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講習会の後は講習会のお仲間さんとランチ!自然に恒例となってきました。(なんででしょぉ?)今日は久しぶりの飲茶!香港島で食事をしたことのない私はいっつも友達の後をくっついていきます。今回もお仲間さんのお勧めのお店へと丁稚のようにいそいそとついて行く私であります・・初めての鴻皇海鮮酒家!!おぉ!超豪華~♪ここ最近の私、マダム生活だわ~~♪(ウットリ)(あまりにもの腹空かせの為写真撮るの忘れました。。。)さて、昨日、寿司を頂いたのだが寿司屋のネームカードをもらって行こうと思い「何気にもらって行こうっと♪」と言った所、お仲間さんに「やっぱり若いわね~」と言われた。???話しによると「何気に・・」は最近の言葉らしい。お仲間さん2人はそれはそれはきれいな日本語をお話になり言葉使いの悪い私はとても恐縮をしてしまうのである。↑(同じような口調で話すと時にボロがでるこれでいいのか?私)隣同士に座ってしまった為に仲良くなり私の言葉遣いに洗脳されていく2人。可哀想に・・今、「何気に」を辞書で調べてみたら新語と出ていた。〔主に若者語で「何気ない」の副詞用法〕(1)何気なく(特に深い意図もなく)。なんとなく。(2)実は。意外と。(3)気が付くと。知らぬ間に。さりげなく(それらしい様子を感じさせずに)。若者の領域からズリ落ちないように右つま先をぷるぷる震わせてガニマタでどうにか踏ん張っている私だが若者と呼ばれて顔がにやけてしまった。おばさん体型になりつつある私がギャル風にした所で声を掛けられるのは勧誘くらいだろうが[若者]からズリ落ちないようにつま先を鍛えるしかなすすべはないかもしれない。↑(違う所を鍛えろよ!)
2005年11月30日
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あれから旦那とは口も利くことなく過ごしています。初めてすれ違いの夫婦しています。(おお、これが仮面夫婦か!うっとり♪)月曜日から始まった日本語教師養成講座には既に脱落の感が・・皆頭良さそう~!でも、そこで知り合ったお仲間さんとランチを立て続けに行って参りました。今日はお寿司!!何年ぶりかに廻っていないカウンターで食べましたよ!次から次へと出てくる握り寿司のネタが口の中でトロけましたよ!!!(なので写真ありません・・)旦那と喧嘩してるけどシ・ア・ワ・セ~♪旦那に思いっきり噛まれた両腕はあおたんになったけどトロける寿司のお陰でシ・ア・ワ・セ~♪な気分を味わうことが出来ました。初めて行ったけど「寿司処今村」お勧めです♪(混んでいて)待たせたからって特別にウニ握ってくれました♪(ウットリ♪)
2005年11月29日
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今、旦那に疑念をもたれている。私が男と会ってHをしているというのだ。水曜日に旦那は中国へ1日だけ出張に出掛け夜7時に家に電話しても私が家にいなかったことに関して豊は疑いを持ったらしい。そして、昨夜、会社の人と飲みに行った先で会社の人からもそれは怪しいということで午前3時に帰って来た豊は寝ている私を起こしていちゃもんをつけてきた。確かに、水曜日は豊が帰ってこないとあり夕飯も作らなくていい私は夕方5時頃にチムサーチョイのプラムナードで夜景をカメラに収めようと出掛けたのは確かだ。だが、8時には家に帰ってきて朝の残りを食べただけだ。豊に夜景を見に行こうと誘ってもいつも断られており旦那と出掛けたのだって何ヶ月ぶりの外出で私の誕生日祝いをしてくれた時だけだ。後は毎週末、家に閉じこもって飲んだくれている。そんな生活がもうずっと続いている・・そろそろクリスマスの電飾もある頃だと思い、仕方なく時間のある水曜日に一人で出掛けた時のことだった。↑(結局、デコレーションはまだだった)あまりにも疑ってくるのでデジカメに収めた夜景をアリバイとして見せても「一人でいたとは限らない」だと!!!私が一体誰といるんだっての!!!!!ハーバーシティーの入り口でテレビ局のカメラマンらしき人が階段下を写していたしそんなカメラがあると知らずにダサい格好でぼお~~と上を向いてカメラの前に立ちつくしている私の姿が写っていたはず!なんとも哀しいのは私のことなんて知らない会社の人にまでそんな疑いの目で見られていることとだからと言って人のいうことを鵜呑みにして私を罪人のように扱う旦那に怒りと悲しみが襲ってきている。[追記]そして、「お前に子供ができても俺の子供かどうかもわからない。」だって!!!あまりにも疑いが晴れずそんなに信用がないのならこんな人と居れることができないので以前領事館でもらってきた離婚届にサインをしてもらった。あとは保証人のサインだけとなった。本当にただの濡れ衣をきせられているだけなのですが元々信用がなかったようです。本当に哀しくて哀しくて虚しいばかりです・・・
2005年11月26日
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私は極度の上がり症である。小学生の時分に1年間だけbebe母が学級委員長に選ばれたことある。親子対抗スポーツ大会の開会式の言葉を述べなくてはならないbebe母はあまりの緊張でか「始めます・・」と激励も言わず一言で閉めてしまい先生からも「お母さん、もうちょっと何か・・」と催促されてしまうほどであった。そんな母に似てしまい私もとても上がり症だ。授業参観日なんかは当時、学年一背が高かった私は常に後ろの席だったということもあり参観に来ていたお母さん方の化粧の匂いや防虫剤の匂いが充満していた。そして、ノートに書き留める私の字を見てはお母さん方のヒソヒソと話す声が聞こえてきたりして自分は見られているという意識から鼻血を出してしまったということもあった。中学の時は学年集会で作文を読まなければならないという事態に追い込まれてしまった。↑(多数決で決まっただけですが)作文嫌いな私は何を書いていいのかさっぱりで数人の友達に添削してもらいながら書き上げたのだった。いざ、学年集会当日。1組~6組、各一名ずつ発表していく。その中で私は4番目だった。私の順番が来るまでの間もいや、その前からも鼓動の早さは衰えを知らず手からも汗がにじみ出ていた。一人、また一人と私の番が近づくほど私の鼓動は早まるのだった。私の前に3人が作文を読んでいるのだがそれはそれは落ち着き満ちた態度にそれはそれは十分すぎるほどの作文を披露していた。そして、今度は私の番だ。名前を呼ばれ前に出て行く。マイクの前に立ち一礼をして原稿用紙を広げた。原稿用紙越しから体育座りをしている学年皆の黒光る瞳が一斉に私を見つめているのが見える。こんな時に「観客は皆かぼちゃだ」なんて思うことがどうしてできようか。十分過ぎるほど手のひらに「人」と書いて呑み込んだのだが私の緊張は極度に達し出てくる声が震えていた。そして、こともあろうか数人に手伝ってもらって書き上げた作文がそれぞれの字で原稿用紙に書かれており添削部分が欄外だったり行の間だったりもしたので全く持って読みにくい原稿用紙になっていた。読む練習をしていなかった私は自分の作文を把握できていないという事態に陥ってしまい卒倒してしまうほど頭が混乱していた。そして、震える声と同時にマイクが拾った音、スピーカーから流れ出た音というのがなんと原稿用紙の震える音だった。ガサガサガサガサガサガサガサガサ・・・あまりにもの緊張で手が震え原稿用紙が音を発する楽器として私のオペラのような震える声と一緒に原稿用紙もビブラートをきかせていたのだった。私の作文発表も無残に終わり隣のクラスの男子からは「ブルブル」というあだ名をつけられたほどだ。↑(仲のいい男子が成敗してくれた)そんな痛い思い出がある私だが来週からは日本語教師養成講座が始まる。もし、職を得たところで生徒の前に立てるのかと思うと謎である。
2005年11月26日
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前日記でモンコックのオタク系のことについて書いたのだが今日は、モンコックのもう一つの顔を紹介しちゃおうか、しないどこうかいや、もうちょっとひっぱってみようかなっ♪(って言ったら怒られますか)と、言うことでモンコックのもう一つの顔をあなたにこっそり教えちゃいます♪↑(教えたくないの?)モンコック―ヤウマウテイ間のメインストリートより奥に入った通りには古びたビルの入り口に黄色い看板が掲げてある。夜になるとピンクや黄色や青色のネオンが妖しい光を帯びており一瞬見ただけでどんな場所なのか理解できることと思う。そう、ピンク系。私が香港に来た当初、黄色い看板やネオンを見かける度に義父は看板に書かれている文字を指差し「馬来妹はマレーシアの娘だよ」とか「これは白人女(どんな文字か忘れました)がいるってことだよ」とか「これは大陸の娘ってことだよ」とか◎◎◎◎女である私にどーでもいいようなことを教え込んでいた。↑(私にどうしろと?)そして、そんなネオンや看板も街の一部として浸透してしまっていた頃、とても面白い光景に気がついた。ミニバスに乗るといつもそのピンク街を通るのだが窓の外を眺めていたらシースルーを着た女性や胸を強調している服装やトップもアンダーも超ミニで肌を露出している女性達が店へと歩いているのを目撃する。女の私でも釘付けになってしまうほど彼女らの格好はとてもエロい。(冬でもこんな格好して歩いているので寒くないかと不思議でならない)そして、ミニバスが十字路の信号で引っかかると目に入ってくるものはやけに多い男達の人だかり。この男達はなんと、肌を露出させたピチピチ、むちむちの女性達を眺めるために立ちん棒しているのだ!!!!しかも!その男共の多くはじーさま!ひいいいいい~~~~・・・このじーさま達、何度ともなく信号が青になろうとも渡る事はなくあまりの面白さに知人が来た折には必ず案内する場所なのだ。←(素通りですが)「立ちん棒」といえば、初めてマカオに行った時は売春婦の多さにびっくりした。世界各国から集まる売春婦の質にもびっくりしたものだった。ホテルのロビーや街にも彼女達は立ちん棒をしており彼女達の男へ送る熱い視線が結構面白かった。そして、私はというと初めてのマカオで気分もよく少々肌を露出させるワンピースを着た為男達に売春婦を見る目で見られていたらしい。(豊談)そんな私だったが街中で売春婦に上目遣いの熱い視線を送られてしまった時にはコロッと行ってしまいそうになった(うそ爆)確かに髪の毛は短かったが私は男に見えるのか???
2005年11月23日
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日本のオタク(今では秋葉系っていうのですか?)と負けずと劣らず香港にもこういった若者がいる。香港の女性は意外とキャラクター物が好きでグッズを集めていたりする。台湾のおばさん(推定50歳・未婚)も自分のニックネームと同じキティーちゃんが好きだ。そして、旦那・豊のパパさんはというとお義兄さんが香港に来るからとベッドシーツを「ドラえもん」にしてあげていた。↑(別に義兄がドラえもん好きと言う訳ではないと思う)オタクビルと知られている「信和中心」があるからかはたまた交通面で便利からなのかモンコックのMTRではこういったオタクの人達の個人売買の待ち合わせ場所として多くのオタクが集まっている。そして、こんな光景を見ながら思ったことは以前、日記で紹介したディズニーキャラクターのフィギュアを「売ったらいいお金になるんだろうな・・」だった。以前はこんな少なかったのが今はこんなにも増えました! ↓ ↓ ↓ ↓ しっかし、素人撮りだわな。。
2005年11月22日
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今朝、キッチンに立ったらいました。物陰の間にやもりが。あの半透明のあのちょろちょろと動き回るやもりにどうも慣れる事ができません。ところで、やもりの鳴き声知ってますか?カエルのようにゲコゲコ鳴きます。家で飼ってる(?)とはいえ、う○こ垂れ流しのやもりはやはり消えてもらわなくてはなりません。近くにあった物をどかしても動く気配がないのでしるばーさんのようにティッシュで包んで捨てようと試みて即座に窓の外へ捨てれるようにキッチンの窓を開けようとしたら・・・ギャーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!なんとなんと窓のサッシにやもりの尻尾だけがへばりついていた!!!!!女性らしく「きゃ~~!」ではなく「ぎゃーーーー!!!」と悲鳴を上げた私。即座に旦那・豊の所へ行き出動を願った。だが、腰の重い豊はしばらく放っておけば何処かへいくよと他人事だ。おい!放って置いたって結局は家の中じゃないか!!!泣き叫ぶ私にようやく重い腰をあげた豊。サッシにへばりついたやもりの尻尾をティッシュで取ろうとしたらくっついて取れないって・・・--;少々豊もビビッている・・・確かに、サッシの保護シールに気がついてこの間剥がしたばっかり。長年付いていたシールの粘着力で夜に徘徊していたやもりがシールの粘着でくっついて尻尾が切れてしまったのか?そういえば、中国に住んでいた時は家の裏が田園とあって窓が閉められているとは言え家の中にはやもりが3,4匹常在していた。やもりは虫を食べてくれるとは言え日本で育った私はやはり爬虫類が家にいること自体気持ち悪くて慣れることができなかった。そして、ある日ふとした瞬間に横引きの窓を開けたらサッシのレールにグニョグニョとうごめくものが。う・・・ヤモリをひき殺してしまった・・・さっきまで見かけたちっちゃいやもりが目や手や尻尾がちぎれてぐにょぐにょ動いていた・・・そして、私はと言うと見なかったようにそ~っとそぉ~~っと開けた窓を再び閉めたのだった。←(2度の轢き殺し)話しは逸れたがサッシにくっついた尻尾を豊に取ってもらい次には本体、やもりの本体を捨ててもらおうとした。↑(やはりしるばーさんのようにティッシュで掴めない私)が!!少々腰がひけている豊がヤモリをつんつんとしたところ動き出してしまった。運よく窓の近くに立ち止まったヤモリ。次に豊が取り出したものはなんと割り箸。挟んで捨てるのか??てか、挟めるのか??お箸でつまむと思ったらつっついてやがる!!またしても逃がしてしまったヤモリに豊が出した次の作戦は殺虫剤。さ、殺虫剤で、やもりは死ぬのか??スプレーをこれでもかと言うほどかけまくったがやもりは苦しむことなくチョロチョロと動きまくっていた。で、結局はどうしたかというと便を催したため、追い出し作戦を途中放棄してトイレに駆け込んだ豊に代わりぎゃーぎゃーと叫びながら私がやもりを撃退しました・・・こ、怖かった・・え?ティッシュでつまんで捨てたのかって?いえいえ、ゴム手袋にやもりが自ら乗っかったのでゴム手袋を持ち上げて窓から飛び降りて頂きました。合掌。
2005年11月20日
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これ、なんだかわかります?「的士高」はい、あなた正解!ディスコです。以前、中国に住んでいた時に旦那・豊の知り合いに的士高へと連れて行ってもらいました。初めてのディスコです。当たり前ですが店内は耳が痛くなるほどの大音量と目がチカチカする照明そして正面のお立ち台には専属の女性ダンサーが2人踊っています。フロアでは大勢の若い男女がダンサー2人を正面に激しく踊っていました。ソファーに座りお酒を飲みながら慣れるまでその光景を眺めていたのだが知り合いの友達の彼女が私がつまらなそうにしていると思ったのか私に話しかけてきた。2つのサイコロを振って数が少ない方(?)奇数だか偶数だかが出た方(?)が←(知ってる方教えてください)罰ゲームとしてグラスいっぱいに注がれたビールを一気飲みしなくてはならないというお酒の場での中国の遊び方を教えてくれたのだが生憎、店内に鳴り響く大音量の為に(あ、本当は中国語がいまいちわからなかったのですが)その彼女が何を言ってるのか全く聞き取れなかった。なので、私はBGMがうるさすぎて「あなたの声が聞こえませんよ~」のポーズ明石家さ○まのナンデスカマンの(・_・;Зヾをやったところ彼女の鼻の穴に私の小指が入ってしまったのは言うまでもない。(爆)(しかも、第一関節まで!!!)*結局どんな遊びなのかイマイチ把握できておりません・・・
2005年11月18日
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結婚前にずっと父との確執があったことを前日記でちょっと触れた。だが、末っ子の一人娘である私が結婚してからと言うもの年がら年中会えることもなくなった所為かはたまた厄介なのが片付いた所為か父は本当に円くなった。私が日本に一時帰国するとそれはそれは笑顔で私を迎え入れてくれ気を使ってか外食も時には連れて行ってくれる。そして、結婚前は旦那・豊を大いに毛嫌いしていたのにも関わらず数日遅れて帰ってくる旦那を拉致るようにしてなんやかんやと言っては実家に泊めようとするのだ。去年だったか、友達の結婚式出席の為私一人で帰国したときがあった。約2週間の滞在だったがほぼ毎日実家にいられることができた。↑(豊も一緒に帰ると私が豊に拉致られ豊の実家に泊まるようになる)そのある日、父が仕事から帰ってくると腰が痛いと言い出した。そして、食事を済ませた父が茶の間へ行こうとすると腰をおさえながら崩れるように倒れこんでしまった。ぎっくり腰だ。それからは微動だにも動くことができずにいたが私達母子は日頃から行っていた「電気風呂」が良いからと父に勧め断っていた父を強引にも銭湯へ連れて行ったのである。いつも2時間近く入っている私達母子だが父がいる為、その日は少し早めに出てきた。すると既に父はロビーの長いすで横になっていた。見るからには風呂上りの体の火照りとそれを少しひんやりと冷えさせるロビーの静けさに調和がとれより一層気持ち良さをかもし出し転寝しているかのように見えた。が、電気風呂で余計に腰が痛くなったというのだ。父の話ではこうだ。男風呂には父の他にも何人かおり、そして、父が電気風呂に入るや否や腰には耐えられないほどの電気が走ったという。母に言われたとおりに「ゆっくり入って」いようとしたのだがあまりにも耐えられなくなったので出ようとしたら腰が持ち上がらなく這って出てきたというのだ。この「這って出てきた」という父の滑稽な体勢に私と母は大爆笑をしたのだが父のぎっくり腰が悪化してしまったことに強引に連れて来てしまって少々後悔した。↑(母はなんで電気風呂が効かないのか不思議がっていた)車を横付けにし父を乗せ帰路に着いたのだが車から父が降りれないという。自分で降りようとするも腰が立たないので本人もどうすることもできなくいた。私は父のそんな姿にとてもいたたまれなくなり父の座っている後部席に回り父をおぶろうとした。そんなことをしようとする私に母はとても慌てていた。そりゃ、そうだ。手首も極細の私が20キロ以上も違う父をおぶったところでそのままひっくり返ってしまうと考えるのもわからなくはない。慌てる母が兄を呼んでくるからと言う間に父に車の外に出てもらって一気に車から父の寝床まで父を背負って行ったのだった。↑(これには母もたまげて今でも親戚に自慢をしている)翌日、病院へ行って注射を打ってもらったら次の朝にはピンピンになり、元気に会社へ行った父。そして、私の滞在期間中も親子3人で買い物に出掛けたりと色々と今までにない濃い時間を過ごしていたのだった。私が香港へ帰る日。夜中2時出発の空港行きタクシーに乗る為その日の晩御飯は外食にした。生ビール好きの父はいつものようにグイグイ飲み、その日の食事も楽しく過ごすことができた。家に帰って来てから私と母はあの父がぎっくり腰で悪化させた電気風呂のある銭湯へと繰り出した。そして、銭湯から帰り真っ暗になった茶の間の電気を付けると台の上に一輪挿しの花瓶に花が飾られてあった。そして、その花瓶にテープで父から私宛への手紙が添えられてあった。「○○○へ 色々と有り難度う 又来る日を楽しみに しています 暮々も気を付けて お帰り下さい 父より」そして、花瓶の花を見ると酔っ払った父が庭で摘んで来たであろう木の花と造花が刺さっていた。こうして私への感謝の印で一人、夜に懐中電灯を持ち娘の為に花を探し娘宛ての手紙を一人いそいそと書く背中の小さくなった父の姿を想像すると生花と造花のちぐはぐなセンスに母と一緒に笑いはしたがそんな不器用な父の姿に感謝とうれしさと寂しさに私と母は泣いていた。
2005年11月16日
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しるばーさんの日記に膀胱炎の話しが出たので思い出したことがある。旦那・豊と付き合っている当時、父親と1ヶ月間の約束で香港に来れたはいいが親との確執から逃れたこの香港での自由な生活に日本に帰りたくなくなり父親宛にFAX1枚を送りそのまま香港に居ついてしまったことがあった。(参照:「香港再び!」)当然、このことで父は激怒し、それはそれは勘当する勢いで送られてきたFAXをくしゃくしゃにしたという。(母談)それから観光ビザで来ていた私は1ヶ月ごとに香港を出ていたのだがシンセンへ行ったりマカオへ行ったり台湾へ行ったりと日本へ帰ることはなかったのだった。香港に居ついて9ヶ月が経った頃、健康だけが取り柄の私だったのだが体に異変が起きてしまった。夜中、おしっこをしたら少々痛みが走り用を足し終わっってもすぐさまトイレに行きたくなるという症状がでた。こんなことは初めてだったのであほな私は「水分の取りすぎだな」と思いその日から水分を極力とらないようにつとめたのだった。そんなことをしていたある日、あまりにもの激痛がおしっこ時にあるので香港に来ていたパパさんに相談してみた。症状からして「膀胱炎」らしいということで水分を沢山取るようにと言われた。パパさんに相談するまで私はなんとも悪循環な悪化への一途を必死になって行っていたということになるのだ。そして、水分を取っても膀胱炎はなかなか治ってくれなかった。1ヶ月ごと、ビザの更新をするためマカオや台湾へ行ったりとお金を使っていることで豊に嫌味を言われたり香港の医療費は高いと聞いていたので病院に連れて行ってくれとも頼めなかった。←(政府の病院は安いですが、当時知らなかった)せめてもしてもらえたのは薬局から薬を買ってもらえたことだ。そして、父親とも勘当同然のような状態が続いていたのだが時々連絡をくれていた母に膀胱炎になった云々を伝えると「すぐに帰ってきて病院へ行け」と言ってくれた。だが、9ヶ月前にFAXを送った時点で私は無職となり社会保険も取り消されているのだ。だが、母親の子を心配する気持ちのあまりか母は「お父さんに頼んで扶養に入れてもらうようにするから」と言ってくれた。そんなことを父に頼んでも父は拒否するに違いない。そして、どんな状況になるかも察しがついていた。後日、再び母から電話があり「扶養に入れてもらえたから、帰ってきて病院へ行きなさい」と父からの許しがでたと言うのだ。きっと私のことで両親が話し合いをするも短気な父は母を怒鳴っていたに違いない。だが、私の為に母はどれだけの罵倒を浴びせられどれほどまでに泣きながら説得したことか。詳しいことまではわからないがきっとこんなんだったと思う。そして、私は日本行きのチケットを取り約9ヶ月ぶりに故郷に帰ったのだった。*薬のお陰で峠は超え、病院に行った時にはほとんど治りかけでした・・(余談)父親との乱闘があるのではないかという不安を心に持ち、夜に田舎に着いたのですが駅に迎えに来ていた母と家に着き元気いっぱいに「ただいま」というところが緊張のあまり「おかえりーーー!!!」と叫んで父の笑いをとって乱闘になるってことは間逃れました。
2005年11月15日
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香港に来てもう一つハマったもの。それは「車仔麺」です。(この写真は近所の物で私が好きな車仔麺ではない)この車仔麺。自分の食べたい麺を注文するとその場で麺を湯がいてくれ食べたい具を何種類か選びその場でお金を払って自分でテーブルに持って行き食べるのだ。(これが一般的な車仔麺家なのだがテーブルに座ってから紙でオーダーする所もありしばらくしないと運ばれてこない。)麺のファーストフードと言ったところだろうか。そして、辣椒醤をたっぷりかけて頂くというのが私のやり方なのだが毛穴いっぱい広げて食べていると夏の暑さと麺の熱さとで鼻水を垂らしながら食べなくてはならなくなる。↑(実際鼻水は垂らしませんが・・・)出勤前ともなると汗と鼻水で完全に化粧が取れ「平安美人」になるというなんとも悲惨な状態になる食べ物なのだ。↑(仕事してませんが・・・)私はいつも頼むパターンが決まっており麺は粗麺。具は羅白(大根)、猪皮(豚の皮)、猪腸(豚の大腸)である。そして、以前、お義兄さんを連れて車仔麺を食べに来たときにこんなことを教えてくれた。「昔、移動式の屋台で道端で売っていたから「車」ってついているんだよ。それでね、時々猪腸を食べているとね、ん???って物があるの」ん???ってなに??「ん?って言うのは腸をよく洗わないから○んこがついていたりするんだよ」えーーーーーーーーー!!!!○んこも食べちゃったんですかーーーー?????(何故か○んこネタが多い私・・)それからと言うものいつも猪腸を食べる時はなぜだかとても味わって確認してしまうbebeなのであった。↑(今時あるわけないと思いますが・・・)
2005年11月13日
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田舎育ちの私からして香港と言う所はとても密集しており人口の多さにびっくりしたものだ。そして、どうしてこんなことが毎回、毎回同じように繰り返えされどうして100%の確立で起きどうしてお互いの呼吸が合わないのか辟易してしまうこともないとはいえない。それは香港人との「鉢合わせ」!!!道を歩いていると丁度、自分が歩いている延長線上に対面からも人が歩いてくる。そして、2m~1.5mくらい接近した時お互いがお互いを気づき互いがどちらに寄ろうかと考える。ここで、日本だったら相手が少しでも右に寄ったなら自分とすれば右に寄りお互いの通行がスムーズに歩けるようにする。(またその逆も然り)知らないもの同士でもなんとなく波長が合い鉢合わせになることもあまりない。だが、香港人との場合。香港人が右に寄ろうとしたので鉢合わせを回避するために私は右に寄って歩こうとするのだが、どうしてか相手は左にまた寄り(あ、左ですか・・ じゃ、左に・・・)右にまたまた寄り(え?右??)左に寄りと(え!?どっちどっち???)思いっきりフェイントをかけて来るではないか!!!!そして、バスケットのドリブルを阻止するが如く右に出るか左に出るかと迷っている内に磁石のN極とS極が引かれ合うようにくっつきぶつかってしまうのである。なんでこんな道端でディフェンスされなきゃいかんのだ・・・こうなったら最後私は頑として動かない。相手に選択権を譲り動いてもらうまで私は微動だにしないのである。↑(自分の歩いて来た道を譲りたくないともいう)これが毎回毎回お同じことが起きおじさんであっても若い人であっても足の遅いおばあさんであろうとも私は強引ぐマイウェイをするのだ。しかし、なんで100%の確立で起こるのか謎である。鉢合わせした人??いえいえ、おまけをしてくれる街市のおばさん画像。(もういっちょ参照)初公開!誰かに似てると思ったけど誰だか、忘れました・・
2005年11月12日
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これは数年前、台湾へ行った時旦那・豊の祖母である台北の家に飾ってあったものです。そして、色あせや少々傷みもあり豊がカラー写真にしてあげると言って持ち帰ったものでした。(未だそのままですが・・)************************【パパさんのご先祖は中国福建省の出だ。政府の役人として台湾へ派遣され淡水に移り住んだ。そして、台湾へ来てからパパさんが5代目となる。】パパさんの子供時代。中央にいるのがパパさんとパパさんの祖母(豊の曾祖母)。そして、コートを羽織った人がパパさんのお父さん。そしてお母さん(豊の祖父母)。(おばーちゃんは94歳(?)にしてまだまだピンピンしています。すごい!!)そして、その右の若い2人がおばーちゃんの兄弟だと聞いている。日本の領地時代。日中折衷でチャイナ服が着られていたり下駄がはかれている。そして、なんと!曾ばあちゃんの足は纏足!!!!!!纏足って子供時分にレンガや石で足の骨を粉々に砕き布で固定して小さい靴を履かせて成長を止まらせるあれですよ!!!!(男が小さい足を弄ぶことを快楽とし足が小さいとあそこの具合もいいとかで・・・--;昔も今もロリコン好きなのか??纏足の足は臭いらしいが・・)そういえば、映画の「宋家の三姉妹」で纏足のおばあさん達が出ていたよな?今でも纏足の人がいるのか??いるわけ無いと思うけど・・話は戻り、役人の家だったこともありパパさんが子供の時はとてもおぼっちゃまだった。そして、驚くことに台湾元総統、李登輝の父親とじーちゃんが友達で李登輝の家はお隣だったと言うのだ!!!!この間、パパさんに李登輝と遊んだことがあるのかと聞いたら、記憶にないだって!!李登輝が何歳か年上で金持ち学校の先輩でもあったらしい。悪ガキ同士(?)で遊んでいたら今でも会って食事していたかもしれない?!今、こうして曾ばあちゃんの写真までもあるが私の実家の方では祖父母までの写真しかない。そして、時々押入れから出しては祖父の若い時の写真を見たりしているが、私が4歳の時に亡くなりあまり記憶がないことは確かだ。(火葬場で骨になったじーちゃんを指差して「あ、じーちゃんだ」と言って皆の笑いを取ったらしい。祖母はbebe母が嫁いできて直に亡くなった)私はご先祖様の話を聞くのは興味がある。父から色んなこと聞いたが聞ける所は祖父までの話だ。(自転車で山越えたとかうどんが好きで一升食べちゃうとか強情一徹の祖父だった為父も強情で私も強情だ)それ以前のことは「○家はどこから来たか」ことくらいだろうか。氏のことを子供達に言い伝えることは素敵なことだと思うのだが、兄達はどこまで知っていて、どこまで子供達に語り継げることができるだろう?私は昔の人達が好きである。無から生み出した日本人が好きである。来世の子供達の為にどれほどの努力も惜しまずどれほどの命をささげてきたか。昔の白黒時代の写真をみると無垢のままの大人達の面々が写っておりとても懐かしく悲しい気持ちにさせる。(その時代に生きてはないが・・)そして、話し好きのパパさんが語るには自分の若い時にしでかした話し(下ネタが多い)やたわいもない話を何度も何度も同じ事を繰り返されるので私の頭の中には自然と昔のパパさんの行動をインプットされることになり、それと同時に同じ話しには耳を傾けなくなった(爆)私も子供が生まれたらご先祖様の話を聞かせてあげたいな♪(その為には情報収集しなくてはならないが・・)
2005年11月10日
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香港にもゲイがいる。ゲイバーだってある(らしい)。そして、以前街で見かけたフィリピーナのおなべだって見かけたし香港人女性達が手をつないで歩いていると思ったら1人が男っぽく刈り上げ動作もそれなりに男っぽくしているレズだって見たことがある。だが、今まで見たことのないもの。それは、おかま。しかし!昨日ついに見ました!!!街市(←いつもここしか行かんのか?)で買い物をしていたら突如として現れた。一見、がたいの大きいそこらにいるおばさまのようであり服装だって若作りしているスカートを履いたそこらのおばさまのようだった。長い髪の毛を後ろ一つに結わきカツカツとミュールを鳴らして歩いている。手にだって買ったであろうみかんがビニール袋に入ってぶら下がっていた。だが、だが、どうして皆が振り返るほどにも目立ったかと言うと髭面!!ほほ骨下が無精ひげだ。そして、そのまま足元に目をやると森林の如くスネ毛が・・・--;いつも盗撮チックな写真ばかりを撮ってデジカメを持ち歩いている私ではあるがこういうオイシイ日に限って持ってこなかった。(残念!)だが、このおかま。カモフラージュのためかハンドタオルでしきりに顔を拭いる。うつむきながら市場の商品には目もくれず一目散にその場を逃れたいようでもあった。今の香港は涼しくなり汗ばむこともなく過ごしやすい。汗だって滴り落ちることもないのにそのおかまは常にタオルで左右の顔を拭いていたのだ。それが余計に目立たせることになって誰もが気づいてしまったともいえる。だが、そのおかまの使っていたタオル、汗で水分を含んだようにも見え、垢が付いたようにくすんだ茶色をしていた。(うげっ)そして、このおかまがニューハーフなのか女装趣味のおっさんなのかを突き止めたく胸が出ているかと確認するために再び正面へと周り拝見したいためにおかまを追いかけるという勇気が私にはなかった。(残念!)*******************偶然にも見つけました!!!私の見たおかま。こんな感じでしたよ!!!
2005年11月09日
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ええ、ええ、そりゃあなたの気も知れず乱暴にしたこともありました。ぶつかったこともあります。それは認めますよ。時にあなたが私に当たったことだって。「ふんっ!」って思ってもあなたは私にちゃんとついて来てくれましたよ。でも、だからって、だからって、壊れてしもた。[解説]重いものを詰め込んで階段を上ったり下ったりしましたよ。運転操作が悪くて障害物にぶつかったことだってあります。時に私の足を轢いてしまうことだって。「くそっ!」って思っても当たるとこがないので仕方なくマイカーを引くしかないのです・・今日は側溝に何度もハマった所為か車輪が取れてしまいました。だけど、とても親切な見ず知らずの香港人のおばさん。手を汚しながらビニール袋の切れ端を軸に巻きつけるという応急処置をしてくれたのですが5mも行かない所で車輪が転がってしまいました・・・・転がった車輪を片手に持ち自宅に着いた所で軸に付いていたナットとバネの紛失に気づき再び帰って来た道を辿って行ったのでございます・・下を見ながらとぼとぼと歩いている姿は敗北者。↑(確かにうなだれていましたが・・)そして、薬中毒者。あっちフラフラこっちフラフラとちょっとおかしい人に見え振り返ってくる人もいたほどです・・・--;はい。ちゃんと見つかりましよ。再び巡り会えた時には感激しました。私のマイカー片手程の回数しか使ったことがないのですが。
2005年11月08日
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「守衛」―警固すること。 特に官庁・会社・学校・病院などで、警備に当たる役。 また、その人。(goo国語辞典より)香港には各ビルごと、マンションごとに守衛がいる。(エレベーターがないほどのマンションにはいないと思います。真相は知らず・・)彼らの殆どはお年を召した方々でリタイヤの後に守衛として仕事をしているのだと思われる。そして彼らの仕事は決められた時間ごとにビル内を巡回をしたり不審者への警備をしているのだと思うのだが私達が住んでいる所の守衛さんは様々な人達が任務に勤めてきた。私が香港に住み始めた当初は日本語を独学で勉強をしているという守衛さんだった。私が日本人だと知ると彼は朝一番に顔を合わせると「おはようごじゃいましゅ」と挨拶してくれては買い物袋を手にビルの入り口でバックから鍵を出そうとしていると奥からボタン一つで入り口のロック解除をしてくれるのだった。だが、彼は門の所に知らぬ人が立っていても誰かまわずにロック解除をしていたので守衛の意味はなくしばらくして彼の姿は消えていった。守衛の仕事は、朝晩と二交代制である。私が香港に来た当時から夜の守衛をしていた人がいる。彼は昼間、どこかで働いてきては夕方6時から夜の守衛として出勤してくる。そして、彼は昼の仕事に疲れてか彼は出勤に来るや金網で仕切られた守衛用の部屋に板で簡易ベッドを作り出しタオルケットを掛けて寝だすのである。私達が夜食を食べに外出しても門の開ける音やガタンと閉まる音にも動じずに彼は朝まで寝続け夜の守衛として私達を守ってくれるのだ。そして、彼は年中無休でこのビルに戻ってきては夜の守衛として完璧に私達を守り続けてくれ最近になってようやく首になったみたいだ。そして、結婚して元気なつるっぱげなおっさんが昼の守衛としてやってきた。誰にでも愛想がいい、そのおっさん。旦那・豊ともすぐに仲がよくなり「早晨~。○○さん」と豊を苗字で読んでくれるまでになった。(豊の元部下が言うにはこのおっさんはゲイだということだった。そういえば、○○さぁ~ん♪って豊を呼ぶ声が妙に尻上がりになってたなぁ・・)排水の水漏れやクーラーの修理屋を豊に頼まれて手配してくれたりといろいろと私達の世話をしてくれた。そして、ある時、ワンタン屋で出くわした時そのおっさんは私達の代金まで払ってくれたのだ。こんなにお世話になったのだからと正月(旧正月)の利是(お年玉)を奮発したりもした。だが、こんなにも良くしてくれた人だが朝からビールを買い込んではこっそりと飲んでおりよく居眠りをしていた。アルコール臭をぷんぷんと匂わせては入り口付近でタバコをふかせ時折、千鳥足にもなっていたのである。そして、去年私が里帰りしてる間に豊に「200ドル貸して」とせびってはいつの間にか姿を消したのだった。いろんな守衛さんに出くわしたが今度の人達は結構まともだと思う。夜の守衛さんは椅子に座って居眠りするが音がすると目覚め「おかえり」と言ってくれる。そして、昼間の守衛さんは物静かな人とお見受けするが一度、家のフラットの前まで私の後をつけて・・・え~~~~~~?!
2005年11月05日
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思いっきり木で隠れていますが(素人です・・はい・・)これはセントラルにある立法会議事堂です。このドームの上にイギリス女王の象徴とされる王冠と紋章が乗っています。1997年イギリスから中国へ返還される時にイギリスを象徴する王冠は一度撤去されたのですが立法議事堂内が雨漏りしてしまった為またつけられそのまま王冠が残されました。なんともまぬけで笑える話です。
2005年11月04日
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結婚前、私が香港に来て住み始めた頃、街市(市場)での買い物の仕方をパパさんに連れて行かれ教わった。日系スーパーが近所にないのはもとより地元スーパーでも今でこそ野菜や肉が売られているが当時の地元スーパーにもそれがなかった。なので、これからの買い物は街市が中心となる。パパさんに連れて行かれた私ではあるが初めて目にする野菜の多さに呆然と立ち尽くす中、「1斤は何グラムで~・・・」とか「買い物は3軒回って安い店で買う」とか「これをスープにすると美味しい」とかこれから自分で買い物をしなければならないという私の緊張をよそに話好きのパパさんがズラズラと並べ立てるにはちょっとどうでもいいようなことばかりだった。そして、いざ野菜を買うにもパパさんがお店の人に掛け合ってくれたので私は何も覚えることなく終わったのだ。当然、当時の私は広東語は全くで店の人が幾らだよ!と言っても理解できず値札と大体の重さで少し大きめのお金を出しておつりをもらっていた。なので私の財布の中はいつも小銭が増えていった。そして、パパさんからは指差しで買えばいいと言われたので半斤が買えると知るまで欲しい野菜を指差しては毎日1斤=600gを買っていたのだった。(半分が欲しいときは半斤(プンカン)という。半斤も最初の内は「はーふ」と言っていた・・・)半斤を買うのも慣れだした頃豊がエビフライが食べたいと言う。近所の街市には小さな蝦しか売っておらずしぶしぶ隣町の街市へと向かった。当時の私はパパさんの言いつけどおり安いもの、安いものを見つけ歩き、ニンジン1本でもあっちの店、こっちの店と比較していたので必然的に私の買い物は2時間以上かかっていた。話は逸れたが、エビフライが食べたいと言い出した豊。エビフライにはそれなりの大きさがないと見た目も満腹感も得られない。海鮮物が豊富とは言え、通りの両脇に売られている1斤28元とか48元とかではエビフライにするには物足りなさがあった。どれにすればいいかと「考えあぐねいていた頃、料理屋で出されるほどの大きなエビフライが一般家庭でエビフライにするにはとても上等な蝦が売られていた。そう、活きているエビ達がいけすの中で泳いでいるのだ。とても高そうだ・・・外人とバレたらぼったくられそうなので私は恐る恐る覚えたての広東語で幾らか聞いてみた。「ニゴ ゲイトウチン あ?」「○×△□◎!」「はぁ?」「○×△□◎!」い、幾らか聞き取れない・・・100ケタじゃねぇかよ!「プ、プンカン(半斤)・・・(汗)」エビフライにするにはとても素晴らしいそのエビを1斤幾らなのかもわからないままその半分をくれと言ってみた。手には100ドルを用意してみるいや、100ドルじゃ足りないかもしれないから200ドル用意するそして、お店のおばさんが半斤のエビを持ってきて200ドルを渡してみた。200ドルを受け取るとおつりがあるらしい。だが、私の心境は穏やかではない。そして、心の中で叫んでいた。一体このエビはいくらなんだ~~~~~!!!おばさんがおつりを持ってきた。ここで初めておつりをもらって幾らかと知ったのだが半斤で176ドルぅぅ????(確かな金額忘れました)おいおい、高いじゃんこりゃ、返品だ。返品!そして、もらったまんまのおつりを片手に握り締めたまま計算がし終わるまで店の前で佇んでいたのだがたった今、この店で買ったエビを返品しようと日本で育った私は安易な気持ちでいたのだった。「ムコイ。マニーバック、プリーズ」←(いきなり英語)先ほどのおばさんは横に首を振る。「これ、高いよ、マニーバック」おばさんが何か言ってきたのだが私にはさっぱりだ。同じことを繰り返していた頃、奥から上半身裸の若造がでてきた。おっ!この人だったら話がわかりそうだまた、先ほどと同じことを言ってみる。すると、どうだ。思いっきり怒鳴りつけてきた。なにを?高いから返品したいんだよ!今ここで買っておつりだってちゃんと手にもってるだろっ!とまでは言えないが、心の中で叫んでいたのである。若造は大きな声で怒鳴っている。私も負けちゃいられない。こんなに高いエビを売りつけられちゃ返品せずにはいられない。↑(いつの間にか人のせいになっている)すると、若造が「だったらpoliceを呼んで来い!」と言うではないか!bebe:「どうぞ、呼んできてください」私はここから動いてはならないと思い近くに警官がいるのを願いながら相手が「呼んで来い」って言っているのに私は「どうぞ、呼んでください」などと全然会話が成立していなかった。そして、その店のいけす近くに人の良さそうな顔をしたお兄さんがいたので助け舟をだしてみた。するとどうだ。この優しそうなお兄さんでさえそっぽを向くではないか!辺り中に怒鳴り声が響く中(といっても若造の声ですが)何事かと周りの人が振り返っている。そしていい加減経った頃、私がとうとう折れてしまった。(買ったのは私だが)ぶつくさ言いながらこんな高い買い物をしてしまったことに非常に内心穏やかではなかったがエビの殻を絶叫しながら剥いて食卓にだして美味しく頂いたのだった。そして、上半身に刺青が入ったあの若造と怒鳴りあいになったことには今でも信じられないが少々香港の仲間入りしたなと実感した時でもあった。*後、この話をお義兄さんにしてみたらどうみても私が悪いんですって!ま、そうかもしれないけど家に持ち帰っていないし、その場も動いていなかったのにね!
2005年11月02日
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