼がもっとも評価したのは、水戸藩の藤田東湖、幕臣では川路聖謹の二人です。小楠は、楠木正行(父正成を大桶公、正行を小楠公と称す)の人物を慕ってつけたものです。国是三論」にて日本の近代化の方向性を示しました。国是三論はこれは直接的には越前藩の「国是」としているが、その内容は日本国の「国是」を論じたものとなっている。その『国是三論』は、(天)富国論、(地)強兵、(人)士道、の具体策が論じられています。小楠は、西洋諸国が国内において民主的に公共の原理で動く方向に向かっていながら、国際的には「四海兄弟」という理念を掲げつつも、実際にはそれぞれの国家の利益を求めて争っているという国際関係の現実はよく知っていました。
2025年11月11日
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江戸時代末期に日本人はアジアにたいしてどのような考えをもち、そして明治政府は当初どのような対外政策をもっていたのでしょう。幕末にすでにアジア侵略をとなえていた人もいましたが、西洋の東洋進出にたいして、支那と日本がおなじ利害でむすばれており、アジア人は協力して西洋を撃退しなければならないという考えは、幕末に根強くあらわれていました。幕末の代表的な志士である横井小楠は「支那と日本とは唇歯(くちびると歯のように密接な関係でむすばれた間柄の国)である。支那の衰退を目前に見ながら、座視すべきではない」といっています(一八六○年の『国是三論』より)。いっぽう、新しい明治政府のアジア外交の最初の重要な成果は、一八七一年(明治四年)に清国とむすんだ日清修好条規です。
2025年11月10日
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アジア人の抵抗は、太平天国とセポイの反乱だけにかぎりません。たとえば、ベトナムへ侵略したフランスは、一八五八年ベトナム人のすさまじい抵抗にあって、一時全滅しかけたほどです。清がイギリスに敗れ、香港を割譲し開国したという情報は、「オランダ風説書 (ふうせつがき)」をとおしてわが国にただちに知らされ、幕末の指導者や知識層に深い衝撃を与えました。しかし、朝鮮では危機意識がうすく、9ヶ月もたってから、報告書が提出された。その内容も簡単なものだったので、指導者層も国際情勢の急変に気がつきませんでした。戦争に敗れた当の支那自体も、日本人を驚かせたほどの衝撃は受けなかったのです。支那は古代から何度も異民族に侵入されて、その支配を受けることも多かったが、支配する異民族を逆に自国の文明の中に取り込み、同化させてしまう傾向が強かったのです。現に、清は満州人の支配する国です。支那人は異民族に支配されることに慣れ、支配されても自分は変わらないという自信をもっていました。西欧列強の進出という、今度ばかりは問題の質が少し違う重大事にあっても、彼らは同じ姿勢を崩そうとはしなかったのです。
2025年11月07日
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反乱は一八五七年五月北インドのメーラト市におこりましたが、ついに北インド全域と中央インドをおおう大規模なものとなり、二年あまりにわたって、イギリスをあわてさせました。王族も、地方の有力者も、また宗教者も、そして多数の農民がこの反乱にくわわっています。広大な農村地域で人民が蜂起し、多くの都市でも民衆が立ちあがりました。そして一時イギリスの支配機構が全面的なまひ状態におちいりました。しかし、四か月のたたかいののち、九月にデリーが陥落し、また各地の闘争がばらばらであったために、しだいにイギリスに制圧されてしまいました。旧支配層には、立ちあがったセポイや住民のエネルギーを組織する能力も、軍事問題を処理する能力もなかったので、失敗したのです。しかし、それでも農村では散発的なたたかいが長いあいだつづきました。たたかいは一八五八年後半からゲリラ戦となり、五九年半ばについに鎮圧されてしまっています。
2025年11月06日
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太平大国のたたかいとほとんど同時におきた、インドのセポイの反乱についてのべます。セポイの反乱は一八五七年に北インドにおきた、イギリスへの反抗のたたかいでしたが、支那の太平天国のように統一された行動としておきたものではなく、場所によって反乱の形態がいろいろとあり、各地のたたかいがばらばらにすすめられたという、特殊な戦乱でした。共通していたのはイギリスへのはげしい反抗ということです。「セポイ」とは、イギリスの東インド会社にやとわれていたインド人兵士のことです。すなわち、イギリスのインド侵略のためにあつめられた軍隊が、イギリスにたいしてぎゃくに反乱をおこしたのです。
2025年11月05日
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太平天国は革命運動として歴史的に大きな意義をもっています。第一は、異民族・清朝の独裁政権を打倒すべきだという情熱を漢民族に点火したことです。第二に、太平軍の鎮圧に列強が協力したことからもわかるように、腐敗した政権をささえるものが帝国主義者であることを、人びとが知るようになりました。それ以後、支那人は独裁的な清朝から解放されなければならないのと同様に、支那から利潤を吸いとる帝国主義者の圧力もはねかえさなければならなくなりました。また、第三に、まえの二点にもおとらず重要なのは、農民のなかからたたかうエネルギーをほりおこし、将来への遺産として後世にのこしておいたことです。支那のしいたげられた農民がついに立ちあがったことは注目すべきであり、二○世紀の支那革命に重要な役わりをはたしたのも農民です。
2025年11月04日
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洪秀全は、一八四〇年から、民衆を啓発して新しい社会を築くための上帝会を組織していましたが、一八五〇年ヒ月、各地から上帝会員を結集させ、ただちに多くの農村で革命運動を展開しはじめました。上帝会の軍隊は一つの農村を占領すると、まず住民をあつめて、反乱の目的を説明し、住民の協力をもとめました。洪秀全は多くの麒村の民衆を組織して太平軍をつくり、広大な占領地に建設しつつあった新しい国を太平天国と名づけました。一八五三年はじめに太平軍は支那本土の中心にある漠口を占領しましたが、このとき太平軍は五〇万人に増加していました。しかし、太平軍があまりに急速に膨張したことと、太平天国の建国をいそぎすぎたため、新しい国をつくるさいの多くの困難を克服することができず、ついに欧米に支援された清朝の軍隊にやぶれさってしまいました。太平大国は高い理想をかかげ、一時は支那本土の半分を席巻したのですが、最後には弾圧されて、ほろんでしまったのです。
2025年10月31日
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一八四〇年から四二年にかけてのアヘン戦争で、支那はイギリスに惨敗し、ますます大壷のアヘンがはいるようになり、支那人を堕落させました。そのうえ、ぼう大な戦費とイギリスへの賠償金の負担が、まずしい農民にかかってきました。そこで農民は、洪秀全のよびかけに共鳴して、太平天国の乱をおこしました。洪秀全は、広東省の一小村に生まれ、はじめ官僚の試験に失敗し、失意のなかに重い病にかかり、その病床で不思議な夢をみました。神様があらわれて剣と印綬をさずけ、「悪魔を全滅せよ」と命じたのです。それから六年後の一八四三年に、洪秀全は『観世良言』というキリスト教の宣教書を読み、キリスト教思想と支那伝統の儒教思想を融合し、公正な社会の実現をめざし、農民のなかに「上帝会」を組織しました。そして、一八八○年に、上帝会の農民二万人が結集し、反乱をおこしました。いちじは揚子江流域を席巻し、五○万の大軍にまで膨張しましたが、あまりにはやく膨張したために、組織固めがじゅうぶんできず、上部組織にもみだれがおき、そこへ英仏軍の援助をうけた政府の奴撃がかかり、一八六〇年に壊滅してしまいました。
2025年10月30日
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太平天国のたたかいをリードした洪秀全は、長年儒教を勉強していましたが、キリスト教に接してのち、エホバの神の前にすべての人が平等でなければならないととなえだしました。「人はみな兄弟であり、田をともにたがやし、ともに食べ、平等ですべての人が満足する」理想社会の実現をさえぎっているのは、人民をくらませる偶像、絶大な権力をもつ皇帝、そして一般人の私心であり、その根底(悪の根源)は清帝国の体制にあるものと、洪秀全は考えました。そして、この人民を搾取する清帝国の打倒に、敢然と立ちあがったのです。
2025年10月29日
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一八五〇年代におきた支那の太平天国のたたかいと、インドのセポイの乱、ならびに一八六八年の日本の明治維新の三つは、アジア近代史をきりひらいた三大民族解放闘争だといわれています。明治維新についてはあとでのべますが、太平天国とセポイの乱は、アジアを見くびっていた西欧の侵略者をおどろかせ、アジア人が(とくに支那人とインド人)近代西欧の侵略に対抗して決然と立ちあがった決意をしめすものであり、これよりアジア解放闘争が開始されたのです。
2025年10月28日
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南京条約によって、支那はイギリスに香港を割譲させられ、賠償金を支払い、また、広州・上海・厦門など五つの港を外国貿易、ならびに外国人居住のために開放することをみとめさせられました。そしてそれは、開港場でイギリス人がひきおこした事件については、支那人に裁判権がないという、支那の主権を無視したものでした。アヘン戦争によって西欧の支那にたいする明白な侵略がはじまったのです。これは支那史にとっても、アジアの歴史にとっても、一つの重大な転機となりました。南京条約から二年後の一八四四年に、支那はアメリカやフランスとも同様な条約をむすぶように強制され、支那の主権はいちじるしく侵害されることになりました。
2025年10月27日
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皇帝の命を受けた清の大臣、林則徐(りんそくじょ)は、イギリス人貿易商から手持ちのアヘン約1300トン(2万3000箱)を没収し、大きな穴を掘って、海水と石灰石を混ぜてそこにアヘンを投入し、化学処理をして廃棄しました。すると、イギリスの軍艦は、「自由貿易」を口実に清国沿岸に発砲し、1840年、アヘン戦争が始まります。イギリスは貿易保護という名のもとに艦隊を派遣し戦争は2年余りも続き、圧倒的な力をもつイギリスの海軍が海上を封鎖して、一八四二年、しかたなくイギリスと南京条約を締結しました。イギリスは香港島を占領し、中国大陸へ進出する足がかりを得ました。
2025年10月24日
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一八世紀後期から一九世紀前期にかけて、インドはイギリスの餌食となったわけですが、イギリスがそのつぎにねらったのは、支那です。一八二〇年に、マンチェスター商業会議所がイギリス下院に、つぎのような請願をしています(マンチェスターはイギリス綿工業の中心都市)。「支那はたいへん富裕で、人口の多いこの国はマンチェスター地区の綿工業にとって重要な市場となることでしょう。」すでに一入世紀末から、イギリスは支那に人体を害するアへンを輸出して、金もうけをはじめていました。その理由は、支那から大量の茶を買うための資金にすることでした。アヘンをつくるケシという植物はインドのギリス州(当時すでにイギリスの植民地となっていた)で栽培され、その実(アヘン)は支那に売られて、支那人のからだを害し、そしてぼう大な金がイギリス(ベンガル総督府)の手にはいっていました。一八二七年には、アヘンによる利益がベンガル総督府の総収入の一二パーセントとなっていました。
2025年10月23日
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さて、イギリスの産業革命が一段落した一九世紀の一八三八年に、イギリスのインド総督は「木綿織布工たちの骨はインドの平野を白くしている」と記しています。世界一の伝統をほこっていたインドの木綿工業は徹底的な打撃をうけ、多数の木綿織布工が失業して、餓死したのです。それはいうまでもなく、産業革命を経たイギリスから、安い綿製品が大量にインドへながれこんだからです。もちろん、インド伝統の手工業はイギリスの機械工業にかなわなかったのですが、インド木綿工業の衰退は、単なる経済競争の結果としてあらわれたものではなく、イギリスがインドの木綿工業をつぶすために、いろいろな経済的な手段をこうじたからです。イギリスは大量のインドの綿を安く輸入し、大量の綿製品をインドにおしつけて、インドの経済社会をひどく破壊しました。産業革命の直前の一七六〇年に、イギリスがインドから輸入した綿は一〇〇万ポンドだったが、一八〇〇年に五六〇〇万ポンド(二万トンあまり)に増加し、さらに一八四〇年には一兆二〇〇〇万ポンド(四億トン)にまで急増しています。
2025年10月22日
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それでもイギリスはたやすくインドを征服することはできませんでした。デカン高原南部のマイソール王国は、一貫してイギリスの侵略に根づよく抵抗して、イギリス軍の進撃をはばみました。一七六九年には、武将ハイダル=アリーのひきいる軍隊が、イギリスのインド東南部の根拠地マドラスにせまり、イギリス軍をあわてさせました。一七八〇年には、アリーの軍隊がイギリス軍を大敗させています。また、一七八三年に、アリーの息子のティプーがまたもイギリス軍をうちやぶり、一七八四年にイギリスはマイソール王国と条約をむすび、イギリスはマドラスできわめて不利な立場におかれました。しかし、イギリスはその後狭滑な手段をもちいて、マイソールを孤立させました。イギリスはまず、マイソールの北部にあるニザム政権と同盟し、つぎに西部にあるマラータ族ともむすび、三方からマイソールを攻略しました。そして一七九九年に、ようやくのことで強敵マイソールを征服することができたのです。
2025年10月21日
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産業革命以前の西欧はアジアから、コショウやシルクや茶などを買い、産業郡部ののちには、工業原料を買って加工し、その工業製品を売りつけるようになりました。さらにイギリスでは、急速に工場労働者がふえ、農業に従事する人がへりましたので、海外から食糧を輸入することになりました。こうして、アジアは工業原料と食糧を供給し、工業製品を販売する市場とみなされるようになりました。そしてそのためのてっとりはやい方法は、アジアを自分たちの植民地にすることです。アジアの植民地として、イギリスがまずねらったのはインドでした。イギリスは、一七世紀はじめからインド進出をくわだてましたが、ムガル帝国が強大であったために、かろうじて三つの小さな根拠地を得ただけでした。ところが、一七三八年にイランの征服王がインド(ムガル帝国)のデリーにせめこみ、ムガルに致命的な打撃をあたえたのちは、情勢がかわってきました。ムガルはいちじるしくおとろえ、インドの各地にいくつかの独立政権(地方政権)が登場してきて、インドはばらばらの状態になったのです。
2025年10月20日
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ロビンソン・クルーソーを書いた鋭い観察者ダニエル・デフォーは、その作品『ヨーク州の西区』の中で次のように書いています。……このように自然の恵みは他の点では恐ろしい国に豊かにめぐみ、実業と国民の安楽のために欠くべからざる二つのものがここには存在し、しかも私は、これに匹敵するところをイングランドのどこにもみたことがない。こんなに誹えむきにできている所は世界のどこにも見当らないように思う。私が言っているのは石炭と最も高い山々の頂きから流れる水のことで、これは神の貿明な御手によって導かれ、今日それが仕えている目的に奉仕させられているように思われる。その目的とはマニュファクチュアのことで、これはもしそうでなかったらやってゆくことはできないだろうし、住民の五分の一はマニュファクチュアがなかったら養えなかったろう。なぜなら土地では彼らを扶養できないからである
2025年10月17日
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だいたい一五四〇年から一六五〇年にいたる期間は、歴史には都合のよい呼び名がありません。従来反対ルネサンスと呼ばれてきましたが、この名はその前の段階に対する反動の程度を、実際そうだったよりずっと大きく見せがちです。この期間に合まれるのは、反対宗教改革〔新教に対抗する旧教側の改革〕およびその視覚的表現だったバロック様式、フランス(一五六〇―九八年)、オランダ・ベルギー地方(一五七二-一六〇九年)、ドイツ(一六一八-四八年)と相次いで荒れ狂った宗教戦争、一五七六年のオランダ連邦共和国(States General of Holland)と一六四九年のイングランド共和国(Commonwealth of England)の樹立です。これらの事件のうち最後の二つが、結局は最大の意義をもつことになりました。この両者は、世界の商業とマニュファクチュアの大半が集中した二つの国でブルジョア階級が政治的に勝利を収めたことを示しています。
2025年10月16日
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産業革命の第一の鍵は、蒸気機関の発明にあります。一七八一年に、ワットはピストンの直線運動を回転運動になおすことのできる、画期的な蒸気機関を発明しましたが、これは万能原動機とよばれています。万能と名づけたのは、すべての機械をうごかすことができるという意味です。とくに注目されるのは、このような蒸気機関のおかげで、一九世紀のはじめに汽車と汽船があらわれてきたことです。歴史のなかにおける産業革命の意義をのべてみますと、第一は「道具↓機槻」への進歩です。機械が道具にとってかわったのです。「手工業→機械工業」というふうにあらわすこともできます。第二は、天然のエネルギーにかわって、蒸気エネルギー(人工のエネルギー)を使用したことです。それ以前の人力・牛馬の力・風力・水力などは、天候に左右されやすく、また時間的にも限界がありました。しかし、この新しい人工エネルギーは、気候や時間にしばられることなく、いつでもどこでも自由につかえしかも、はるかに能率のよいエネルギーでした。
2025年10月15日
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産業革命の最大の特徴は、機械が大はばにつかわれるようになったことです。機械化を推進したのは、蒸気機関の発明でした。ジェームズ=ワットは、水が沸とうしているとき、やかんのふたがうごくのを見て蒸気力を知り、蒸気機関を発明したとのべられています。しかし、じつは蒸気機関はワットが生まれる前から発明され、使用されていたのです。産業のすすんだイギリスでは、一七世紀ごろから、石炭と鉄の採掘量がふえていたのですが、こまったことに、採掘のときにいつも大量の地下水がでてきて、作業を阻害します。それで地下水をくみあげねばならないのですが、そのために、一七一二年からイギリスではそまつな蒸気気機関が使用されていたのです。それはニューコメンの大気圧機関とよばれていました。ワットはこのそまつな大気圧機関を改良してすぐれた蒸気機関にしあげたのです。
2025年10月14日
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イギリスでは、一七世紀末に市民革命が成功し、新興商工業者(ブルジョア)を中心とする勢力が政権をにぎったので、それ以後商工業が順調にはやく発展するようになりました。なぜならば、以前は国土が商工業老にたかい課税をしていましたが、革命以後は、新興商工業者が自分たちの都合のよい法律を制定できたからです。産業界は活気にあふれ、それがまた技術のいっそうの進歩を刺激し、一八世紀後期の産業革命をひきおこしたのです。
2025年10月10日
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一六世紀に薪炭の値段が上るにつれて、ますます多くの石炭が利用されるようになり、その生産は急速に増大しました。一五六四年から一六三四年までの七〇年間に、ニューカッスルからの石炭の年間積出量は一四倍になり五〇万トンに近づきました。これに対応し、石炭をますます深い所から掘り、したがってまた炭坑の排水を容易にすることに、ますます多くの技術上の努力が注がれました。その結果、主に西欧の金属鉱山から採り入れた装置――改良されたポンプと、鉱山から荷車を走らせる木製の軌道が使われるようになりました。実際、石炭は、従来文明に対しまだ伐られていない森林を求めてますます奥地へ進むことを強いた繰り返えし起こる燃料危機を解決することができたのです。その時以来、産業と文明の中心は、炭田地帯へ向かって移動し、少なくともその後四〇〇年間そこに釘づけされることになりました。イギリスに産業の支配権をもたらした要因は、何よりも先ずこのことでした。
2025年10月09日
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鉄の精錬のため森林を伐ったことは、一六世紀にオランダとイングランドを襲った急性の木材危機の多くの理由のうちの一つにすぎません。商業の一般的繁栄は、木材の需要――船・家屋・薪炭・製塩・石鹸製造・麦芽製造・家庭燃料――を高め、その土地の森林容量をはるかに越していました。少しは輸入することもできたが、救いはすぐ手もとの炭坑にころがっていました。石炭はローマ時代以来ノーザンプリアとスコットランドの露天炭層から掘り出されており、すでにロンドンでは海炭(sea coal)として、また大陸でも中世から売買されていました。それはかなりきたない燃料でしたが、市民たちはその使用を禁止するあらゆる法律にもかかわらず燃料用に使うようになりました。
2025年10月08日
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鉄が高価なことからあらゆる技術に加えられていた制約は急速に取り除かれました。しかし多量の鉄を精錬するに必要な木炭の不足という新しい隘路が現われました。サセックスのウィールドのような古くから知られた産鉄地域は木炭の不足から支配権を失い、中心は木材の供給の豊かなスウェーデンとロシアに移りました。実際、鉄は商業と戦争を通じてこれらの国を世界経済にひきいれた要因でした。鋳鉄〔銑鉄〕は先ず武器に使われ、特に青銅の鐘作り技術を大砲に応用できるようになって以来大砲に使われました。イングランドは良い大砲の名声をはやくから獲得し、それは純粋に商売の原則にのっとって売買されました。カトリックヘの信仰の最も厚かったスペイン王の大帆船(galleons)の大砲も不信心者のアルジェ州知事の大帆船(galleons)の大砲も、ともにサセックスで鋳造されたものです。
2025年10月06日
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鉄は三〇〇〇年にわたって小さな塊鉄炉で木炭とともに低温還元して粘り気のある塊鉄にする方法でつくられてきました。中世を通じこういう炉がしだいに大きくつくられるようになり、その送風がフイゴで行なわれ、最後にはフイゴを水力で動かすようになりました。たまたま温度が十分高くなって鉄が熔け、打ち展ばすことができる「ブルーム」〔塊鉄。鉱滓を含んだ海綿状の軟鉄の塊〕が手におえぬ「熊」〔bear銑鉄の塊〕にかわりました。ついで、一四世紀ラインランドではじめて、鉄を炉の前面の床の凹所へ流し出すという考えが生まれました。この凹所はまもなく「豚」鉄〔pig iron なまこ形の銑鉄〕をいれる「雌豚」〔sow 大鋳型〕になりました。この豚銑は最初は精錬が困難で、改良はのろかった。しかし、このやり方が広く知られてゆくにつれて、塊鉄炉は新しい熔鉱炉に取って代わられ、一六世紀の末には、鉄は百ポンド単位(hundredweiht)で打ち展ばされる代わりにトン単位で炉から流し出されるようになりはじめました。
2025年10月03日
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ずっと後にもっと重要意義義を生じた変化が、比較的目立たない物資とくに鉄の生産方法に、ほとんどそれと気づかれずに起こっていました。一四世紀以来、西欧で成熟しつつあった鉄冶金の変革がはじめて決定的な効果を生じはじめたのはこの時期のことです。鋳鉄は支那では西暦前第一世紀以来知られていましたが、西欧でそれが現われたのはだいぶ遅れていたのです。その生産は、単なる仕事の規模の増大によって決定的な変化がもたらされることを典型的に示しています
2025年10月02日
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宇七年戦争とは、主にプロイセンとオーストリアの対立を中心に、イギリスとフランスの植民地争いが絡んだ1756年から1763年まで続いた大規模な国際的な紛争です。プロイセン王国とイギリスが同盟を組み、フランス、オーストリア、ロシア、スペインなどの連合国と対立する形で展開されました。プロイセンが占領したシュレージエンを巡る対立が引き金となりました。オーストリアのマリア・テレジアは、シュレージエンを奪還するためにフランスやロシアと同盟を結び、プロイセンに対抗しました。一方、イギリスは植民地でのフランスとの対立からプロイセン側に立ちました。特にイギリスとフランスが北アメリカやインドの植民地支配をめぐって激しく対立した戦争でもあります。経済的な利権、航路の確保、交易の独占などを巡る争いが、戦争を国際化させた大きな要因となりました。
2025年10月01日
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技術の面では、この世紀は規模においても成果においても漸進的進歩の時代で、その前と後の世紀に特有だったような革命的革新は何らもちません。農業は依然として支配的職業で、毛織物が主な工業でした。とはいえ変化はすでにはじまっていました。造船は経済によって改良され、それとともに航海術も進みました。商業の増大と輸送費の低下の結果、ブルジョアジーの問にはるかに広く富が分配されるようになりました。絹やガラスのような珍しいぜいたく品が日用品となり、一方綿・磁器・ココア・タバコなどの東方と西方からの新産物が西欧の市場へ入りはじめました。フランドル派とオランダ派の絵画は、宗教に仕えたり貴族を讃美することをやめて、飲んだり食ったり陽気に遊んでいるふつうの人々の姿を画くようになりまじた。オランダ人が都会の邸宅やいなかの別荘にプルジョア的慰安の標準をつくり、庭園や田園にかなりの金を投じたのは、この時代です。
2025年09月30日
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この産業革命の時代の主導精神と主な受益者は、盛んな農業と漁業によって基づけられたオランダとイングランドの商人です。富は政治権力をブルジョア階級にもたらしたが、それはやすやすと実現したわけではありません。永年の闘争と公然たる戦争の後はじめて、最初にスペイン王〔オランダはその領土だった〕、次いでイングランド王は、自分の下の金持ちのオランダ人やイギリス人を、彼らが利潤を追求することを妨げる封建的条件の下に服従させておくことは、もはや不可能なことを悟らされたのです。この闘争の表面上の理由は宗教的なもので、少なくとも次の意味で正しさをもっていま。すなわち、新しいブルジョアジーの政治的・経済的信念と実践は、カトリックはもとよりルター派のことばよりもカルヴィン主義のことばで無理なく表現されたのです。
2025年09月29日
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イギリスはライバルであるフランスに先んじて産業革命を開始し、フランスに限らず地球上のすべての国々に対して有利な位置を占めることとなりました。言い換えると、七年戦争の勝利によってイギリスは世界システム論における覇権国家の地位を決定づけたのです。1733年から1840年付近までの第一次産業革命と、それ以降の第二次産業革命に大別することも可能です。産業革命において特に重要な変革とみなされるものには、綿織物の生産過程におけるさまざまな技術革新、製鉄業の成長、そしてなによりも蒸気機関の開発による動力源の刷新が挙げられます。これによって工場制機械工業が成立し、また蒸気機関の交通機関への応用によって蒸気船や鉄道が発明されたことにより交通革命が起こったことも重要です。
2025年09月26日
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産業革命(さんぎょうかくめい、英: industrial revolution)は、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業の変革と石炭利用によるエネルギー革命、それにともなう社会構造の変革のことです。「産業革命」という言葉が初めて使われたのは1837年、経済学者のジェローム=アドルフ・ブランキからです。イギリスで世界最初の産業革命が始まった要因として、原料供給地および市場として植民地が大きく存在した事、清教徒革命・名誉革命による社会・経済的な環境整備、蓄積された資本ないし資金調達が容易な環境、フランスにもこれらの条件は備わっていたものの、両者の違いは植民地の有無です。イギリス産業革命は1760年代に始まるとされます。七年戦争が終結し、1763年のパリ条約において、アメリカ、インドにおけるイギリスのフランスに対する優位が決定づけられました。植民地自体は以前から存在していたため、1763年の時点でイギリスが市場・原料供給地を得たというよりも、フランスが産業革命の先陣を切るために必要な市場・原料供給地を失ったというべきです。
2025年09月25日
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古い中心での損失は周辺部で埋め合わされてあまりありました。北海沿岸地方、最初にオランダ、次いでイングランドと北フランスは、西欧の新しい経済の中心、そして当時すでに世界経済の中心にさえなりました。そこでは依然として封建的条件にあった他の海国スペイン・ポルトガルとちがって、マニュファクチュアが商業と結合することができたのです。ドイツとイタリアの職人は、いまや支配的地位に上った北方の国家へ移住し、ルネサンスの技術および芸術上の成果をそこへ速やかに普及しました。同時に、オランダとイングランドの増大する人口を養うための小麦と造船のための亜麻・木材・松脂・鉄への要求が、バルト海沿岸の経済的発達を促し、そこにデンマーク、スウェーデン、ポーランド、ロシアが次々に独立国として抬頭しはじめたのです。
2025年09月24日
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経済的にはこの世紀を支配したのは航海の累積的効果で、航海は当時すでに西欧の古い内国商業に匹敵する商業を包含していました。この世紀にとくに目だったことは、アメリカの銀の流入によって物価が大きく上昇したことです。西欧とくにオランダとイングランドでの封建制の束縛の打破は、土地をもたない人民を市場に投げ出し、同時に、雇傭労働者の実質賃金を著しく押し下げました。これは、物価の上昇と市場の増大の時期に生産物の原価をひき下げ、同時に工場主に豊富な労働力を提供することに役立ちました。その結果、新しい大洋通商路により新資源に頼り新市場に販売することのできる商人と工場主の富がかつてなかったほど増大しました。しかし通商路の変化と戦争の影響が重なって、一六世紀初期には西欧の最先進地域だったドイツの経済は荒廃しました。
2025年09月22日
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この科学における革命期問は、新しい観察的・実験的研究の最初の大勝利を含んでいます。それは、コペルニクスによって太陽系がはじめて暴露されたことにはじまり、カソリック教会の非難にもかかわらずガリレオの仕事によってそれがしっかり確立された時をもって終わります。この範囲の中には、ギルバートが一六〇〇年に地球を一つの磁石として説明したこと、ハーヴィの一六二八年の血液の循環の発見が含まれます。またこの期間には、眼にみえる白然界を大きく拡げた二つの器械、望遠鏡と顕微鏡の最初の使用がおこなわれました。
2025年09月19日
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さらに調査では社会的、宗教的世間体のために本当のことは答えられない。本人にも自分の感じていることに無意識のバイアスをかけてしまっているなどの行動経済学の質問紙調査とも共通の難点も起こります。だが科学を研究すること、科学的思考で世界を見る行為をしているときの、そしてヨブ記を知ったときのクオリア(赤い色を見たときの赤い感じ、歯が痛いときの痛みの感覚など他人と比較できない「感じ」のこと。感覚質と訳される)はどうなのかということを(定義からしてできないはずなのですが)知りたいのです。科学のクオリアが、 日本人と西欧人でどう異なる / 異ならないのか、を研究 しなくてはなりません。世界に普遍法則があり、その原理通り物事は生起する。その真理を見つけ出す。しかも単純に幾何学的に、高い立場から鳥瞰的な理解をしたい。それらが、満足されたときのうっとり感、高揚感、安心感、そしてそのような理解を求める感じの日本人と西欧人の違いを考察するのです。
2025年09月18日
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道徳認知についての研究で、最近、実験哲学ということがよく言われます。社会心理学でよく使われる質問紙調査法を、たとえば交通事故の発生経緯のヴィデオなど、経緯を変えたヴァージョンを見せて、どちらに共感するか等 質問するのです。通常の哲学では思考実験をするのですが、思考実験では思考実験をする研究者の感覚がおおいに影響してしまいます。それを避けて、実際の人々の感性を測定しようとするのです。このような場合、変数としてどのようなものが適切なのでしょう。数量化理論で分類するならどのようなカテゴリー変数を採用すれば良いのでしょう。感性、追求したい方向性等ということをどう調べたら良いのですしょう。いくつかの例を挙げて選ばせるなどというのはすでに、調査者の感性という強い制限で縛られた調査となって意味 が薄いでしょう。
2025年09月17日
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カルヴァニストの信念は、日本人には理解不能です。また、ヨブ記の方でもどんな酷いことをされても、そして救済など無くても信じる、等ということ はあり得ないでしょう。実際、ポルトガルのリスボンで、1755 年に壊滅的大地 震が起き無辜の民が大勢死にました。なぜ、神はこのようなことをなさるのだろう、なぜこの世に悪があるのだろうという疑問が表面化して、啓蒙主義思想家ボルテールも大いに影響されました。ヤハウェはイスラエルの敵に力を与えて自らの民イス ラエル人を負かすという前歴も持つ神で、多神教の互酬性思考だったらとっくに捨てられている神です。我々にはたぶん理解しがたい感性ですが、この感性が科学の思考とどのように関わり合っているかを今後考究していきたい。カルヴァニストの勤勉か、ヨブ記問題についての感じ方、特に西欧の人たちと日本人でどう違うかということを研究したい。
2025年09月16日
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カルヴァニストは次のことを信じています。ある人が救われるか否かは、その人が生まれる前に神が決めている。その決定はその人がどんなに善行をしようが、悪行や放埒 三昧であろうと変わらない。しかし、善行することが出来るというのは、神が救うことを決めている人であった可能 性が高い。善行が出来ないというのは神が地獄に落とすことを前もって決めていた人である可能性が高い。このように考えて、カルヴァニストは誰が見ていなくても(神は見ているが、神もその救済の決定は変えられない)、何の効力も無いはずなのに勤勉に働くのである。これは、遡及因果的思考の例として、論理実証主義哲学者 A.エイヤーが言及したものであるが、現実の事態例で もあります。
2025年09月12日
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ヨブ記とは旧約聖書にある話です。ヨブは裕福な人で財産も家族も名声もりました。ヨブの信仰を神はいろいろな試練を与え試しますが、ヨブの信仰は揺らぎません。神は悪魔に命じてヨブの財産を奪ったり、ヨブを傷つけたりしますが、ヨブの信仰はそれでも揺るがない。3人の友人がやってきて「神は善人に罰は与えない」「罰せられるのは悪人だけだ」などと慰めますが、合理的説明は出来なく議論になります。神に訴えることは可能なのかとか議論される。最終的には神は友人を戒め、ヨブは健康を回復します。カルヴァニストの勤勉とは、ヨブ記の最後の部分がないような理解不能に近い話ですが、現実社会で起こっていることです。
2025年09月11日
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