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山田長政は天正18年(1590年)駿河国富厚里(静岡市葵区)で生まれました。家は染物屋の商人で、彼は武芸を学んだり、臨済寺で学問を習ったりしました。武士になりたいという夢を抱いた彼は沼津に移り住み、沼津藩主・大久保忠佐に仕え、駕籠かき(駕籠を担ぐ職業)として働きます。ところが、武士の身分を得るなり、彼は駕籠かきを辞めて駿府に帰ってしまいます。当時、駿府は大御所である徳川家康が住んでいたから国際都市としてにぎわっていました。山田長政は、① 商人が朱印船貿易を行っていること② 外国に渡航して、日本人町を作っていることなどを耳にし慶長17年(1612年)、台湾に向かう豪商に頼んで、堺から出港する船に乗せてもらいました。彼の乗り込んだ船は台湾に到着した後、南方のシャム(タイ)に向かいます。そして、シャムの首都・アユタヤにあった日本人町の頭領・オープラ純広のもとで働き、貿易について一から学びました。やがて彼は日本人、シャム人から一目置かれる存在となります。
2024年12月04日
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慶長三年(一五九八)、豊臣秀吉が六十二歳で病死すると、秀吉が臨終のときに成立した五大老と五奉行を主体とする豊臣政権も次第に動揺しました。五大老の筆頭である徳川家康が、秀吉の遺令に違背し、婚姻その他の方法で徒党を組み、徳川勢力の拡大を図ろうとしたからです。これに対し、五奉行の一人の石田三成が中心になって、家康の遺背を指摘し、その横暴を咎めたが、家康は、徐々に、秀吉恩顧の武功派の諸大名を味方につけ、石田に味方する大老や奉行たちに圧力をかけました。そのため、秀吉の死後一年もたたないうちに、秀吉の世嗣豊臣秀頼を守る豊臣政権は分裂しました。もちろん、前田利家の病死も、その動機となりました。徳川政権の強化を策し、反徳川派の動きに注目していた家康にとって、絶好のチャンスとなったのは、やはり、五大老の一人の上杉景勝が領国の会津若松に帰り、家康の上洛督促に応じないことでした。家康は、慶長五年(一六≡)の七月、武功派の諸大名を率いて、会津遠征を企てました。しかし、上杉を討つのが目的ではありません。会津遠征の虚をついて石田三成に大坂で挙兵させるのが、本当の目的でした。果たして、家康の会津遠征を見てとった石田三成は、頃あいを計って兵を挙げ、毛利輝元ら西国の諸大名を味方にし、伏見城その他、徳川氏の拠点や、三成の挙に応じない諸大名の居城を攻めました。家康に従って会津に出陣した武功派の諸大名の妻子を大坂城内に移し、これを人質にしようと策したが、この人質政策は、細川忠輿の妻ガラシャの死によって失敗に帰しました。下野小山の陣営で三成の挙兵を知った家康は、武功派の大名を先鋒として西上させ、自らは江戸城まで引きあげ、両面作戦に備えたが、やがて、武功派の大名福島正則らが、美濃に進出し、岐阜城を抜いたのを知ると、旗本の精鋭を率いて、岡崎の本陣に到着しました。三成は、毛利軍のほか、字喜多秀家、小西行長らを主隊として大垣城に拠ったが、家康が大垣を素通りにして西進すると知り、急いで関ケ原に陣し、徳川方の軍勢を迎え撃としました。九月十五日、関ケ原を中心に両軍の決戟が行われたが、毛利軍は南宮山にあって戦況を観望して動かず、松尾山に陣した小早川秀秋は、戦いの最中、急に石田方を裏切り、徳川に味方したため、石田方は惨敗し、徳川方が大勝しました。家康は、石田・小西らを捕らえて処刑し、毛利・上拒の諸氏を減封に処し、徳川政権の確立に成功しました。
2024年12月03日
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アメリカは一八九八年に米西戦争でスペインを破り、スペイン統治下のフィリピンを領有しました。ロシアは。南下政策とともに北アジアに迫り、清の弱体化につけこんで満州のアムール川以北と沿海州を領有しました。アジアは次々に蹂躙されたのです。アジア民族による近代化は遅れました。日本は明治維新をもって近代化の先頭に立つことになり、そこに近代アジアの「解放」をめざす狼煙が上げられました。孫文が共鳴し、インドのビハリ・ボースやフィリピンのアギナルドやボニファシオが呼応し、反英・反仏・反米の民族主義的な闘争ともなり、日本の植民地解放運動が加わります。このことを「興亜」の活動の波及だと捉える日本の一群がいました。興亜主義者たちです。興亜主義は「大東亜主義」とも「大アジア主義」とも称されました。王道楽土(皇道楽土)を旗印とした大東亜共栄圏を理想とするもので、それをもって欧米列強の脅威と蚕食からの独立と解放を獲ちとろうとしました。この時期にしか席巻できない思想です。
2024年12月02日
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