「未来派左翼(上)」
よりつづく
「未来派左翼(下)」
グローバル民主主義の可能性をさぐる
アントニオ・ネグリ /廣瀬純 2008/04 日本放送出版協会 全集・双書 221p
Vol.2 No.0073 ★★★★☆
この本を手にしたら、なにはともあれ、 「第12章 21世紀、中国のゆくえ----天安門事件以降から考える」
p119を読みたい。本来であれば、3月末に来日予定であったネグリ。 なぜかビザの問題で入国できなかった
。とくに関係はないのかも知れないが、この時期、北京オリンピックの聖火リレーに絡んで、チベット問題がにわかにクローズ・アップされ、世情がなにやらあわただしくなった。彼が来日したら、この辺を直接聞くことができたかもしれないと思う、と、ちょっと残念。
この本、原書は2006年発行だから、チベット問題について触れてはいないが、さて、この当時、ネグリは中国をどうみていたのか、を知りたい。
2008年には北京でオリンピックが開催されますが、これを機に、以上ざっと触れてきたような中国共産党内部での議論に結論が出されることでしょう。中国共産党をばかにしてはいけません。彼らには中央での議論をかなり透明性の高いかたちで展開し、議論されているテーマを国内全土に流布させる力があります。
p126
あちこちを虫食い的に読みすすめることによって、散乱しているネグリの「哲学」の全体を知ることはなかなかできないが、個人的には読まないよりはましだろう、程度の気楽な態度で接していこうと思う。
『<帝国>』 は北京語と簡体字中国語にも翻訳されているという。中国での翻訳語のプロモーションしたときについて述べている。
名誉博士号をもらいました。普通はこういうものは拒否するのですが、このときはまんまと一杯食わされましてね。最初に、報道陣でいっぱいの部屋に時間ぎりぎりまでカンヅメにされていたと思ったら、気がついたら花に囲まれて、誰だかわからないお偉方たちと一緒にステージに立って、皆からお辞儀をされていたんです。彼らは中国語でスピーチを始めましたが、通訳はなし。そのあと、いつのまにか封筒を手渡されていました。マイケル・ハートも一緒だったのですが、彼らがあちらの方々に、ネグリが名誉博士号を受け取ったのは初めてだと言っていました。
p130
それまでの経緯はともかくとして、少なくともネグリは中国に渡り、名誉博士号を受け取り、それを突き返しはしなかった、ということがわかった。つまりは、互いに信頼しあえる関係か、あるいは利用しあえる関係が出来上がっていた、と理解してしまってもいいのだろうか。
言語の問題をめぐってびっくりするような議論をしていましたよ。中国語で「帝国」は、「中国」を意味するからです。フランスの雑誌『ミュルティチュード』に掲載されたある論文に、「帝国」や「マルチチュード」のような言葉を中国語に言い表すことがいかに難しいかが説明されています。信じられないほどたいへんなのです。理由は異なりますが、アラブ諸国でも同じような問題がある。アラブ語では、「マルチチュード」は「ウンマ」(アラビア語で民族、国民、共同体などを意味する)と意味が重なる危険があるのです。
ときどき思うのですが、『<帝国>』という本の一番の重要性は、その内容よりも、概念や用語にかかわるこのような問題を生じさせたという点にあるのかもしれません。もっとも、それこそが哲学者の役割でもあるわけですが。
p131
時々忘れてしまいそうになるが、重要なポイントは、ネグリ&ハートの 「<帝国>」
や 「マルチチュード」
という概念は、現在にあってもあくまで「哲学」にとどまっている、ということだ。決して、「うんどう」の実態ではないのだ。地球のあちこちで起きている現象に対して、後付けのような形で、その理念をあてはめては、「マルチチュード出現!」とやっているわけだ。
解説「闘争はすでに始まっている!」で姜尚中 が述べている。
ネグリは、まさしくTHE NEXT をINSPIREしてくれる稀有な思想家である。『構成的権力』や『<帝国>』そして『マルチチュード』と、ネグリの本は、読む者を鼓舞し、霊感を与え、そして触発せずにはおかない。
ただし、誤解してはいけない。「触発」は、「宣伝」(propaganda)とも違うし、ましてや「扇動」(demagogue)とも無縁である。なぜなら、ネグリは、われわれの心をその深部から揺さぶり、諦念と冷笑に満ちたこの世界をドンデン返しのように、「愛と連帯」への世界へと誘うからである。 p215
ここで姜尚中が表現しようとする形容詞の使い方はわからないわけではないが、あまりに美化しすぎているのではないか。「霊感を与え」、「心をその深部から揺さ振り」、「愛と連帯への世界へ誘う」とは、まぁ、かなりテンコモリの修飾語ではあるが、本当に実態がともなった適格な表現になっているだろうか。姜尚中は個人的にそのような体験をしたのかもしれないが、「読む者」すべてがその体験をするわけではあるまい。
翻訳者・廣瀬純も書いている。
本書を開くと、未来への道を力強く切り開く左翼たちの瑞々しい感性が否応なしに吹き込んでくる。窓を大きく開けて外の風にさらされよう。可能性の風をからだいっぱいにあつめ、蒼空を翔けようではないか。
p221 「訳者あとがき」
こちらもなんだかなぁ、という気持ちが強い。ひょっとするとこの本の訳業がようやく完成したのが、ちょうど早春だったので、肩の荷もおりたところで、ホッとして部屋の窓をあけたくなったのかもしれないが、あまりに素朴すぎて、笑うに笑えない。1971年生まれの団塊ジュニアである廣瀬には、いわゆるサヨクが華々しい活躍をしていた時代と、その下降期の物語は、自らの身をもって知っているとは言い難いかもしれない。
荒岱介
のような人は、このような本をなんと読むだろうか。
類例としての引用にすぎないが、本文では オープンソース・ムーブメント
につても触れている。
オープンソース・ムーブメントの成功は、コミュニケーション能力と生産能力の最大限の動員であるという点で、近代化のプロセスの一部です。ブラジルではルラ政権が、インターネット上で現実に行われている独占やその可能性のあるものすべてに対して戦う姿勢を貫いてきました。そして<公>の力によって保障するというかたちで、放送の自由を認めることに成功したのです。
p71
ここでも、いわゆるウェブ2.0などの中でのオープンソース(あるいはフリーソフトウェア)についてではなく、かなり、自分たちの語彙の中に引っ張り込んだ「哲学」としての、(あるいは美学とか、詩篇としての)オープンソースが語られているようで、ちょっと薄気味悪い。
ここまで、ひょんなきっかけで、いわゆる共産主義の亡霊のなかから、カゲロウのように立ち上ってきた、ネグリ言うところのマルチチュードをおっかっけてきたのだが、いよいよ当ブログとしては、その方向性の違いが明確になってきたかに感じる。今後マルチチュードという語彙を当ブログでも使い続けるとしても、彼らが「オープンソース」という語彙を恣意的に自らの世界構築の建築資材の一部に使うように、当ブログでも、かなり恣意的なこちらなりの使い方をさせてもらいたいと思うようになってきた。そして、より明確な表現が現れたら、その時は、きちんと、マルチチュードという言葉は返上しようと思う。

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